act.12 ドッペルゲンガーの正体
「冴綯……」
その声で、自分の名の響きを聞いたのは実に四年振りだったが、懐かしいとは思わなかった。
むしろ、もう二度と聞きたくなかった声だ。
階段を突き落とされたあの日以後、実は彼女とは顔を合わせていない。下手をすれば半身不随になるか、死んでいた。殺され掛けて尚、相手を許せるほど、冴綯の心は生憎広くはない。その相手に恐怖を感じないほど、強くもない。
彼女はあのあと、冴綯は自分で階段を踏み外したと言い張ったらしい。真に迫った、冴綯を心配する言葉と共に。
それは、被害者である冴綯の言い分を覆すほどの演技力だったと言えよう。現にその後、冴綯は両親にさえ虚言癖があると思われたくらいだ。
「……よく顔を出せたものね。あたしに罪を着せようとしておきながら」
クス、と吐息を漏らすような笑いと共に言いながら、世綯はゆっくりと背筋を伸ばして腕を組んだ。
「罪?」
「そうよ。高三の二月、登校日にあんたが勝手に階段から転げ落ちた時のコトよ。あたしが突き落としただなんて、よくまあそんな嘘がスルスル口から出たもんね。あたしは落ちそうになったあんたを助けようとしたのに」
「何を言ってるの?」
「挙げ句に、あんたは遼祐さんを殺したのよね。改めて遼祐さんと婚約したあたしが羨ましかったんでしょ」
ただ溜息が出た。言い返す気にもなれない。言葉を、交わしたくなかった。
彼女の一方的な言い分は、聞いていてひどく疲れる。会話をするのは、もっと神経を使う。
いつからこうなってしまったのだろう。
遼祐を奪われた時も、階段から突き落とされた時も、恐怖と恨み、憎しみと悲しみが脳内を渦巻いていた。
今回、会ったらどうしよう、とは考えていなかった。けれど、少なくとも殺され掛けた恨み辛みは口を突いて出てしまうかも知れない、とは思っていた。
だが、彼女を四年振りに前にした今、感じるのは胸の底に澱のように溜まった、微かな疲労だけだ。恐怖も恨み辛みも確かにあるが、もう彼女に何か言おうとは思わない。
愛情の反対は無関心、とはよく言ったものだ。
「ねぇ、見つからなかった? あんたが遼祐さんを殺した証が」
「何のこと」
吐息と共に吐き出した声音は、やはり疲労を含んでいる。
「靴箱の上に、置いてあったんでしょう? 遼祐さんを殺した凶器が」
「じゃあ、続きは署のほうで伺いましょうか」
***
決まり文句と共に、宗史朗がにっこりと笑って世綯の肩に手を置いた。
「なっ、何ですかあなた! セクハラで訴えますよ!」
「ええ、どうぞ。その為にも警察までエスコートしますので」
すっと空いた手を前に差し出す仕草が、妙に様になっている。
この端正な顔立ちの男に、一見紳士的に対応されて、即座に『セクハラで訴える』発言が出る辺り、彼女の安次峰遼祐への想いは本物ということだろうか。
「警察って」
「だって、今あなた、安次峰遼祐氏殺害、及び鷹森冴綯さん宅不法侵入を自供したじゃないですか?」
「はあ? 何のこと?」
世綯が宗史朗に向き直りながら、彼の手を跳ね退ける。
「あたしは冴綯の家になんて行ってないわ。それに、遼祐さんを殺したのは冴綯よ」
「あなたはそれを見たんですか?」
「見たワケないじゃない」
世綯は、両手を広げて肩を竦める。
「じゃあ何であんた、凶器があった場所を知ってた」
緋凪が靴を脱ぎながら言うと、世綯は緋凪に視線を向けつつ口を開いた。
「決まってるでしょ。ニュースで見たのよ」
「ニュース?」
「そうよ。毎日のように流れてるじゃない。すごく猟奇的な事件だって」
「猟奇的ぃ?」
「怖いわよねぇ。冴綯、あんた遼祐さんの左手薬指、切り落として持ってるんですって?」
クスクスと笑いながら、世綯が冴綯に向かって歩く。
「あたしたちの仲を引き裂いといて、あとになってストーカーまでして。左手の薬指を持ってくほど遼祐さんが好きなら、最初から言えばよかったのに。だったらあたしだって、少しは覚悟したわ。フェアプレーであたしかあんたか、遼祐さんに決めて貰う譲歩くらいしたのに」
「続きは署で伺いますよ。さ」
世綯の手を恭しく取った宗史朗が、先刻と同じように玄関へ空いた手を差し伸べる。世綯はその手を払いながら、「気安く触らないでったら!」と叫んだ。
「何なの!? 証拠もないのに犯人呼ばわりして!! あたしは彼のフィアンセだったのよ! 彼を殺すはずなんてないじゃないの!!」
犯人はこの女よ! と世綯が冴綯を指し示しながら続ける。
「あたしが犯人だなんて証拠は何もないわ! 逆にこの子が犯人だって証拠は山ほどあるはずよ!」
「例えば?」
「DNAの一致するモノだって、見つかったんじゃない? それに、防犯カメラの映像だって」
「すべて状況証拠ですよ。それに、さっき僕言いましたよね。あなたは自供したって」
「だから、何のコトよ」
「分かんねぇのか?」
緋凪は、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「もう一度訊くぜ。あんた、何で凶器のあった場所を知ってた?」
「だからニュースで」
「ニュースじゃそんなモン流してねぇはずだぜ?」
「え?」
世綯の微笑が、どこか気味の悪い形で固まる。
「凶器が見つかったのは、今日の午前中だ。たった数時間でマスコミがどうやって嗅ぎ付けるんだ? 仮にそれが可能だとしても、容疑者の具体的な人物像だってニュースじゃ流されちゃいない今の状況で、どうやって凶器のあった場所を推測するってんだ?」
彼女は目を見開いたまま、徐々に表情を強張らせていく。
「加えてご遺体の状況だって、まだマスコミには発表してません。これは確かですよ」
「つまり、凶器のあった場所と遺体の左手薬指が欠損してたってこと、この二つは真犯人しか知り得ない情報なんだよ。俺たちを除けば、な。てゆーか、遺体の状態なんて俺も今知ったけど」
「そんなっ……そんなのっ、誘導尋問じゃない!」
冴綯と同じ顔が、醜悪に歪む。
一拍の間を置いて、緋凪は宗史朗に目線を向けた。
「俺たち、誘導なんかしたか?」
キョトンとした声音で問えば、宗史朗は「ううん、全然」と首を振って、無邪気に笑う。
「彼女が勝手にペラペラ喋ってくれたんだよ。素直でスゴく助かっちゃったな」
「知らない! 卑怯だわ! 不当逮捕よ! いいわ、今から警察に行ってもいいけど、あたしが今言った通りのコト、警察でも素直に喋ると思うの!?」
「いいぜ、別に喋んなくっても」
言いながら、緋凪は懐からICレコーダーを取り出して、婉然と不敵に微笑して見せる。
「ばーっちり録音してあっから」
「そっ、そんな……」
フラリと身体を傾がせた世綯は、突如きびすを返した。
「宗史朗!」
思わず緋凪は叫び、宗史朗は珍しく漏らした舌打ちと共に彼女を追う。ここは九階だ。ダイブでもされたら確実にアウトだ。
しかし、大方の予想を裏切って、世綯は寝室へ逃げ込んだ。彼女を先に追った宗史朗の背中に続いた緋凪が目にしたのは、何かを抱え込んで呟く世綯の姿だった。
「大丈夫……大丈夫よ。遼祐さんはあたしのモノ……たとえ身体が警察にあっても、あなたがあたしのモノだって証だけはあたしの傍にあるわ。大丈夫、誰にも渡さない……遼祐さん、愛してるわ……」
クスクスと耳障りな笑いを合いの手に、世綯は小さな包みに頬摺りを繰り返す。
気が違ってしまったのか、それともその様子さえ演技だったのか。
やがて、応援で駆け付けた警察に笑いながら連行される世綯の姿を、緋凪は険しく歪ませた表情で見送った。
***
「――で、その後寒川世綯は自供したのか?」
「ちょっとヤバいかも。自供って言うか、犯人は彼女で間違いないってことで断定はされたけどね」
数日後。
カフェ・瀧澤古書店店内バーカウンター越しに、緋凪は宗史朗と向かい合っていた。
彼が訪ねて来た時点で、店のドア札は『closed』にして、施錠もしっかりしてある。込み入った話になるのは分かっていたので、部外者に聞かれても後々面倒だ。
「決め手は、科捜研の鑑定結果だよ。被害者宅から出た第三者の指紋が、寒川世綯のモノと一致した。それプラス、君が仕掛けてたICレコーダーの録音だね。まあ参考資料程度の証拠能力だけど。声なんかは鷹森さんと同じに聞こえたけど、声紋鑑定すればちゃんと別人の――つまり、寒川世綯のモノだって断定できるはずだよ」
「じゃ、何がヤバいんだよ」
「刑法三十九条。緋凪君も知ってるでしょ」
緋凪は、無言で眉根を寄せた。刑法第三十九条――心神喪失者の罪は罰しない、あるいは心身耗弱者の罰を減ずると定められた法律のことだ。
「にしたって、寒川が安次峰遼祐を殺した時は、まだ心神喪失者じゃなかっただろ」
「うん、まあねぇ」
宗史朗は、緋凪が出してやったコーヒーを傾けながら言葉を継ぐ。
「その辺はとにかくこれからだね。彼女があの時抱え込んでたのは安次峰さんの欠損した左手薬指だったし、ほかにも彼女の住んでた926号室では、安次峰さんや鷹森さんの隠し撮り写真もかなりの量発見されたしね。それから、多分どっかモグリの探偵か便利屋に依頼したっぽい、二人に関する行動調査書も見つかってる。どういう意図であれ、二人をストーキングしてたことは明白だし、そっちの方面でも彼女の容疑は固まったと見ていいと思うよ」
「じゃあ、寒川世綯の余罪はどうなったんだよ。冴綯の言う通りなら、彼女に掛けられた窃盗の嫌疑も、寒川の仕事だぜ。冴綯の冤罪は晴れるのか?」
「うん。そこは緋凪君、うまく突っついてくれたじゃない?」
「俺?」
「そう。あのあと僕、ちょっと外川警部と話す機会があってさ」
「外川?」
「鷹森さんのトコに押し掛けてた刑事が、二人いたんでしょ? 緋凪君、若いのと中年男って言ってたけど、若いほうは古森巡査で、年輩のほうが外川警部」
「ああ、そう言やいたな、そんなのが」
冴綯の自宅アパート前で会った、忌々しい刑事二人組を思い出す。
「緋凪君に言われて、外川警部も動いてくれたみたいだよ? あの人、昔三課にいたから、そのツテ頼って、逮捕履歴洗ってくれたんだって」
「ふーん。それで?」
「一番最近の鷹森さんの略式起訴が、半年前の置き引き事件だったらしいんだけど、その時に鷹森さんが書いたとされる住所申請書類と、調書のサイン、それから鷹森さん自身の筆跡を鑑定するように科捜研に頼んだんだって。そうしたら、その三種が全部別人の書いたモノだったって判明したワケ。まあもっとも、鷹森さんは冤罪に次ぐ冤罪で、調書へのサインを強要され続けたのがすっかりトラウマになってたモンだから、モノを書くってことができなくなっててね。彼女の直筆の書類を探すのがちょっと大変だったらしいけど」
「ま、それくらいの苦労はして当然だな」
投げるように言いながら、緋凪は洗っていた最後の皿を食器籠に伏せる。
「で、成果はそれだけか?」
訊くと、宗史朗は実に楽しそうに首を振った。
「ううん、おまけが付いてる。置き引きの時に書かれた書類の筆跡と、寒川世綯の筆跡が一致したんだ。だから、過去に遡って、鷹森さんがやったとされる窃盗は全部彼女の仕業だろうって見解になったらしい」
「だとすると、万引き・置き引きで捕まった時に提出された指掌紋って、何で寒川のが採取されてなかったんだ?」
「そこが彼女の巧妙なトコだったみたいでね。現行犯で捕まった時、必ずって言っていいほど、指とか掌に傷があったんだって。さすがに傷口にインクとか、入れ墨するんでもない限りよくないでしょ? DNAの採取と住所申請には大人しく応じてたし、それで病院代払えーとか言い出されてもメンドクサいからって、後日、指掌紋は取り直しって処置にしてたって話だよ。で、訪ねるのは鷹森さん家なんだから、そりゃあ、指掌紋は彼女のしか保存されないよねぇ」
「まあ、一卵性の双子ならDNAは同じだから、指掌紋さえ採られなきゃ、自分に嫌疑は掛からねぇってワケだもんな」
彼女たち――冴綯と世綯が、実は本当に一卵性双生児だったということは、緋凪もあとになって知ったことだ。
「ったく、悪知恵だけは回る女だぜ。で? ケーサツからは、誤認逮捕とか冤罪着せた件への謝罪と賠償金の返済、ちゃんとあるんだろうな」
半ば睨むように流し目をくれると、宗史朗はコーヒーカップへ視線を落とした。
「んー……台本を棒読みするような口先だけの謝罪と、納得行かない額の賠償はあるだろうけど、それ以上は残念ながら期待できないね」
「か――――ッッ、コレだからケーサツって腹立つな!!」
緋凪は、濡れたままの掌を、作業台へ叩き付けた。洗い物が終わっていてよかったという呟きが、脳の隅を掠める。もし途中だったら、皿が一枚か二枚、下手をすると数枚犠牲になっていたところだ。
「冤罪に次ぐ冤罪で彼女がどんだけのモノ失くしたか、分かってんだろな!? 新聞に謝罪広告載せるトコまでは期待しないけどな、退学になった大学と、彼女の養い親んトコにもちゃんと名誉回復の報告くらい、するべきだろ!! それから、今後の当面の生活の保障と、今まで支払った賠償金の全額返済!! 誠心誠意の謝罪も期待しねぇけど、それくらいやれよな!! 冤罪捏造するくらい暇なんだろ、ケーサツ!!」
鬼気迫る端正な美貌から、宗史朗は顔ごと視線を逸らしながらボソボソと言った。
「……うん、ごめん。まったく以て仰る通り。反論の余地なんてゼロ振り切ってマイナスだし、僕が警察組織のトップだったら今君が言ったこと喜んで全部やるけどさ。僕、下っ端だからどうにもなんない」
「む――――ッッかつくぅう――――ッッ!!」
バンバン! ともう二つ作業台を叩く音に、誰かが吹き出す笑い声がかぶった。
「あっはっはっはっ……あー……おかしいー……凪君て、やっぱり依頼人に感情移入するの好きよねぇ。ってゆーか、普段のクールな姿しか見てない人に見せたいわぁ、今の」
クククク、と笑いの発作を引き摺る声に視線を向けると、バックヤードから入って来た朝霞が、カウンターに向かって歩いて来るのが目に入る。彼女の腕には、茶色い紙袋が携えられており、その後ろには買い出しに付き合っていた冴綯の姿もあった。
朝霞の言う所の、“クール”な緋凪の姿しか知らなかったらしい冴綯は、唖然としている。
「クールって……」
「あら違うの? ハイ、明日以降の日替わりメニュー用の食材、買って来たわよん」
「……アリガトウ。っつーか、ちょっと多くねぇ?」
「何言ってんの。味見もしないでお客様に出すつもり?」
「……食いたいんだな、あんたが」
「えーっ、いーじゃなーい。凪君のお料理、美味しいんだもーん」
「だもーん、じゃねぇよ。大体、あんたが料理どころか家事全般碌すっぽできねぇ女だったから、俺がやらざるを得なかったんだろ。そもそも知ってたら、養子になんかなんなかったのに」
「あー、そーゆーコト言っちゃう?」
「言っちゃう。義理でも親子だから、そこは遠慮しねぇ。息子としては菓子作りの一つくらいはできて欲しいんスけどね、オカーサマ?」
「えーっ、何それ。そこ、実のお母さんと比べたりする?」
「悪いけどするね。母さんは、俺が自分のコトだけやってりゃいい母親だったから、左団扇で生活できてたんだけどな」
「もー、いーじゃない。下着は自分で洗ってるもーん」
「当たり前だっ! ンなこと、ドヤ顔で言うなっ! あんた、仮にも血ぃ繋がってない、言ってみりゃ他人の男に女物の下着洗わせる気だったのかよ!?」
「大丈夫よぉ。干してるトコ見られたって、通報される心配だけは絶対百パーないから。凪君、外見は立派に女の子だし」
「あんたなぁ!!」
「ぶっは!」
今度は宗史朗が盛大に吹き出した。
「……宗史朗、てめぇ」
「や、何でもない。笑ったりとか全然っ……」
宗史朗は、その言葉とは裏腹に、忍び笑いを漏らしながら、カウンターに突っ伏して肩を震わせている。
「……上等だ、表出ろ。体力まで女かどうか、その身体でしっかりがっつり確認させてやる」
普段よりオクターブ低く這いずった声を、「あ、あのっ!」という引っ繰り返ったソプラノが遮った。
四人以外に誰もいないカフェの中に、その声は意外なほど響いた。シンと静まり返って、自身に注目が集まった所為か、声を上げた冴綯はウロウロと視線を泳がせる。
「あっ……あ、あたし、そろそろお暇しないとっ」
言いながら、彼女は手に持っていた買い物袋をカウンターに置いた。
「……何だよ。家に帰るのか?」
中身を確認しながら、毒気を抜かれたような声で問う。
事件後、冴綯はそのまま瀧澤家に滞在していた。ホステスの仕事も、急遽休みを貰っていたらしい。と言うより、瑞琉が強引に休むよう命じたのだそうだが。
冤罪は晴れる方向へ動き出したものの、まだ室橋英治の件が、しっかり解決したとは言い難い。冴綯が、彼の思っていた女性と違うというところは辛うじて認識した様子ながら、冴綯に今後近付かないという約束が守られるかは微妙なところだ。
彼が、どこで冴綯を騙った世綯と出会ったのかは、相変わらず謎のままだった。世綯もホステスをしていたらしいから、恐らくはその線だろうが、推測の域を出ない。
「あの変態の件がキッチリ片付くまで、アパートに戻るのは危険だと思うけどな」
言えば、冴綯は「あ、その点は大丈夫」と笑って首を振った。
「ママがしばらく居候させてくれるって。ちょうどアパートの契約も切れるから、もう更新しないでママの所に引っ越して来なさいって言ってくれたから」
「そっか……仕事、続けるのか」
「うん。目標金額に達するまではね」
「目標?」
鸚鵡返しに言うと、冴綯は頷く。
「おかげさまで冤罪も晴れて、前科もなかったコトになったし、もう一度大学受け直そうかと思って」
「へー」
「いいんじゃない?」
会話に加わった朝霞に、冴綯は、はにかんだような笑みを浮かべた。
「だから、その受験資金とか在学中の生活費とか、引っ越しの費用とかの諸々が貯まるまでね。今日もこれから仕事だから、もう行かないと」
「じゃ、僕もそろそろお暇しようかな。鷹森さん、クラブまで送るよ。緋凪君、お勘定」
にっこりと満面の笑顔で言われて、緋凪は真逆に、その整った顔を苦虫でも噛み潰したように歪めた。
「……うまく逃げやがったな」
覚えてろよ、と言いつつ、カウンターを出て、そのまま真っ直ぐ扉へ向かう。
「今日は情報料代わりだ。特別に奢ってやる」
「……槍でも降るの?」
「やっぱり表でやるか、ワンラウンド」
「遠慮するよ」
ありがと、とにこやかに肩を竦めた宗史朗は、冴綯の背中を押してカフェのドアを開けた。
「またどうぞお越し下さいませー」
言ったのは朝霞だ。
緋凪は、鼻息と共に『closed』の札を外して、ドアにきびすを返す。
カウンター下へ札を仕舞うと同時に、コロン、とカウベルの音が響いた。
©️和倉 眞吹2021.