Prologue
十歳の時、突然父が帰宅しなくなった。
母に訊ねても、『仕方ないのよ』と寂しげに笑うだけだった。
どうして寂しげなのか、その時の志和里には分からなかった。
物心つく前後から、なぜか父は、母と志和里に暴力を振るうようになっていたからだ。
父がいなければ、母も志和里も殴られずに済む。志和里はそれが嬉しくて、むしろホッとしていた。
ずっと父が戻らなければいいのに、とさえ思っていた。
コトがそれほど単純でなかった、と気付いたのは、小学校の六年生になった、ある朝のことだった。
***
「いただきます」
その朝も、志和里は小さな声で食事前の挨拶をして、一人で食べ始めた。
母は夜勤明けで、寝室で横になっていた。
それでも、こうして志和里の朝食だけはきちんと準備してくれる。
看護師という職業柄か、一日の原動力となる朝食をおろそかにしてはならない、というのが母の持論だった。
『志和里はまだ小さいんだから、尚更よ?』
小さい、というのは年齢的なモノを指していたのだろう。
とは言え、当時の志和里はそれでも『あたし、もう十二歳よ』と内心でムクレていたが。
サラダの最後の一口を箸で口に押し込み、ココアを飲み干そうとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。
志和里は、眉根を寄せて首を傾げた。
時計の針は、七時半を指している。こんなに早い時分から、一体誰だろう。
ココアを飲み切り、空になっていたトーストとサラダの皿を重ね、その上にやはり空になったマグカップを重ねて立ち上がる。食器を流しへ運ぶ間に、もう一度チャイムが、家人を呼んだ。
(どうしよう)
志和里は迷った。
このご時世、母には口を酸っぱくして言われていることがある。
一人の時、決して玄関に出るな、だ。
『お母さんは合い鍵を持ってるからね。チャイムが鳴っても、絶対出ちゃダメよ』
と。よからぬ企みを持って、ドアを開けさせようという輩も、いるかも知れないからだ。
今、母は眠っていて、出られるのは志和里だけだ。夜勤明けだから、午後から仕事ということはないだろうが、志和里としては今は母を寝かせておいてあげたかった。
しかし、このままチャイムが鳴り続ければ、必然、母は睡眠を妨害されるだろう。
三度、チャイムが鳴るに至って、志和里は意を決した。
食卓にある椅子を持って、玄関へ移動する。扉の前へ椅子を置いて、その上に上がり、ドアスコープから外を窺った。
玄関に立っていたのは、数名の見知らぬ男だ。
怖い、と反射で思う。
(どうしよう)
今度は、違う意味でそう考えた。
これからトイレを済ませて、学校へ行かねばならない。つまり、外へ出なければならないのだ。
普段なら、別にどういうこともない。けれど、今日はドアを開けたら、怖そうなおじさんたちがいる。そこへ出て行かなければならないのかと思うと、衝動的に学校へ、欠席の連絡をしてしまいそうだった。
直後、乱暴にドアを叩かれて、志和里は反射で悲鳴を上げてしまった。
しかし、外の人間も動じずに「すみません」と大声で言った。
「清宮さん、いらっしゃるんですね? 鍵を開けてください」
「嫌です! お母さんがいない時に開けちゃいけないコトになってるから!」
志和里は、必死で叫んだ。
すると、数人の男たちの後ろから、ドアスコープの視界内に知った顔が現れた。
「志和里ちゃん?」
アパートの管理人の女性だ。
「大丈夫よ。この人たちは決して悪い人じゃないの。とにかく、出て来て貰える?」
「でも……」
管理人が、男たちに脅されていないという保証が、どこにあるだろう。
「嫌です! お願いだから帰ってください!」
「警察だ!」
志和里の返答に痺れを切らしたのか、男の一人が声を上げた。
「清宮七和佳に、清宮克典殺害容疑で逮捕状が出ている! 速やかに出て来い!」
その言葉の内容は、十二歳の志和里には理解できなかった。
©️和倉 眞吹2021.