act.9 駆け引き
しつこく鳴り続けるチャイムの音で目が覚めた。
英治は眉根を寄せて、枕元にあるスマートフォンを探る。
(……十時か……)
しかし眠い。
昨日は、何だかんだでベッドへ入ったのは午前二時過ぎだった。
(まったくひどい目に遭ったよなぁ)
あふ、と自然漏れる欠伸を噛み殺しながら、ベッドを降りる。
ピンポーン、とまた一つ、英治を急かすようにチャイムが鳴った。
「あー……はいはい、今行くよぅ……」
相手に聞こえていないと知りつつ、英治はペタペタと音を立てて、裸足のままフローリングの床をインターフォンまで辿り着く。
『はぁい』
英治の住む高級マンションは、セキュリティも高級だ。
インターフォンは、もちろんカメラ付き。そのカメラの前で、ウィンク付きで手を振っているのは、昨日、忌々しい警察の男と共に我が家を踏み荒らしてくれた女だ。
「……君さぁ。どの面下げてウチに来れたワケ?」
相手は女性で、しかもそこそこの美人と来れば、普段は寛容な英治だ。しかし、あの図抜けた美貌の少年の仲間となれば話は別である。
「君、昨日僕に何してくれたか分かってるワケ? まあ、そっちから来てくれたんなら是非もないや。上がってよ。すぐ様ウチのガードマンに来て貰って、少々痛め付けてあげるから」
『あら、いいの?』
「何が」
『生憎、今日はこーんなモノ、持ってるんだけどなぁー』
女がカメラに翳したのは、明らかに録音用のICレコーダーだ。
『昨日、あなたが冴綯ちゃんに言ったこと、そのまま使い回させて貰うね。今はいい時代になったわよねぇー。面倒な手続き踏むより、コレ、ネット上に流しちゃうほうが簡単なんだけどなー。さ、どーするぅ?』
「ひっ、卑怯だぞ! 僕を誰だと思ってる! 脅迫するのか!?」
すると、女の顔からすっと笑みが消えた。
『どの口が言うのかな。あなた、昨日冴綯ちゃんに、そっくり同じことしたのよ? 少しは思い知ったかしら』
冷え切った声音に言われて、英治は歯噛みした。
いくら寝ぼけていたところを不意打ちされたとは言え、よりによってネットにでも流されたらマズいモノを録音されてしまうなんて。
『ねぇ。とにかくここ開けてくれない? 今日はあたしも喧嘩しに来たんじゃないのよ』
女は、片方の手を腰に当てて、空いた手を広げるようにして肩を竦める。
「……分かったよ。でも部屋に着いたらドアの前で五分待ってくれる」
『何で?』
こちらからは向こうが見えるが、向こうからはこちらの姿は見えない。
従って、彼女は英治がまだ起き抜けだということを知らないのだ。
「君たちのおかげで僕、寝たの今朝の二時なんだよ。今も、君のチャイムに叩き起こされたんだ。安眠妨害だよ」
『あら、それはご苦労様。分かったわ、五分ね』
英治は溜息と共に、ロックを解除した。
こちらもとにかく、あのICレコーダーを取り返さなければならない。
急いで適当な長袖ティーシャツとジーンズを身に着け、洗面を済ませる。
部屋まで上がってくるだけなら、五分も掛からない。
しかし、女は英治の指定した五分をきっかり守ったらしく、しばらく部屋のチャイムを鳴らさなかった。
適当に髪を撫で付け、ドアスコープから廊下を確認すると、女が腕組みして立っている。
再度、溜息を吐いて、英治はドアを開けた。
「……どうぞ」
「朝早くからお邪魔しまぁす。もう十時過ぎだけどね」
軽く手を振って、女は上がり込んだ。
喧嘩する気がないが聞いて呆れる。嫌み付きで、どこが“喧嘩する気がない”というのだろうか。あの少年と言い、日本語の使い方を根本的に間違っている。
「……お茶でも淹れる?」
「結構よ。長話するつもりはないし、あんたみたいな変態に出されたお茶なんか飲んだら、変なモノが入ってそうだしね」
「君、いちいち喧嘩腰だね。喧嘩しに来たんだろ、ホントは」
「そう見える?」
「見えるね」
「見えたらごめんなさい」
女は部屋の中ほどまで歩むと、腕組みをしてやはり肩を竦めた。
「座ったら?」
「ううん、いい。早速だけど本題に入らせて。あなた、冴綯ちゃんへの付き纏い、やめるつもりない?」
単刀直入に切り出された内容に、英治は思い切り眉根を寄せた。
「付き纏ってなんかいないよ。僕と冴綯は愛し合ってるんだから」
「でも、冴綯ちゃんはあなたを知らないそうよ?」
「嘘だよ。僕が急にプロポーズしたから、ちょっとびっくりしただけさ」
「じゃあ、あなたが撮ったっていう写真、あたしにも見せてよ」
「君も見たんでしょ。あれは冴綯だ」
女は、無表情のまま目を瞬くと、「そうね」と言って続けた。
「でも、本当に彼女だった?」
「何だって?」
「例えば、そっくりな別人だったって可能性は考えないのかって話よ」
「まさか。双子だって言うなら話は別だけど、彼女は一人っ子のはずだ」
「そうなの?」
「そうだよ。父親は鷹森藍紫、母親は冴由美。兄弟姉妹なし。大学は窃盗を起こしたんで中退せざるを得なかったって。今は勘当中らしいよ」
すると、女は「ふぅん……」と意味ありげに呟いて、目を細める。
「それ、誰に聞いたの?」
「冴綯本人にさ。寝物語にね」
クス、と英治は不敵に笑って肩を竦めた。
「分かっただろ。僕と冴綯はごくごくプライベートな情報を交換するくらい愛し合ってる。彼女も、僕を愛してるからこそ、前科持ちだってコトまで話してくれたんだ」
「じゃ、今振られる寸前なのは何でかしら」
「そんなの分からないよ!」
英治は、先刻の余裕が一転、苛立ちのままに叫ぶ。
「本当に分からない?」
一方、女は、口元を覆うように手を添えて、流し目をくれた。
「じゃ、君には分かるって言うのかい? 冗談だろ。君なんて、冴綯と会ったのは昨日が初めてじゃないのか?」
冴綯と一年以上付き合ってる自分に、敵うわけがない。そう思って唇の端を吊り上げて見せるが、彼女の無表情は崩れない。
「確かに、あたしが彼女と会ったのは、昨日が初めてよ。でも、百歩譲って、あたしが知る冴綯ちゃんが、あんたの言う“冴綯”と同一人物だとしても、別れを言い出した理由は分かる気がするわ」
「何だと?」
「あたしね。昨日あんたのスマホ、拝見してるの。中身、全部ね」
「それがどうした」
「それでも分からないの? あんたのスマホの写真データ、被写体は彼女だけじゃなかったわ」
「だから?」
「それを彼女に見られたってことはない?」
「見られて困るような写真はないよ」
言えば、女は眉根を寄せた。
「本心から言ってるとしたら、処置なしね」
「どういう意味だよ」
「どういうもこういうもないわ。あんた、彼女にプロポーズしたんでしょ?」
「したけど?」
「仮にその相手が、自分以外の女性の、しかもフツーの時に撮ったんじゃない写真を大量に持ってたら、どんな気持ちになるか考えなさい」
何だそんなことか、と英治は呆れた気分で吐息を漏らした。
「別に関係ないだろう。もちろん、冴綯とは結婚を考えてるけど、まだ彼女と結婚したわけじゃないんだから、浮気には相当しないよ」
「でも、そーゆー性癖が籍入れたくらいじゃ変わらないって彼女が思ってたとしても、不思議はないわね」
「それは……」
英治は、初めて言葉に詰まった。「でも」と必死に言うべき言葉を探す。
「本命以外と遊んじゃダメだなんて法律はないだろう。ウチの父だって、母とは最初は結婚してなかったし、独身の間くらい複数の女と遊んだって」
「分かった」
英治の言葉を遮るように、女が片手を揚げる。
「所詮、それはあんたの性癖と考え方と価値観の問題だから、あたしはこれ以上は口を出さない。だけど、あたしは彼女からあんたとの間の問題の解決を依頼されてるの。妥協点を探りたいから、あんたも自分の主張ばかりしないで、譲歩してちょうだい」
「譲歩って」
「あんたは、彼女と結婚したい。この意思には間違いない?」
真剣な女の表情に、英治は迷わず首肯する。
「オーケー。冴綯ちゃんから提示された条件よ。あんたがどうでも彼女と結婚したければ、今付き合ってる女性との関係を全部清算して欲しいって」
「清算って言われても……」
定期的に会っている女性は、今のところ冴綯以外には三人いる。そして、どの女も手放し難いし、結婚後も切れる気は更々ない。
だが、彼女たちと付き合い続けるからと言って、冴綯への愛情を疎かにはしないつもりだった。彼女を正妻とするならば、尚のことだ。
英治の躊躇いを鋭く見抜いたのか、女は冷ややかな視線を向けた。
「もし、彼女たちとの関係を清算できないのなら、このまま別れて、付き纏うのも一切やめて欲しいそうよ」
「そんな、何で!」
「それに、その変態的な嗜好もできれば治して欲しいそうなの。手始めに、データをすべて消して貰いたいって」
「それも無理だよ。本当に籍を入れるまでは」
勢いで言い掛けて、英治はハッと口を噤んだ。
しかし、遅い。その言葉は、女の耳に入ってしまった。
「あーあー、そーゆーコト、言っちゃう? まだコレ、回ってるのに」
女は懐からICレコーダーをチラと覗かせる。
「それ……それを寄越せ!」
見るなりそれを奪い返そうとするも、女は半身になってそれを躱した。目標を失った英治の上半身は、彼女の背後にあったテーブルの上に突っ伏す形で飛び込む。
「断っとくケド、あたしは別にコレをネット上で本当にバラ撒こうなんて思ってないわ。品性下劣なあんたと同じことはしないつもりよ。でも、依頼人である冴綯ちゃんの要望として、あんたの本心を彼女に聞かせることはできる」
「何でっ……何でこんなコトするんだよっ! 僕に何の恨みがある!?」
テーブルに手を突いて、どうにか起き上がりつつ問い質せば、「別に」とあっさり言った女は肩を竦めた。
「恨みなんかないわ。これはビジネスよ。あたしは自分の職務を忠実に果たしてるだけ」
「……分かったよ。いくら欲しいんだ」
「いくらって?」
英治は背筋を正して、女と向き直る。
「どうせ目当ては金だろう。誰にいくら貰って僕たちを別れさせようとしてるのか知らないけど、僕はその倍額……いや、十倍払おうじゃないか。だから、それで冴綯を説得しろ」
直後、女は明らかな侮蔑の表情で英治を見た。
「お金とかそんなの関係ないわ。あんたの言う第三者も存在しない。あんたが今まで出会った女性が全員、金の亡者タイプの人間だったとしたら、あんたにはヒジョーに不幸なことで、あんたに一切の責任はないけど、あたしはたとえ国家予算額を積まれたとしても、あんたみたいな男と添い遂げるくらいなら、死んだほうがマシね」
「何だと?」
「きっと、あたしの依頼人の冴綯ちゃんも同じよ。だから言える。あんたが“冴綯”と呼ぶその女性と、あたしの知る冴綯ちゃんはまったくの別人だわ。顔がそっくり同じなだけのね」
「一体、何を……何を言ってるんだ。何を根拠にそんな」
「あたしね、元は刑事だったの。友人に科捜研の知り合いも何人かいてね。彼女たちに教わって、その知識も少しかじってる。資格を持ってるわけじゃないけど、得意なのは文書と心理学」
英治は、ヒュッと息を呑んだ。なぜかは分からないが、『心理学』と言われた途端、喉元に刃物を突き付けられた錯覚に陥る。
それを察したのか、女は唇の端を吊り上げた。
「その経験から推測すると、あたしが今知っている冴綯ちゃんと、あんたの知る“冴綯”には、どうしても人物像にブレが生じるの。あんたがプロポーズした女性には、あたしは会ったことはないけど、彼女はあたしの知る“冴綯ちゃん”では有り得ないわ」
「そんな……まさか……」
まさか、騙されていたというのか――そんな、まさか。
脳裏で繰り返して、思わずテーブルの上に手を突く。
「だって……だって彼女は一人っ子だ」
「世の中、似てる人間が三人はいるって聞いたことない? 似てるからと言って、彼女たちに血の繋がりがあるかどうかは関係ないわよ」
「嘘だ……」
弱々しく繰り返して首を振る。だが本能は、着実に外堀を埋められていくのを、認識している。
すると、何を思ったか、女は英治に向けて一歩足を踏み出した。
「ねぇ。あんたの愛している“冴綯”の正体に興味はない?」
「……どういう意味?」
「あんたが付き纏っているのは別人なの。あたしたちはとにかく、鷹森冴綯さんに付き纏うのを止めて貰えばそれでいい」
「付き纏いって、だから」
「だから、あんたと愛し合ってるって主張する“冴綯”と、あたしの依頼人の鷹森冴綯さんが別人だと、まずあんたにも分かる形で証明するわ。その為に、あんたの協力が欲しいの」
「何言ってんの?」
混乱はそのまま苛立ちになって、英治は思う様眉根を寄せる。
「君の話は全然分からない。もう帰ってくれる? それと、ICレコーダーの録音データは消去して、もう金輪際僕たちの……僕と冴綯の邪魔をしないで。そうしたら僕も、この先君には関わらない」
「ええ、帰るわよ。あんたが“冴綯”の連絡先を教えてくれればね」
「はああ? 何でそんなコトする必要あるの。第一、君だって冴綯の連絡先くらい知ってるんじゃないの?」
「だから言ってるでしょう。あんたの“冴綯”とあたしの依頼人は別人だって。もちろん、今の時点では推測に過ぎないわ。だから確証が欲しいの。その為にも確認させて」
「君に確認して貰っても、僕にメリットはないよ」
「あるわよ。不要に朝寝を叩き起こされなくて済むようになるわ」
英治は、またも反論を押し戻されたように口を噤んだ。彼女の言葉を、数秒間脳内で反芻したあと、「つまり」と口を開く。
「僕の持ってる冴綯の連絡先を渡せば、金輪際僕たちに関わらないでいてくれるってコト?」
「そうね。先にあなたの要求を聞きましょうか。文書にしたほうが後腐れなくっていいでしょう。えっと……」
言いながら、彼女はウェストポーチを探って、冊子になった掌大のメモ用紙とボールペンを差し出した。
「これに書いて。あと、署名と捺印もね」
「面倒臭いなぁ」
「今後もっと面倒臭くなりたくなかったら、今目の前の一瞬の面倒臭さは我慢しなさい。法的に有効ではないけど、言った言わないの水掛け論防止にはなるから」
ピシャリと言って、女は殊更紙とペンを押し付ける。
英治は渋々受け取って、椅子を引いた。
***
「おや、鷹森さん。今お帰りですか。今日は随分と遅いことで」
自宅マンション前へ帰るなりそう声を掛けられて、冴綯は思わず顔を顰めた。相手は、所轄の警部・外川忠広だ。
「それとも朝帰りっすか? まあ、もう昼前ですけど……大人しげな顔してよくやりますね」
一緒にいた古森が、憎々しげに侮蔑も露わな表情で付け足す。
「まあ、キャバクラ嬢ですからね。尻が軽いのは仕方ないのかな」
正確に言えば、冴綯はホステスだ。キャバクラ嬢とは、仕事内容が微妙に違う。だが、それを説明する気も起きない。
「……ったく、最近のケーサツは日本語が通じないだけじゃなく、セクハラと侮辱もフツーにやるのか。感心するぜ」
代わりに応酬したのが、今日は一緒にいた緋凪だ。
二人の刑事は、瞬時返す言葉もなく、緋凪に注目した。この美貌の上に、日本人離れした造作だから、彼を初めて見る人は大抵一様に目を瞠る。
着るものに頓着しない――朝霞はそう緋凪を評していたが、それにしてもシンプルな着こなしが却って様になっているのは、美貌のなせる業なのか。
今日も緋凪は、黒の上下に白っぽいインナーを身に纏い、スニーカーを履いている。ウェストには最低限の持ち物でも入っているのか、ウェストポーチがくっついていた。
「無駄にセクハラしに来ただけならとっとと帰れよ。それとも、一人の女をセクハラ紛いにいじめに来るほど、今時の日本警察はおヒマなのか? まあ、それならそれで結構だけどな、平和って証拠だから」
「なっ、何だお前」
「まあ待て」
古森がいきり立ち、外川が手を挙げて宥めている。そんな二人を無視して、緋凪は冴綯に視線を向け、「あんたの部屋、どこだ?」と確認した。
二階の二〇六号室、と短く答えると、緋凪は小さく頷いて冴綯の手を取り歩を進めた。
「まっ、待て!」
「鷹森さん。今日は正式に任意同行をお願いしに来ました」
冴綯たちに続いて階段を上がる刑事たちの足音が、冴綯たちのそれと混じってカンカンと甲高く合唱する。
冴綯も緋凪も口を噤んだまま、自宅前まで進んだ。
冴綯が鍵穴に鍵を差し込むのを阻止するように、外川が尚も「鷹森さん」と声を上げる。
「ご同行願えますね」
「断る」
凛とした、それでいて張りのある声で言ったのは緋凪だ。
「お前には訊いてない」
「彼女がこう言ったとしても、あんたらは無理矢理引っ張る気だろ? 任意って言葉は“意に任せる”って意味だって知らないみたいだからな、きょうびのケーサツは」
緋凪は、冴綯と刑事たちの間を割るように立ちはだかり、顎を引いて彼らを睨み据えた。
普通の一般人なら、この整った美貌で無表情に見据えられたら、たちまち蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまうだろう。が、さすがに現職の警官が相手となると、そうはいかないらしい。
「邪魔をすると、公務執行妨害でお前も連行するぞ」
「あらら、そーゆーこと言っちゃう?」
平然と言い放った外川に、緋凪はやはりその年に似合わぬ冷静さで、むしろこの状況を楽しむように言い返している。
「そーゆーこともどーゆーこともない。お前、確か今執行猶予中の千明緋凪だな」
すると、緋凪が瞬時沈黙した。彼がどんな表情で沈黙しているのか、冴綯には分からない。
しかし、それはほんの数秒だった。
「……執行猶予の意味知ってんのか。三年前、俺はそもそも逮捕はされてないし、取り調べさえ受けてねぇんだぜ」
「すべての状況証拠はお前が犯人だと示している。決定的な物証もあった。イギリス大使館の介入がなければ、今頃お前は恐らくよくて執行猶予、悪くて少年院に収監されていただろうよ」
「あんたたちケーサツとその件で議論する気はない。言うだけ平行線だからな」
彼の声音は徹底的に冷え切り、氷点下になっている。それが自分に向けられたわけでもないのに、ヒヤリとしたものが背筋を伝う。
「おい、冴綯」
「はっ、はいっ?」
底冷えのする温度の声が自分を呼んで、冴綯は思わず肩を竦めた。
「何やってる。鍵は開いたんだろ」
「う、うん」
「じゃあ、早く入って荷物纏めろ。ケーサツはここで足止めしとく」
「なっ、何を言うんだ!」
声を荒げた古森に構わず、冴綯は返事の代わりにドアを開けた。
「ッ、待て!」
古森が、閉じようとした扉を押さえる。
いくら間に緋凪がいたとしても、彼より遙かに上背のある古森は、緋凪の頭上から手を伸ばせば簡単にそれができた。
「そこのそれは何だ!」
鋭く言った古森に、緋凪は彼を阻むことも忘れて振り返る。冴綯も、『それ』とは何だと玄関に目を走らせた。
古森が言った『それ』は、靴箱の上に無造作に置いてあった。こともあろうに、血の付いたナイフ――いや、包丁だ。
有無を言わさず古森は緋凪ごと冴綯を押し退け、包丁を掴み上げる。
「鷹森冴綯。お前は一昨日の夜中、これで安次峰遼祐さんを殺害したんだな」
血の付いた包丁を手に恐ろしい形相で凄まれ、冴綯は顔を歪めて足を退いた。
「そんなっ……あたし、そんな包丁知らないっ……!」
「問答無用だ。安次峰さんのご遺体に、お前の髪の毛が一筋着いていたのも確認済みだ。署まで同行して貰う」
「本当に知らない! その包丁だって、ウチのじゃない!!」
「話は署で聞かせて貰うよ。さあ」
外川も加勢し、その手を伸ばす。
(いつもこうだ)
冴綯の言い分を、いつだって警察は一切聞こうとしない。日本語どころか、人間の言語が通じないエイリアンを相手にしているようだ。
だが、いつもと違って、外川の手が冴綯の上腕部に触れるより早く、それを払い退けた者がいた。
「話を聞くならここでもいいだろ。第一こいつは知らないって言ってる」
外川と冴綯の間に滑り込んだ緋凪の声が、冷ややかに落ちる。
しかし、外川が聞く耳を持つはずもない。
「凶器らしきものが自宅内にあったんだ。もう疑う余地もない。令状も必要ない。現行犯で逮捕できる」
「現行犯の意味、分かってるか? グッサリ殺った現場を押さえたわけじゃねぇだろ」
「じゃあ、彼女の髪の毛が被害者に着いていたのをどう説明する!?」
古森が居丈高に、大上段で振りかぶる。
冴綯の髪の毛という物的証拠が、何よりも彼を自信付かせているのだろう。だが、緋凪は小揺るぎもしなかった。
「その髪の毛、本当にコイツのか?」
彼は背に庇った冴綯に、立てた親指を向けて静かに問う。
すると、外川が「ああ」と顎を引いた。
「彼女は窃盗容疑で何度も送検されている。万引きでも警察に連行されれば顔写真の撮影とDNA、指紋の採取がされて、それは警察のデータベースに保存される。その保存されたDNA型と、被害者の衣服に付着していた髪の毛のDNAが一致した」
「なるほど。それが切り札か」
緋凪が、クッ、と嘲るような笑いを漏らす。それまで平板な顔で相対していた外川も、かすかに苛立ちを顔に滲ませた。
「切り札も何も、事実を言っているだけだ。加えて、現場から見つかっていない凶器がここで見つかった。もう疑う余地はない。よって令状も要らない」
「そいつは強引な言い分だな」
緋凪は言いながら、出し抜けに手を伸ばして冴綯を開いたドアの内に押し込む。代わりにそこに立っていた古森を、彼が手にしていた包丁ごと外へ押し出した。
「何するんだ!」
喚く古森に構わず、緋凪は更に背中で冴綯を自宅の中へ入るよう促す。
「緋凪君」
「五分で支度しろ。終わったらドアを叩け、いいな」
©️和倉 眞吹2021.