act.8 夜明けへの発動
朝霞に頼まれ事を上乗せされた宗史朗が、「朝霞さんの頼みなら喜んで」などとほざきながら署へ取って返してから二時間後、緋凪のスマートフォンが着信を告げた。着信音からすると、通話のほうだ。
残りの洗い物を片付けていた緋凪は、急いで手を拭いてスマートフォンを手に取る。
画面を確認すると、まさしく相手は宗史朗だった。
「メールでいいって言ったのに……」
小さく呟いたのを聞き付けたのか、ダイニングで共に食後のノンカフェイン茶を飲んでいた朝霞が顔を上げる。それに構わず、緋凪は画面をタップしてスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし」
『……緋凪君? ごめん』
開口一番、宗史朗が詫びの言葉を乗せる。
それだけで、嫌な予感が膨らむには充分過ぎた。
「……で? いきなり詫びられる理由を知りたくないような気もするけど?」
『それが……署に戻ったら、彼がいなくなってたんだよね。証拠品諸共』
一瞬、脳内がフリーズした錯覚に陥る。
今、こいつ何て言った?
「いなくなってたって」
『だから、どーも札束ビンタに陥落した人がいたみたい、何人か』
情けない話だけどねぇー、と吹けば飛びそうな呟きに、緋凪は思わず耳に当てたスマートフォンに力を入れてしまった。うっかり握り潰しそうになるのを、辛うじて堪える。
「……念の為に訊くけど、その札束ビンタの主って、例の変態君か?」
『誠に遺憾ながら、その通りです』
「ざっ……!」
ざっけんな! と声量マックスで怒鳴りそうになるが、それこそすんでのところで思い止まる。現在、午後十一時過ぎだ。近所迷惑プラス、宗史朗に怒鳴ってもどうしようもない。それに、冴綯が既に朝霞の寝室へ引き取っているから、大きな声は出せない。
余談ながら、冴綯は瀧澤家へ滞在中、朝霞と共に彼女の部屋で寝起きすることになっていた。
どう返すべきか、決め兼ねている内に、電話の向こうの宗史朗が言葉を継ぐ。
『というか、正確に言うと、札束ビンタしたのは本人じゃなくてお母さんなんだけどね』
「お母さん?」
緋凪は瞬時、眉根を寄せる。
「お母さんって、変態の母親か?」
『そう』
「室橋コンツェルン社長夫人の?」
『そう。彼の生みの母親だね。律子さん』
「金持ちママンの札束ビンタに屈するなんて、今のケーサツ、どんだけ金に飢えてんだよ」
『面目ない。でも、彼女が用意してたのはお金だけじゃない』
不意に、宗史朗の声が真面目になった。意味を察した緋凪は、その美貌を、より険しく歪ませる。
「……金以外ってーと、権力か?」
しかも警察が、正義感だけでは逆らえない種類のそれとなると、自ずと限られてくる。
『そゆこと。室橋コンツェルン社長・室橋敏治だけど、警察組織の上のほうに親しい人がいるらしいんだ。どういう種類の“親しい”かは分からないけど、しょっちゅう金を融通する代わりに、主には末っ子の変態坊ちゃん……もとい、室橋英治氏の罪状をお目こぼしして貰ってたみたい』
「……つまり、今回みたいな不意打ち逮捕でも密告する奴がいて、いち早く対応できる。そーゆーカラクリか?」
『みたいだね。ってワケだから、ホントごめん。データもそっくりお返ししちゃったらしい』
後半は、宗史朗も声に忌々しさが滲み出ている。
彼も、兄が権力者の陰謀で殺害されている所為か、あのテの人種に対する評価は容赦がない。権力者が相手でさえなければ、と思っているのが手に取るようだ。
(どうする)
緋凪は、空いた手を無意識に握り締める。
いくら正義感だけで喚いても、すでに釈放されてしまった事実はどうにもできない。
「……凪君」
沈黙が落ちたところを見計らったように、朝霞が立ち上がり、手を差し出す。スマートフォンを寄越せ、の意だ。
緋凪は、無言でスマートフォンを朝霞に渡した。残念だが、今は自分よりも彼女のほうが冷静だろう。
「あ、宗君? あたし、朝霞。悪いんだけど、凪君と話したコト、簡単にでいいからもう一回話してくれる?」
短い沈黙と相槌を繰り返した彼女は、やがて「そう。状況は分かったわ」と言って言葉を継ぐ。
「じゃ、室橋英治の件は、こっちでどうにかするわ。……大丈夫、考えがあるから。……そう。まあ、見てのお楽しみね」
クス、と笑った朝霞の笑みは、どこか獰猛なものを含んでいる。
「だから、宗君はあと、あたしの頼んだ情報を予定通りこっちに流してちょうだい。……大丈夫よ。由良なら、あたしの頼みは聞いてくれるはずだし。……うん、ごめんね、無理言って。じゃ、連絡待ってる」
「朝霞」
彼女が通話を切る間ももどかしく、緋凪は声を掛けた。
「はい、ありがと、凪君」
朝霞の差し出したスマートフォンを受け取りながら、「どういうことだよ」とせっつく。
「本当にこっちでどうにかできんのか? それに、ユラって誰のことだよ」
「ストーカーの件は、加害者本人ともじっくり話し合うのが一番なのよ、ホントはね。もちろん当人同士で話し合いなんて泥沼化するのが分かってるから、当事者とまったく関わりのない第三者――それも、そっち方面の専門カウンセラーが、代理人として間に入ることが要求されるけど。ストーカーって、加害者は『ストーキングしてる』って自覚がない人が多いのよ。加害者の性別は関係なくね。ましてや今回、彼が付き纏ってる相手は人違いなんだから、それをまず認識して貰いましょ」
「日本語通じんのかよ」
苛立つ気持ちのままに吐き捨てると、朝霞が苦笑する。
「釈放されちゃった以上、通じるまでやるしかないわ。こっちとしては、要は冴綯ちゃんに付き纏うのをやめてくれればいいわけだから」
「さっきは朝霞だって、立派な変態だの女の敵だの言ってたクセに」
「その気持ちは変わってないわよ。あたしだって、本来ならあんな変態に同情するような神経持ち合わせてないし、金と権力尽くで罪を逃れようとする輩にいい感情持ってるわけないでしょ」
「……それは知ってるけど」
朝霞は、元々は緋凪が中学生の頃住んでいた地域の所轄の刑事だった。それが、緋凪の従姉である春生の殺害事件を共に追っていて、不当な辞職に追い込まれた過去を持つ。
朝霞も、人を人とも思わない公権力の犠牲者なのだ――緋凪と、同じように。
緋凪は瞬時目を伏せて、「それで?」と話題を転じる。
「ユラってな、誰のコトだよ」
「高校の時の親友よ。今は科捜研に勤めてるの」
「信用できるのか、そいつ。札束ビンタでコロッとコケたりしねぇだろーな」
「もちろん」
「でも四年前の事件の時は影も形も見たことないぞ」
「同じ所轄じゃなかったからよ。それに、あたしが警察逐われたって連絡したのもつい最近だったし」
揺らがない表情を見て、緋凪は吐息混じりに「分かったよ」と返した。
「室橋英治のことは朝霞に任せる。でも、殺人容疑のほうはどうする?」
室橋英治のスマートフォンのデータから、『冴綯』名義の連絡先を探れなかった以上、手の打ちようがなくなった。と、そこまで考えて、緋凪はハッとする。
弾かれたように上げた視線が、不敵に笑う朝霞のそれと絡んだ。
「そうよ。その解決の糸口さえ、あいつが握ってるの。死ぬほど癪だけどね」
***
与えられた寝床の中で、冴綯は何度目かの寝返りを打った。いくらかは眠ったのかも知れないが、眠りは浅かった。
それはそうだろう。身に覚えのない殺人容疑で、いつ捕まるか分からないのにぐっすり眠れたら、その人物は相当図太い。
潔白ならそう訴えれば済む話かも知れないけれど、冴綯の言うことは、なぜか警察は聞いてくれない。日本語がまるきり通じないのだ。
通じない言語でいくら無実を訴えても、無駄というものである。
英語かその他の外国語なら通じるかしら、なんて、バカバカしいツッコミが頭を過ぎった。
(……無理ね。人間の言語が通じないんだから)
ホントバカみたい、とそっと息を吐いて、枕元に置いてあったスマートフォンを確認する。まだ午前四時過ぎだった。しかし、もう眠れそうもない。
昨夜は七時上がりでいつもより早く帰宅した(とは言っても、帰ったのは瀧澤家だったが)為、必然寝床へ入ったのも早かった。いつもと生活リズムが違ったのも、あまりよく眠れなかった一因だろう。
もう一度寝返りを打って、冴綯はついに夢の中へ戻るのを諦めた。
隣で眠る朝霞を起こさないように起き上がり、用を足しにそっと部屋を出る。
朝霞の私室を出てすぐ、通路を挟んで向かいに、一階の手洗いがある。
裏手でカフェ兼古書店を営んでいる為なのか、それとも母子が元々他人だった為か、瀧澤家の居住空間の構造は大多数の家とは違う。
言ってみれば、二世帯に近い。一階と二階、それぞれに洗面所、バスルームとトイレがある。
用を済ませてトイレの扉を開けると、通路の先にあるリビングのソファに座っていた緋凪と目が合った。
「……よぉ。早いな」
掠れた声で、仕方なくと言った口調で言った彼は、手にしていたペットボトルをソファの前の低いテーブルへ置いた。ダイニングキッチンだけは一階にしかない為だろう。
「……おはよ。緋凪君、いつからそこにいたの?」
「多分、あんたが用足しに行った直後だろ」
それはそうだ。
トイレに立つ前は、確かにリビングには誰もいなかったのだから。
何とも間抜けな質問をしてしまったと、気まずい思いで視線を彼から外した。
「まだ四時過ぎだぜ。もうちょっと寝たら?」
「う、ん……」
言われて、反射で彼の方に顔を向ける。
早暁の薄明かりに透かし見えた彼の瞳が、深い青色をしているのは出会った最初から知っていたはずなのに、今初めて確認したような気がした。
「……ねぇ、緋凪君」
「うん?」
「その……目の色って」
「自前だよ」
答えの素早さが、何だか素っ気なさを感じさせる。触れられたくない部分なのかとも思うが、冴綯自身も疲れからか、相手を気遣うというところまで頭が回らなかった。
「じゃあ、緋凪君ってやっぱりハーフ?」
「クォーター」
「そっか。なら、その髪の色も自前なんだね。四分の一だけ日本人なんだ」
だとすれば、染髪の不自然さがなかったのも納得がいく。しかし、緋凪は冴綯の言い分を否定した。
「いや。髪色は確かに生まれつきだけど、血筋についちゃその逆。四分の三が日本人だよ。母親が日英ハーフだったんでね」
四分の一しか入っていないはずの英国の血が、どういうわけか色濃く見た目に反映されたらしい。DNAの不思議だ。
もう質問はないと見たのか、緋凪は一つ息を吐いて立ち上がる。ペットボトルを手に冷蔵庫へ歩むのを目で追いながら、冴綯は無意識に口を開いた。
「……ねぇ、緋凪君」
「何」
「昨日の……質問、改めてしてもいい?」
「昨日の?」
冷蔵庫のドアを閉じた緋凪が、訝しげな顔で振り返る。その動作に合わせて、癖のない緋色の髪が、彼の首筋を撫でるように滑った。
「その……家庭は荒れてたのかって」
「いや? フツーだったよ。父親はジャーナリストで、母親は主婦兼時々英語関係の仕事してた。フツーと違うのは、母親がハーフだってことと、従姉たちと同居してたってトコくらいかな」
「昨日言ってた……殺されたって子のことよね。『たち』ってことは、その従姉さんのご家族と住んでたんだ」
核家族化している現代に於いて、親のきょうだい家族と同居することは祖父母とのそれより珍しい。
他方、無意識の内に、新たな疑問を提供したことに気付いたのか、緋凪は微かに目を見開いた。
「……まあな」
溜息と共に淡々とした表情で言うと、目を伏せて冴綯の脇を通り過ぎる。
「あ、ねえ!」
思わず高い声を上げて、冴綯は慌てて自分の口に手を当てる。
緋凪の背を追うように、身体を反転させ、低く落とした声音で続けた。
「その……じゃあ、何で朝霞さんの養子に?」
従姉の家族がいたのなら、不慮の事故で両親を亡くしたとしたら、血縁に引き取られるのが普通ではないだろうか。
冴綯としては、素直にそう思っただけだったのだが。
「質問、四つ目か?」
「え」
ピタリと足を止めた緋凪は、今度は振り返らない。
名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
なぜか、今どんな言葉も彼に掛けてはならない気がした。そんな空気に、呼吸すらままならなくなる錯覚に陥る。
「……俺のプライベート詮索するより、自分の心配してろよ。七時には飯にする。それまで寝とけ」
冴綯に背を向けたまま吐き捨てられた言葉には、覇気がない。
彼の声が、泣き出しそうに震えていると感じたのは、気の所為だろうか。
だが、呼び止める術も確かめる言葉も見付けられない内に、緋凪は二階への階段に消えた。
***
「あっらー、随分のんびりなシャワーだったわねぇ。のぼせてぶっ倒れてたらどうしようかと思ってたトコよ?」
うなじより長い濡れたままの髪を纏め上げてダイニングに入って来た緋凪に、朝食の準備中だった朝霞が、どこか無神経とも思える言葉を掛けた。
とは言え、起き出して来てリビングに入るなり、そこで呆然としていた冴綯を朝霞の私室に、一度起こしに行ったはずの緋凪をバスルームに追い立てたのは、彼女自身のはずだ(もっとも、冴綯は彼が追い立てられるところを見てはいないが)。
それに、彼がバスルームに籠もっていたのは、冴綯が身支度を整える時間を差し引いたとしても、ものの三十分程度である。
「……うっせーよ」
弱々しく反論した緋凪の内心は、もう簡単には訊けそうにない。
人の心には、それぞれ踏み込んではいけない領域があるのは分かっている。冴綯自身もそうだ。深く追及して欲しくないことは、やはりある。
従姉や彼自身の家族のことについては、緋凪の不可侵領域なのかも知れない。
だが、迂闊には踏み込めないその傷を、放っておくのもよくない気がする。
高々一日あるかないかの付き合いだし、どうしてそう思うのかは分からない。うまく表現する言葉が見つからないが、彼は自身の心の一番無防備な部分で、その『傷』を一人で抱え込んでいるように思える。
そして、その傷には棘がある気がした。大事に抱えれば抱えるほど、彼自身を傷付ける――そんな『棘』だ。
自身が『殺した』とされ、一時濡れ衣を着せられていたという、彼の両親の殺害事件に関係あるのだろうか。
「……何、人の顔ジロジロ見てんだよ」
考え込んでいる間、無意識に緋凪の顔ばかり見ていたらしい。ふと気付くと、至近距離まで近付いた彼が、胡乱な目でこちらを見下ろしていた。
「べっ、別にっ!? 何でもないっ」
「嘘吐け。声ひっくり返ってんぞ」
「本当に何でもないってば」
直後、朝霞が「冴綯ちゃーん。悪いんだけど、お箸並べてくれる?」と声を掛けたので、冴綯は助かったとばかりに「はーい」と返事をしながら、彼に背を向けた。
その後、食器を並べてテーブルにつく間も、緋凪は納得がいかないという表情でしばらく冴綯に視線を向けていた。瀧澤家のダイニングにテレビはなく、落ちた沈黙が気まずい(ただ、そう思っていたのは冴綯だけかも知れないが)。
静寂に食器が擦れる音だけがどれくらいか響き続いたあと、朝霞が口を開いた。
「ところで冴綯ちゃん」
「はいっ?」
不意に声を掛けられて、冴綯が顔を上げると、朝霞が妙に真面目な顔付きで続ける。
「ヒジョーに言い難いんだけど、結論から言うと、ストーカー問題も元通りになったわ」
「え?」
「昨夜、宗史朗から連絡が来てな」
緋凪も説明に加わりながら、トーストにかぶり付く。
「どっかのお金に弱いおバカなケーカンが、坊ちゃんのお母上に札束ビンタされて、敢えなく白旗揚げたんだとさ」
「よーするに、碌々取り調べもせずに釈放しちゃったってわけ」
朝霞のシンプルな説明に、ようやく事態が呑み込めた。
それに上乗せして、遼祐の殺害疑惑だ。
「……頭痛がする」
「心中察するぜ」
緋凪は、肩を竦めながらコーヒーのカップを傾ける。
「あたしたちとしては早期決着に向けて動くけど、実際は何日掛かるか分からないわ。ってわけだから、凪君。午前中にはちょっと冴綯ちゃんにくっついて、彼女の自宅まで一緒に行ってあげてくれない?」
「ん?」
トーストの残りを放り込んだタイミングで言われて、緋凪は朝霞のほうへ視線を向けた。
「昨日、彼女の自宅に戻らずに、直接ウチへ来たのよね?」
「ああ」
朝霞が言う間に、口の中のトーストを飲み込んだらしい彼は、頷いてサラダの残りに手を伸ばす。
「昨日のパジャマと……今彼女が着てる服もそうなんだけど、あたしが貸したの。でも、さすがに下着まで貸すわけにいかないじゃない?」
緋凪がチラと視線を投げた先には、簡素な女性用ワイシャツとジーンズ姿の冴綯が映ったはずだ。
「解決するまでは、家に戻んないほうが無難だと思うけどな」
「それにしたって何日掛かるか分からないのよ? まさか身の回り品全部新しく買うってわけにもいかないし……まあ、そーゆートコ見ると、凪君って間違いなく男の子だって分かるけどね」
「どーゆー意味だよ」
「女性の機微に疎いってこと! 着替えに下着に化粧品にって、女は男と違って色々必要なモノが多いのよ。その辺のシャツ数枚とボトム二、三本で毎日着回しちゃう凪君には分かんないでしょうけど」
「……今の男女差別でセクハラ発言だぞ。それに、あらぬ誤解を他人に植え付けるよーな言い方は名誉毀損だ」
「綺麗な見掛けによらず不衛生だって?」
「毎日下着は換えてるし、風呂も入ってんですけど!」
ダン! と机にその拳が叩き落とされて、冴綯は思わず首を竦めた。
しかし、朝霞は慣れているのか気にした風もなく、コーヒーを口に運んでいる。
「ホラ、着るモノに無頓着な凪君だって、毎日お風呂には入るし、下着も換えるでしょ? 冴綯ちゃん、昨日は下着の替えがなかったからお風呂も入ってないのよ。どう? 化粧品はあたしの貸すとしても、自宅に取りに行けばあるモノ、数日分買ったら結構な額になるわよ?」
ついにぐうの音も出なくなったらしい緋凪は、思い切り眉根を寄せたまま箸で摘んだサラダ菜を口に突っ込む。
その拗ねた様が、年相応にどこか可愛らしく見えて、冴綯は小さく吹き出した。
「何だよ」
「べっ、別にっ……」
笑いの残滓を引きずりながら口元へ握った拳を当てるも、肩の震えは止められない。
それに構わず、朝霞が言葉を継ぐ。
「だから、あんたにくっ付いてって欲しいのよ。もし、ケーサツが彼女に強引な任意同行を掛けようとしたら、強行突破しちゃってくれる?」
冴綯は固まった。笑いの発作は潮を引くように引っ込む。
(……キョウコウトッパ?)
今、朝霞はそう言ったのか。
何ソレ、どういう意味?
脳内がフリーズする冴綯の横で、緋凪がサラダ菜を平らげながら訊く。
「強行突破ぁ? いーのかよ。俺三年前に殺人容疑吹っ掛けられたの全面晴れたわけじゃねーんだけど」
「時と場合によりけりよ。万一の時のフォローは宗君に頼んであるわ。本気でやれば、凪君なら振り切れるでしょ? それに、寒川世綯の居場所さえ突き止められれば、冴綯ちゃんの容疑も恐らく晴れるはずよ」
朝霞は、昨夜と違って、たっぷりした容量の皿に盛ったビーフストロガノフを匙で口に入れながら続けた。
「あたしは昨日言った通り、室橋英治に当たってみるわ」
「一人で大丈夫か?」
「そうねぇ。凪君、彼とやり合ったんでしょ。感触はどお?」
「色男、金はあれども力なし、って感じかな」
「分かった。よーするに格闘はからっきしなのね。なら大丈夫よ」
肩を竦めた朝霞は、どこか獰猛な笑みをその端正な顔に刻む。
「じゃ、そっちはひとまず任せるね」
「本当に本気で強行突破して構わないんだな?」
「いいわ。今回の件であんたを本当に牢獄送りにしないことだけは、あたしが保証するから」
「念の為に言うけど、場合によっちゃ殴り合いになるかも知れないぜ。本当にいいんだな?」
「ええ」
揺らがない朝霞の態度を見て、緋凪もようやく腹を括ったらしい。
了解、と答えた彼の顔は――
(……何か違う)
そう、“腹を括った”なんて悲壮的なモノじゃない。むしろ、好戦的な微笑を浮かべている。
「ちょっ……緋凪君」
「ごっそさん。何?」
いつの間にか空になった皿を重ね、同じく空になったマグカップを持って立ち上がった緋凪に、思わず声を掛けたものの、どう続けていいのか分からない。
「えっと、その……」
何をするつもりだ――ダメだ、違う。無理はしないほうが――いや、そうじゃない。そんなことを言えば、警察の前に冴綯がぶちのめされそうだと感じるのは、気の所為だろうか。
かなり長い沈黙を挟んだ末に、何でもない、と答えて視線を下げる以外に、冴綯にできることはなかった。
©️和倉 眞吹2021.