act.7 計略 vs 知略
「――うっわあ。ゾロゾロと引き連れて来たねぇ」
喫茶店の外で待ち構えていた北里は、緋凪を見るなり目を丸くした。
そして、緋凪の背後に視線を投げる。
「一応訊くけど、ご家族?」
「んなわけあるか」
戸籍上、朝霞は養母だから、家族と言えなくもない。宗史郎も半ば『親戚のお兄さん』になりつつあるが、彼と共にやって来た女性刑事とは、今日初めて会う。白峰由貴代と名乗ったその女性刑事は、宗史郎とパートナーを組んでいるらしい。
彼が非番ではない時に呼び出したものだから、内緒にする口実も限度があったようだ。
そういった細かい内情を知らないだろう北里は、一つ肩を竦めると、「まあいいや」と言って顎をしゃくった。
「とにかく行こう」
「……喫茶店内で話する約束だったと思ったけど?」
「待ち合わせはここでもよかったよ。でも、本当にいいの? 第三者に聞かれちゃ困る話もあるんじゃない? 君が」
北里の整った顔立ちが醜悪に歪む。
「せっかく配慮してあげようって言ってんだから、素直に付いて来なよ。僕は構わないと言えば構わないんだけど、できれば真実を深い所まで聞きたいんだ。正直に話してくれないと、繰り返すようだけどでっち上げ記事書いちゃうからね?」
だが、緋凪も動じずに不敵な微笑を返した。
「そら、ご配慮傷み入るぜ。けど、そっちこそ言動には気を付けろよ」
「またICレコーダーで録音でもしてんの? 君の言うところのマスゴミのモラルを問おうって躍起になってるんだ。可愛いねぇ」
クス、と嘲るような嫌みが応酬する。
それに反応したのは宗史郎だった。
彼は素早く北里に肉薄し、疎らな通行人から見えない角度になるようにさり気なく自身の身体で隠しながら、北里の手首をしっかりと握る。
「本気で口には気を付けて。僕、現職の刑事なの」
北里は見開いた横目を、自身とあまり身長の違わない宗史郎へ向ける。北里と視線が絡んだ宗史郎は、目の笑わない笑顔を返して、懐から警察手帳をチラリと覗かせた。
「疑うならあとでちゃんとお見せするよ。でも忘れないで。僕の前でする一挙手一投足がどう君に影響するかは分からない。言い掛かりに近い罪状で逮捕されたくなかったら、僕の機嫌は損ねないことだね」
「な、ッ……」
唖然とした北里の顔は、瞬きの間に元の醜悪な微笑に戻る。
「……ねぇ、それって脅迫罪に当たらない? 千明君が言ってたけど、刑法二百二十二条、だったっけ?」
しかし、宗史郎も負けていない。鼻先で笑い返した。
「釈迦に説法、って言葉、知ってる? それに君に心配して貰う筋合いはないよ。君が逮捕されたあと、僕がどうなろうと君が知ったことじゃないはずでしょ?」
その言葉を向けられたのでない緋凪も、内心ゾッとした。つまり、宗史郎はこの件が上に知れて解雇になろうと構わない、と宣告したのと同じだ。
ただ、無茶な逮捕をするまでは間違いなく宗史郎は現職の警官である。それが尚更恐ろしい。
保身を考えない人間の攻略法は、狂人でも分からないに違いない。
北里も同感だったらしい。醜悪な余裕に歪んでいた表情が、苛立ったそれに変わり、彼の口から舌打ちが漏れた。
「……何が君の気に障らないかなんて、どう判断するのさ」
悔し紛れの文句に、宗史郎は少し北里から身体を離すと、再度にっこりと笑ってみせる。
「簡単だよ。僕の大事な緋凪君に危害を加えなければ済む。精神的にも肉体的にも、彼の社会的名誉にもね」
「はあ? もしかして君と千明君て恋人だったりするの? まぁ無理ないけどね、下手な女の子より美人だし、彼」
「後半、すべての女性にも緋凪君自身にも侮辱だよね。個人的にはそれだけで充分、逮捕実行案件だけど……」
逮捕実行、と聞いた途端、初めて北里がギクリと身体を強張らせた。現行犯でなければ逃げ切れる案件でも、現役刑事が目の前にいたらどこまで誤魔化せるかは未知数だからだろう。
その様子を見ながら、宗史郎が小さく笑って続ける。
「それに恋愛的な意味合いなら、僕には緋凪君と出会う前からほかに好きな人がいるから、君の憶測は残念ながらハズレだ。けど、僕は緋凪君を弟同然に思ってる。血は繋がってないけどね。二度も兄弟を失わない為なら何でもするよ。それこそ、警察官生命を懸けても惜しくない」
「……あの、椙村さん」
すると、それまで黙って成り行きを見守っていた由貴代が、しびれを切らしたように口を開いた。
「プライベートで遊びに来たならもう帰りましょうよ。それでなくても例の保険金殺人事件の調査で忙しいのに……」
「言ったはずだよ。それに関連するかも知れないって」
宗史郎が穏やかに、だがピシャリと返すと、由貴代は不満げな表情ながらもまた沈黙する。宗史郎より明らかに若いところを見ると、警官としても後輩なのだろう。
「さて、ここからは刑事として正式にお訊きします」
ようやく北里の手を離した宗史郎は、今度は通行人の目を気にせず、堂々と警察手帳を取り出した。
「所轄一課の刑事で、椙村と言います」
由貴代が続けて、「同じく、白峰です」と警察手帳を掲げて見せる。彼女が手帳をしまう間に、宗史郎が言葉を継いだ。
「北里功也さん。あなたは、五年前に殺害された清宮克典さんの事件について、本当の犯人を知っていると仰ったそうですね」
「……まあ……」
北里は、完全に及び腰になった。
そして、恨めしげに緋凪に目を向ける。
「どういうことなの、千明君。僕との話、何で刑事さんが知ってんのさ」
緋凪は、クッ、と嘲るように喉で笑って肩を竦めた。
「誰にも言うな、なんて口止めはされた覚えないぜ? それに宗史郎も言ったけど、ソイツは『刑事』である前に俺には兄貴みたいなモンだ。未成年者たるもの、その日あったこと、身内年長者に報告すんのは義務だろ?」
「聞いたことないよ、そんな義務!」
「北里さん」
宗史郎が、緋凪と北里の間を遮るように身体ごと滑り込む。
「もし本当に清宮さんの件で誤認逮捕があったとしたら大変なことです。それに酷似している事件が、今まさに捜査進行中だ。真相を暴く為にご存じのことがあれば、どうかご協力をお願いします」
静かに、だが冗談混じりの反論を許さない声音で言われた北里は、これまでに見たことのない表情で唇を噛んでいる。
本当に現職の刑事が絡んでくるなど、完全に想定外だったのだろう。
「どうなんです。本当に真犯人をご存じなんですか?」
北里は舌打ちを一つすると、「知らないよ」と忌々しげに答えた。どうやら、ゴシップ記事を作りたいが為のハッタリだったらしい。
「じゃあもう、あなたは僕に用はないはずだよね。これで失礼するよ」
「いいえ、まだです」
きびすを返そうとする北里の上腕部を、宗史郎が素早く捉える。緋凪もさり気なく退路を断つべく、北里の帰り道正面へ回り込んだ。
「それならそれで、別件であなたを逮捕します」
「別件ん?」
思う様、北里が眉根を寄せる。
「そうです。片瀬志和里さんへのストーカー規制法違反と脅迫罪容疑です。被害者からの証言も採れていますし、参考程度の証拠能力ではありますが、ICレコーダーで録音された音声から、彼女を脅迫していることも証明されていますから」
「そんな……志和里チャンにストーカーなんてしてないよ。僕は彼女に恋愛感情は一切ないし、ヘンな行為をしようとしたわけでもないし」
「恋愛感情がなくても、本人の意思に反して付き纏えば、ストーカー行為は成立します」
「脅迫もしてない。当然の取材交渉だ」
「録音を聞く限り、彼女は嫌がっていました。脅迫されて恐怖を感じているそうです。本人からも証言が採れていると先刻申し上げましたが」
「志和里チャンは犯罪者の娘だよ? それを庇うの?」
「緋凪君も説明していますから繰り返しになりますが、本来、親の罪状と子どもは関係ありません。世間一般には、犯罪者の親族を不当に迫害することで処罰して当然という理不尽な勘違いが浸透しているようですが、親の罪状に関係のない子どもや、ほかの親族の生活を侵す権利は誰にもない。署までご同行ください」
「ああーっ、待って待って!」
ストップを掛けるように、北里は宗史郎に対して掌を突き出した。そうしながら、グルリと周囲を見回す。
だが、宗史郎と対面する方向では、緋凪がすでに退路を断っており、両隣には朝霞と由貴代がいつの間にか陣取っている。加えて、四人全員が揃いも揃って何らかの武術をたしなんでいるものだから、いくら北里自身が空手と合気道の有段者でもそう簡単に隙は見つけられないらしい。
「何を、待てばいいんです?」
うっすらと笑みを浮かべた宗史郎が、一歩分、北里に距離を詰める。
北里は唇を噛んだ。何を考えているのか、外側からでは推し量れない。
「……分かった、言う。言うよ」
「何を?」
「志和里チャンのママンの件だろ。本当の犯人を教える」
「先ほどは知らないと仰ってましたが?」
「知ってるよ!」
「どっちが本当だよ」
呆れた緋凪は投げるように問う。言葉も表情からも、彼の場合、考えていることの正否がまったく読み取れないのだ。
北里は緋凪のほうをチラと見て、宗史郎に視線を戻す。
「だから……その代わり、今から何を見ても見なかったことにして欲しい。それが守られるなら、事件解決に協力する」
「どういう意味です?」
「先に約束してよ!」
「内容が分からないのにできるわけないでしょう。そんなの、物々交換するのに、その交換する『物』を知らずに商談に応じるようなものだ。仮に相手が出してきた『物』が箸にも棒にも掛からないよーな粗悪な商品だったら、あと出しジャンケンより質悪いと思いませんか?」
「約束が得られないなら商談は不成立だね。僕はこのまま帰らせて貰う」
「取引ができないなら、あなたには逮捕されるべき罪状が残るだけだ。署までご同行を」
宗史郎のほうを向いている北里の表情は、緋凪には見えない。代わりに、北里の手がきつく拳を握っているのが分かる。
白旗を揚げるかと思いきや、北里はまだ食い下がった。
「……司法取引ができるはずだよね、今の日本は」
直後には、宗史郎の眉尻がピクリと震える。
「……つまり、あなたが持つ『物』は、それほど警察にとって旨味のある情報だと?」
ようやく突破口を掴んだと見たのか、北里の口調には余裕が戻った。
「解決したいんでしょ? 志和里チャンのパパの事件と、今あなた方が追ってる、伊奈西一乃が加害者になった事件。内容を見れば繋がってそうなのは、小学生にだって分かると思うけど」
どういう情報網を持つのか、捜査状況を知っているようだ。彼が、一乃の件でまっすぐに瑞琉の住所を訪ねて来たことからも、それは明らかなのだが――。
「――分かりました。いいでしょう」
「ちょっ、椙村さん!」
暗に条件を呑むと返答した宗史郎に、慌てて由貴代が待ったを掛ける。
「司法取引なんて、あたしたちみたいな下っ端に判断できることじゃないですよ!」
「この場の責任は僕が取る。いざとなったら白峰さんには害が及ばないようにするから口出ししないで」
普段はおっとりとして見えるが、宗史郎が意外に強かな面を持つ青年であることは、緋凪もよく知っている。眉根を寄せて、由貴代を見た。
「やめとけよ。言い出したらコイツ、梃子でも動きゃしねぇんだから、止めるだけ労力の無駄だぜ」
「でもっ」
「同感。あたしもそう思う」
お手上げ、と示すように、朝霞も肩を竦めて両手を軽く挙げた。
「もっとも、凪君に言われちゃおしまいだけど」
「どーゆー意味だよ」
「言葉通りよ」
「じゃ、話は纏まったのかな?」
見る者の神経を逆撫でするような笑顔を浮かべて、北里がその場を睥睨する。その目と視線が絡んだ青色の瞳からは、急速に温度が失われた。
その冷え切った瞳の持ち主が、静かに口を開く。
「……宗史郎」
「何」
「移動する前にコイツ、一発ぶん殴っていい?」
表情の殺げた顔で、パキ、と小さく指を鳴らしながら訊くと、宗史郎も真顔で答えた。
「ごめん。個人としては喜んで許可したいけど、実行されたら暴行の現行犯で逮捕しなきゃなんないから、やりたかったら僕の見てないトコでお願い」
「よーし、お許しが出たぜ」
不敵に唇を吊り上げた緋凪が、掌にパチンと拳を当てながら言うと、「えっ、出たの!?」と慌てたように北里が宗史郎を見直す。
北里の視線の先で、宗史郎は明後日のほうを向いていた。『宗史郎の見てないトコ』というのはこういうことだ。
「白峰さん。君も見てないほうがいいよ。責任かぶりたくなかったらね」
「えっ、あっ、はいっ!」
何だか分からないけど! と由貴代が目一杯顔で付け足しつつ、身体ごとクルリと反転する。その間に緋凪の手が北里の胸倉を掴んだ。
***
「……も~……嘘でしょ、何あれ。絶対冗談だと思ったのに……」
ひとまず歩き出しながら、やや赤く腫れた頬を擦る北里の目が、恨めしげに横を歩く緋凪を見る。それを受け流しながら緋凪は肩先を上下させた。
「反撃するな、とか、躱すな、とは言ってないぜ。てゆーか、空手と合気道の有段者なら絶対避けると思ったのに」
綺麗に一撃入れるのにまんまと成功した緋凪は、少しだけ溜飲を下げていた。
「それはそうと、本当に真犯人を知ってんだろな」
真顔に戻って冷え切った深い青色を向けると、北里はまだ唇を尖らせたまま、「多分って言ってるじゃん」と肩を竦める。
「それより刑事さん。暴行の現行犯じゃないの、これ」
「さぁね。僕はたまたま見てなかったから知らないなぁ。ねぇ、白峰さん」
「ひぇっ? はっ、はいっ」
「……サイテーだね、きょうびのケーサツ」
言われて、由貴代の顔は蒼白になった。彼女は小動物のように震えながら宗史郎を伺うが、当の宗史郎はといえば、堪えた様子もない。
「生憎だけど、君みたいな人の為に振るう警察権力、少なくとも僕は持ってないんだ」
「僕みたいなって」
「弱者をなぶり者にして楽しむような、サイテー以下の人種さ。そーゆーヤツ、人間と思ってないからね、僕は」
クスッ、と漏れた宗史郎の嘲笑は、これも氷点下だ。
「守る価値もないクズは守らない。それでクビになったって万々歳さ。そんなヤツを守って事件隠蔽するなら、それこそ警察の在り方が間違ってるでしょ。それに、僕の態度にどんだけ腹立てたって君は協力するしかないよね。だって協力のネタがなくなったら、逮捕されるべきちゃんとした罪状しか残らないんだもの、君には」
聞く者によっては耳障りとしか言えない、クスクスという笑いを合いの手に、宗史郎は楽しそうに北里を追い詰める。
北里は、しばらく反論を探すように唇を噛み締め、宗史郎を睨み据えていた。が、やがて、盛大に舌打ちして「クソッ、ムカつく!」とだけ吐き捨て、口を閉じてしまう。
いちいち、宗史郎の言う通りだったからだろう。
「で、どこに向かってんだよ」
緋凪たちは取り敢えず、北里の歩くほうへ付いて歩いているが、向かう先は不明だ。
彼曰くの『ムカつく』発言のままにジロリと緋凪を睨んだ北里は、「駅!」と怒鳴るように答えた。
「最初は君とデートのつもりだったからね。適当なカラオケボックスにでも入ろうと思ってたんだよ。でも、急遽予定が変わったからね。僕の別荘に帰る」
「別荘だ?」
「そ。別にリゾートとかのそれじゃないけど、宿泊場所はあるから安心してよ」
「おいおい、まさか泊まれってんじゃねぇだろな」
「嫌じゃなければそうしてくれてもいいよ?」
北里はふと、それまで険を含んでいた表情を和らげる。
しかし、緋凪は「お断りだ」と投げ返した。
「あんたみたいな男の家じゃ、別荘だとしても何されるか分かったもんじゃねぇからな。幸い、俺以外は全員成人済みだから、都条例の未成年者午後八時以降の外出禁止違反は引っかからずに済むし」
自身の背後を立てた親指で示すと、朝霞と宗史郎は苦笑し、由貴代は何とも表現し難い顔で、緋凪とほかの二人の間で視線を泳がせる。
北里は北里で、ムッとした表情に戻り、「どーゆー偏見に満ちた意見だよ、それ」と呟いた。
***
最寄り駅から乗って数駅先で下車し、歩くこと約二十分。
辿り着いたのは高層マンションだった。見たところ、かなりセキュリティも高そうだ。
「……何階建て?」
つい口を突いたという語調で朝霞が呟く。
「二十階」
エントランスへ入った北里が、カードキーを取り出す。
「悪いけど後ろ向いてて」
暗証番号を押す為だろうが、宗史郎は「ごめんね、それは無理」とにっこり笑いながら(但し目は笑っていなかったが)あっさり却下した。
「全員で後ろ向いた途端、逃げ出されたら面倒だから。容疑者から一瞬も目ぇ離さないなんて、犯罪捜査の基本だよ」
北里がまたも思う様顔を顰める。
「……こんな時ばっかり基礎持ち出して」
「心配すんな。あんたじゃないんだから、暗証番号しっかり覚えてたってコソ泥に入ったりしねぇよ」
ポン、と友人にするように彼の肩を叩くと、「だっから、どーゆー偏見に満ちてるわけ!?」と北里が噛み付く。
そんな抗議に対して、緋凪は冷え切った流し目をくれた。
「あんたこそ、どーゆー公正な評価を期待してんだよ。あんたみたいなのが真っ当に扱われるとか思ってる時点で認識間違ってるぜ。あんただってそれ、覚悟の上でハイエナみてぇな生き方してんだろ?」
北里はまたも悔しげに唇を噛み締めていたが、やがて再度思い切り舌打ちを漏らして、カードキーを滑らせた。
©️和倉 眞吹2021.