Epilogue
「何だよ、忘れ物でも――」
したのか、と続くはずだった台詞を呑み込む。
扉の向こうから覗いたのは、緋凪と同年代の少女たちだった。内一人には見覚えがある。
「あっ、いたいた! やっほー、緋凪クーン♪」
その一人は、馴れ馴れしくファーストネームで名を呼びこちらへ手を振った。ストレートボブの毛先がピタリと輪郭に張り付いている容貌は凛として見えなくもないが、態度はいかにも軽薄だ。
「……知り合い?」
朝霞が耳打ちするように囁く。
「前に店に一人で来てた。顔見知り程度」
とは言え、ボブの少女にフルネームを教えた記憶はない。
どこで調べ上げたのか、やや背筋に寒気を覚えつつ肩を竦めると、「いらっしゃいませ」と少女たちにぞんざいに声を掛ける。その間に、少女の後ろから、友人なのか二人の少女が続いて入店してきた。
三人とも、紺色のブレザーにチェックのスカート、シャツの襟元には赤いリボンを着けている。確か、この近くにある都立角岡女子校の制服だと記憶している。
「三名サマですか」
「やだもー、他人行儀っ! あたしの名前は重綱貴子だって言ったじゃん。タカって気軽に呼んでよ」
たちまち距離を詰めた貴子は、親しい友人か、下手をすると交際中の恋人にするように緋凪の胸部をポンと叩いた。
「お客様。こちらはホストクラブではありません。そういう待遇をお望みでしたら、来る場所をお間違えです」
うっすらと冷え切った笑みを返してやると、途端に貴子の満面の笑みが固まる。
「三名様ね。どうぞ、こちらのお席へ」
朝霞が微妙な間を取り繕う絶妙なタイミングで声を掛け、空いたテーブルへと三人を案内した。
その間に緋凪は先刻、朝霞と冴綯が購入してきた食材を抱えて厨房へと運び込む。
「……ねぇタカ。こんな見付けにくい店、どーやって知ったの?」
席に着いた途端お喋りに花が咲くのは、女子高生ならではだろう。
「うん……」
緋凪の態度が引っかかったのか、貴子はチラリとこちらへ視線を向けた。それを、彼女と視線がかち合わない視界の中で確認するが、敢えて知らぬ振りをする。
彼女もやがて諦めたのか、緋凪に向けていた視線を友人に戻した。
「こないだの休みにね、偶然見付けたの。あたし、路地裏とかどうしても入ってみたい性分だからさ」
言って貴子はメニューをめくる。
「そしたら本当に秘密基地みたいなお店があるじゃない? もー、ドキドキしちゃって」
「貴子はここでお茶したことあるの?」
「来た日に早速お茶したよ? すっごい美人のバーテンさんまでいて、ホント小説か漫画の世界でしょ」
否応なく入ってくる少女たちの話に、覚えず苦笑する。
確かに、中世ヨーロッパ辺りの、領主の館のような内装の店内は、現実離れして見えるかも知れない。
入ってすぐの壁際にはロマネスク風の暖炉があるが、単なる飾りの為、火は入っていなかった。
手前フロアには、バーのようなカウンター席、壁に沿ってソファ席と、右手奥にテーブルセットが三組設えられている。
その更に奥の部屋が、書庫のような造りになっており、そこに古本が陳列してある。吹き抜けになった二階までは、古書店エリアだ。
「ここカフェなのにバーテンさん?」
ちなみにバーテン、ことバーテンダーとは、酒屋で酒の調合をする人のことだ。
ツッコまれた貴子は、「んっ、まあ、細かいことはいいじゃない」と言いつつ手をパタパタと上下に振った。
「それでタカ。そのバーテンさん、女の人のほう、だよね?」
案内した朝霞も確かに美人の類だ。だが、問われた貴子は、「ううん」と首を横に振った。
「あたしが言ってるのは、今カウンターにいるほう。男の子なの。あんなに美人なのにね」
「男ぉ!?」
甲高い悲鳴のリアクションに溜息が漏れる。最早慣れた反応ではあるので、この年になったらもう半ば諦めの境地だ。
「……うっそ、信じられない。女として自信なくすー……」
「あー、それ同感」
二人は声をひそめてはいるが、ほかに音がしない店内ではあまり意味をなさない。
陰口はちゃんと陰で叩きやがれ、と脳裏でこぼした時、それまで黙っていた少女が、ふと呟いた。
「……『理不尽な困り事、相談に乗ります』……?」
「え、何。どしたの、志和里」
それを聞き付けた貴子が、志和里と呼んだ少女のほうへグイと身を乗り出す。
志和里は、近付いた顔に仰け反りながら、「ああ、ここにね」とその一文を指さした。
残った少女が同じように覗き込み、貴子がもう一度その言葉を読み上げる。
「何なのかな」
「訊いてみたほうが早いよ。すいませーんっ」
まだ注文も決まってないようなのに、貴子は言うが早いか手を挙げて緋凪を見た。
「お決まりですか、お嬢さん方」
敬語だが、どこかおざなりな口調で言いつつカウンターを出て、一応オーダーを書き留めるメモを片手に、彼女たちの着いたテーブルへ歩を進める。
貴子は、気にする素振りもなく、「これこれっ」と言って志和里の手からメニューを奪い取った。
「この『理不尽な悩み事、相談に乗ります』って、どういう意味?」
その一文を示された緋凪は、唇にうっすらと冷え切った笑みを浮かべて見せた。これで頭が空っぽな少女なら、大概静かになるのは経験で知っている。
実際、貴子は押さえ付けられるように口を閉じた。
「言葉通りだよ。日本語、理解できてるか?」
客商売にはあるまじき毒舌回答だが、緋凪は構わなかった。これでうるさく付き纏われなくなれば万々歳だ。客商売だろうが普通の高校生だろうが、付き合う相手を選ぶ権利はあると思っている。
しかし、貴子は意に介した風もなく、むしろ憤慨して言い返した。
「日本語くらい理解できてるよっ! あたしが訊いてるのは、何でメニューにこんなことが書いてあるのってコトで!」
メニューをテーブルに叩き付けた貴子に、緋凪はまた一つ、決して愛想がいいとは言い難い笑いをこぼす。
「だから、言葉通り。理不尽な困り事があったら、相談に乗りますよって」
「例えば、テストの範囲が広すぎて勉強し切れないからヤマ張りよろしくー、とか?」
「それのどこが理不尽なんだよ。ヤマ張らなきゃいけないほど授業が頭に入ってないなんて、自業自得だろ」
身も蓋もない。返す言葉もないのか、貴子は首を縮めた。
それを一瞥して、緋凪は言葉を継ぐ。
「じゃなくて、例えばそうだな。あんたらくらいの年なら、陰湿なイジメに遭ってる、とか」
瞬間、目線が絡んだ志和里は、緋凪の視線から逃れるように目を伏せた。
「イジメの解決なんかするの?」
貴子は、それに構わず質問を重ねる。緋凪は呆れたと言わんばかりの態度を隠すこともなく肩を竦めた。
「だーって今時のイジメって、遊びとかじゃれ合いの延長じゃなくって犯罪だろ」
投げるように言い放つと、貴子と、まだ名を知らない少女が鼻白んだように顔を見合わせた。
「犯罪って……」
「大袈裟だよねぇ、だってたかがイジメって言うか……」
「そうそう。それにそーゆーのっていじめられるほうにも問題あるんじゃ」
「本気で言ってるなら軽蔑するな」
彼女らの言い分を、一刀両断で切って捨てる。
いじめられた経験のない者、あるいはいじめた経験のある者にはありがちな発言だが、『いじめられたほうに原因がある』的な言い分が、緋凪は何より嫌いで赦せなかった。そういうことは、いじめる側の体のいい大義名分であり、彼ら彼女ら本位の『正義』に照らしての『原因』でしかない。
「いじめなんて百パー加害者が悪いに決まってる。第一、ニュースで流れてる内容見てみろよ。金品巻き上げるのなんて恐喝だし、殴る蹴るした挙げ句に死んじまったとか言ったら、暴行致死だぜ。罰ゲームとかほざいて万引き強要したら窃盗教唆だし、自殺に追い込んだら間接的には殺人だ。それでもいじめられるほうが悪いんだから、最悪命絶つトコまで行っても仕方ねぇってのか?」
冷え切った声音で正式な罪名をズルズル挙げてやると、貴子も少女も完全に押し黙り、伏せた瞼の下で目をウロウロさせている。
彼女らにとどめを刺すように、緋凪はあっという間に沸点に達した苛立ちに任せて畳み掛けた。
「それに、大抵オオゴトになるまでガッコもケーサツも動きゃしねぇし、動きゃまだマシなほうで、全力で隠蔽に走るなんて最低最悪な選択する団体もあるからな。ま、そーゆーのに悩んでる奴の駆け込み寺、みたいに思って貰えばいい。信じる信じないは勝手だけど」
じゃ、次は注文決まったら呼べよ、と付け加えて何度目かで肩を竦めると、緋凪はきびすを返す。
その間際、志和里と呼ばれていた少女が、どこか深刻な顔をしているのを、緋凪は見逃さなかった。
案の定、その志和里という名の少女が再度、一人で『カフェ・瀧澤古書店』を訪れたのは、一週間ほどのちのことだった。
©️和倉 眞吹2021.