act.4 暗雲
一応両親の許可を得て朝霞に同行することになった緋凪は、一度両親と自宅へ戻った。朝霞もだ。
内容が内容だけに道端で電話をするわけにもいかない、と朝霞が玄関先を貸してくれるよう父に頼み、父はそれを了承したのだ。
「――あ、もしもし佳月?」
相手が通話に出たのか、相手の名を口に出した朝霞は、軽く目を瞠ったのち、「宗君? 何で佳月のケータイに……」などと言っている。持ち主でない人物が出たのだろう。
「宗君どうしたの、落ち着いて。佳月に何かあったの?」
その朝霞の表情が、見る見る内に切迫していく。
「分かった。峰枩総合ね、すぐ行く!」
通話を切った朝霞は、「少しだけお邪魔します!」と断りを入れ、玄関の内へ駆け込んだ。慌てて緋凪があとを追う間に、「奥様!」と母に呼び掛ける朝霞の声が聞こえる。
「すみません、奥様。至急行かなければならない用ができて……タクシーを呼ぶのにこの住所を使わせていただいてもいいでしょうか?」
「え、ええ。構いません」
母が頷く頃には、緋凪もリビングに入っていた。「ありがとうございます!」と朝霞が母に頭を下げる後ろ姿が目に映る。
「朝霞?」
「ごめんなさい、緋凪君! またあとでね!」
まるで中学生ではなく、遊んで欲しくて大人に纏わり付く幼子を相手にしているようだ。しかし、その辺を気遣う余裕すら、今の朝霞にはないのだろう。
緋凪が何を言い返す隙もなくまたスマホをいじり、「もしもし、秋葉タクシーですか。丹泗岳町野吾の一〇四三番地までお願いします」と、ここの住所を告げている。
程なく通話を切ると、「奥様。今日は急ぐのでこれで失礼します。近い内に必ず伺うので、ご主人にもよろしくお伝えください」と忙しく言った。緋凪の前は素通りして玄関に戻り、もどかしい様子でパンプスに足を突っ込む。
「おい、朝霞」
「言ったでしょう、緋凪君。あとで必ず連絡するから。ごめんなさいね」
その口調は意訳すると『うるさい、何度言えば分かるんだ、もう話し掛けるな』と言いたげなツッケンドンなものだった。
さすがにもう、自分も行く、としつこく食い下がれる雰囲気ではない。その空気を感じ取り、怯んだ隙を狙ったように、朝霞はきびすを返して扉の外へ滑り出て行った。
***
数日後、春生の正式な葬儀が行われた。と言っても、市ノ瀬家と千明家だけでのごく内輪のそれだ。
彼女の交友関係などは知らなかった為、というのもある。
叔母夫婦は常に海外と日本の間を飛び回っていたようなものだし、緋凪も冬華も、春生の交友関係にはあまり干渉しなかった。
幼い頃、家を出入りしていた春生の友人も、今はどうしているのかよく知らない。
それに何より、嫌がらせやストーカーのことを聞いた時、春生の口からクラスメイトが助けてくれたというような話は一切出なかった。
緋凪は私立校に通った経験がないので、貧富の差とか、学校経営陣要職の子どもとの間で生じる、いわゆるカーストもよく分からない。けれども、外部の者には分からない何か、立場や経済的に恵まれた生徒におもねるような空気が、校内にはあったのかも知れない。
学校そのものが信じられなかったこともあって、結局叔母夫婦は学校へは葬儀のことは言わなかったようだ。
「……でも、いつまでも何も言わないわけではない」
精進落とし代わりの軽い食事を済ませ、食後のお茶を飲んでいた叔父が口を開いた。
「春生がどうして死なねばならなかったのか、なぜ碌な調査も経ずに我々家族の同意もなく勝手に火葬されなければならなかったのか……何もかもを白日の下に晒してみせる」
終始、口元にハンカチを当てて俯いていた叔母も、同意するように何度も頷く。
「お義兄さん。改めて、よろしくお願いします。経済的な援助は惜しみません」
父に叔父が頭を下げると、父も首肯した。
「金銭的なことは構わないが……私にも春生は我が子同然だ。もちろん真実を明らかにし、春生を殺した犯人や警察には罪を償わせる」
固い握手を交わしたはずの父と叔父――延いては千明家と市ノ瀬家の結束が脆くも崩れたのは、このわずか二十日ほどのちのことだった。
***
七月も半ばを越え、この夏も温度計の水銀が勢いよく身長を伸ばしている。
緋凪には、中学に入学してから初めての夏休みが近付いていたが、一連の事件が六月から続いている為、期末テストは散々だった。
しかも、解決したならまだしも、未だに春生を殺した(と思われる)犯人は捕まっていない。
あんなことを言っていた割に、あれから朝霞からも連絡はなかった。父は連絡を取り合っているのかいないのか、緋凪に詳しいことは話してくれなかった。
だが、緋凪は父に進捗状況を訊ねることはしていない。父が何も言わない時は、特に報告すべきことがない時だからだ。というのは母の言で、緋凪としては内心その後の状況を訊きたくてうずうずしている、というのが本音だ。
テストの結果が芳しくなかったのも、それが一因である。
はあ、と溜息を吐いた直後、殺気に似たものを感じて緋凪はとっさに机へ伏せた。瞬間、頭上を涼しい空気が通過していく。
「……ったく、素早いなこんな時は」
ボソリと呟いたのは、担任の男性教諭、添田だ。
「何だよ、センセー。俺でなきゃ一発食らってるトコだぞ」
伏せたままの姿勢で斜めに添田を睨み上げると、平均的な顔立ちの中にある小さな黒い目が睨み返してきた。
「一発食らわせるつもりだったんだよ」
「うわ、ひっで。そーゆーことすると今時は体罰ってことになるんだぜ、知らねーの?」
「屁理屈はいい。もう一学期終わるけど、お前だけ部活に入ってないな。夏休み入る前に決めたらどうだ」
腰に手を当てて仁王立ちしている彼の挙動を用心深く見守りながら、緋凪はそろそろと伏せていた上体を起こす。授業後のホームルームが終わった教室は、生徒たちがそれぞれに帰り支度を始め、各々辞去の挨拶を述べて教室を出て行く。
「悪いな、センセ。どうもどこもピンと来なくて」
「ピンと来ないだ? まったく生意気だな。この際どこでもいいだろう。四月の仮入部中に何で見学に行かなかった」
「見学どころじゃなかったんだよ」
言いながら緋凪も立ち上がる。
鞄に教科書を詰め込み、忘れ物がないか軽くチェックした。その間も、添田はその場を動こうとしない。
「見学どころじゃないとはどういう意味だ」
「どーゆー意味かはセンセが一番よく知ってんだろ?」
柄の悪い連中には、どうにもこの容姿がお気に召さないらしい。DNAのなせる技で、緋凪自身にはどうにもならないことだというのに、この辺は教師陣の反応も似たり寄ったりだ。
週の半分は強面の先輩グループにありがたくない呼び出しを受け、下手をすると昼休みさえゆっくり休めなかった。放課後は、校内どころか他校からも強面の集団が訪ねて来たりしていたのだ。堪ったものではない。
それを阻まなかった自覚はあるのか、添田はばつが悪そうに目を逸らしながらも反駁する。
「お前の格好にも問題あるんじゃないのか」
「何でだよ。正真正銘自前だってのに」
「証拠はないだろう」
「DNA鑑定の費用、センセが持ってくれるなら考えるぜ。その代わり、この髪も目の色も天然だって分かったら、きっちり誠心誠意の謝罪も要求するけど?」
しかし、これには鼻を鳴らしただけで、添田は話題を戻した。
「……部活動は勧誘がなかったわけじゃないだろう。時々熱烈ラブコールから逃げ回ってたじゃないか」
「おや、そっちもご存知で」
おどけるように言って、緋凪は鞄を背負った。
「どーもどれか一つに青春を捧げるのも気が進まなくってさ」
そうでなくても、緋凪は放課後は毎日のように武術道場に通っている。種類はほぼ日替わりだ。
都度、習い覚えた体術で対抗していたおかげで、中学に入学後の不良連中への再教育は、あらかた終息したと思っていいだろう。最近は、時々まだある運動部への勧誘以外は、昼間も放課後も平和に過ごせるようになっている。
しかし、春生の死後のことが解決を見ていない所為か、そんな部への勧誘も緋凪には殊更鬱陶しく感じられた。
「んじゃーセンセ、今日もお疲れサン」
ピッと敬礼するように額に当てた手を、添田に向けて跳ねさせると、彼は一瞬目を剥いた。緋凪が構わず背を向けた瞬間、「おいこら千明! まだ話は終わってないぞ!」という声が追い掛けてくる。
けれど、緋凪は構うことなく廊下に小走りで出て、昇降口へ急いだ。
春生の内輪の葬儀から、父はずっと会社を休んでいた。時折、記事を書いているようだったが、それ以外は毎日外に出て情報収集や、弁護士と会うのに勤しんでいるらしい。
母は職場に復帰しており、表面上は緋凪の日常は元通りだった。
というか、放課後には『今日こそ目新しい情報があるかも』と期待しながら戻り、父が戻っても何の報告もなくガッカリする、という意味では新たな日常と言えなくもない。
市ノ瀬家には、ずっと訪ねられないままだ。
訪ねても何を言えばいいか、どんな顔をして何を話せばいいか分からない。
ただ、叔父も叔母も家にいる為、冬華も市ノ瀬家に戻っていた。
叔母夫婦は、ずっと仕事に出る気持ちになれないらしく、仕事を休んでいるようだ。それが、職場のほうでどう扱われているのかは、緋凪には分からないが。
そんなことを考えながら、帰宅途中市ノ瀬家の前を通った際、緋凪は首を傾げた。
市ノ瀬家の門の前に、見たことのない車が停まっていたのだ。
黒塗りの高級車だ。
(……まさかヤーさんとか?)
そんなわけないか、と続けたが、特に確認することはしなかった。市ノ瀬の家の子どもならともかく、親戚とは言え緋凪はこの家の実子ではない。
さしたる用もないのに入り込んで、何の用か問われたら口実もとっさには思い付けないだろう。
運転席のドアにもたれるようにして煙草を吸っている黒服の男も、いかにもヤの付く職業の人に見えたが、ひとまず緋凪は何も言わずにそこを通り過ぎた。
煙草の臭いと煙に、整った容貌は迷惑げに歪む。
しかし、顔の前でパタパタと手を振る嫌煙家の仕草はどこ吹く風と言わんばかりに、男は吸い込んだ煙を遠慮なく吐き出した。
***
自宅玄関の鍵穴に鍵を差して回した緋凪は、ここでも首を傾げた。
(……開いてる)
最近、父は出勤はしていないが、家にいるとは限らない。また、家に人がいる状態でも普通は鍵が掛かっている。ということは、来客中だろうか。
緋凪は、鍵を引き抜くと、そっとドアを開けた。
「どうしても手を引くのか、楠井」
途端、思わぬほど間近で父の声が聞こえて、緋凪はドアノブを握った手を震わせた。
そのまま、思わず聞き耳を立てる。
「心中は察するが、いちいち脅しに屈していては弁護士としてこの先やっていけないんじゃないのか」
「すみません、先輩。俺も本意じゃないんです、でも……この件に関わり続けたら、次は妻子が狙われます」
(……狙われる?)
一体、何の話だろう。そもそも、楠井とは誰なのだろうか。恐らく、玄関にいるだろう父以外の人物だとは思うが、緋凪には分からない。
「弁護士として脅迫に屈するのは、本当に不本意です。自分だけなら断じて手を引いたりしません。けど、娘はまだ二歳です。母親の手が必要な年頃の娘から、母親を奪うようなことになったら、たった二歳の娘も妻も失うようなことになったら……」
そこまで言うと、楠井と呼ばれた人物は沈黙した。次いで、何かをガサガサと漁る音がする。
「ここまでの調査資料はすべてお渡しします。もうこれで勘弁していただけませんか。費用は結構です。向こうからその分も渡されてますし、この先の仕事は先方の顧問弁護士となることで贖って貰えることになっていますので。では」
ヤバい、と思うと同時に、緋凪は持ち前の反射神経でその場を飛び退いた。
とっさに跳躍し、空中で身体を捻って門扉横の塀の上に着地する。玄関の前は階段になっているので、そのまま後退すれば踏み外し兼ねなかったからだ。
塀に足が着くと同時に、ドアが開く。
中から出て来た見知らぬ男は、視界に入ったのかチラリと緋凪に胡乱気な視線を向けた。だが特に何か言うこともなく、足早に去って行く。
無意識に立ち上がって、塀の上でそれを見送っていると、「……緋凪?」とソロリと伺うように声を掛けられた。
「……あっ……と、ただいま」
こちらを見上げている父に、ばつが悪いような気分で言って、身軽く家の敷地内へ降りる。
「何でそんな所に……ひょっとして今の」
「悪い。鍵開いてたモンだから、つい」
素直に謝罪すると、父はしばらく沈黙して、「入ろう」と緋凪を促した。
父について玄関へ入り、ドアを閉めて鍵を掛けながら緋凪は口を開いた。
「で、誰だったの今の」
「ああ……楠井翔太さんといってね。父さんの後輩だ」
「後輩? 弁護士の?」
「うん。大学の時からの付き合いだよ。父さんが弁護士を辞めてからも連絡を取り合ってて、今回春生の事件でもこっち側の弁護士を引き受けてくれてたんだが……」
「奥さんと子どもが狙われてる、みたいな話してたけど、何だったの?」
脱いだ靴を揃えながら訊くと、父の背中はリビングに入ろうとしているところだった。
「父さん」
テーブルの前で立ち止まって緋凪に背を向けていた父は、やがて吐息混じりに言った。
「……数日前からのことだそうだ。仕事帰りに車に跳ねられそうになったり、彼の弁護士事務所が小火を出したり……」
その後も楠井本人に、命の危険を伴うような危害を加えられそうになることが続いたらしい。いずれも、掠り傷程度で難を逃れていたようだったが、ついに昨日、犯人らしき人物から直に接触を受けたという。
「犯人が接触して来たってのかよ」
随分大胆だ。
「ああ。楠井の言葉をそのまま言うと、『君は随分危ない目に遭って来たのだから、もう充分だろう。これ以上市ノ瀬春生の件に関わると次は大事な人間が確実に死ぬことになる』だそうだ」
ある食事処の個室で行われた楠井に対する脅迫劇には続きがあった。
個室のテーブルの上に、楠井の妻子の日常を隠し撮りした写真が、ズラリと並べられたという。いつでも彼女たちに接触して、その気になれば殺せるぞという最大級の脅しだ。
『安心し給え。人質は無事だからこそ意味がある。君がこの件から手を引いてくれるなら、我々も今後は彼女らを見守るだけに留めておくよ。この件から完全に手を引いてくれれば、ね』
父が楠井に聞いたことだから、又聞きの又聞きだが、反吐が出そうな脅し文句だ。
「……脅しはそれだけなのか」
「まだある。その脅迫者を脅迫の件でも追及しないこと。これを守らない場合は、楠井の両親が犠牲になるらしい」
「念の入ったことだな」
ふん、と鼻を鳴らした緋凪はハタと考え込む。
「……なあ、父さん」
「ん?」
「それって、春姉を殺した……もしくは春姉の死に関係した犯人がもう割れてるってことなんじゃ」
「そういうことだな。楠井は犯人の名前や特徴については言わなかったけど」
それを聞くなり、緋凪は自分の中の怒りのメーターがたちまち振り切れるのを感じた。
「何で訊かねぇんだよ、父さんらしくもない!」
「無理に聞き出すことはできないよ。楠井の言う通り、自分に対しての脅迫だけなら弁護士ならある程度覚悟して当然だが、周囲の人間を巻き込むかも知れないとなれば、対応は個々に委ねられる。彼の場合は、相手に対する徹底恭順だった、ということだ」
「だからって……やっと春姉の死因に手が届くのに!」
しかし、父は普段と変わらぬ静かな口調で言った。
「大丈夫だよ。彼もタダで白旗を振ったわけじゃない」
「どういう意味だよ」
「彼はこうして資料を父さんの手元に残してくれた」
父は、楠井が置いていった重たげな紙袋を示す。中には、書類がみっちりと突っ込まれていた。
「この中に手懸かりはあるはずだ。第一、相手が慌てて楠井の動きを封じに来た理由を考えてごらん」
「えっ、あ……」
慌てて口を封じに来る――つまり、犯人までもう少しの所まで楠井の調査は迫っていたということだ。ならば、途中までとは言えその調査資料の中に、父の言う通り犯人に繋がる何かがあるのかも知れない。
「……あのさ、父さん」
「何だい」
「もし……もしも、父さんがあの楠井って人みたいに、俺たちを盾に脅迫されたら……父さんならどうする?」
緋凪の問いに、父は虚を突かれたような顔をした。
けれど、恐らく避けては通れない問いで、春生の件を追及し続けるなら遅かれ早かれ直面するかも知れない事態だと、父も薄々分かっていたのだろう。
長方形の眼鏡の奥で、理知的な瞳が苦しげに歪められる。
「……緋凪はどうして欲しい?」
やがて、絞り出すような声で問い返されて、緋凪は苦笑した。
「問いに問いで答えるのはルール違反だろ」
すると、父もまた苦笑を浮かべる。
「父さんだって、母さんや緋凪を巻き込むのは本意じゃないんだよ。楠井と同じさ。自分一人なら何があったって手を引かない。ただ、普通に生きてる人間なら誰だって大事な人が沢山いる。そして、春生を殺したことを隠蔽するような連中はその弱点を躊躇わず突いてくるモノだ。我々から見れば卑怯としか思えないけどね」
一度言葉を切った父は、改めて緋凪を見た。その目は、雄弁に先刻と同じ問いを緋凪に繰り返している。
『お前は父さんにどうして欲しいのか』と。
「……正直言って……父さんが楠井と同じ選択をしたら、複雑かも」
「どういう意味だい?」
「それが母さんや俺の為だってのは頭では理解できるけど……同時進行でそんな卑怯な脅迫に屈するなんて情けないし軽蔑する」
父は一瞬目を丸くした。が、その表情はすぐに苦笑に戻る。
「父さんが意地を張ったら、母さんや緋凪が危険な目に遭うかも知れないのに?」
「母さんは俺か父さんのどっちかが傍にいてカバーすればいいだろ。俺は俺で、一人でも大抵の危険とか暴力には対処できるつもりだし」
「緋凪」
父の苦笑が、突然厳しい表情に変わった。
「裏社会の人間を甘く見ちゃだめだ。今は現実世界での脅迫や物理的な暴力だけが彼らの武器じゃない。インターネットだってあるし、表の世界だけで真っ当に生きて来た人間には思いも付かないことをやるのが裏社会の人間だ。軽々しく『対処できる』なんて思わないことだ」
閉じた唇が、自然への字に曲がる。
はい、と素直に頷くべきところだろうが、反発が先に立った。
「そりゃ……ネットのことはあんまりよく分からないけど、これから勉強すれば……」
「何の勉強をするつもりだ。将来グレーゾーンででも生きるつもりかい?」
「別にそーゆーわけじゃ……」
「緋凪」
への字口から徐々にタコのような口になっていく緋凪を見兼ねたのか、父が語調を和らげる。緋凪の肩に手を添え、目線を合わせるようにして膝を屈めた。
「父さんは意地悪を言ってるんじゃない。ただ、親としては緋凪に危ないことに関わって欲しくないんだ。それは分かってくれるね?」
「……うん……」
唇を尖らせたまま、不承不承頷いた緋凪に、父はまた苦笑する。それで話は終わったと見たのか、父は緋凪の肩をポンポンと叩いて腰を伸ばしてしまった。
緋凪は、残る不安要素をどうにかしたくて、「だけどさ……」と不機嫌な声音のまま言い募る。
「何だい」
「防御を知らなくていいのか? 今の楠井って人の動きって、多分脅迫してきた奴も把握してんだろ? きっと犯人側は楠井が俺たちと接触したってことだって知ってるぞ。父さんが調査を続けるなら標的にならないって言い切れるのか?」
父も、そのことは気になってはいたのだろう。はっきり指摘されて、またも顔を曇らせた。
「そうだな……緋凪は怖いかい?」
核心を突かれるように問われて、一瞬言葉が詰まる。
「……う……んー……多分……」
正直な答えを口に乗せるのを、瞬時躊躇う。だが、ここで本音を言わなかったら、対処の術も失うような気がした。
「……怖くないって言ったら嘘だけど」
「けど?」
「春姉の本当の死んだ理由とか、殺した相手がいるならそいつが野放しになるほうが嫌だ」
「……そうか」
父はやはり、困ったような微笑を浮かべて緋凪の頭を撫でた。
「分かった。もう少し時間をくれ。少し考えて……母さんとも相談するから」
「うん……あ、そうだ」
「ん?」
ふと思い出して、緋凪は父を見上げた。
「さっき、冬の家に何か客が来てたみたいなんだけど」
「客?」
「うん。黒塗りの車が家の前に停まってた。ヤーさんかなとか冗談混じりで思ったけど……」
楠井の件を考えると、冗談では済まないかも知れない。
もちろん、ただ単に叔母夫婦の知り合いか、仕事関係者の可能性もある。けれど、春生の葬儀はあまり周知せずに行ったし、弔問に駆け付ける客がいるとは考え辛い。
そして今、このタイミングで、弔問以外の用で訪れる客がいるとしたら、春生を殺害した者の関係者としか考えられないと思ってしまうのは、思考の幅が狭まっているだけだろうか。
父も、難しい顔をして考え込んでいたが、やがて緋凪に目を戻す。
「分かった。あとで陽美叔母さんに訊いてみるよ。とにかく、手洗いうがいをしておいで」
「あっ、いっけね。そういや、まだだった」
舌を出した緋凪は、急いで洗面所へ向かって回れ右した。
©️和倉 眞吹2021.