Prologue
『凪君。今すぐでなくていいから、メンタルクリニックに行くこと、考えておいて』
朝霞にそう言われてから、数日が経っていた。
世間はクリスマスを過ぎ、年末を過ぎて、もうじき三箇日が終わる。
今時は年末年始でも開けている店のほうが多い。
一般的な会社は休みだから、客商売関連の店としては、閉めてしまうと却って書き入れ時を逃すからだろう。
しかし、カフェ・瀧澤古書店は年末年始はきっちり休みを取っていた。
その休み中、緋凪は学校の課題を片付けるでもなく、ほとんどぼんやりとベッドの上で過ごした。
今はゴロリと横になった緋凪の視界には、天井が映っている。
チラリと左手に目線を転じれば、勉強机があった。その上に、数日前に朝霞から手渡された名刺があるはずだ。
『何だこれ……須崎クリニック?』
カウンターに置かれた名刺に目を落とした緋凪は、印字されたクリニック名を無意識に読み上げる。
縦長の名刺の右端にクリニック名が書かれ、中央には『院長・須崎茜』という名前が刻印されている。左端には、その病院の住所が記されていた。
『あたしの友達よ。凪君は嫌がるかも知れないけど、元々警察病院の心療内科に勤めてたの。主に、犯罪被害者のアフターケアの担当で……今は独立してるから、そこは安心して』
『じゃなくて。何でいきなり心療内科とかメンタルクリニックに行くって話になるわけ?』
俺は別に、と続け掛けると、朝霞が遮るように、緋凪の手の甲に置いていた掌に力を込めた。
『……ごめんなさい。本当は、凪君を引き取った時にあたしがケアしないといけなかったのに……思い至らなくて』
『……何?』
緋凪はますます首を傾げる。すると、横から宗史朗も口を添えた。
『言い難いんだけど……緋凪君、三年前にご両親が亡くなった時に、自分がトラウマ抱え込んじゃったって自覚、ちゃんとある?』
『トラウマ?』
『心的外傷のことだよ。多分……こないだの君の記憶が飛んじゃってるのは、その所為。ここは僕らの推測だけどね』
言われて、無意識にまた記憶を探る。
しかし、その時となっては、廃墟街での一件どころか、その後の入院中のことでさえ、記憶が曖昧なことに気付く。
きちんと思い出せるのは事件の翌日、退院直前からだ。
廃墟街に犯人を捕らえに行ったまでは思い出せるが、そのあとあったことがほとんど思い出せない。そう自覚して、内心ゾッとした。
人間、いざとなれば、生きていくに当たって本当に辛い記憶は自身で消し去れる、などと言われているが、それがまさか自分に起きるとは思わなかった。
(……だけど……父さんと母さんが死んだことは覚えてる……)
しかしそれを、ちゃんと口に出せなくなったのはいつだったろう。
それも思い出せない。
緋凪は、ノロノロと上体を起こした。
その速度に従って、ゆっくりと周りの景色が変わる。起き上がり、改めて机のほうへ視線を転じると、今度は机の上に、白い小さな四角が、ちょこんと存在を控えめに主張しているのが見えた。
ベッドの下へ足を下ろし、無意識に机の前へ歩を進める。
名刺に目を落としたが、それを手に取ることなく緋凪はきびすを返した。
階下に足を運ぶと、予想通り、朝霞はリビングにいた。
じきに、昼が来ようという時間帯で、彼女は緋凪に背を向け、ソファに掛けてテレビを見ている。いや、彼女の視線はテレビにあったが、内容が彼女の頭に入っているかは、緋凪にも分からない。
番組は、いかにも三箇日にやっていそうなバラエティだ。
「……朝霞」
そっと声を掛けると、朝霞は一瞬の間ののち、自然な動きで振り返った。そして、テレビのほうへ視線を戻す。
「……いやだ。もうこんな時間だったのね。お腹空いた?」
時間を確認していたらしい。言いながら立ち上がる様は、まるで普通の母親だ。
そんなことを口にしたところで、彼女は料理などしない。できない、と言ったほうが正しい。
彼女が準備をするとすれば、デリバリーか、レトルトをレンジで温めるのが関の山だ。
「じゃなくて。相談があるんだけど。こないだの件で」
こないだの件、と言えばどの件の話かはすぐに分かったようだ。
彼女はピクリと表情を強張らせ、緋凪に目を向ける。
「あんた、言ったよな。メンタルクリニックに行くこと考えろって」
緋凪は続けながら、彼女の向かいに腰掛けた。同時にテレビのチャンネルリモコンを手に取り、テレビの電源を切る。
途端に、室内には静寂が満ちた。
「……ええ」
戸惑ったように頷いた彼女は、緋凪に倣って元通りソファへ腰を落とす。
「結論から言うと、俺にその気はない。だけど、トラウマをどうにかしねぇといけないのは分かってる」
「……何か、思い出したの。それとも、宗君に何か聞いた?」
「前者が正解。断片的だけどな」
緋凪は、小さく肩を竦めて目を伏せた。
この数日の内にどうにか思い出したのは、廃墟街でナイフを持った男と対峙した時のことだ。
血の付着したナイフ――サバイバルナイフ。それらは、両親の遺体と共に目にしたものの所為か、血とナイフが揃うことで強烈なフラッシュバックに見舞われた。
そのこと以外は、相変わらず靄の中にあるようだったが、緋凪が『この事態をどうにかしなくては』と思うにはそれで充分だった。
「……で、相談って?」
朝霞に促され、緋凪は伏せていた青い瞳を彼女に向ける。
「あんたの都合のいい時で構わないから……ちょっと、付き合ってくれねぇか」
「どこに?」
「――俺が……元住んでた家」
©️神蔵 眞吹2021.