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緋凪の理不尽事件ファイル  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
File.2 スケープゴートの求援《きゅうえん》
31/43

act.2 狩人《ハンター》

『――志和里しおりちゃん?』


 学校帰りに見知らぬ男に突然声を掛けられたのは、二日前のことだ。

 その時は、一応友人として付き合っている、重綱しげつな貴子たかこ中川なかかわ幹枝みきえが一緒だった。

 志和里は、いきなり知らない男に声を掛けられた不審感が先に立った。けれど友人二人は、男の容姿に色めき立ったようだ。

『ねっ、ねっ、志和里。誰々?』

『紹介してよーっ!』

 男は、一言で現すと美形だった。緋凪ひなぎとは、別種の美貌だ。

 キリッとした眉毛にはっきりとした顔立ちは、少々濃いが、彫りが深い。明らかに染めたと分かる茶髪には、緩いパーマが掛かっている。それが、生まれつきなのかそうでないのかは分からなかった。

 紹介しろと言われても、志和里も初対面だ。できるわけがない。

 そう言おうとした刹那、男の手が肩に回った。

『志和里の友達かな?』

 もう“ちゃん”が取れて呼び捨てになっている。本当に何なのだろう。

『突然ごめんね。実は僕、彼女の兄なんだ』

『え、お兄さん?』

 目をまたたいたのは、貴子だ。

『そう。今日会う約束してたんだけど、遅いから迎えに来たんだよ。でも、お友達と用事があるのかな?』

『ちょっと』

 一体何を言い出すのか。

 苛立ち混じりの疑問を呈する前に、貴子が黄色い声を上げる。

『やだー、志和里。それならそうと言ってくれればよかったのに』

『ちょっと待って』

 しかし、幹枝までもが、志和里の言葉を『いいよいいよ!』と遮った。

『お兄さんとの先約なら仕方ないじゃない? ほかの子誘って、あたしたちだけでカラオケ行くからさ』

『でも、お兄さんのこと、今度ちゃんと紹介してね!』

『じゃあねー』

 貴子と幹枝は口々に言って、志和里が何を言い返す隙も与えず、足早に去って行った。

『放して! あなた誰? 一体、何なんですか!?』

 遠退く二人の後ろ姿から早々に目を離して、男の手をはじく。

『だから、君の生き別れのお兄さん?』

『ふざけないで! 学校に通報します!』

『いいの? 通報すると、君が困るんじゃない?』

 整った顔が、どこか嫌らしく歪む。

『何言ってるんですか?』

『フツー、不審な男に遭ったら、通報するのは学校じゃなく警察でしょ? それをしないのは、警察と接触したくない理由があるから。だよね?』

 男の言ったことは図星だった。しかし、隙を与えるわけにはいかない。間髪入れずに、志和里はきびすを返す。

『わけが分かりません。とにかく、もう付き纏わないで』

『ツレないコト言わないでよー。ね?』

 志和里を引き留めるように肩を掴んだ男は、耳元に爆弾発言を落とした。

清宮きよみや志和里、チャン?』


***


 彼女(・・)のことは、数年前から知っていた。


 北里きたさと功也こうやはゴシップのフリージャーナリストをするかたわら、整った容姿を生かしたホストのほか、副産物的な便利屋兼情報屋も営んでいた。

 昔から人のアラをほじくり返して、からかうのが生き甲斐だった。そのからかいを記事にするのが仕事になったのは、必然だったと言えるかも知れない。

 仕事の一環で、彼女の母である清宮七和佳(なおか)の事件を追い始めたのもまた必然だった。というより、同業者マスコミに追われて迷惑げな顔をする志和里や親族を追うのが快感だった。

 そういう迷惑げな人間を追うのが功也にとっては仕事の醍醐味で、対象は志和里だけに限らなかったが。

 とにかく、マスコミから姿をくらましていた彼女の行方を、何年か振りに突き止めた。生まれた時の姓で呼んで名刺を渡し、考える猶予を与え、三日後、指定したカラオケボックスに来るように指示した。

 閉鎖空間を取材の場にしたのは、別にやましいことが目的ではない。第三者に聞かれている可能性が否定できない、カフェやファミリーレストランでは、深い所まで話してくれる確率が下がるからだ。

 功也は他人のゴシップと、それを追うことで取材対象の表情がどうゆがむかにしか興味はなかった。記事を書くのは副産物であり、生計の手段の一つでしかなかった。

 それから、志和里に指定した日時までは時間があったので、彼女を毎日見張って過ごした。一歩間違えばストーカーだが、功也にその自覚はない。

 彼の認識からすると、色恋が絡まなければその範疇はんちゅうではなかった。自分は、志和里に恋愛感情など一切ない。よって、功也の理屈からすれば、今自身がおこなっているのは、あくまでビジネスの一環だ。

 志和里の境遇から考えれば、友人にはまず相談するまい。警察も同じくだ。

 他人に相談することなく、彼女の中でグルグル悩んだ挙げ句に、ひとまず会いに来ると見ていた。

 ところが、彼女は功也の接触から二日目、奥まった路地の更に奥にある、カフェ・瀧澤たきざわ古書店なる店を訪れた。

 別に相談ではないだろう。単に彼女が来たかっただけに違いない。

 もっとも、立地が奥まり過ぎていて、功也もこれまで店の存在を知らなかったが。

 しかし、彼女が店に入ってすぐ、“closed”のふだが掛けられたのが妙だった。“closed”の状態になってからも、彼女はしばらく店から出てこなかった。

 敷地のすぐ前で待つこと、約一時間。

 ようやく店の扉が再びひらいた。コロン、とカウベルの音が鳴ったことで、それを察知する。

「じゃあ、帰り道、気を付けてな」

「はい。ありがとうございました」

 知らない声が言い、志和里が答えるのが聞こえる。

 敷地内を覗き込むことはしなかった。先刻、志和里を尾行して来た時も、危うく店員と目が合うところだったのだ。

 敷地から、表通りへの通路となっている路地へ出て来た志和里は、息を呑むようにして立ち止まった。功也がそこに待ち受けていたのだから、まあ当然だろう。

「……やあ、志和里チャン。こんな所で何してたの?」

 にっこり笑うも、志和里はただ無言で功也を睨み据えた。

「……約束は、明日のはずじゃ」

「少し時間があったからね。変なコトしないかって見張らせて貰ってたんだ。どうやら、正解かな?」

 志和里は、明らかに苛立った表情になる。睨む視線は更に鋭くなるが、その場を去ることはしない。

 表通りに出る為の通路に、擦れ違うだけの隙間がないからだ。

「約束の時間まで、あたしが何をしてようと勝手じゃない」

「まあ、そうなんだけどさ」

「用がないなら、退いてください。もう寮に帰らないといけないので」

「送ってくよ。一日早いけど、そのあいだに色々聞かせて貰えると嬉しいな」

「お話するようなこと、何もありません。退いてください」

「あれ、いいの? 君が何も話してくれないと、僕は好き勝手に記事をでっち上げるしかないんだけど」

 彼女の顔が、泣き出しそうにゆがむ。

 しかし、功也は怯まなかった。獲物を追い詰めた、肉食獣が感じる恍惚エクスタシーとは、こういうものだろうか。

 相手を追い詰める時ほど、楽しいことはない。

 だが。

「それって、脅迫か?」

 それまでその場にいなかった声が飛び込んで来て、功也は顔を上げた。

「は?」

 志和里の後ろに立っていたのは、彼女より少し背の高い女性だ。

 ハイネックの白いシャツの上に黒いベスト、黒いボトムにソムリエエプロンを身に着けている。体つきはほっそりとしていて、無駄な肉が一切付いていない。

 しかし、特筆すべきは、その美貌だった。

 シャープな卵形の輪郭の中に、切れ上がった目元と綺麗な鼻筋、薄く引き締まった唇が、品良く絶妙な配置に収まっている。

 うなじを覆う程度の長さの緋色の髪は、日本人離れした容貌の所為か、染髪の不自然さを感じさせない。

 吸い込まれそうな深い青の瞳も印象的だ。

 その美貌を、功也はどこかで見た覚えがあったが、とっさには思い出せない。どこで会ったのだろうか。

(店かな)

 浮かんだ考えは、すぐに打ち消した。

 副業で勤めているホストクラブに来た客なら忘れない。第一、相手は志和里と同じくらいの年齢だ。ホストクラブに来られる客層の年では、明らかにない。

「……なあ、お兄さん」

 けれど、呼び掛ける彼女の声で、功也は思索を中断された。

「名誉毀損罪って、知ってるよな?」

 ゆったりと言った彼女は、志和里の腕を引く。そうして、自身の後ろに庇うように、志和里と功也のあいだに身体を滑り込ませた。

 その挙動には、一分いちぶの隙もない。無駄のない動きとは、こういう動きを言うのだろうという、手本のような動作だ。

「親告罪だけど?」

「確かに。ただ、ほかのマス()ミにも、彼女がその気になれば適用できるだろうな」

「何がいいたいの?」

 わずかに苛立ったように言った功也に、少女は不敵な笑みを浮かべた。かと思えば、ボトムのポケットから名刺入れを取り出す。

 ステンレス製でシンプルなデザインのそれから、中身を一枚、しなやかな指先が挟んで功也に差し出した。

「あんたの名前を訊きたい。ただ、相手に名前訊くのに自分が先に名乗らねぇのは失礼だからな。千明ちぎら緋凪ひなぎだ。大体読み方間違われるから、仮名入りのは準備中でね。今はそれしかねぇから、そこは勘弁してくれ」

 反射で受け取ったそれには、『千明緋凪』と横書きに印字されている。

 職業名は便利屋兼ウェイター。右下には、このカフェの名前・住所と電話番号が記されていた。

「って、ウェイター?」

「何か問題でも?」

 少女が訊ねるのへ、功也は苦笑した。

「刷り直してるなら、ここも直しなよ。女の子ならウェイトレス、だよ?」

「残念。印刷ミスじゃないんだ。俺はオトコなんでね。そこもよく間違われるんだけど」

 肩を竦めて言う少女――もとい、少年に、功也は瞬時唖然とした。

「……勿体ないなあ」

「何が?」

「オトコにしとくのが」

「立派にセクハラ発言だけど、話が逸れるから聞き流す。ほかに言いたいことは?」

 セクハラの訴えを功也も聞き流し、改めて名刺に目を落とす。

「ホームページはないんだ」

「なくたって新規の客には困ってねぇ。たとえば、お兄さんみたいな不躾ぶしつけなのが、あと付いて来たりもするしな」

 クス、と漏れた笑いは、嘲りの色を含んでいるのが功也にも分かった。

「さ、今度はそっちの番だな。お兄さんの名前と職業と、彼女に何の用があってストーカーみたいなことしてたのか、教えて貰おうか」

 重なる予想外、且つ嫌みな態度に、苛立ちが募る。だが、名を教わっておいて――というより、名刺を受け取っておいて自分が返さないのは主義に反する。

 功也は懐から名刺入れを取り出すと、千明緋凪と名乗った少年に、一枚渡した。そこには名前と職業、連絡先となる携帯番号とメールアドレスも記載してある。

 受け取った緋凪は名刺に目を落とすと、「へぇ」と言ってうっすらと笑った。

「やっぱ、お兄さんがキタサトコウヤか。読みは合ってる?」

「まあね。それより、僕の名前はどこで?」

「さあ、ドコデショウ。お兄さんが質問に答えてくれたら、俺も答えるよ。彼女に何の用だ?」

 端が不敵につり上がった口元と対照的に、コバルト・ブルーの目は笑っていない。それが、容貌が整っているだけに、却って恐ろしい。

 こんな恐怖は初めてだ。しかし功也は、それを楽しいスリルと捉えていた。

 今まで、取材対象ターゲットに対して優位でしかなかった自分が、初めてピンチに陥ろうとしている。それもまた面白い。

「君がどこから聞いてたかによるよ。どうせ、立ち聞きしてたんでしょ?」

「まあね。ついでにこんなモノも持ってる」

 緋凪は、懐からおもむろにICレコーダーを引っ張り出した。

「……盗み録りした音声に、法的証拠能力はないだろ」

「仰る通り。ただ、マス()ミのモラルを問うことはできるだろうぜ」

 しかし、功也は相手の主張を鼻先で笑う。

「そんなの、犯罪者の娘にした取材で問えると思ってんの?」

「ああ、思ってるね」

 相手が怯むと思っていた功也は、自分が眉根を寄せる羽目になった。

「あんたが言うところの犯罪者ってのは、彼女のお袋さんだよな?」

 緋凪が、立てた親指で志和里を示す。

「そうだけど」

「最初に言っとくが、彼女のお袋さんは無実だ。一億歩譲って彼女のお袋さんが本当に犯罪者だったとしても、裁断は下ってる。下ってなくても、母親の罪状と娘は関係ない。母親の罪状を口実に娘の生活を壊す権利は、誰にもねぇはずだぜ?」

 気付けば、整った容貌はまったくの無表情になっている。

 ここまで整った顔に無表情でいられると、これまたひどく恐ろしい。それを、功也は初めて知った気がした。

「だのに、あんたらは平気で彼女の生活を侵してる。てめぇでやらかしたことでもないのに、それでフツーの生活に土足で踏み込まれるってどういう気持ちか……ってまあ、説くだけムダだな。あんたみたいなのは、人の痛みに同調する神経が二、三本イっちまってる人種みてぇだから」

 ふん、と鼻を鳴らして、少年はその美貌に不遜な微笑を浮かべる。

「とにかく、ここで俺があんたに要求することは一つだけだ」

「……何だよ」

 十代半ばを越えない少年に気圧けおされているのを感じて、功也は内心、少しだけ焦った。

「二度と彼女に付きまとうな。警告はしたからな」

「……ちなみに、その警告に僕が従う義務はあるわけ?」

「ないって言っちまえばないな。ただ、次にあんたが不当に彼女に付き纏った場合、どうなっても俺は責任持たない」

「それは脅しかい?」

「好きに取れよ。それこそ、あんたはさっき、彼女に対してまったく同じことしたんだ。少しは分かったか? 脅迫される側の気持ちが」

 とっさに言い返せなかった。

 功也は、これまで取材対象に、ここまであらがわれたことはなかった。

 いや、正確に言えば、緋凪は別に取材対象ではない。しかしまさか、ウサギとしか思っていなかった少女に、こんなボディガードが付いているとは想定外だ。

 というより、志和里の交友関係に、こんな少年はいなかった。

「……君に従う義務はない。君だって、僕のビジネスに口を出す権利はないはずだ」

「そう言われたら俺に言えることはないな。ただ、繰り返すけど、警告はしたから。今この瞬間からあとに彼女に手出しする様子が見えたら容赦しない」

「容赦しないって、具体的にどうするつもりなの。そのICレコーダーに録った音声、インターネットででも流すつもり?」

「さてな。この録音したブツをどうするかはいずれ考えるとして、さし当たってケーサツにでも届けるかな。ストーカー被害で」

 答えを聞いて、思わず吹き出した。

「あっはっはははは! バカだねぇ。そんなの防衛策にならないよ! だって彼女、警察とは関わりたくないはずでしょ?」

 嘲るように言うが、緋凪の余裕の表情は崩れていない。

「そっちこそバカか? 俺が何の策もなく、ケーサツに届けるわけねぇだろ」

 落ちた声音が、ヒヤリと功也の首筋を撫で上げる。走った寒気に、背筋をゾクリとさせながら、辛うじて「どういう意味」と口に乗せた。

「さあ? 敵に手の内全部明かしてやるほどお人好しじゃねぇよ。用が済んだらとっとと帰んな。さもねぇと」

 緋凪は言葉の続きを、自身のスマートフォンを示すことで知らしめた。

「……どうするっていうの?」

「実行して欲しいのか? ケーサツ、呼んじまうぜ?」

「呼べば?」

 どうせ、ハッタリだ。

 話の流れから察するに、緋凪も志和里の事情は承知のようだ。ならば、警察を呼んだところで、彼らに有利には働かない。

 だが、緋凪はニヤリと唇の端を吊り上げた。

「じゃ、お言葉に甘えて」

 言うなり、手にしたスマートフォンの画面を操作し、耳に当てる。

(まさか……本当に?)

 冗談だろう。完全な準備不足によるピンチに、思考がフリーズする。

 そのに、「あ、もしもし、俺。緋凪だけど」と緋凪が口を開いた。警察に対する口の利き方ではない。だが、緋凪は、

「目の前に今、ストーカーが一人いるんだよね。ちょっと来て、ケーサツ署までエスコートしてやってくんない?」

 と続けた。

 え、まさか? 本当にまさかなの?

「だーかーらー、そっちに電話する時は、フツーの案件じゃないことくらい、あんただってご存知だろ? いいんだぜ? 俺は別に、今すぐコレを袋に詰めて重石付けて東京湾に沈めに行っても」

「え、ちょっと何言ってんの?」

 疑問は思わず口を突く。

「この上なく本気だけど? このテの人種に掛ける情けって、一マイクロメートルも持ち合わせてねぇって、前にも言ったよな?」

「だから何言ってんの!」

「うるせぇよ、人が話してんのに割り込むなって親に教わってねぇのか。……あー、何でもない。ちょっと無料でしつけをな」

「躾って何の」

 話、と続けようとした瞬間、足が唐突に浮いた。

 何がなんだか分からない内に世界が回り、したたかに背中を叩き付けられる。次いで、胸に何かがのし掛かり、むせそうになった。

 けれど、呼吸をしようとすると胸に乗った何かがそれを押し留める。

「……三度目はねぇぞ。静かにしてろ」

 声音の温度は、最早氷点下だ。深い青の瞳も同じ温度をたたえて、冷然と功也を見下ろしている。

 その美貌が、さっきより遠くに見えた。彼の背景には、暮れ掛けた空が広がっている。

 そこまで認識して、功也は自分が、地面にひっくり返されたことを悟った。

 ようやく口を閉じた功也を見据えながら、緋凪は「ああ、気にすんな。やっと大人しくなったみたいだからよ」と言葉を継ぐ。

「で、来てくれるの、くれないの? くれないんなら、ホンットに東京湾に沈めるぜ? そのほうが世の為人の為だからな」

 電話の向こうにいるのが、誰だかは知らない。

 だが、功也は別に来て貰わなくても構わなかった。それより、早く通話を終えろと念じた。

 功也の望み通り、程なく通話を終えた緋凪は、改めて功也を見下ろす。

 瞬間、功也は反撃に出た。

 素早く胸部に乗っている足を、手ですくうようにして跳ね上げる。不意を突かれた格好になった緋凪は、わずかに身体を背後へかしがせた。だが、無様に倒れ込むことなく、軸足を軽く折り曲げ、バックステップでその場から飛び退く。

 相手が退しりぞいた隙に、功也も跳ね起きた。

 互いに腰を落とした格好で向き合うと、やがて緋凪が「へぇ」と感心したような声を漏らした。

「お兄さん、意外に体術の心得あったりする?」

「見くびらないで欲しいな。これでも空手と合気道は有段者なんだ」

 ジャーナリストというのは、取材と文才が仕事のしゅではある。が、ゴシップを追っていると、時に裏社会の人間とも関わらなければならない。

 護身術か、あるいはそれ以上の体術は身に着けていなければ、下手をするとすぐあの世往きになる。

「確かに見くびってたかも。お兄さんみたいなタイプって、大抵顔と弁舌だけだから」

 クス、と自嘲の笑いを漏らした緋凪は、肩を竦めた。

「分かったら君の思う通りに話が進むっていう考えは捨てたほうがいい。ここで僕を退しりぞけたって、腕尽くじゃ保証はないよ」

「覚えとく。でも、そっちも忘れるなよ。それとこれとは別問題だ。あんたのやってることは、法的にも人間的にも許容されることじゃない」

 功也は、ニッと口許に笑みを浮かべる。ただ、答えなかった。

 そんなことは、功也の知ったことではない。

「じゃ、取り敢えず、今日のトコはおいとましよっかな」

「もうお帰りかよ。残念だな。ケーサツまでの道中で食べる、サンドイッチとコーヒーくらいは付けてやろうと思ってたのに」

「本当に残念だけど、またの機会にご馳走になるよ。でも、納得するまで僕は諦めない」

 それまで緋凪の背後に下がって、成り行きを見守っていた志和里に視線を向ける。

「必ず君に取材して記事にするから。覚えといて、志和里チャン」

 ウィンクしてやると、彼女は怯えたように肩を震わせた。

 スリルはスリルで楽しいが、やはり獲物を追い詰める快感は、こたえられない。

 しかし、きびすを返した功也の背に、「そっちも、もう一つ覚えとけ」と冷えた声が飛んで来る。

「これまでのやり取り、全部録音させて貰ってる。どう利用するかは言わねぇけど、何かあった時の覚悟は済ませとくんだな」

「ご忠告、ドーモ」

 緋凪に背を向けたまま、功也は手を振った。

(面白くなりそうだね)

 クスリ、と小さく笑う。

 路地を出て歩を進めながら、先刻彼から渡された名刺に目を落とす。

(千明緋凪……か)

 彼のことも、少し調べてみる必要があるだろう。

 今回は、ただ狩るだけじゃない取材ハントになりそうだ。だが、面白い。

 想定外のトラブルを攻略していくのも狩りの醍醐味だ。名刺を口許に当てて、功也はまた一つ、微笑をこぼした。


©️和倉 眞吹2021.

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