act.1 スケープゴートの身の上
そのあとは、何が何だか分からなかった。
ただ、管理人が合い鍵を使って鍵を開けると、男たちは室内へ、雪崩を打ったように踏み込んで来た。そうして、眠っていた母を無理矢理起こし、引きずって行ったのを覚えている。
当然、その日は学校へは行けなかった。
その頃、母の稼ぎだけでギリギリの生活をしていた志和里の家にはテレビなどなかった。だから知らなかったのだが、清宮克典、つまり志和里の父が殺された一件は、一部のワイドショーなどでは知られた事件だったらしい。
犯人が逮捕されたとなれば、俄然報道は過熱した。
母が逮捕されたあと、繰り返し母の名と、志和里たちの住むアパートの映像がテレビで流れたようだ。
報道を信じた子供たちは、獲物に群がるハイエナのように志和里をイジメに掛かった。
「わーっ、清宮が来たぞーっ」
「殺人犯の子だーっ」
「オレたちも殺されるんじゃねぇ?」
「怖ぇー!」
主に囃し立てたのは、男子だ。
女子は、大半は見て見ぬ振りをしていた。それまで仲良くしていた子でさえも。
「違う! お母さんは何もしてないもん!」
懸命に母の無実を訴える志和里に、男子は非情だった。
「“違う! お母さんは何もしてないもん!”」
一人が志和里の声を真似て言い、周囲の男子が大爆笑する。
下校の時刻には、校門や帰り道でマスコミが待ち構えていた。志和里のみならず、ほかの児童にも無神経なインタビューを重ねた。
これに、一番最初に音を上げたのは、学校だった。
母の逮捕後、数日もしない内に校長室へ呼び出された志和里は、早々に退学するよう勧告を受けた。
「分かってくれるね。君がこの学校にいると、ほかのお友達にも迷惑が掛かるんだ」
「そんな……」
志和里とて、もうこの学校にいたいとは思わなかった。けれど、素直に辞めてしまうのは、母の、ありもしない罪を認めるようで悔しかった。
「お母さんは……母は何もしていません。信じてください」
しかし、校長は、志和里の言葉など聞いていないように繰り返した。
「分かってくれないか。事実は関係ないんだ。君がここに通い続けるコトで、マスコミが大勢押し掛けて来る。重要なのは、それがほかの児童にとって大変な迷惑になっているというコトなんだよ」
「ひどい! 校長先生こそ、何で分かってくれないんですか? 母は、何もしていません」
すると、彼は今度こそ露骨に迷惑そうに顔を顰める。
「そんなコトは、私やほかの児童には関係ない。君一人が黙って身を引けば、すべて丸く収まるんだ。君というたった一人の児童の為に、ほかの児童を犠牲にはできない。もう君だって事情が分かる年だろう。なぜ聞き分けてくれないのかな?」
直後、ノックの音が、会話を遮った。
「校長先生。清宮さんのお祖母様がお見えになりました」
「ありがとう。通してください」
案内された教師に続いて現れたのは、紛れもなく母方の祖母だった。
「お祖母ちゃん……!」
見る見る視界が曇り出す。志和里は、完全に涙で視界が遮断される前に、祖母に駆け寄り抱き付いた。
「早く、引き取ってください」
苛立ったような校長の声が、背後から続く。
「その代わり、卒業も間近です。当校の卒業生としての資格は差し上げますし、経歴も問題ないように処理します。ですから、一刻も早く、清宮志和里さんにはこの学校から去って欲しいのです」
祖母が、志和里を抱き締める手に力を込める。
「分かりました」
「お祖母ちゃん!?」
志和里は、思わず祖母の胸に埋めていた顔を上げた。
この時の志和里には、この学校を黙って去るということは、母の罪を認めるということにほかならなかった。
だが、祖母は志和里の頬に手を当てて優しく言った。
「大丈夫。祖母ちゃんにも分かってるよ。志和里ちゃんのお母さんは、何にもしてない。悪いことなんて、一つもしてないよ。ただ、分かってくれない人には何を言っても無駄だ」
「お祖母ちゃん」
「行こう、志和里ちゃん。これ以上ここにいたら、志和里ちゃんが傷付くばかりだ。校長先生。どうも、お世話になりました」
志和里の背に手を添え、促した祖母は、校長に頭を下げた。
自身の娘の無実を信じてくれない相手が、孫娘の小学校卒業資格の是非を握っているのが分かっていたからだ。だが、しっかりと皮肉を言わずにはいられなかったようだ。
「阿呆と争うと、その阿呆のところまで自分のレベルを下げることになるんだよ。よく覚えておおき、志和里ちゃん。負けるが勝ち。そういう時もある」
チラと振り返った視線の先にいた校長は、歯噛みしながらこちらを睨み据えていた。
***
そこまで話すと、千明緋凪と名乗った美貌の少年は、小さく吹き出した。
「……ちょっと、凪君」
失礼よ、とひそめた声音でそれを窘める女性の声には、残念ながら説得力はない。彼女も、爆笑したいのを苦労して堪えているのが丸分かりだ。
「……や、悪い。あんたの祖母ちゃん、何つーか……」
結構な女傑だなって、と続けて、緋凪は俯いた。肩を小さく震わせている。笑いが続いているからなのは、明白である。
「……笑い事じゃないんですけど」
あまりに彼らが笑っている時間が長いので、志和里はさすがに気分を害した。
正直なところ、かなり事情が切迫している。ワラにも縋る思いで、先日、悩み相談をしているということを知ったここへ来たのだが、見当違いだっただろうか。
「ああ、悪い。それで?」
先を促すように、緋凪が俯けていた顔をあげる。彼の整い過ぎた美貌からは、先刻と一転、からかうような微笑は消えていた。
「あんたのお袋さんは、結局まだ檻の中か?」
「そんな言い方っ……!」
「じゃ、どんな言い方すりゃいいんだよ。無実だろーが実際にやったんだろーが、入ってることに変わりはないだろ」
「それは……」
言い返しようがなくなって、志和里は唇を噛んで下を向いた。スカートを握り締めた手の甲が、視界に映る。
「ちょっと、凪君は黙っててくれる? 話が進まないわ」
顔を上げると、女性――瀧澤朝霞と名乗った――が、緋凪に厳しい視線を向けていた。その彼女の顔からも、先刻の爆笑寸前顔は、綺麗に払拭されている。
緋凪は無表情なまま、黙って肩を竦めるように上下させた。
それを確認すると、朝霞は志和里に向き直る。
「ごめんなさい、志和里ちゃん。無神経な質問をするようだけど、あなたの依頼を受けるに当たって必要なことだから、単刀直入に訊かせてね。あなたのお母様は、まだ刑務所にいるの?」
「……はい……」
母も、何もしていないと言っていた。
裁判は全部傍聴に行ったから、その流れも知っている。
母が何を言っても、警察も検察も、弁護士でさえ無実を信じてくれなかった。裁判が終盤になる頃には母はすっかり憔悴し、黙秘していた。
それも、母に抵抗の意思があってそうしていたのではない。心が、半ば壊れてしまっていたのだ。
「罪状が明らかなのに、否認と黙秘で逃げたのは悪質だってことになって……でも、初犯って所が考慮されて、最終的に無期懲役が確定しました」
「その後、お母様と面会は?」
「月に一度くらい……」
志和里としては、本音は毎日でも通いたかった。
しかし、現実問題とつき合わせると無理があるのだ。
「じゃあ、その前は?」
「前?」
緋凪に問われて、志和里は顔を上げた。
「ああ。裁判が始まる前だ。面会に行ったか?」
志和里は眉尻を下げて、首を横に振る。自然また、顔は俯いた。
「……会わせて貰えませんでした。母が、否認する限り会えないって。だから、お母さんに罪を認めるよう、君が説得するなら会わせてあげるよって弁護士の先生が……」
「最低だな」
緋凪が、鋭く吐き捨てる。
目を伏せていた志和里は、それに再度弾かれるように顔を上げた。深い海のような、吸い込まれそうな綺麗な瞳と視線が絡む。
「ちなみに、お袋さんの刑が確定したのはいつだ?」
「四年前……でも、逮捕されたのは、五年前です」
緋凪は腕組みして、隣に座った朝霞と目を見交わした。
「……引き受けていいよな、朝霞」
「もちろん。どれくらい時間掛かるかは分からないけど」
二人が、互いに向けていた視線を、志和里に戻す。
「引き受けるぜ。あんたのお袋さんの無実を証明する仕事」
「えっ……」
志和里は、思わず目を剥いてしまった。
すると、緋凪が訝しげに首を傾げる。
「えっ、て何だよ」
「だ、だって……そんな簡単に信じてくれるんですか?」
これまで、誰も信じてくれなかった。
被告の無実を前提に動くはずの、弁護士でさえ。
「じゃあ訊くけど、あんたは嘘や冗談を言いにわざわざここに来たのか?」
「違います!」
志和里は、ブンブンと首を横に振る。
「違う、けど……でも……あの、こういうのって、やっぱりお金も……取るんですよね?」
恐る恐る訊ねると、緋凪は「うんにゃ」と端的に否定した。
「困り事相談に関しては、ウチはボランティアよ」
朝霞も、説明を添える。
「弁護士事務所じゃないし、困り事の相談は、大体来る人皆、切羽詰まってる。費用のことを気にしてたら、問題は解決しないわ」
「そーゆーこと。どーしてもあんたが申し訳ないって思うなら、古本買うなり、ここでお茶するなりしてくれりゃいい。そっちからは気兼ねなく取らせて貰うから」
まだ唖然としている志和里に、「で?」と緋凪がその整った顔を傾げた。
「あんたはどうしたい? お袋さんの無実を証明したいから、話しに来たんだろ? 違うのか?」
「ち、違いません……」
泣き出しそうに歪ませた顔を、俯ける。
「お願いします……弁護士の先生には、このままだと母は一生刑務所暮らしだって言われてます……まだ罪を認めてないから、外に出せないって……」
ギュッと制服のスカートを握り締めて、頭を下げる。
「お願いします! 何とか……母がやっていないってことだけでも証明できたら……」
「安心しろよ。俺らが引き受ける以上、そんな温いところじゃ終わらせない」
「え?」
思わず顔を上げると、視線の先には、獰猛な笑みを浮かべた美貌の少年がいる。
「真犯人捜し出して締め上げて、檻に放り込んでやるよ」
その美貌とギャップのあり過ぎるセリフが、明後日のほうから聞こえた気がした。
***
「あのー……それで、依頼に来ておいてこんなこと言うのもなんですけど……具体的にはどうするんですか?」
やや唖然としていた志和里が、気を取り直すように訊ねる。
「まあ、今日はあんたに対してもうちょっと深いトコまで聴き取りさして貰って、具体的な行動は明日からかな」
「その前に、コーヒーでも飲まない?」
朝霞が言って、じっと緋凪を見た。
「……はいはい、俺が淹れるんスね」
「さすが凪君、話が分かってるぅー」
朝霞が、パチンと打ち鳴らした手を、顔の横に持って行き身体を捻る。緋凪は、それをやや呆れたように見つめ、無言で立ち上がった。
戸籍上の母である朝霞が、家事全般――特に料理の腕のレベルが残念なほど低いと分かったのは、養子縁組みが済んで、一緒に暮らし始めたあとだった。詐欺罪で叩けるのではないかと、緋凪は密かに思っている。
彼女がまともにやれることと言ったら、淹れたコーヒー(もしくは紅茶)をカップへ注ぐことくらいだ。
あとは、出来合いの食事を皿に装うことくらいもできるが、それだけである。
「あっ、あのっ、お金払います!」
唐突に立ち上がった志和里が、慌てたようにあとをついて来た。
「そうか? 催促したつもりじゃなかったのに」
嫌みでなく答えながら、バーカウンターを回る。保温用ポッドに入っていた湯を、細口ドリップポッドに注いで火に掛けた。
店によってコーヒーの淹れ方は異なるだろうが、カフェ・瀧澤古書店ではドリップ式だ。その場合、湯の温度は九十五度くらいが美味しいコーヒーを淹れる為の適温らしい。
サーバーの上にドリッパーを載せ、その中にペーパーフィルターをセッティングする。
準備を軽く終えてから顔を上げると、志和里はどこか困ったような顔をして、上目遣いに緋凪を見ていた。その様は、まるでおたつく子リスのようだ。
苦笑混じりに吐息を漏らし、「分かったよ。じゃあ、コレ」とメニューを差し出した。
「え?」
反射で受け取った志和里は、目を瞬く。
「好きなケーキ選べよ。単品の値段で、今日はコーヒー、サービスで付けてやる。紅茶のほうがよければそっちでもいいけど」
志和里は、瞬時メニューと緋凪の顔の間で視線を往復させた。やがて口元をメニューで隠し、ペコリと頭を下げるときびすを返す。
ここへ持って来た相談が相談だけに、素直に喜びを現し兼ねたけれど、隠すのにも失敗した、といったところだろう。
再度浮かんだ苦笑と共に、手早くコーヒーを三人分淹れる。志和里はヨーグルトケーキを、朝霞がついでと言わんばかりにチョコチップクッキーをオーダーしたので、一緒に盆に載せてテーブルへ戻った。
こちらがコーヒーを淹れる間に、朝霞は小型のノートパソコンを持って来ていた。
「五年前にあった殺人事件って言うと、結構あるわねぇ……志和里ちゃん。お父様の名前、もう一度教えてくれる?」
「清宮克典です」
志和里の答えに、朝霞の指先が素早くキーボードの上で踊る。
「あった、コレね。志和里ちゃん、確か当時、お父様とは別居してたのよね?」
「はい」
「当時の清宮克典の住所は……静岡県内か」
「でも、詳しい住所まではフツー載らないよな」
「フツーはね」
しかし、マスコミという人種はどこからか嗅ぎ付けて来るものだ。
「志和里ちゃんの当時の住所は?」
「千葉です」
お茶請け代わりに持って来た、小さなチョコレートを摘んでいた緋凪は、眉根を寄せた。
「千葉ぁ? 親父さんの住所と離れ過ぎてるじゃねぇか」
少なくとも、パッと行って殺して、さっと帰って来られる距離ではない。
「あたしもそう言いました。父が亡くなった日はおろか、その前もあとも、あたしたちは父と別居を始めてからはずっと会っていません。でも、その時あたしはまだ小六だったし……子どもの証言は採用できないって」
志和里は、コーヒーの入ったカップに、悄然と視線を落とした。それを見ながら、緋凪は内心で舌を打つ。
警察の捜査は、古今東西杜撰なものらしい。
先刻、志和里から聴いたところによれば、彼女の父親は、ある時期から妻と娘に暴力を振るっていたらしい。いわゆるDVだ。だから、妻が夫を殺す動機は充分あると考えたのだろう。
状況証拠だけで立証して、無理矢理起訴してそのまま有罪に持ち込んだに違いない。よくある手口で、犯罪と甲乙付け難い質の悪さだ。
緋凪自身、そうやって前科者に仕立て上げられ掛けた被害者だから、警察の汚いやり口はよく知っている。
けれども、そうやって冤罪者を祭り上げて、解決と見せ掛ける手法には穴がある。真犯人が野放しになる、という穴だ。
そこを、警察はまったく考えていないようだ。でなければ、真犯人に袖の下でも掴まされているのではないか。
「あれ……そう言えば志和里」
「はっ、はいっ?」
なぜか顔を赤らめる志和里に構わず、緋凪は続けた。
「あんた、苗字は“片瀬”だって言ったよな?」
「は、はい」
「それって母方の苗字なのか?」
「いえ……」
彼女は、微かに音を立ててソーサーにカップを置く。そして、伏せた瞼の下で、ウロウロと視線を彷徨わせた。
話すべきか否か、迷っているのだろうか。
それを敏感に感じ取ったらしい朝霞が、口を開く。
「志和里ちゃん。どんな小さなことでもいいから、関係があれば話して貰える? それが、解決の糸口になることもあるの」
志和里は、目を上げて、朝霞の顔を見た。朝霞は、真剣な目をして頷く。
意を決したのか、志和里は「何の……関係もない名字です」とポツリと言った。
「どういう意味?」
朝霞が促すと、志和里は言葉を探すようにして続けた。
「最初……母が逮捕されて、小学校を追い出されたあと、あたしは母方の祖父母と養子縁組みしました。母の旧姓は、“佐江縞”と言います。そのまま祖父母の家へ引き取られて、あたしは地方の全寮制中学校へ入学しました。無実であろうと母の実家である以上、マスコミが押し掛けて来る危険もありましたから……」
「それで?」
「それで……しばらくは平穏に毎日が過ぎていました。そのまま卒業して、付属の高校に行くことも考えていたのに、中三になる直前、マスコミが嗅ぎ付けて……ストーカーみたいに追い回されるようになって」
母親のことが学校中に知れ渡ったのは、当然の成り行きだった。
住まいが寮だったこともあり、学校と寮、両方で続くいじめには早々に耐え兼ねた。居場所を失った志和里は、祖父母に助けを求めようとした。ただ、マスコミを引き連れて行く危険を考えると、祖父母の家にすぐに行くこともできず、進退窮まってしまったという。
「……そのあとはどうした?」
「無我夢中で逃げましたよ。とにかく必死で走って……あの人たち、昼も夜も張り付いてて、いない隙なんてなかったから、正面突破するしかなかったんです」
電話をして祖父母に来て貰うことも危険でできなかった為、強引に振り切り、バスに飛び乗ったらしい。
「そのあと、駅で降りてまたダッシュして……祖父母の家の最寄りに着くまでの乗り継ぎ駅で祖母の携帯に電話して……」
「ケーサツに頼ることは、当然考えなかったわけだな」
念の為に確認すると、「当たり前でしょ!」と叫んだ志和里が、眉尻を吊り上げた。
「ケーサツなんて、この世で最も信用ならない組織の一つなんですから」
「うん分かる」
その場限りの同意でなく、緋凪も頷いた。その気持ちは、痛いほど理解できる。実際にそうなのだ。
弱き民を守る、なんて考えで職務に励んでいる警官は、まったくいないわけではないが、本当に一握りであることを、緋凪は誰よりも知っている。
「で、祖母ちゃんに電話して、そのあとは?」
「そのあとは……とにかくその駅の中で時間を潰して、祖母とは駅の前で落ち合って」
中学とは、話し合いの結果、通学せずに卒業資格を貰うことで折り合ったという。
「でも、祖父母には本当に迷惑掛けました。そのあと、祖父母はその時までいた家から引っ越して」
「あんたは高校受験とか、それまでの勉強はどうしてたんだ?」
「それも吉和司高付属……あ、その時まで通ってた全寮制の中学ですけど。あっちと話し合って通信で。私立だったから、お金さえ払えれば、小学校と違ってそう簡単に金蔓を手放したりしませんよ。自分たちの安全が保障されるならって但し書きも要りますけど」
投げるように言った志和里に、苦笑しながらも緋凪は首を捻った。
「その金って、どこから出たんだ?」
「祖父が、元々大病院の院長だったんで、その辺でどうにか工面してくれて……でも、母の事件があってから、病院も明け渡さなくちゃいけなくなったみたいで」
「今は祖父ちゃんたちはどうしてんだ?」
すると志和里は、眉尻を下げて、今日何度目かで俯いた。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。今の……在学中の角岡女子高に入学が決まる前に、祖父母と何度も話し合って……あたしは気が進まなかったんですけど、祖父母たちがそのほうがあたしの為だからって……祖父母はあたしとの養子縁組みを解消して、あたしの名字を変更する手続きを取ってくれたんです。それで、マスコミの目も誤魔化せるだろうからって」
「それで、“片瀬”姓になったわけか」
「はい……」
「じゃ、祖父ちゃんたちがどうしてるか知らないってのは?」
「連絡を取れば、どこからマスコミに嗅ぎ付けられるか分からないから、もう他人になろうって……それが、祖父母たちが本当にあたしを思ってくれた措置なのか、それとも厄介払いをしたかったのかは分かりませんけど」
自嘲気味に言う志和里に、思わず緋凪は「バカか」と返していた。
「え?」
「前者に決まってるだろ。祖父ちゃんたちが本当にあんたを厄介払いしたかったら小学生の時……いや、違うな。お袋さんが逮捕された時点で実行してるはずだぜ」
あ、という形に開いた口から、声は出なかった。ただ、志和里の目が見る見る内に潤んでいくのが分かる。
俯いた彼女の顔から、ポタリと滴が落ちた。
そこから目を逸らしながら、緋凪は冷え切ったコーヒーに口を付ける。
「……お祖父様たちの消息も、捜しましょうか」
朝霞が言うと、志和里は涙に濡れた顔を上げる。
「……いいんですか?」
「だって会いたいでしょう? それに、お母様の無実が証明されれば、マスコミにだって追われなくなる。他人でいる必要もなくなるわ」
「はい……はい」
何度も頷きながら、志和里は頬を拭った。
彼女は携えて来たデイパックを探り、タオルハンカチとチリ紙を取り出す。顔を背けて鼻をかむと、「失礼しました」と鼻声で言った。
「洗面所、使う?」
朝霞が問うと、「いえ、大丈夫です」と首を振る。
「ところで、もう一つ訊いてもいいか?」
「……何ですか」
「あんたが最初にここに来たのって、確か先週だったよな」
「あ……多分。よく覚えてますね」
「人の顔覚えるのは得意なんでな。で、あんたの面倒事は、昨日今日発生したモンじゃない。友達が一緒だった日や、その翌日を避けたのは分かるとしても、何で今頃ここへ来た?」
「それは……」
出したままにしていたハンカチを口元へ当てて、志和里は目線を泳がせる。
「それは、その……本当に持ち込んでも解決するか分からなかったし……」
「それも嘘じゃないのは分かる。だけど、あんたみたいな経験すると、滅多なことじゃその内容を他人には話せなくなるモンだ。追い詰められて、二進も三進もいかなくなった時以外はな」
緋凪がもし志和里の立場なら、ほとんど見も知らない他人に、事情を迂闊に口外することは躊躇うだろう。解決どころか、助けてくれるかどうかさえ分からないのだから。
その予想を裏付けるように、志和里は眉根を寄せた。握ったハンカチを握り締めた手が、ノロノロと胸元へ下がる。
「俺の見当違いならそれでいい。だけど依頼人に隠し事されると、こっちは下手に動けないこともある。できれば正直に話してくれ」
目を伏せた志和里は、唇を噛み締めた。
伏せた瞼の下で、視線を泳がせているのが分かる。どのくらいか、沈黙を挟んでから、志和里は再度デイパックの中を漁った。
やがて、デイパックから引き出された彼女の手には、財布が握られている。その中から取り出した長方形の紙を、緋凪に差し出した。
受け取ってみると、名刺のようだ。
「“北里功也”?」
真ん中に縦に線が引いてあり、向かって左側に職種と名前、右側に連絡先と思われるメールアドレスが記されている。
職種部分には、“ジャーナリスト”と書かれていた。
「コイツと、何かあったのか?」
「……三日前に、いきなり学校帰りに話し掛けられて……“君のお母さんのことで話がしたい”って」
©️和倉 眞吹2021.