act.12 トラウマ
「緋凪君の両親の死因って……確か、ナイフで心臓を刺されたことによる失血性ショックでしたよね」
宗史朗が答えながら、首を傾げる。
「それが、今回のことと何か関係が?」
「あくまで推測なんだけど……今回、現場から押収したモノの中に、サバイバルナイフがあったでしょ?」
「あ、ええ」
「血が着いてたわよね、ベットリと」
「ええ……」
それが何か、と呟いた宗史朗は、徐々に表情を強張らせ、記憶を辿る顔になった。それを目の端に捉えた朝霞は、眠る緋凪に視線を戻す。
「血が着いたサバイバルナイフ……っていうと、凪君の両親の死因と符合すること、ない?」
「まさか、心的外傷……それによるフラッシュバック?」
「本人に聞いたわけじゃないから、確かなことは言えないけどね」
ただ、両親の遺体を見つけた時のことを訊いた際、緋凪は両親殺害に使われた凶器を確か『サバイバルナイフの類だ』と語っていた。
もちろん、宗史朗も覚えていたのだろう。
「でも、緋凪君、そのことを話してくれた時、別段何もなかったじゃないですか」
「それが逆におかしかったのよ」
吐息混じりに言いながら、朝霞は先刻まで座っていた椅子へ腰を落とす。
「あの時の凪君てば、まったくの無表情だったわ。両親が突然亡くなったら、あの年頃の子ならもっと取り乱したり泣き喚くのが先だと思うのに……今思えばきっと、心の防衛機能が働いてたのね。悲しみを無意識に麻痺させてる内に、ちゃんと悲しむ機会を逃しちゃったのかも」
当時を回想する朝霞の脳裏には、その後の、緋凪の両親の葬儀や、遺体の確実な保存の為に、母方の祖父母と共に飛行機に乗り込む棺を見送る彼の表情が再生されていた。
その年の誕生日が来れば、十四を迎える少年のそれでなかったことだけは確かだ。それが、却って痛々しいと思った覚えがある。
その時にでも泣き喚いていれば、まだ後々残る傷も浅くなったかも知れない。
「それが……緋凪君自身も自覚しないトラウマになって刻まれちゃったってことでしょうか」
「可能性の一つでしかないわ。それに普通、両親があんな死に方したら、大なり小なり傷は残るはずだもの」
(それに……)
彼が、意識を失う直前に呟いた言葉は――
『……母さん』
確かに、そう言っていた。
多分、当時がフラッシュバックしたことで、抱き留めた朝霞を母親と混同してしまったことから出た呼び掛けだろう。それが、ますます痛ましい。
「でも……緋凪君て見掛けの割に、基本的に喧嘩っ早いっていうかキレっ早いっていうか……真面目な話、血とか全然平気そうだし、ナイフが出て来ても多分平気で相手と戦り合ってそうですよね」
「だから、可能性の一つだって言ってるじゃない。今回のぶっ倒れ方から推測すると、凪君の場合、どっちか一つだったら平気なのよ。たとえば、ナイフで向かって来られるだけとか、流れる血を見るだけとかね。ただ……」
「サバイバルナイフに着いた血、っていう形になるとダメ、ってことか……」
それがきっと、両親の遺体発見時にセットで見たモノだから、という帰結になるのだろう。
もっとも、これも推測の域を出ないのではあるが――
「……だったら、どうだってんだよ」
不意に、弱々しい声が前方から上がって、朝霞は顔を上げた。
***
「……凪君、気が付いた?」
視界に映った見知らぬ天井の中に、朝霞の顔が入り込んでくる。
「僕、先生呼んで来ます」
視界の外から、宗史朗の声と、ドアをスライドする微かな音がした。
「大丈夫? 気分はどう?」
「……多分……悪くは、ない」
ぼんやりと答えて、視線で時計を探すが、見える範囲にはない。
「……俺、どんくらい眠ってた?」
「三時間くらいかな。よい子のお昼寝と大差ないわよ」
朝霞は苦笑して、緋凪の手を握った。
「……何があったか、訊いて大丈夫?」
「……だらしねぇってだけの話だよ」
クッ、と喉の奥で自嘲する笑いが漏れる。
「大方、あんたと宗史朗の推測で当たりなんじゃねぇの?」
血の滴るサバイバルナイフ――それを目にした途端、動機が早くなって、急に両親の死の場面が思い出されて、まともに立っていられなくなった。そんな中で襲い掛かって来る男を倒せたのは、ひとえに訓練の賜物に過ぎない。
一段落したあとだったとは言え、修羅場中に意識を失うなんて、ばつが悪いなんてモノじゃない。
緋凪は、朝霞の顔を見続けていられず目を伏せた。朝霞も、何も言わない。何を言えばいいか、分からないのかも知れない。
「……それより、どうなったんだ、あのあと」
重い沈黙を何とかしたくて、自分から話題を転じる。
「204の女とアイツ……あの男はどうした」
「一晩経って落ち着いたら教えたげる。あんた、今日はここに泊まりよ」
「ここどこ」
「警察病院」
あっさり告げられた答えに、緋凪は一瞬目を剥いた。
「……ジョーダンだろ。ケーサツなんて名前の付くトコ、たとえ病院だって死んでも世話になりたくねぇんだけど」
「おやおや、言ってくれるな」
直後、室内に今までいなかった声が投げ込まれる。宗史朗でないことだけは確かだ。
そして、視界に入ってきたのは、どう見ても医師ではない。
「……何であんたがここにいんだよ」
げんなりした口調で問うた先にいたのは、以前、紗綯の冤罪事件の時に一度会った中年刑事だ。名は、外川と言ったか。
「重ね重ねご挨拶だな。佐伯慎太郎殺害事件は現在、知來東署、つまりウチのヤマだというだけのことだ。よって、容疑者逮捕の現場にいた君にも、事情を聞く必要がある」
「……つまり、伊奈西一乃は誤認逮捕って認められたんだな」
遠慮なく切り込むと、外川は瞬時、ばつが悪そうに目を逸らした。
「……そういうことだ」
「じゃ、ぶっ倒れて具合が悪い俺にあれこれ重箱の隅突っつきに来るより先に、一乃さんに謝って、その娘たちにも謝罪して、彼女らの名誉回復にこれ努めろよ。一乃さんの長女は、母親の誤認逮捕の所為で不当に放校処分されたし、マスゴミの無神経取材で幼稚園児の次女はすっかり人に怯えてるんだからな、可哀想に。それと、五年前に誤認逮捕された清宮七和佳も釈放して、あとの病院の面倒とかちゃんと見ろよ。不当に疑われて気が違っちまったって聞いてるけど、元の生活に戻れんのかな、ったく杜撰過ぎるケーサツの捜査の犠牲になっちゃってマジ気の毒だよ。それと、彼女の娘の志和里がどんな五年間送ったか、ちゃんっと聞いて心底から土下座でもしやがれ。あと、彼女たちの名誉回復と生活の保障もな」
具合が悪い割には、あれやこれやと嫌み混じりの正論をズルズル並べ立てる緋凪に、外川は口を挟むことも忘れたように呆気に取られた顔をしていた。
が、しばしあって、どうにか自分を鼓舞するように咳払いする。
「……その辺は君が心配することじゃないだろう。それより、君には今日の件の事情聴取を」
「養母さ~ん。悪いけど刑事サンにお引き取り願ってくれねぇか、目眩がしてきた」
緋凪は外川の言上を遮るように、わざと朝霞を『母』と呼んで、ゴロリと寝返りを打って彼に背を向ける。直後、「息子もこう言ってますので、今日のところはご勘弁を」とにこやかな口調の朝霞の声も聞こえた。
目の笑っていない笑顔が目に浮かぶようだ。他方、外川も簡単には引き下がらない。
「……では、明日には話が聞けますか」
「さぁな。俺の言ったこと、ケーサツがちゃんっとやったって証明されたら考えてやるよ」
「調子に乗るなよ、執行猶予中のクセに」
やや若い声が地を這いずる。どうやら、紗綯の件の時に会った若い刑事、こと古森も一緒にいたらしい。ただ、視界の外にいたので気付かなかったようだ。
「……あんたたちはどーっしても、俺が父さんと母さんを殺したと思い込みたいんだな」
緋凪はついに、鈍い動作で起き上がった。同時に襲った本当の目眩に、反射で額に手をやる。
「凪君、無理しないの」
目聡く気付いたらしい朝霞が、素早く身体を横たえようとしてくれるが、緋凪はその手を払った。
「ヘーキだよ。それより、名誉毀損の困ったおじさんたちに引導渡すほうが先だ」
言う間にも、たったそれだけの動きに息が上がるのを自覚する。
「引導だ?」
古森はそんな緋凪の様子に頓着せず、居丈高に上から威圧するように覗き込んだ。
「逆にこっちが渡すぞ、コラぁ」
巻き舌混じりに凄まれたら、普通の十代半ばの少年なら、縮み上がってしまうだろう。しかし、緋凪はビクともせずに言い返した。
「前科のあるチンピラかよ、兄さん。前にも言ったけど、俺は何もしてないし、現実的に起訴もされてねぇ。よって執行猶予なんてモノは俺には付いてない」
「しかし、状況は君がご両親を手に掛けたと示しているんだぞ」
外川も古森に援護射撃するように肉薄する。
「ちょうどいい機会だ、千明緋凪。今からでも遅くない。正直に真実を話して罰を受けろ。そして、ご両親に心から償って謝罪するんだ」
「はあ?」
その場は完全に、三年前の両親殺害の取り調べの場と化し始め、緋凪は思う様眉根を寄せた。
「何で何もしてないのに償うんだよ」
心底本当のことを言っているというのに、外川はなぜか痛ましいモノを見るような表情で、緋凪に視線を合わせた。
「この機会に嘘と、犯した罪を清算するんだ」
どこか宥めるように、至って真面目に彼は言葉を継ぐ。
「よく聞け。一度不当に罰を逃れたんだ。言い出し辛いのはよく分かる。いや、分かるつもりだ。私は嘘など吐いたことがないし、不当に処罰を逃れたこともないから想像することしかできないが……しかし、償うのに遅すぎることはない。正直に、何があったか告白するんだ。そうしたら、私も君の罰が軽くなるよう尽力する」
緋凪は呆気に取られた。唖然として顎が落ちたような錯覚さえ覚えた。
「……本気で頭おかしいんじゃねぇか、あんた」
「何を言っている」
「こっちの台詞だぜ。あんた、何言ってんだ?」
「繰り返すが、状況はすべて、君が手を下したと指し示している。ご両親を殺したのは君以外にあり得ない。そうだろう? 凶器のナイフには君の指掌紋しか残っておらず、現場からも君とご両親の指掌紋しか検出されなかった。現場に踏み込んだ時、千明夫妻が胸部を刺されて息絶えている現場に、君が血の着いた凶器を持って立ち尽くしていたという証言も取れている。言い逃れようとするほうが無理だ」
「でっち上げだ。正真正銘、俺は何もしてない」
もし自分に罪があるとすればそれは――しかし、考え掛けて、結論を形にするのを躊躇う。
外川は、緋凪の内心の葛藤に気付く様子もなく畳み掛けた。
「では、第三者の指掌紋が検出されなかったのをどう説明する」
「真犯人が本気で隠蔽しようとしたら、乗り込む時に手には手袋はめんだろ。そうしたら指掌紋は残さずに済む」
「じゃあなぜ、警察が踏み込んだ時、君は血の着いた凶器を握っていた」
「あの日、俺が帰宅したのは午後三時過ぎくらいだ。家の前には防犯カメラがあったから確認してもらってもいいし、証言者が欲しけりゃあとで宗史朗……椙村刑事に訊いてくれればいい。そのあと、家に入ろうとしたら鍵が開いてた。ドアを開けて帰宅の挨拶をしても誰も応答しなかった。その時にはもう父さんも母さんも……」
死んでたんだと思う、という言葉は、続けようとしても音にならなかった。
「ッ……、あ……ッ」
息が詰まる。口を動かそうとしても、なぜか凍り付いたように意思通りにならない。
(何で)
無意識に喉元に手を当て、胸元に当てたそれを握り締める。ティーシャツが複雑なしわを刻んだ。
その間にも呼吸はなぜかどんどんせり上がっていく。
「っ、ァ」
自分が取り戻そうと足掻く先にある目的が、果たして呼吸なのか言葉なのか分からない。
「――凪君っ!!」
鋭く呼ばれて、喉に当てていた手を取られる。
同時に、強い力で反対側の上腕部を握り締められた。
「凪君、落ち着いて」
「いっ……や、だ」
「凪君」
「嫌だ……死んでない……父さんも母さんも」
ユルユルと、訳もなく首を横に振る。
「凪君」
目の前にいた朝霞の胸元に顔を埋め、彼女に夢中でしがみついた。
「嫌だ、嘘だ……あんなの、違う」
「……何が?」
「嘘だって言ってくれよ、朝霞。父さんも、母さんも、死んじゃいない……イギリスに行ってるだけだ」
「……うん……そうね」
耳元で柔らかな声音が宥めるように言い、背中に優しく腕が回る。それが誰のものなのか、緋凪にはもう判断が付かなくなっていた。
ただ、半ば必死で縋り付く。
「……母さん……」
相手が息を呑んだのも分からなかった。
「母さん、お帰り……いつ日本に戻ったんだよ」
何も言わない相手に不安になって、掻き口説く。
「何ですぐ、ウチに帰って来なかった?」
「……うん、そうね……ごめんね」
「父さんは? 帰ってるんだろ?」
「ごめんね、父さんは……まだイギリスでやることがあるって」
「すぐ、戻るよな?」
「……ええ。もちろん……もちろん、すぐ、よ」
耳元の声が震える。
「……母さん? 泣いてるの?」
「……いいえ、大丈夫。大丈夫よ」
緋凪を抱き締める腕に力が籠もる。『母』の空いた手が、幼子を寝かしつけるように優しく緋凪の肩をポンポンと叩いた。
「だから……緋凪もゆっくり休んで」
「うん……分かった。お休み、母さん」
不思議な安堵感――そんな気分で眠りに就くのは、随分久し振りだ。
無意識にそんなことを考えながら、緋凪は幼い頃に返ったように、『母』の腕の中で意識を手放した。
***
しがみついていた緋凪の手から、力が抜けるのを感じて、朝霞はそっと彼の顔を窺う。
やはりその瞼は閉じられている。ただ、昼間意識を失った時と違って、安らかな寝顔だ。
ホッとすると同時に怒りがこみ上げる。
「もう……お引き取りくださいませんか」
手は愛おしげに彼の髪を梳く朝霞の、冷え切った声音は、それまで頓珍漢な尋問をしていた刑事に向けられる。
「本当に眠ったのか。寝た振りだろう」
「バカなこと言わないで」
若い声の腹立たしい問いに、彼を起こすまいと低く返しながら、朝霞は緋凪をそっと横たえた。
背後を振り返ると、そこには中年刑事と若い刑事、宗史朗と、彼が呼んで来たと思われる医師と看護師が立っていた。
「先生。少し、息子をお願いしてもよろしいですか」
「もちろんです。意識が戻ったと聞いて診察に来たので」
これも中年を越えていると思われる医師に軽く会釈すると、中年刑事に病室を出るように顎をしゃくって促す。
まだ渋っている刑事たちの肩を押して、半ば強引に再度外へ出るよう促しながら、宗史朗とすれ違い様に目配せした。
緋凪を頼む、の意を、宗史朗も正確に汲んだらしい。小さく頷いてその場に残った。
スライド式の扉が閉まり、病室から充分に刑事たちを引き離すや否や、朝霞は「何を考えてるんですか!」と鋭く抗議した。
「あなたたち、凪君に今回の件の聴取しに来たんでしょ!? なのに三年前の件を蒸し返すなんてどうかしてるわ!」
すると、中年刑事――宗史朗によると外川忠広――は、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「それはそれ、これはこれだろう。第一、三年前の千明夫妻殺害事件は未解決だ。今は殺人にももう時効はない。解決できるなら解決すべきだ。罪状が明らかなのに、権力を笠に逃げ回るなんて正気の沙汰じゃない」
「権力を笠に凪君に罪を着せてるのはそっちでしょ!?」
叩き付けるように叫んだ朝霞は、顎を引いて外川を睨め付けた。
「確かに、千明夫妻の殺害事件は未解決よ。それもこれも、あんたたちが杜撰な仕事しかしないで、凪君に罪かぶせることだけに懸命になってるからよ、違う?」
「冤罪ではない。すべての証拠が、彼が犯人だと示している。これ以上の事実はない」
「逆にできすぎだって思わないの。あんた、あの子に訊いたわね。なぜ、警察が踏み込んだ時に血の着いた凶器を握ってたのかって」
「それが何か」
「あの子に当時聞いたことよ。あの子は帰宅してすぐ誰かに襲われて意識を失った。そのあと、目覚めた時には手に凶器を握らされてたって」
「そんなの、作り話に決まってる」
そう言ったのは、若いほうの刑事――彼の名は、宗史朗によると古森秀志――だ。
「何でそう決め付けるの」
「だって、証拠は彼を指し示してる。それがすべてだ。違うというなら堂々と公の場で言えるはずだろう。イギリス大使館まで引っ張り出してきて逃げ回るのは、疚しいことがある何よりの証だ」
「でっち上げだから、冤罪で捕まらない為には逃げるしかなかったのよ! それにあの頃の東風谷署の体制は小谷瀬康文に牛耳られてたわ。多分今もよ。彼の金の力がある限り公正な捜査なんて期待できない。暴力団に与した公権力を相手に、仮にも一般人で、しかも当時たった十三歳のあの子が何をどう対抗できたって言うの、逃げるしかなかったわ!」
「警察が、事もあろうに金の力で黙らされたって言いたいのか!」
「そうじゃないって言うなら、きちんと捜査してよ!」
「やめろ!」
泥沼にはまって行きそうになる言い争いに、その場の最年長者である外川が待ったを掛けた。
反射で口を閉ざした二人を、外川は応分に眺め、最後に朝霞に視線を定める。
「……いいか、よく聞け。感情論でモノを言うのはやめろ。お前も元は警官だと聞いているが」
「だったら何?」
「彼には動機があるんだろう。特に父親には虐待されていたと聞いている」
「誰に聞いたの?」
「井勢潟署長だ」
「井勢潟……署長、ですって?」
「そうだ」
「東風谷署で巡査部長だった、あの?」
「ああ。彼は今、東風谷署で署長に昇進しているが、千明夫妻殺害事件の起きる半年ほど前に、千明緋凪と彼の従姉が一緒に警察署に相談に来ていたと言っている。父親に暴力を振るわれ、内緒で母親からの援助を受け、武術道場へ通っていたそうじゃないか、父親に対抗する為に。それが行き過ぎて、勢い余って父親を殺害したと……その時止めに入った母親諸共な」
朝霞は瞬時、唖然とした。
「……呆れた。それこそ作り話じゃない。物語の読み過ぎもいいとこだわ」
「違うとでも?」
「それこそ、どうして緋向さんが凪君を虐待するのか、その理由を伺いたいわ」
「あんな髪にカラコン付けてりゃ、殴ってやめさせたくもなるだろ」
「凪君はクオーターよ。髪も目も、色は立派に自前だわ。イギリス大使館が間に入ったのはどうしてだか分かってる? 母方のお祖父様がイギリス人だからよ」
「そうしたら、四分の三は日本人なわけだろ。なのにあんな外見になるか、フツー」
「DNAの不思議で説明付くわよ。何だったら鑑定してみる? 大体、あんたみたいなのが、普段凪君をいじめる奴らと同じ理屈でヘイト思想を正義みたいに振り翳すんだから、笑っちゃうわ」
「屁理屈はいい。虐待がなかったという証拠は?」
静かにまた外川が問う。
「それこそ言ってもあたしの作り話だって言われそうだけどね。千明一家はそりゃあ仲のいいご家族だったわ。少なくとも子どもが逆上して両親殺すような環境じゃなかった。それに、井勢潟が踏み込んだ時には千明夫妻は死んでて、凪君はナイフを握ってたって話だったわね」
「それが?」
「じゃ、凪君がご両親を殺そうとする現場は誰が見たのかしら」
「それは井勢潟署長が」
言い掛けた外川は、ハッと何かに気付いたように口を噤んだ。
「……気が付いた? あんたは井勢潟が言ったこととして、『彼が踏み込んだ時には凪君が血の着いたナイフを握って立ってた』と言ったわ。でも、その前の経過としても、井勢潟が『凪君が父親を殺そうとして、止めに入った母親をも手に掛けた』とも言った。でも矛盾してない? もし後者の証言が本当なら、井勢潟は二人が生きている時にその場に居合わせたことになる。それならどうして止めなかったのかしら」
「……それは……」
「それに見たでしょ? 今日の凪君の様子。完全にトラウマじゃない。ご両親が死んだってこと、口には出せずに過呼吸になってた」
「両親を手に掛けた事実への後悔だろ」
投げるように言う古森を、朝霞は思う様睨め付け、彼の胸倉を掴み上げる。
「どーしても凪君に罪を問いたかったら、あたしが指摘した矛盾点を解決してからにして! 捏造話じゃない事実だと納得できれば、再調査に同意するのも考えるわ。それと、当分千明夫妻の殺害事件のことはもちろん、今回の件に関しても凪君には訊きに来ないでちょうだい。あんたたちは無駄に凪君の傷を抉りまくってマスタード塗りたくるだけよ、彼の精神衛生上よくないわ」
「貴様、何の権利があってそんなこと」
「黙りなさい!!」
古森の言葉を叩っ切る勢いで遮ると、彼は息を呑んだように押し黙った。
「……今後、あの子への侮辱も冤罪に問うことも、決して許さないわ。今はあたしがあの子の母親なの。凪君のご両親や母方のお祖父様お祖母様に代わってあの子を守る義務がある」
「だったら余計、保護者としては罪を償うよう促すべきじゃないのか」
「両親を殺しましたってデタラメを言えって? バカにしないで。あたしだって元は刑事の端くれよ」
宥めるように言う外川を、鼻先で笑って退ける。
「冤罪なんて作らない。その為の不正も認めない。それらに荷担するくらいなら死んだほうがマシよ。あんたたちこそ、よく考えなさい。あたしたちの仕事は判断ミス一つ、捜査ミス一つで、誤認逮捕された人の人生を奪って壊すのよ。その時、冤罪で人生を壊された人に対して、謝ったって謝り切れない罪を犯すの。殺人と同じくらいタチ悪いわ。仮にも刑事やってるクセに、そんなもの量産してよく恥ずかしくないわね。ある意味尊敬するけど」
突き放すように古森の胸倉を解放しながら続けた。
「今回の件については、訊きたかったら凪君以外の人に訊いて。あたしも同じ現場にいたから、分かることがあればお話するわ。でも今日は帰ってくれる? 目の前にいたら縊り殺したくなるから」
じゃあ、と締めてきびすを返す朝霞に、どういう理由でか、二人は追い縋って来なかった。
©️和倉 眞吹2021.




