act.10 剥がれゆくヴェール
蒲田勝の現住所は、群馬県の山奥にあった。
正式に警察権限で捜査することになれば、越境捜査ということになる。
万一それができたとしても、手続きやすり合わせに時間が掛かり過ぎるし、今はまだ、これが連続殺人だという決定的な証拠がない。何しろ、各事件の間が五年も空いているし、事件の内容がよく似ているというだけで、同一犯だという確証もない。
だが、一般人である緋凪と朝霞が突然訪ねていっても、簡単に話は聞けないだろう。かと言って、今まさに、連続と仮定するなら三件目の事件の捜査の直中にいる宗史朗が、おいそれと休みを取れるわけもない。
そんな諸々の事情から、結局は即日、朝霞と緋凪と、同行を希望した志和里は、キャンピングカーに乗って、皓樹が割り出した蒲田の住所までやって来た。
連続した事件なら、被害者とは言え関わりのある角谷の目を警戒しないわけにいかなかった。だから、新幹線などの公共交通手段を避けたのだ。
「……で、本当にここに住んでんのか」
車を降りた緋凪は、呆れとも感嘆とも取れる口調で呟いた。
キャンピングカーを停めたのは――というより停めざるを得なかったのは、やはり森の中だった。
本気で見渡す限り森と畑しかない。人が住んでいるのかも怪しい。
近隣に街のようなものもなく、従って役場のような場所も近くにはなかった。どこに停めればいいか、停めても咎められないかの見当も付かない。
「住所は間違いなくこの近くよ。て言っても、あとは歩いたほうがよさそうだけど」
このご時世だが、携帯も圏外だ。カーナビも近所までは案内してくれたが、辛うじて運行中の、路線バスのルートを外れた辺りでパタリと沈黙してしまった。
ただ、最低限の荷物だけを手に歩き出すと、幸いすぐに畑仕事をしている人を見つけた。
「すみませーん」
地図を片手にした朝霞が声を掛ける。
顔を上げたのは一組の中年男女だった。夫婦だろうか。
「あの、この住所に行きたいんですけど」
朝霞の手招きで寄ってきた男女は、地図と住所をメモした付箋を見るなり、眉根を寄せた。
「あんたたち、警察か?」
「えっ?」
朝霞が首を傾げる。
男女は、警戒心一杯の表情で、緋凪たちを睨んだ。
「先生は何にも悪いことはしちゃいない。そりゃ、金に目が眩んだ一瞬もあったんだろうけど、深く反省してる。免許はないけど長いこと現役のお医者さんとしてちゃんと診療経験もある人だ。こんな病院もない場所で村人を診てもらったからって、責められる謂われはねぇ」
「それとも、先生の取材に来たの? 面白半分にデタラメの記事書くだけなら帰ってください。私たちは何も言いませんよ」
男女はそれぞれに言いたいことだけを言い放つと、きびすを返す。
蒲田がやらかしたコトがコトだけに、これまでに何があったか、想像できることは色々ある。
この辺はテレビの電波が来ているかも怪しいくらいの田舎だから、最初は蒲田がここへ越してきた理由も、村人には分からなかったのかも知れない。
程良く蒲田が村人の信頼を得たところで、スキャンダルに飢えたマスゴミやら、余計なことしかしない警察がクチバシを突っ込んで来た可能性は、充分に考えられた。
だが、緋凪たちも退くわけにいかない。
ほかに人影もなく、彼らを逃したら次にいつ人に会えるか分からないし、彼らがあの調子では、ほかの人が話してくれるかも期待はできないかも知れない。聞ける時に聞く必要がある。
そっと息を吐いて足を踏み出そうとしたのと同時に、「お願いします!」と志和里が叫んだ。
縋るような声音だった所為か、部外者に頑なだった男女が、足を止めてこちらを振り向いた。
彼らの視線をしっかりと捕らえ、志和里が言葉を継ぐ。
「……お願いします。あたしは……あたしは、蒲田がおかしな証言をした所為で無実の罪に問われた清宮七和佳の娘です。母は冤罪を着せられ、気が違ってしまいました。全部、蒲田が母に罪があるような言い方をした所為なんです。でも、恨みを晴らす為に来たんじゃありません。彼の話は、母の無実を証明する為の糸口になるかも知れないんです。お願いします、彼の居場所を教えてください……!」
無実とは言え、今は容疑も刑も確定した者の肉親だと告白するのは勇気が要っただろう。嫌みも目一杯盛り込まれていたし、言いたい気持ちは分かるが、多分意識して言ったわけではなさそうだ。
その証拠に、もうすでに彼女の頬には涙が幾筋も伝い、形相はまさに『必死』と言っていい。
わけの分からない逃亡劇に終止符を打ちたい。以前、彼女はそう言っていた。
ここまで付いてきたのもその一心だと、緋凪も朝霞も知っている。
それを知らないだろう男女も、志和里の真剣な表情に何か動かされるモノがあったのかも知れない。
戸惑ったようにしばらく顔を見合わせ、緋凪たちと互いの間で目線を泳がせた彼らは、やがて道案内をすると返事をくれた。
***
彼らが案内してくれた先にも、やはり畑が広がっていた。
聞けば、この村はほとんど自給自足で成り立っているらしい。畑で穫れないモノ(たとえば書籍や電子機器など)以外は買いに出る必要もないそうだ。
ただ、今は時節柄か、畑には何も植わっていない。
「先生!」
男性のほうが声を掛けると、何もない畑の手入れをしていた人物が顔を上げた。
男性が手を振れば、『先生』と呼ばれた人物も手を振り返す。
「やあ、兵藤さん。腰のお加減はいかがですか」
立ち上がって訊ねる『先生』に、兵藤と呼ばれた男は「おかげさまで、大分いいです」と答えた。
「よかった。ところでそちらの方々は?」
近くで見ると、『先生』の年の頃は五十前後。角の丸い正方形のような輪郭に、平均的な顔立ちは柔和な笑みを浮かべている。
とてもではないが、金に絆されて偽証するような人物には見えない。
『先生』は、兵藤と呼んだ男性から、緋凪たちに視線を向ける。兵藤は、「いえ、その……」と口籠もった。
緋凪たち三人の中で一番気が逸っているだろう志和里が、会釈するように頭を下げる。
「初めまして。清宮志和里と言います。失礼ですが、元監察医の蒲田勝さんでいらっしゃいますか?」
一応礼節を守った物言いだが、声色は明らかに尖っていた。
他方、清宮という苗字を聞いたからか、『先生』はかすかに眉を曇らせる。
「確かに蒲田は私ですが……清宮……?」
「あなたの証言で無実の罪を着せられた清宮七和佳はあたしの母です。母を、お忘れですか?」
「……ああ」
記憶を探り当てたというように、蒲田は頷いた。そして、若干非難めいた視線を志和里に向ける。
「存じていますよ。私に袖の下を渡して、死因を誤魔化すよう言い含めた……」
「それは誤解です! 母は父を殺していません!」
反射で悲鳴のように叫んだ志和里に、蒲田はやはり責めるような表情を崩さない。
「いいえ、お気の毒ですが事実です。確かに清宮夫人から『黙っているように』という言伝と共に金を受け取りました。金額に目が眩んだのは深く恥じておりますし、医師免許を失ったのもそれに対する罰だと分かっております。けれど、彼女がそもそもそんなことを言わなければ私は……」
「そんなの、自分の選択だろ?」
早々に苛立った緋凪は思わず口を開いていた。
「仮に袖の下をくれたのが間違いなく七和佳だとしても、今のあんたの状況を彼女の所為にすんのはお門違いじゃねぇのか」
しかし当然、緋凪とは初対面の蒲田は、尚のこと眉根を寄せる。
「……君は?」
「志和里さんの依頼人です。弁護士ではありませんが」
緋凪の肩を強引に引いて、自身の背後に素早く押しやったのは朝霞だ。
「感情的な言い合いはあとにしましょう。私たちはもう一度、当時の話を詳しく伺いたくて参りました。娘さんの仰った通り、彼女の母親の無実を証明したいんです。覚えている限りでいいので、蒲田さんがご存じのことをお聞かせいただけないでしょうか」
静かな朝霞の言葉に、蒲田はもちろん志和里も冷静になったようだった。
「……分かりました。どうぞ、お入りください」
蒲田は、不承不承といった様子を微塵も隠さず低い声で言うと、邸宅のほうを示した。
***
「すみませんが、庭先で失礼します。私も、あの件に関してほじくり返されるのを気持ちいいとは思えない。それをしに来た人間に、家の中まで招じ入れて茶を出すほど寛大でもないのでね」
平屋建ての家の庭先に来ると、蒲田は自分だけが縁側へ腰を下ろした。それを受けて、志和里はまた早々と苛立ったようだ。
「あたしだって、母を陥れた人に出されたお茶なんて飲めませんから結構です」
キンと尖った声が、真っ向から応戦する。
すると朝霞が「志和里ちゃん」と宥めるように声を掛け、蒲田に向き直った。
「ご不快にさせたことは、重々お詫びします。それと、重ね重ねご不快にさせるかも知れませんが、ここでの会話は録音、及び録画させていただきます。警察内部でのそれと違って編集などは一切しないこと、動画サイトにアップなどは絶対しないことはお約束します。また、その契約の証拠を残す為に、今現在録音は開始させていただいております。その点に於いては事後承諾ですが、録音録画に同意いただけますか?」
蒲田はまたも、朝霞の言葉通り不快になったと言わんばかりの視線を向けたが、「いいでしょう」と頷いた。
「録音と録画に、同意いたします。サインは必要ですか?」
「可能でしたら後程いただければ幸いです」
蒲田の同意を経て、緋凪は自分のスマートフォンを録画モードにして掲げる。
「分かりました。それで、何をお聞きになりたいのですか?」
蒲田の顔にズームして、録画を開始した。
「私たちは、清宮志和里さん……今は、諸事情ありまして片瀬姓で生活している志和里さんのお母様、清宮七和佳さんは無実だと考えています。そこでお尋ねしたいのですが、あなたに口止めとしてお金を渡してきた、という方は、本当に清宮七和佳さんでしたか?」
「はい。間違いありません」
「嘘!」
即座に志和里が興奮したように叫ぶ。緋凪は彼女の肩を押さえるようにして引いた。そして、録画中のスマートフォンを上下させる。
録画中だから、できれば余計なことを言うな、の意だ。
彼女は怒りと悔しさでブルブルと震えていたが、緋凪の手を払い落とすように振り解いて顔を背けた。
「では、念の為に確認します。お金を渡しに来たのは、本当にこの方ですか?」
朝霞が取り出した、七和佳の写真をズームするのと時を同じくして、蒲田がそれを受け取って視線を落とす。次に、彼は首を傾げた。
「……いえ……違いますね」
「えっ」
緋凪が瞠目するのと、志和里が声を上げるのとはほとんど同時だった。
「では、顔が分かりにくくてすみませんが、この方かどうか分かりますか?」
朝霞が次に蒲田に差し出したのは、皓樹が見つけてきた防犯カメラ映像をプリントアウトしたものだ。
鍔広の帽子とサングラスをしている女は、唇がやけに赤く、その口元にはホクロがある。
「……申し訳ない。目元から上が隠れてしまっているので確かなことは言い兼ねます」
「……そうですか。では、似顔絵作成にご協力いただけますか?」
「あまり自信がありませんが……」
「可能な限りで結構です。それが調査に利用可能かどうかはこちらで判断しますので」
「そういうことでしたら。その前に、一つだけいいですか?」
「はい、何でしょう」
「清宮七和佳の伝言と金を持って来た女の口元にも、確かホクロがありました」
「えっ」
またも思わずといった様子で志和里が声を上げる。朝霞がそれを制するように手を挙げると蒲田に向き直った。
「本当に、確かですか」
「はい。ただ、この写真の女と同一人物かと言われると、断定はできませんが」
「その、言伝と金を持って来た女性、名前は名乗りましたか?」
「いいえ。ただ、清宮七和佳の代理で来た、としか」
「そうですか……分かりました」
ありがとうございます、と朝霞が深々と頭を下げた。
***
「――で、そのあと聞き取りして描いた似顔絵がこれ」
カフェ・瀧澤古書店へ、休暇の日に宗史朗が訪ねてきたのは、数日後のことだった。
その彼と、隣のスツールに朝霞と志和里が座り、カウンター内に緋凪が陣取っている。
宗史朗の手には、数日前に朝霞が描いた『代理人の女(仮名)』の似顔絵があった。
「意外だよな。朝霞、料理が下手だからてっきり……」
「てっきり何よっ! 言っとくけど、こういう似顔絵が描けないと刑事は務まらないんだからねっ!」
「そうなのか、宗史朗」
「嘘嘘、大嘘。こーゆーのは適材適所だよ。得意な担当者がちゃんといる。全員似顔絵が得意だったら、その内の九割、美大に行ってプロになってなきゃおかしいでしょ?」
「宗君まで!」
「ま、料理と絵の腕は関連ないから、緋凪君もそういう根拠のないことは言わないよーに」
朝霞に対するフォローなのか何なのか、よく分からない窘めに、緋凪は肩を竦めて「へーい」とだけ返す。
宗史朗は改めて防犯カメラ映像の写真と似顔絵を見比べた。
「それにしても……この口元のホクロだけは一致するけど……似顔絵だけじゃさすがに顔認証掛けられないからなぁ」
「ほかに何か、収穫はないんですか」
一人、テーブル席へ追いやられた由貴代が、宗史朗と隣に座っていた朝霞の間に割り込むように顔を覗かせる。非番だというのに尾行してきたようだ。
緋凪は彼女に、冷え切った青の流し目をくれる。
「融通の利かない部外者の嬢はできれば引っ付けて来て欲しくねーんだけどな。宗史朗、しばらく出禁にするか」
「僕の責任の範疇じゃないんだけど」
「それに、完全プライベートならあたしだってすぐお暇しましたよ。でも、こーんなモノ、見ちゃったらねぇ」
由貴代は宗史朗の持っている似顔絵と写真を指さした。
「ま、それはともかく。ここまでに六日あったんだから、もう一件回ったに決まってるでしょ」
朝霞が半ばドヤ顔をしながら、もう一枚似顔絵をヒラ付かせる。
その似顔絵が宗史朗の手に渡る瞬間、由貴代が奪い取るようにして受け取った。そして、宗史朗の持つそれと見比べる。
「……二枚描いたんですか?」
こう由貴代が訊いたのも無理はない。彼女の手にある似顔絵と宗史朗の持つそれは、どちらも同じ人物を描いたとしか見えないものだからだ。
しかし、投げるように容赦なく「アホか。別件だよ」と挟んだ緋凪は言葉を継ぐ。
「あんたたちが今まさに血眼で追ってる、佐伯慎太郎殺害事件」
すると、宗史朗と由貴代が同時に、見開いた目を緋凪に向けた。
「それに、日付見ろよ。宗史朗の持ってんのが12月10日、由貴代の持ってるほうが12月13日だろ」
「そっ、そんなの、意図的に違う署名すればそうなるじゃないですか」
「違う日付の署名する必要があるのか?」
冷えた声を投げ返すと、由貴代はまるで子どものように下唇を突き出した。これで社会人、どころか刑事をやっているというのだから、ある意味凄い。
「……でも、これが佐伯慎太郎の殺害事件に関する聞き取りの結果だとしたら、誰に?」
ただで白旗を揚げるのも悔しかったのか、尚も由貴代が言い募る。
「もちろん、佐伯の検死担当した監察医」
「嘘!」
即座に由貴代は噛み付いてきた。
「何で嘘だなんて決め付けんだよ」
「だって、そもそも佐伯の妻が捕まったのは、匿名のタレコミがあったからよ!」
カウンターに手を突いた由貴代は、すでに敬語をかなぐり捨てている。
「タレコミがあったんだから正式な監察医にもっかい聞き取り調査すんのがトーゼンでしょ!? 佐伯の検死した監察医は偽証罪で今とっくに留置場の中なんだから、一般人がおいそれと面会できるわけないじゃない!」
「ま、フツーの一般人ならな」
クッ、と鋭く喉を鳴らすと、由貴代が瞬時キョトンと目を瞠った。そして何かに気付いたように宗史朗を睨め付ける。
「まさか椙村さん……!」
「嫌だなぁ。僕が何かしたなんて、緋凪君は一っ言も言ってないよ。ねぇ?」
「ああ」
「それに、面会の場にはちゃんっと刑事が同伴してたわよ」
朝霞がシレッと会話に入って来た。
「刑事って……!」
「言ってなかったかしら。あたしも昔は刑事やってたのよ。その頃の友人が所轄にいるから口利いてもらっちゃった」
春生の事件の際に少しだけ関わった、大村智花巡査だ。春生の件のあと、彼女もその煽りを喰らって、所属を転々とさせられているらしい。
「公式に記録も残してもらったし、違法なことはやってないわ。何だったらあとで確認して」
そこまで言われると、由貴代に言えることはなくなったようだ。彼女は悔しげに唇を噛み締めながら、憤然ときびすを返して元のテーブルに戻って行った。
「で、その監察医サンは何て?」
チラリと由貴代のほうへ投げた視線をこちらへ転じた宗史朗が、話を戻す。
「監察医の名前は久保田克也。やっぱり袖の下もらったのが、その匿名のタレコミでバレて、由貴代のお説の通り留置場にぶち込まれて何日か経ってるみたいだな」
由貴代が「気安く呼び捨てにしないで!」と合間にテーブル席から叫んだが、緋凪は軽くスルーした。
「言伝と口止め料は容疑者の佐伯一乃……世間に名乗ってたのは旧姓の伊奈西なんだけど、とにかく彼女から受け取ったって言ってる。だけど、渡しに来たのは本人じゃなく、その似顔絵の女だってよ」
「その辺、警察の捜査はどうなってんの?」
「ここまで分かったんなら、そのメッセンジャーの女についても調べるのがホントだろ。まさかやってないのか? まあ、やってないって言われても驚かねぇけど」
朝霞と緋凪に口々に質問責めにされて、宗史朗は苦笑を浮かべる。
「捜査の進捗状況、確認してみるよ」
「頼む。それと、五年前の捜査やり直しの要求だな。一刻も早く志和里のお袋さんの無実も証明しねぇと、今回はハイエナが割とおとなしく引き下がったけど、第二第三の北里がいつ出てくるやら分かったもんじゃねぇ」
若干鼻息荒く断じた時、ボトムの中のスマートフォンが震えた。
取り出してみると、画面に表示されている名前は『皓樹』だ。緋凪は画面をタップして耳に当てた。
©️和倉 眞吹2021.