act.4 第二のスケープゴート
『凪んトコの親父さんたちの件も、あらかた調べはついた。直接の現場は分からねぇけど、玄関から入ってく男が映った防犯カメラ映像は入手できてる。拡大鮮明化で個人特定もできた。角谷成に間違いねぇ』
気持ちが逸るのを抑えるのは難しかった。
できればすぐにでも角谷を捕まえて、両親と同じ目に遭わせてやりたい。
しかし、それを敏感に感じ取ったのか、先に皓樹に釘を刺された。
『でも、言い換えれば今分かってんのはそれだけなんだ。物的証拠も現場の映像もまだねぇ。早まんなよ、凪。先走るとお前だけが今度こそ牢獄行きだぞ、無意味にな』
(……分かってるよ、クソ)
脳内の皓樹に向かって、覚えず舌打ちした、その時。
「あれっ、緋凪君?」
クラブ・セリシールのバックヤードで目立たぬように立っていたつもりの緋凪に、鷹森冴綯が声を掛けて来た。
彼女は、セリシールで働くホステスの一人だ。先日、冤罪を晴らしてやった依頼人でもある。
今日の昼間、カフェ・瀧澤古書店で一度別れたばかりだった。
「どしたの、こんな所で」
言い掛けて、冴綯は声を落とす。
「……もう九時過ぎてるよ?」
「……ガキは家に帰る時間だってか?」
「えっ、うっ、うううん、そういうわけじゃないけど!」
慌てて両手を振る様は、シンプルでいながら豪奢なドレスを着ていなければ、とてもホステスには見えない。
「別に、クラブに遊びに来たわけでも夜遊び目当てでもねーから安心しろよ」
クス、と苦笑いして、緋凪は側頭部の髪をかき上げた。
「ママ、いたら呼んで欲しいんだけど」
「……あー……ごめん。ママ、今ちょっと外してるの」
「外してる?」
緋凪は、かすかに目を見開いた。
クラブと言えば、まさしく夜の城だ。そして、ママはその主である。営業時間はつまり戦争中で、城主が戦の間に城を留守にするなどあり得ないのは戦国時代から変わらないだろう。
「何かあったのか?」
「ちょっとね」
肩を竦めた冴綯は、表情を曇らせる。
「じゃあ、控え室で待たして貰うわ」
言った直後、「ただいまー」という声と共に、瑞琉がスタッフ通用口から入って来た。
「あら、凪君」
緋凪を認めた瑞琉が、目を丸くする。
彼女は、幼い女の子を二人連れていた。一人は瑞琉の手に抱かれ、もう一人は、両手で高そうなバッグを抱えている。察するに、瑞琉の荷物だ。
「……随分、小さいホステス候補だな?」
「事情があるのよ。ちょうどよかった、凪君。仕事一つ、頼まれてくれない?」
「……どの仕事だよ?」
緋凪は、気持ち身構えながら問い返す。
「女装でホステスのヘルプは勘弁してくれよ」
「違う違う。残念だけど、女装でホステスはまたの機会にね」
冗談なのか本気なのか、判断し兼ねるセリフと同時に、彼女はまっすぐ緋凪に歩み寄った。「パス」と言って、腕に抱いていた少女を、緋凪に渡す。
反射で抱き取った少女は、すっかり眠り込んでいた。
年の頃は、幼稚園の年長くらいだろうか。閉じた目の大きさは分からないが、幼子特有のふっくらした頬が愛らしい。
「はい、コレ持って、ウチに行ってくれない?」
忙しく言った瑞琉は、もう一人の、小学校中学年くらいの少女からハンドバッグを受け取り、その中から取り出した鍵を緋凪に差し出した。
どうやら、自宅の鍵らしい。
「この子たち、ご飯まだなの。冷蔵庫にあるモノ、適当に使っていいから食べさせてやって。もちろん、便利屋の料金は払うわ」
「分かった」
瑞琉のことだから、あとで説明はあるだろう。そう思って二つ返事で了承すると、なぜか瑞琉のほうが目を剥いた。
「……ホントにいいの?」
「今日は泊めて貰うつもりだったから。こっちも少し、情報が欲しくて来たんだ」
移動途中で、コンビニに寄って購入した、下着と洗面用具を掲げる。瑞琉は、納得したように頷いて、「じゃあ、あとでね」と言うと、一度控え室へ姿を消した。
軽く身支度する為だろう。
「冴綯は、今日からママん所か?」
「うん。嬉しーい。明日の朝食は、緋凪君のお料理が食べられるんだね」
ふふっ、と冴綯が小さく笑った。
「……あんた、朝霞に似てきたんじゃねぇ?」
「そんなコトないよぅ。だって、緋凪君のお料理、ホントに美味しいもん」
「フツーだろ?」
「謙遜しなくたって大丈夫だってば。じゃあ、明日ね」
きびすを返した冴藍が、こちらを向かずに手を振った。
彼女を見送って、その場に残された少女と、自然顔を見合わせる。
「初めましての挨拶は、後回しでいいか?」
腕に抱えた少女を、抱き直すように軽く揺すると、小学生の少女は、小さく頷いた。
***
瑞琉の自宅は、クラブ・セリシールの真上、二階部分にある。
一度、スタッフ通用口から外へ出て、オートロックのエントランスに入った。彼女の自宅は、そこから鍵が必要になる。
自動ドアの内側へ入ると、左手壁面に奥の扉を開くためのキーが設置されている。鍵穴に鍵を差して、暗証番号を押せば、自動ドアが開く仕組みになっていた。が。
「あ、やべ。暗証番号知らねえや」
その気になればこんな鍵でも緋凪なら突破できるが、さすがに小さな少女の目の前では教育によろしくない。
「201だよ」
眠る少女を起こさない気遣いからか、少女が囁くように言う。察するに部屋番号でいいらしい。
「サンキュ。でも、外で言うなよ」
「分かってるよぅ」
そんなコトも分からない赤ちゃんじゃないわ、と言わんばかりに、少女が頬を膨らせる。
苦笑混じりの吐息を漏らして、緋凪は鍵を回し、暗証番号を押した。
開いたドアの向こうに、すぐ現れたエレベーターの箱に乗り込む。二階に着いて、箱から出ると、そこはもう若朔家の玄関のようだ。
「悪い。電気点けてくれ」
眠る少女を起こさないよう小声で頼むと、少女は無言で明かりのスイッチを入れた。
来たことがあるのだろうか。
緋凪は、ここを――というより、瑞琉の自宅を訪れるのは初めてだ。
少女は、勝手知ったる他人の家とばかりに、靴を脱いで揃えると、さっさと廊下を進んだ。
長くはない廊下を抜けると、リビングとダイニングが一緒になったような広い部屋へ出る。広さは、計十畳前後だろうか。
向かって左手奥に、テレビとローテーブル、ソファが設えてある。
普段は一人暮らしの為か、カウンターキッチン以外に食事をとれる所はない。カウンターの前には、足の長い椅子が一つ置いてあった。
右手奥の襖を開けた少女が、無言で手招く。
襖を大きく開いた少女について室内へ入ると、そこは広さ六畳ほどの和室だった。少女は、押入と思しき場所の襖を開け、布団を引っ張り出す。
敷き布団と枕をセッティングしたところで、緋凪は腕に抱いていた少女を横たえた。
枕に頭部を置いて、できる限りそっと、掌を少女の頭の下から抜く。瞬間、彼女がむずかるように顔をしかめた。起こしたかと一瞬ヒヤリとしたが、程なく少女は夢の中へ逆戻りしたようだった。
ホッと吐息を漏らす間に、年嵩のほうの少女が、掛け布団を眠る少女に優しく掛けてやる。
室内の明かりを落として、二人は無言で部屋をあとにした。
「お姉ちゃん。洗面所、こっちだよ」
手洗いうがいしなきゃ、という少女に、緋凪は内心、がっくりと肩を落とした。
大抵の人間が間違えるのだから、無理もない。が、こうも無邪気にあっさりと『お姉ちゃん』などと断じられると、訂正するほうが間違っている気がしてくるのは、なぜだろうか。
荷物を置いている内に、室内から玄関に向かって右手の部屋へ、少女は消えた。そこが洗面所なのだろう。
彼女の後ろについて足を向ける。彼女は、身長の足りない分を踏み台で補い、手洗いうがいと、顔洗いまで済ませていた。
緋凪も手早く洗面を済ませ、リビングへ戻って冷蔵庫を調べる。中には牛乳とペットボトル入りの麦茶と水くらいしかない。
「早い話が何もねぇじゃん……」
中身適当に使って、なんて言うから、ある程度は入っているのかと思っていたのに。
「瑞琉おばちゃん家に来てから、もうずーっとコンビニのお弁当だよ?」
「ずーっとって、お前、いつからこの家にいるんだ?」
「お前じゃないよ!」
反射で叫んだ少女に、「シッ!」と鋭く言って、唇の前に人差し指を立てる。チラと向けられた緋凪の視線の先に、和室の襖があるのに、少女も気付いたのだろう。
自身の両手で口を押さえ、しばらく襖に目を向けている。小さい少女が起き出して来ないのを見て、少女は吐息と共に手を口から離した。
「……お前じゃないよ。あたしには、伊奈西文乃って立派な名前があるんだから!」
小声で叫ぶように、文乃と名乗った少女の視線が、緋凪を睨め上げた。
クリッとした大きな瞳は、利発そうな光を湛えている。まだ丸みを帯びた輪郭の中に、少し上向いた鼻と、ぽってりした唇が、まあまあバランスよく配置されている。
容姿の将来は有望そうだ。
「……そりゃ、失礼したな。俺は千明緋凪だ。よろしくな」
苦笑と共に、手を差し出す。文乃は、小さな手で緋凪のそれを握った。
「で、文乃はいつからここに?」
「先週。お母さんが、……悪いおまわりさんに捕まったから」
下唇を突き出すように尖らせて言うその内容に、緋凪は小さく吹き出す。
「笑い事じゃないよ、お姉ちゃん」
「ああ、悪い。確かに、ケーサツは悪い人間が多いよな」
「そう思う?」
「ああ。何もしてない奴を捕まえたりする、役立たずの集団だ」
「だよねっ!」
興奮すると声が大きくなるタイプらしい。今度はそれに自分で気付いたのか、やはり慌てて両手で口を押さえる。
「で、文乃の母さんは何をしたって、ケーサツは言ってるんだ?」
「……お父さんを殺したんだって」
他人事のように言う文乃の言葉に、緋凪は息を呑んだ。だが、緋凪自身の過去は、文乃に話すことではない。
深呼吸するのを気取られないよう、冷蔵庫の扉を閉めて立ち上がる。
「文乃の父さんをか?」
「うん。でも、あたし、お父さんのコトはよく覚えてないの。五歳の時、お母さんと弥生と、一緒におうちを出たから」
「弥生ってのは、あの子か?」
立てた親指で和室を示すと、文乃は頷いた。
「お父さん、よくお母さんのコト、言うこと聞かないからってぶったりしてたの。だから、お父さんに黙っておうちを出たの。あたしが五歳で、弥生が一歳の時」
いわゆるDV夫だ。何だか最近、似た話を聞いた気がする。
「でも、お父さん、先月急に死んじゃったの。お葬式で初めて顔を見たけど……」
五歳の時までは一緒にいたのなら、厳密には『初めて』ではないだろうが、記憶があやふやになった文乃からすれば、『初めて顔を見た』という認識になってしまったのだろう。
「それが、何で文乃の母さんが殺したなんて話になったんだ?」
「分かんない。ナイショなんだって」
「内緒?」
鸚鵡返しに言うと、文乃はひどく憤慨したように頬を膨らして、また一つ首肯した。
「今日、瑞琉おばちゃんと一緒に、警察に行ったの。お母さんは何もしてないから、返してくださいって。そうしたら、警察のおじちゃんは、ちゃんと調べて、お母さんがやったって分かったから捕まえたんだよって。理由を教えてって言ったのに、ソーサジョウキョウはむやみに話せないんですって、教えてくれなかったの」
(捜査状況、か)
確かに、普通はそうだろう。
便利屋の依頼となるとたまに警察案件もあるから、最終的に事後の話を宗史朗に聞いたりもする。そういう状況が日常だとつい忘れがちだが、よく考えると一般人にそうベラベラと事件の顛末を話すのは、褒められたことではないだろう。守秘義務からすれば、アウトのはずだ。
(大丈夫か、宗史朗の奴……)
他人事ながら、心配になってくる。
だが、緋凪の胸中に頓着なく、文乃は言葉を継いだ。
「でも、おかしいんだよ。だってこの五年間、あたしもお母さんも弥生も、お父さんと一度も会ってないんだよ? なのに、どうやったらお父さんを殺せるの? 離れた所にいる人も、念力とかで殺す方法があるの?」
無論、あるわけがない。もし、そんな便利な方法があれば、今頃緋凪自身が実行しているだろう。
(……でも待てよ。それって)
少し、似ている。志和里のケースと。
彼女も確か、両親が長年別居しており、ある日突然父親が殺害され、その犯人として母親が逮捕されている。父親はDV男で、別居中一度も顔を合わせたりしていない、という点も。
(……いや……でも志和里の場合、一度も会ってないかどうかまで聞かなかったな……離婚調停とかでなら、顔合わせることもあったかも知れねえけど……)
緋凪は、口を開き掛けて、結局言葉を発することなく閉じる。
(離婚調停中だったか、なんて訊いても分かんないだろうしなー……)
チラと向けた視線に、もの問いたげなものを感じ取ったらしい。
「お姉ちゃん」
と文乃が、至極真面目な表情で口を開いた。
「あ?」
もう『お姉ちゃん』呼びが定着し始めている。ナチュラルに返事をしてしまったが、訂正の機を逸した感も、なくはない。
しかし、もちろん緋凪の複雑な胸中を知るわけもない文乃は、無邪気にしたり顔で続けた。
「言いたいコトがあるなら、お口に出してくれないと、あたしには分からないよ? あたし、念力とかテレパシーとか使えないんだから」
「……あー……」
言葉を濁しまくり、緋凪は片掌へ顔を伏せる。
「……取り敢えず、一ついいか」
「うん、なあに?」
「俺さ。男なんだけど」
「へっ?」
ノロノロと掌を顔から外すと、大きな目が、キョトーンと目一杯見開いている。
「だから、男。つまり、お兄ちゃんだ」
「ウソ」
「何でウソだなんて決め付けるんだよ」
「ウソ、だって」
「だって、何だよ」
「言葉遣いはちょっとアレだけど、お姉ちゃんみたいに自分を『俺』っていう女の子のお友達いるし」
「根拠はそれだけか?」
「コンキョって?」
「あー……」
小学校の中学年では、意味から説明しないとダメか。そう思いながら、「確かな理由って言ったら分かるか?」と訊き直す。
「理由……うーん……」
何とか理解したらしい。俯いていた文乃は、これだ、とばかりに顔を上げた。
「お姉ちゃん、お料理ができるんでしょ?」
「今時、料理できる男だっているぜ?」
義理の母親の料理の腕が、いっそ詐欺なくらい残念だったからな、と口に出さずに付け加えて続ける。
「それに、コックさんは男だろ?」
「うー……」
もう反論の手札が尽きたらしい。大いに不満げに、その唇が尖る。
「……本当に、お兄ちゃんなの?」
「ああ」
「そんっなにキレイなのに?」
「……まあ、褒め言葉と受け取っとくよ」
***
その顛末に、深夜二時頃帰宅した瑞琉は、カウンターに突っ伏して、しばらく肩を震わせていた。本当は、爆笑したかったに違いない。
ただ、和室に眠る幼い姉妹をおもんぱかったのだろう。
「……ッッ、あー……お、おかしいっ……もう、こんな時に笑わせないでよ」
クックッ、と笑いの残滓を引き摺る瑞琉に、緋凪は胡乱げに目を細め、冴綯は苦笑している。
「……瑞琉サンが、勝手に笑ったんだろが。で? 程良く肩の力は抜けたか?」
ソファの背に、軽く腰を落とした緋凪は、冴綯の注いでくれた麦茶の入ったグラスを傾けた。
結局、遅い夕食は冴綯に付き添って貰って、コンビニ弁当を買いに行った。未成年の夜歩きは、禁止の時間帯だったからだ。
「笑う前に、冷蔵庫の中身くらいマトモに詰めとけよ。テキトーに使え、とか言うから、フツーに入ってんのかと思ったら」
「あー、ごめんごめん。ナチュラルにそのつもりだったわ」
パタパタと掌を上下に振った春日は、「あー、笑った」と言って、自分のグラスを傾けた。中身は酒だ。
「……でも、変だよね。その……志和里ちゃん、だっけ? 彼女のお母さんのケースと、確かに似てるとあたしも思う」
話を戻したのは、その場にいた冴綯だった。
「もし別に犯人がいるとすれば、同一犯の可能性が高いけど……今はまだ憶測の域を出ねえからな」
吐息を挟んで、「で、文乃の両親は離婚調停中だったのか、ってトコ、瑞琉サンは知ってるか?」と水を向ける。
「……答えはイエスよ」
瑞琉もやっと真面目な顔に戻って、切れ上がった目で緋凪を見た。
「ただ旦那様……慎太郎さんっていうんだけど、彼と一乃ちゃんは、その間も顔を合わせてないわ。慎太郎さんは、確かに一乃ちゃんに、殴る蹴るの暴力を振るったこともあったらしいけど、そういうことはごく稀で、主には言葉の暴力で一乃ちゃんの自立を阻んだり、人間性を否定するようなことばかり言ってた人だったの。だから調停も、弁護士を間に立てて任せてたのよ」
「モラハラ夫って感じだな。話が通じないから顔を合わせたくなかった、ってところか」
「もちろん、それもあったと思う。けど、文乃ちゃんが言った通り、彼女たちは、慎太郎さんに黙って家を出たの。つまり、彼に居場所を知られたくなかったのよ」
「なるほどな」
瞬時、麦茶の水面に目を落とす。
で、と挟んで、瑞琉に視線を戻した。
「その一乃サンが逮捕された理由は、分からないままなのか?」
「夫殺害の容疑ってところ以外はね。凪君。頼んでもいい?」
「ああ。志和里の件と、どうやら繋がってそうだし……」
緋凪は、チラと和室の襖に目をやる。
「……わけ分かんないまま追い回されるガキを増やすのも嫌だしな」
少なくとも、俺の目の前では。
そう、脳裏で付け足して、緋凪は手にした麦茶を飲み干した。
©️和倉 眞吹2021.