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act.3 誘拐

「――この度は、大変申し訳ございませんでした」

 市ノ瀬(いちのせ)家で軽く自己紹介すると、朝霞あさか冬華とうかと、彼女の母である叔母・市ノ瀬陽美(はるみ)にも、深々と頭を下げた。

「こちらの……えっと」

 チラとこちらを見た朝霞に、緋凪ひなぎは自身の名を告げていなかったことに気付く。

千明ちぎら緋凪」

「ありがと」

 短く礼を言った朝霞は、陽美に向き直る。

「緋凪君にも軽くご説明しましたが、今日は春生はるきさんの件でご報告があって参りました。本来なら、春生さんのご家族、それから千明家のご家族も揃っていただいてからご報告すべきことですが、先んじてお知らせしたい事情があって伺った次第です。今日こちらで申し上げることはICレコーダーで録音するので、後程のちほど、今ここにいないご家族にもお聞かせいただけるとありがたいのですが」

 まだ浮かない表情をしていた陽美は、朝霞の言い分を一通り聞くと、「どうぞ」と言って中に入るよう促す。

 陽美叔母とはあまり話をしたことがなかったが、長女を失った衝撃が深いであろうことを思わせる声音だ。

 一緒に玄関に出て来ていた冬華も、大方似たような表情をしている。平時、さして親しくない人間には、普段の無表情とどう違うのかはよく分からないだろうけれど。

 無言のまま、市ノ瀬家のリビングへ入った四人は、ローテーブルの前に設えられたソファへ、それぞれ腰を下ろした。

 朝霞は、携えていたバッグからICレコーダーを二つ取り出して、テーブルへ置く。

「では、早速ですが、現在の状況をお話しします」

 スイッチを押すと、口をひらいた。

「まず、もう一つ謝罪しなければなりません。春生さんのご遺体が見つかった日、私の上司である井勢潟いせかたが、春生さんの死因は自殺による溺死という見解をご家族にお話しました。しかし、解剖を担当した監察医が、春生さんの死因は溺死ではないという判断をくだしています」

 そこまで言うと、陽美が顔を上げた。冬華もだ。

「……どういうことだよ」

 その場を代表するように緋凪が疑問を口に乗せる。

「今回の場合、プールから引き上げる現場をあたしたちは見てないの。第一発見者だった生徒さんも動転していてその瞬間なんて記憶にないらしいし、防犯カメラを確認したけど……いえ、これはあとで説明するわね。とにかく、引き上げる瞬間を見てれば、溺死かそうでないかはすぐに分かるわ」

「瞬間を見てなかったら分からないのか」

「ええ。解剖以外に死因を知る方法はなくなる」

「で、解剖の結果、違うって分かったってことか」

「そういうことよ。直接の死因は、頭部をどこかにぶつけたことによる脳内の血腫。ほかにも内蔵や身体のほうの血管にも傷みがあったから、生前……それも死の直前に随分暴行を受けてたらしいことが分かってる」

 緋凪は、その整った顔を思わず歪めた。春生の母である陽美は言うまでもない。口元に手をやって、嗚咽をこらえている。

「……犯人は」

「それはまだ……何しろプールに浮いてたのがどのくらいかも分からないの。それによって死斑も消えたし、死亡推定時刻も割り出せないのよ。水に濡れたことでご遺体に付着していた証拠がどのくらいかは洗い流されてしまってるみたいだし」

「……そう言えば」

 ふと、緋凪は思い出したように顔を上げた。

「さっき、防犯カメラがどうとか言ってたよな」

「あ、ええ。最近、学校でもプールだと防犯カメラが付いてることがあるでしょう。でも、あの学校はプールどころかどこにも付いてなくてね。動画があれば引き上げる時の映像の分析もできたのに……」

「防犯カメラが付いてない?」

 緋凪は眉根を寄せる。

西院凛さいりん学園には、どこにもカメラがないって言ったか?」

「ええ」

「校門とか裏門とか、廊下や昇降口とかにも?」

「……ええ……」

 立て続けにぶつけられる質問に頷く内、朝霞もそれがどこか異常だと気付いたらしい。口元に緩く握った手を当てて俯いている。

「あの学校、私立校だろ? ご子息やご令嬢が金に物言わせるくらいがっぽり儲けてるはずなのに、今時防犯カメラ付いてないっておかしくないか」

「……ウチの中学だって付いてるわよね。公立だけど」

 それまで、陽美と共に悄然しょうぜんと俯いていた冬華も口を開いた。

「ああ。正門と裏門、廊下と昇降口にな」

「……元々付けていなかっただけってことも考えられるけど」

 苦し紛れの朝霞の言い分を、緋凪はきっぱりと切って捨てる。

「だからって今時だぞ? あとからだって付けること考えてもいいんじゃねぇの?」

「……そうね……そう言えば、春生さんが誘拐されそうになった時、それを学校側が隠蔽しようとしたとか聞いたけど」

「ああ。俺が通報しようとしたら大慌てで端末取り上げて『ガキのいたずらだ』って騒いで通信切りやがった。その教師の顔なら見れば分かる。名前は聞いてねぇけど」

「そう……」

 朝霞はまた目を伏せ、しばらく考え込んでいたが、ICレコーダーを止めて立ち上がった。二つあった内の一つをバッグにしまい、もう一つテーブルに残ったほうを示しながら言う。

「これは千明さんと市ノ瀬さん、どちらかのお宅で保管してください。あたしは、引き続き調べてみます。それじゃ」

「待った」

 きびすを返してその場を去り掛けた朝霞に、緋凪は続いて立ち上がる。

「今日あんたが来るまで、警察の人間が訪ねて来たことはない。連絡だってなかった。毎日連絡しろとは言わないけど、数日後にでも途中報告があったってよかないか。あんたら、この十日間、一体何やってたんだよ」

 緋凪の声に立ち止まっていた朝霞は、徐々にその端正な顔を強張らせた。伏せた瞼の下で、黒い瞳が落ち着きなくさまよう。

 やがて、意を決したように「ごめんなさい」と珊瑚のような唇から謝罪が漏れた。

「……実は……今日ここへ来たのはあたしの独断なの」

「あ?」

「ドラマでもよくあるでしょ。刑事は普通、二人一組で行動する。あれは別にドラマ設定上の脚色じゃなく、本当の規則なのよ。だけど、今日あたしは相方には黙って来てる」

 一旦言葉を切った朝霞は、顔を上げて緋凪に向き直る。

「この事件に対する捜査の姿勢、何かおかしいから」

「おかしいって何が」

「あのあと、実は捜査本部も立ち上がってない。つまり、署の方針としては、捜査をするつもりが一切ないのよ」

「何?」

 元々険があった緋凪の声に、更に厳しいモノが含まれる。

「じゃあ、監察医が解剖したってのは」

「指示は一応程度のモノね。指示もないのに勝手にやったわけじゃないけど、遺族から問い合わせがあった時に言い訳できるよう、既成事実を作ろうとしただけの見せ掛け……もしくは、『どうせ何も出て来ないだろうけど一応』みたいなニュアンスかしら。ただ、監察医は信頼できる人よ。きちんとつぶさに調べて、だからこそ他殺だってことははっきりしてる。傷跡の写真とか、データも保存してあるわ」

 緋凪は沈黙を返す。何をどう返していいか、分からなかった。

 それをどう思ったのか、朝霞は言葉を継ぐ。

「でも、解決に時間がかかることは間違いない。井勢潟の圧力で、本気で動こうとしてる人員はあまりに少ないから」

「あんたの相棒もか」

 確認すると、朝霞は肩を一つ竦めた。つまり、それが答えだろう。

「けど、前に井勢潟って刑事は巡査部長だって聞いたぜ。東風谷こちたに署は巡査部長程度がそんなに権力持ってんのか。その上の奴は?」

 ちなみに、巡査部長という階級は、下から二番目に当たる。

「……モノ渡すとか弱みを握るとかすれば、階級が上でも……いえ、だからこそ黙っちゃう人もいるのよ。情けない話だけど」

「まったくだな」

 吐息混じりに同意する。

 というより、恐ろしい話だ。よりによって、犯罪取り締まり組織の上層部が、市民の安全よりも己の保身を大事にするのだから。

「そんな所に春姉の遺体、預けっ放しにしとくのも盛大に不安だな。どうする、叔母さん」

「……すぐに……引き取らせていただきます」

 やはり俯いたまま話を聞いていた陽美は、まるでさっきまでの消沈した様子が嘘のように、毅然と顔を上げてきっぱりと言った。

 ユラリと危なっかしく立ち上がった陽美は、眼光だけは厳しく朝霞を見据える。

「すぐに支度をしますので、お待ちください。娘を、引き取りに参ります」

「あの……市ノ瀬さん」

 朝霞はひどく複雑な表情を浮かべた。

「お気持ちはお察ししますが、そう簡単ではありません。捜査はどうにかあたしが継続しますので、ご遺体の返却はどうか今少し」

「はいそうですか、と従うとお思いですか? これまでの話を聞いていて、娘の遺体を引き取らない選択をする母親はいません。すぐに、無理にでも引き取ります。娘はどこです?」

 てきぱきと外出の準備を始めた陽美に、獲物を前にした肉食獣もくやという鋭さで睨まれた朝霞は、どのくらいのあいだか逡巡していたものの、最終的に白旗を揚げた。


***


「市ノ瀬春生さんのご遺体でしたら、さっきご親族からの要請があったからと刑事さんが引き取りに来られましたよ」


 嶂枩みねまつ大学付属総合病院の男性看護師が放った言葉に、緋凪はもちろん、陽美、冬華、更には朝霞までもが度肝を抜かれた。

「刑事って誰が!」

 真っ先に気を取り直したのは、緋凪だ。手加減を忘れたように噛み付かれた看護師は、仰け反りながらも「さあ、お名前までは」とシドロモドロな口調で言う。

「さあ、じゃねぇよ! 遺体なんて喋らないんだから、生きた人間がその分確認しろよ! 大体そいつ、本当に刑事だったのか!?」

「そ、それは間違いありません。警察手帳も確認しましたし……」

「どんな刑事ですか。男性? 女性?」

 淡々とした口調で朝霞が尋問に加わる。

「どんなって……それは初めてお会いする方でしたし……性別は男性でしたけど……」

「ここ、防犯カメラ付いてるよな」

 緋凪の言葉に、朝霞が自分の警察手帳を掲げて看護師に命じた。

「その刑事がご遺体を引き取ると言って来訪した時刻、場所の防犯カメラ映像を見せてください。全責任は私が取ります」

 こちらの勢いに完全に呑まれているのか、看護師はコクコクと壊れた操り人形のように頷き、病院内の警備室へ緋凪たちを案内した。


 この病院の警備室は、病院とは別棟だった。ちょうど、正門を入ってすぐの小さな建物だ(といっても、中は学校の一教室分くらいはあったが)。

 その中にある、防犯カメラ映像が映るディスプレイは全部で八台分。一画面は四分割されているので、全部で三十二台分だ。

 もっとも、病院そのものが広いので、何分か置きに別のカメラに切り替わる仕組みらしい。

 遺体を引き取ると言った刑事が来たのは一時間ほど前で、その映像は程なく見つかった。

 駐車場に程近い棟の受付に来た人物を指し、看護師が「この人です」と言うと、朝霞が拡大して画像を鮮明にできるかをカメラを操作する警備員に確認する。

 言われた通りに警備員が操作し、露わになった顔は、緋凪も見たことがある人物――井勢潟巡査部長だ。

 更に映像を見守っていると、井勢潟は一度画面の外へ消える。そして、ファスナーの付いた袋にすっぽり入った人大のもの(恐らく春生の遺体)を乗せたストレッチャーと共に戻って来た。そのあと、受付の人物と二言、三言言葉を交わすような仕草をしたあと、ストレッチャーを携え、出入り口のほうへ姿を消した。

「……どうするつもりだ……」

 無意識の呟きに、朝霞が顔を上げる。

「とにかく、あたしは署に戻るわ。皆さんはそれぞれご自宅で待機してください」

「俺も行く」

「行くってどこに」

「あんたと一緒にだよ」

 朝霞は呆れたように言った。

「あのね。それこそテレビで流れてる探偵もののドラマやアニメと一緒にしないで。一般人でしかも中学生のあなたを、捜査に関わる所に連れて行けるわけないでしょ」

「俺は春姉の従弟いとこだぞ!」

「関係者だって言いたいの? 中学生のゴネる屁理屈に対して、『はいそうですか』ってくつがえると思ってるなら甘いわ」

「だけど、あんたらのやることこれからどう信用しろってんだよ!」

 緋凪のしなやかな指先が、鋭く防犯カメラ映像画面を指さす。

「訴えガン無視の挙げ句殺されるまで放置しといて、死んでからは勝手に、しかも家族に無断で行き先も言わずに遺体を移動する! そんなケーサツ組織に何もかも任せとけって!? 俺には無理だね!!」

 瞬間、朝霞は息を呑んだ。何か言いたげに珊瑚色の唇が震えるが、すぐには言葉は吐き出されない。

 代わりに彼女は目を閉じて、幾度か深呼吸を繰り返し、瞼を上げた。

「……あなたの言いたいことは分かる。あたしだって個人としては井勢潟のやり方に納得してるわけじゃない。だけど、一度社会に出て組織に就職したら、そこなりのルールがあるの」

「間違ってるって分かり切ってる上司に、盲目的に従うのが正しいルールかよ」

「言い逃れに聞こえるかも知れないけど、今あなたとコトの正否を言い争う気はないし、その暇もない。今はあなたがゴネる時間の分だけ、春生さんの行方が掴める可能性は低くなる。それでもいい?」

 緋凪は息を詰めるようにして言葉を呑んだ。いいわけがない。けれども、目の前の女をすぐに信用することもできない。

「……行ってください」

「叔母さん!?」

 拮抗した空気を破ったのは、叔母であり、春生の実母である陽美だ。

「信じるのかよ、叔母さん!」

「ええ」

 あっさりと首肯した叔母は、しかし朝霞に向けて爆弾を叩き付ける。

「但し、春生が戻らなければその時は署ごと訴えます。私の兄……この子の父親は、元々弁護士でした」

 この子、と言いながら、叔母が緋凪の肩にそっと手を添える。

「兄は今でこそ、その職を辞していますが、その方面の知識は豊富ですし、人脈も生きています。意味はお分かりですね」

 硬い表情で唇を噛んだ朝霞は、無言で頷き身をひるがえした。


***


 叔母が半狂乱で千明家に連絡して来たのは、春生が井勢潟に連れ去られた翌日だった。

 硬い表情で通話を切った父に付いて、市ノ瀬家を訪れた緋凪たちが見たのは、亡くなった直後以上に変わり果てた春生の姿――いや、それは最早、元々春生であったかどうかさえ分からない――つまり、骨壷だった。


「……どういう、ことですか」

 どうにか声を絞り出した父と呆然としている母、その視線の先には骨壷を抱き締めて泣き叫ぶ叔母と、混乱した表情で立ち尽くしている冬華がいる。その場には、昨夜の内にでも帰国したのか、叔父の姿もあった。

 父が疑問を呈した相手は、その骨壷を届けに市ノ瀬家へ訪れた朝霞だ。

「……本当に……申し訳ありません」

「それは答えじゃねぇだろ」

 容赦なく追及する緋凪の言葉に、朝霞はただ顔を歪める。

 答えない朝霞に苛立った緋凪は、彼女の胸倉を掴み上げた。

「どういうことなのか説明しろよ! 何だこれ! これが春姉だってのか!!」

「……ごめんなさい……本当に……」

「今聞きたいのは謝罪じゃねぇんだよ! 謝るだけなら猿でもできんだろ!!」

「緋凪!!」

 朝霞に殴り掛からんばかりの緋凪を、父が背後から抱え込むようにして押さえる。

 荒い呼吸音に、市ノ瀬家の玄関はしばし支配された。

 緋凪は、突き飛ばすようにして朝霞の胸倉を解放する。息子がひとまず話を聞く体勢になったと見たのか、父が静かな声音でもう一度繰り返した。

「……説明してください。謝罪も我々の文句も、すべてはそれを聞かなければ始まらない」

 朝霞は、自身を落ち着けるように深呼吸すると、「昨日のことは……どこまで?」と父に確認した。

「ICレコーダーの内容と、そのあとの病院でのあらましは息子から」

「そう……ですか」

 朝霞がもう一度呼吸を置くように息を吐き、口を開く。

「あたしは……緋凪君たちと別れたあと、あたしは署に戻って井勢潟刑事の行き先を確認しました――」

 しかし、誰も井勢潟の行き先を知らないという。携帯に連絡してみても繋がらない。

 許可を取らない捜査は違法だとは思ったが非常事態だ。

 朝霞は、科捜研所属の知人に頼み、嶂枩病院から出た井勢潟の足取りを、要所要所の防犯カメラ映像で追ったという。

「井勢潟刑事が病院を出たのは、午後三時過ぎ。あたしが彼の足取りを追い始めたのが午後四時を過ぎてました。彼の行き先に追い付いたのが、それから三十分後……」

 遅かった。

 彼の行き着いた先は、病院から車で三十分ほどの距離の場所にある、早矢仕はやし葬儀場だった。

 そこは、今頃の流行りで、葬儀場と焼き場が一緒になっているタイプのそれだという。

「井勢潟が葬儀場に着いたのが三時半過ぎでした。まさかと思って葬儀場に問い合わせたら、前日に予約をいただいていて、やや急で異例ではあったけれど、事情が事情なので火葬を受け付けたと……」

「どんな事情だと?」

 再び噛み付きそうになる緋凪の肩先を押さえ、父が平板な口調で訊ねる。

「あまりにも……ご遺体の損壊がひどく、ご遺族からの『とてもじゃないが、このまま葬儀を行えない。我々も見るのが辛いので、一刻も早く荼毘だびに付したい』というご希望で、自分がここにご遺体を運んできたと……井勢潟は言ったそうです」

「……んで……そんな……」

「緋凪」

「何でそれが通っちまうんだよ。おかしいだろ。どうしてそんなにあっさり……!」

 すると、朝霞はこれまでの比でないくらいに表情を歪めた。

「こんなこと……身内の恥とか通り越して口がけがれそうだけど……袖の下よ」

「は?」

「ご遺族を、何より亡くなったご本人を冒涜する行為よ! あたしだって納得できないわ、こんなの! なのにアイツ、ヌケヌケと言ったのよ! 金さえ渡せば握り潰せないモノなんてないって……!!」

 覚えず、といった調子で、朝霞が激昂げっこうした。叩き付けるように叫んだあと、荒れた息を整えながら振り乱した髪を掻き上げる。

「……申し訳、ありません……お見苦しいモノを……」

「いえ……」

 再度、沈黙が玄関に落ちた。

 しばしののち、ふと思い付いたように、緋凪が口を開く。

「……今……」

「え?」

「今……『握り潰す』って言ったか?」

 ノロノロと上げた視線の先で、朝霞が目をしばたたいた。その視線をしっかりと掴まえて、緋凪は問いを重ねる。

「金さえあれば握り潰せないモノなんてない……つまり、警察はこの件を、何がどうでも握り潰したいってことなのか?」

 重ねた視線を解くようにして、朝霞は目を泳がせた。そして、言い辛そうに「そうらしいわ」と小さく答える。

「……本当に……ごめんなさい。あたしも……合法的にはもう力になれそうになくて」

「それはどういう意味です?」

 問うたのは父だ。

 朝霞は、目を伏せたまま言葉を継ぐ。

「この……骨壷を届ける仕事を最後に……あたしは警察を解雇されました。表向きの理由は、礼状もないのに防犯カメラ映像を勝手に取り寄せたことによる懲戒解雇です」

「そんな……!」

 緋凪が瞠目する。

「たった一回の違法行為で解雇!? それも、上司が行き先も言わずに出てって、おかしなことしてるのを追跡しただけで!?」

「警察は法を真っ先に遵守じゅんしゅしなくちゃならない組織だもの。たった一回だろうが、法を犯せば一般人だって咎められる罪状はあるわ。表向きには文句を言う権利はない」

「じゃあ、あっちの違法行為はどうなるんだよ! 俺たちに何の断りもなく春姉を……!!」

 朝霞は、返す言葉も持たずただ唇を噛み締めるのみだ。

 本当は緋凪にも分かっている。朝霞は(元)警官であって、人を裁くのが仕事ではない。裁くのは――あくまでも法的に裁くのは、裁判官の仕事だ。たとえ警官職にあったとしても、その権限まではない。

 しかし、自分は違法行為を平然としておいて、人を違法で解雇するなどやはり納得できない。それをやらかした人間を無罪放免にするには、そのやり方が汚過ぎる。

(……それに)

 緋凪は、ふと気付いた。

 被害者の――春生の遺体が骨になってしまったということは、犯罪の証拠ごと灰になったということにほかならない。

 春生を殺した誰かがいるということまで――憎たらしいまでに完璧な証拠隠滅だ。しかも、それをやってのけたのが警官だという、ハラワタが煮えそうになる事実まである。

「……データは……」

「緋凪?」

「そうだ、あんたが言ってた監察官の持ってるデータは?」

「……データなんてどうする気?」

 ぼんやりと言う大人たちに、緋凪はれったくなって叫ぶ。

「どーするもこーするもあるか! 早くどっか取られないように隠さないと……春姉の遺体焼いてまで証拠隠滅しようとしてる連中相手に、ボッとしてる場合じゃねーだろ!」

「……証拠隠滅……」

 朝霞の顔がさっと強張こわばる。背後にいる両親の顔は見えなかったが、大方似たようなものだろう。

 市ノ瀬家の面々は、精神的にもうこちらの話を聞くどころではなさそうだ。

「まさか……まさか、そこまで……」

「そこまでしない人間が勝手に人の遺体、遺族に訊かずに焼いたりするか! 小学生でも分かる理屈だぞ!」

 尚も沈黙を挟んだのち、父がポンポンと緋凪の肩を叩いて、背後から離れた。

知寛ともひろ君」

 父が呼んだのは、叔父の名だ。

「……はい」

「すぐに、私の旧知の弁護士に連絡を取る。それでいいね」

 妻と一緒に骨壷を抱くようにしてぼんやりしていた叔父は、涙の溜まった目を上げて父を見た。そして、はっきりとした声音で「よろしくお願いします」と答える。

「俺らも行くぞ、朝霞」

「……って、行くってどこに」

「決まってるだろ。春姉の解剖を担当した監察医に会いにだ」

「だけど」

「しっかりしろよ。解雇されたからって接触禁じられてるわけじゃねぇんだろ? それに今はあんたも一般人なんだ。俺が一緒に行ったって、規律は気にしなくていいはずだな」

 しばらくは朝霞もどこか呆然としていたが、やがてその瞳に光が戻り始める。

「……分かった。監察医の所には行くけど、あなたは連れて行けない」

「何でだよ」

「事件解決に動くのは本来なら警察の仕事よ。それにあんた、今日学校は?」

「ケーサツがちゃんっと仕事してりゃ、今頃春姉が骨にまでなっちまうことはなかっただろーな。おかげで俺も冬も最近ガッコ行くどころじゃなくてよ」

 ベッ、と舌を出して見せると、朝霞は瞬時唖然とした。やがて諦めたように息を吐いてバッグからスマホを取り出す。

「どこに掛けんだ?」

「お望みの監察医の所よ」

「それより、我々は一旦ここを出よう。ともあれ、やっと春生が戻ったんだ。今日は……」

 父は、言葉の続きを視線に乗せた。その先には、市ノ瀬家が久し振りに揃った光景がある。だが、その内の一人――春生はもういない。最早、物言わぬ骨と化して骨壷に納まり、両親の腕に抱かれている。

 常にない非常事態のゆえか、緋凪にはその光景がどこか遠いものに思えた。


©️和倉 眞吹2021.

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