act.7 作戦会議
「――ったく、どうしようもねぇな、そいつ。ってゆーか、それって実際やったら名誉毀損で充分叩けるぜ」
整った美貌を苦々しく歪めた緋凪は、吐き捨てるように言った。
冴綯も今ならそう思うが、当時は本当にただただ恐ろしかった。
「それで? そのあと、そいつの言う通りにしてやったのか」
冴綯は、情けない気分になりながらも頷いた。
一日だけ――そうすれば、きっと彼女の気も済むだろう。
いや、あの剣幕ではそうではないかも知れないという疑念を、冴綯は必死に追い払い、世綯と遼祐のデート当日、図書館で残りの夏休みの宿題を片付けるのに精を出していた。
そして、呆気なく破局は訪れたのだった。
『昨日、彼に抱かれたわ』
デートの翌日、柵木家にやって来た世綯はあっさりとそう告げた。
『……どういう意味』
『だーかーらーぁ、あたしたち一つになったの。ベッドの中でね』
自分と同じ顔が、目の前で嬉しそうに笑み崩れる。
冴綯は目眩がした。
少なくとも、高校生の内にそういう行為に及ぶことに、他人はどうあれ、冴綯自身は多分に抵抗があった。だから、遼祐にどう誘われても、身体だけは頑なに許して来なかったのに。
『あんた、意外にお堅いのね。別れ際に遼祐さんったら、“今日も……その、やっぱりダメか?”って。何のことかと思ったら、家まで誘われてね』
しかし、それに構わず、世綯はクスクスと笑いながら続ける。
『折角のロマンチックな時間に、ほかの女の名前呼ばれるのもうんざりだったけど、あの人と繋がる前にバレたら面倒だったから、全部終わってからホントのコト言ったわ』
『ホントのコトって!』
思わず叫んだ冴綯を、どこか宥めるように見つめて世綯は続ける。
『何よ。彼が抱いた相手が誰なのか、教えてあげただけだから安心して? 彼も、責任は取るって言ってくれたし』
『……どう、いう意味……』
世綯は、一呼吸置いて婉然と微笑すると、冴綯が最も言って欲しくない言葉を口にした。
『彼、あたしと付き合ってくれるって。あんたとは別れるそうよ。まあ、その内連絡来ると思うから』
呆然とする冴綯をそこに残して、世綯は立ち上がる。
『よかったぁー。これで本来あるべき姿に戻れたわね。あんたとも今まで通り親友でいてあげる。もちろん、ヘンな噂も広めないであげるわ。あんたは、あたしに遼祐さんを返してくれたんだから』
そっと冴綯の肩に手を乗せて、世綯は続けた。
『ありがとう。あんたが良識を知ってる子で本当によかった。あんたの勇気ある決断には感謝するわ』
「――それで、そのあとは?」
「遼祐はちょうど三年生だったから、一学期で図書委員は引退だったのよ。委員会だけじゃなくて、部活動も三年生は引退するでしょ?」
「中学はそうだったな。普通の高校はよく知らねぇけど」
「あっ……」
肩を竦める緋凪に、冴綯は言葉を失う。
「あの、ごめんなさい」
「別に、あんたが謝るこっちゃねぇだろ。俺は事実を述べてるだけだ」
緋凪は、目を伏せて紙コップを傾けながら「で?」と先を促す。
きちんと謝罪ができていないと思ったが、蒸し返すのも気が引けた。冴綯は、そのことについてはそれ以上言わずに続ける。
「……彼が委員会を引退したら、あたしには遼祐と接点がなくなった。彼がわざわざ会いに来ない限りはね。きちんとしたお別れの言葉とやらはないまま自然消滅したわ。向こうもきっと、気まずかったのね。まあ、あたしもあたしで、会いに来られてもどんな顔すればいいか分からなかったから、ちょうどよかったけど」
「で、世綯って女とはどうなったんだ」
「それまで通り、彼女はあたしの所へ来て友達として振る舞ってたわ。少なくとも、彼女のほうはわだかまりはなかったのかも知れない。あたしも、そういう振りをしてた。遼祐と付き合ってるってバレた時の彼女の態度見ると、自分の意図通りにならないことは我慢できない性分だってよく分かったから」
「ま、正解かもな」
「でも、時々遼祐とのノロケを聞かされるのにはウンザリしてたから、卒業と同時に縁を切ろうって決めてた。遠くの地方の大学に行って、両親にも彼女に住所教えないようにして貰おうって」
「けど、そうはならなかった?」
冴綯は、また一つ首肯する。
「高校は、三年生は大学受験の子が多いから、二月はほとんど休みになるの。正直言ってホッとしてたわ。学校行って、彼女と顔を合わせなくていいことが、こんなにストレスのないことかって。でも、登校日に彼女が近付いて来て、言ったのよ」
『あたしたち、もう終わりね』
投げるように彼女がそう言ったのは、登校日の放課後のことだった。
場所は、コトもあろうに屋上へ続く階段だった。
『どういうこと?』
内心、願ってもない状況だったが、声に喜びが混じるのもまずい。それを抑えるのには、ひどく苦労した。
『とぼけないで。全部、あんたの所為よ』
最初から苛立っているのが分かる声音で言った世綯は、冴綯を睨め付ける。
『こないだまであたしたち、あたしと遼祐さんは順調に付き合ってたわ。あたしが卒業したら、結婚するはずだったの』
それはおめでとう、と嫌み混じりに言いそうになって、冴綯はすんででそれを堪えた。
そんな冴綯の様子には気付かず、世綯は憎たらしげに言い募る。
『でも、昨日になって遼祐さんが言ったの。結婚はできないって。あんたに義理立てしてるのよ。あの人が抱いたのはあたしなのに……名前を騙ればどうせ見破れないくらい見分けが付かないクセに! 何であたしじゃダメなのよ!!』
恐らく、世綯ではダメというわけではない。
遼祐にしてみれば、冴綯と同じ顔の世綯を相手にしていて、平気ではいられないのだろう。もちろん、それは冴綯の想像にしか過ぎず、遼祐としてはまったく別の理由で世綯に別れを告げたのかも知れないが。
『あんたの所為よ、あんたがいたからいけないのよ!』
唐突に激昂した世綯は、突然冴綯に手を伸ばした。
あっと思う間もなく突き飛ばされ、冴綯は階段を転げ落ちた。
「――そのあと、気が付いたら病院のベッドの上だったわ。何があったのか訊かれて、ありのままを話したけど、彼女はああいう調子だったから、全部あたしが原因みたいに言ったらしいの。あたしが急に飛び降りようとしたから助けようとしたのに、間に合わなかったって。彼女の名演には皆騙されちゃってね。両親でさえ、思えばその頃からあたしに虚言癖があるって思い始めてたみたい」
だから、三度の窃盗事件のあと、あっさりと親子の縁を切られたのだ。
それでも、養母はまだ心配していたようだった。が、それも考えてみれば、自身の育て方が悪かったと、最後まで母としての責任を取らなければという義務感から来るものだったのかも知れない。
頭部と脊髄に損傷がなかったのは、不幸中の幸いだった。しかし、全身打撲と、数ヶ所に骨折を負い、受験には到底間に合わなかった。二次、三次の募集にも、だ。間に合ったとしても、恐らく滑っただろう精神状態であったことは、当時も今も分かっている。
「それからは、彼女とも絶縁状態よ。縁が切れてありがたかったから、彼女の家に行くこともしてないわ。あたしの名を騙ったのなら、十中八九彼女の仕業だと思うんだけど、確証なんてないし……」
「なら、確証を掴みに行くか」
「えっ?」
一通り世綯の話を終えて、目を伏せていた冴綯は、不意にそう言われて緋凪を見た。
彼は、テーブルから腰を浮かせて、空になった紙コップをゴミ箱へ投じる。放物線を描いてゴミ箱へ吸い込まれる紙コップにはもう目もくれず、ボトムからスマートフォンを取り出して時間を確認した。
「ジャスト、七時。行動起こすのは明日からにして、今日は取り敢えず帰ろうぜ」
「確証を掴むって……どうするの?」
「まずは、寒川世綯の居場所を突き止める。人捜しなんて、それこそフツーに便利屋とか探偵の領分だからな。まあ任せとけって言いたいけど、今回はあんたに手伝って貰うこともあるかも知れねぇ」
「どういう意味?」
立ち上がってコートを着込みながら訊くと、緋凪はその口元に、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「世綯が使った方法を、俺らも使わせて貰うんだよ。必要とあらばな」
***
「ただいまー」
食事の後片付けを、緋凪と一緒になってやっていると、帰宅を告げる声と共に、一組の男女が入って来た。
恐らく、女性のほうが緋凪の養母だろう。十七の緋凪の母にしては若干――いや、かなり若く見えるが。
「ごっめーん、遅くなって」
言われて時計を見上げると、午後八時半過ぎだ。
「って言っても、九時になる前に帰ろうって頑張ったから、目標クリアだけどねー」
「食うのが遅れると太る年頃だもんな」
「何か言った、凪君」
「いーえ、何でも」
軽妙なやり取りから取り残されていると、もう一人、同じように取り残されたと思しき男性と目が合った。どちらからともなく、会釈する。
上げられた輪郭は小振りだ。やや癖の付いた黒髪は、襟足に掛かるくらいの長さがある。アーモンド型に近い目元に縁取られた瞳は円らで、彼の年齢を分かり難くさせていた。
撫で肩で華奢に見えるものの、緋凪と比べると長身――
(……でもないか)
相変わらず女性と他愛のないことを言い合っている緋凪と、男性をチラと見比べると、緋凪よりも頭半分高いくらいだ。
「……初めまして。僕、椙村宗史朗と言います。一応所轄で一課の刑事やってます」
「えっ」
冴綯は固まった。
緋凪の養母の知り合い、という認識ですっかり油断していたが、まさか警察関係者だとは。
瞬時に警戒態勢に切り換えそうになったところへ、緋凪の声が飛ぶ。
「あ、そいつに関しては特に気にしなくて大丈夫だぜ。日本語の通じる数少ない貴重なケーカンだし、あのストーカー野郎しょっぴいてったのも、そいつだから」
「え、そう……なんですか?」
どちらに言っていいものか分からず、結局語尾は、椙村宗史朗と名乗った刑事に向けた。
「ええ、まあ」
困ったように眉尻を下げて笑うと、余計に幼く見える。
宗史朗との会話が途切れたところを見計らったように、女性が歓声を上げた。
「きゃーっ! 凪君、夕食作ったの?」
「飢え死にしそうだったからテキトーに」
「うっそ、美味しそう。あのね、凪君のテキトーは全然テキトーじゃないから!」
「そうか?」
「そうよ、少なくとも料理に関してはね! あーん、外で食べてくるんじゃなかったーっ!」
「連絡くらい入れてくれよ。朝霞たちが外で食ってくるなら、俺らも外で済ませたのに。コンビニ弁当とかの持ち帰りが利くやつで」
「いいじゃない、余ってるなら明日食べるから」
「何だったんです?」
上着を脱ぎながらリビングへ歩を進める女性に、宗史朗が問う。
「ビーフストロガノフ!」
「あ、いいですねぇ。これから署に帰ってまた一仕事だし、僕は食べてこうかな」
「まさかタダ食いしようとか考えてねぇよな、宗史朗」
「え、まさかお金取るの、緋凪君」
「一応ココ、軽食店兼ねたカフェなんで」
ニコリと笑った美貌は、目だけが笑っていない。
「そんなぁ。ここは母屋でプライベート空間じゃないの?」
「それはそれ、これはこれだ」
「あー、もういいでしょ」
見兼ねたのか、女性が割って入る。
「ご馳走してあげてよ。凪君、今日は宗君に借りがあるんじゃないの?」
「正当なおシゴトだろー、刑事さんよ」
「うっ、まあ……」
宗史朗のほうがなぜかタジタジだ。
「で? その肝心のシゴトのほうはどうだったよ」
「サイテーよ。立派な変態ね」
「変態に立派もクソもあるかよ」
「じゃあ言い直す。立派な女の敵ね」
「それ同義語じゃねぇの?」
一つ肩を竦めた緋凪は、ビーフストロガノフの残りが入った鍋の蓋を開けて火を付けた。何だかんだ、宗史朗に振る舞ってやるつもりらしい。
「逮捕できそうか?」
オタマを取って掻き混ぜながら問うた言葉は、宗史朗に向けられたものだ。
「うーん。あれだけじゃあね。下世話な話になるけど、動画も強姦とは取れない代物だし」
「ああいう男って、そーゆートコだけ頭回るから嫌になるわよねぇ」
一瞬、どこへともなく消えていた女性がリビングへ戻って来る。
「ホラ、宗君も手洗いうがいして! 顔も洗ったほうがいいらしいわよ、感染症予防に」
「はーい、先生ー」
答える宗史朗を見送りながら、当然のようにテーブルに付いた女性とようやく目が合う。彼女は、屈託のない笑顔を浮かべて、再度立ち上がった。
「初めまして! あなたが冴綯ちゃんね」
「え、あ……はい」
差し出された手を握って、怖ず怖ずと答える。
「瀧澤朝霞よ。一応、凪君とは養母と息子の関係。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
朝霞と名乗った女性も、そこそこ整った容貌だった。
キュッと引き締まった目鼻立ちに、緩いウェーブの掛かった髪は無造作に纏め上げられている。目算では、その毛先は膝の辺りまでありそうだ。下ろしたら、その髪は外套のように彼女の身体を覆うだろう。
手入れが大変そうだな、と現実的な感想が脳裏をよぎる。
スレンダーな体つきのボディラインに、ピタリと張り付くようなジーンズとインナーを纏い、カーディガンを羽織っている。
見た目の年齢は、若く見えるがはっきりしない。二十代の後半だろうか。
初めて見た時にも思ったが、緋凪は十七だと言ったから、だとしたらあまり年齢差はないことになる。
(まあ、生みの親じゃないから関係ないか)
どうでもいいことを胸の内でだけ呟いて、朝霞と握り合っていた手を離す。
「朝霞も食うの?」
「ちょっとだけね。まだ九時前だから」
右手の人差し指と親指で、『ちょっとだけ』具合を示しながらウィンクする朝霞に、緋凪は「へーへー」と言いながら呆れ顔で鍋に向き直る。
洗面所から宗史朗が戻るタイミングで、緋凪が二人分のビーフストロガノフを運んで来た。
口を付けるのもそこそこに、ダイニングはたちまち捜査会議の様相を呈している。
「で? 改めて訊くけどあの立派な変態、罰せられないわけ?」
緋凪に水を向けられた宗史朗は、肩を竦めた。
「難しいね。猥褻物でも、持ってるだけなら捕まえる理由にはならないし処罰されない。まあ、入手先にも拠るし、売ったりバラ撒いてるのが分かればだけど、そこをまず調べるのに時間掛かるよ。それこそ令状が要るしね」
「んじゃ、冴綯を脅迫した件では?」
「何か証拠でもあれば別だけど、物証とかある?」
緋凪は、顔を顰めた。
「いきなりあんな場面に遭遇して、準備万端、録音盗聴器とか仕掛けられる奴がいたらお目に掛かりたいわ」
「つまりないんだね」
整った美貌が益々歪んで、「じゃ、どーするんだよっ」と食い下がる。
「どーするもこーするも、あとは相手の出方を待つしかないかな。あくまでも公的機関としてはね。未然にやれることがあるとすれば精々、あの変態サンのコレクションを破壊することくらいだけど、やると器物損壊罪に問われ兼ねないから」
「納得いかねー。いわゆるピンクチラシだってあれ、貼るのは犯罪なのに、貼っちまったら今度剥がすのも犯罪とか何なんだよ、意味ワカンネー」
話が脱線したような気もしたが、宗史朗は至極真面目な顔で頷いた。
「うん、喩えとしては分かり易いし、僕としても個人的にはその場で時限爆弾でも仕掛けたかったけどね。あーゆーの、後々始末に負えないストーカーに成長する予備軍そのものだし」
「精神的にキツけりゃ、そろそろ辞めたらどうだ、ケーサツ」
どこか揶揄するような緋凪の言葉に、宗史朗は肩を竦めるだけだ。
「今の段階じゃ、ストーカー行為で引っ張るのも厳しいねぇ。鷹森さん」
「はっ、はいっ?」
急に話し掛けられて、冴綯は思わず引っ繰り返った声で返事をしながら背筋を伸ばした。
「あの変態サンに付き纏われ始めたのって、正確にはいつ頃?」
「え、えーっとー……三日くらい前が最初で、今日が二回目です」
「具体的に何をされたか、訊いてもいいかな」
「えっと、最初は自宅のアパート前で待ち伏せされてて、いきなり婚約破棄だなんてヒドいとか何とか言って迫って来たので、急いでお店まで逃げ戻りました。ママはあのお店の上の階が自宅なので、事情を話してその日は泊めて貰って……で、今日の昼間は、結婚しないとあの画像をバラ撒くって脅されて、無理矢理……キス、されました。あと、スマホ盗られそうになったり」
「結構あんたも粘着気質だな」
緋凪が、呆れたように目を細める。
「次から次へとよく事細かくあげつらえるよな。血液型、絶対Aだろ」
当たってる、と思ったが口に出さずにいると、朝霞が代わりに突っ込んだ。
「凪君も大概似たよーなもんだけど、血液型ABだったわよね」
「うるせぇ」
二人の掛け合いに構わず、宗史朗が問いを重ねる。
「じゃあ、ちょっと無神経な質問かも知れないけど、必要なことだからごめんね。彼とは、その……深いお付き合いまでしてたの?」
宗史朗は言葉を濁したが、要するにベッドインしたかと訊きたいのだろう。
だが、これよりもっとひどい取り調べくらい何度も受けている。今更、このくらいで『セクハラ聴取だ!』などと騒ぐような可愛らしい神経は磨耗して久しい。
「いいえ。三日前が初対面で、何がなんだか……」
「そうだ、スマホだ!」
そこで、出し抜けに会話を遮るように緋凪が叫んだので、ほかの三人は揃って彼に視線を向けた。
「……スマホがどうかしたの、緋凪君」
やがて、三人を代表するように口を開いた宗史朗に、中腰になった緋凪は興奮気味に問うた。
「宗史朗。あの変態のスマホ、どうした?」
「署に保管してあるよ。ひとまず留置しとくには口実が必要だからね」
「じゃあ、今日署に戻ってから、中身見れるか?」
「手段を選ばなければ多分。何で?」
「あの野郎の言い分を信用するなら、あいつは冴綯にそっくりな女とベッド・インするような付き合いがあった。ってことは、その女の連絡先が登録されてるはずだろ」
「あっ」
声を上げたのは冴綯だ。
宗史朗と朝霞は、冴綯がここにいる詳しい事情をまだ知らない為か、訝しげに首を傾げているだけだ。
緋凪は、冴綯に目で頷いて、宗史朗へ視線を戻す。
「冴綯の名前で登録されてる連絡先をこっちに流して欲しい。それで少なくともそっくりサンの居場所は突き止められる」
「理由も分からないのに違法捜査の手助けはできないな。そっくりサンって何の話?」
緋凪が再度、冴綯に視線を投げる。話してもいいかどうか、問うているのだろう。
冴綯は目だけで頷くと、自分が口を開いた。
自分がこれまで、窃盗の冤罪で何度も逮捕・起訴されていること。今日になって、高校時代に交際していた男性・安次峰遼祐が殺害されたらしいこと。その容疑が自分に掛かっているようであることと、遼祐と『そっくりサン』こと世綯との話を手短に語って聞かせた。
「――というわけで、その……」
「こいつの無実を証明するまで、ウチで預かるコトにした。瑞琉サンの依頼だし、いいよな、朝霞」
詰まった言葉尻を引き取った緋凪が、朝霞に目を向ける。
すでにビーフストロガノフを胃に収めたらしい朝霞は、真剣な顔で頷いた。
「もちろん。その分だと、近々理由付けて任意で無理矢理引っ張られる確率も高いしね」
「任意って、本当はこっちの意に任せるって意味じゃねーよな、ケーサツでは」
日本語の使い方間違ってるぜ、と投げるように言って、緋凪は立てた膝に頬杖を突く。
「で? 現職のケーカンとしては、どう協力してくれる?」
緋凪の細く長い指先が、コツ、と音を立てて、テーブルを小さく叩く。
その指の向いた先にいた宗史朗は、最後のひと匙をすくって口に入れて胃に流し込むと、「仕方ないね」と言って肩を竦めた。
「分かった。すぐ署に戻ってちょっと盗み見してみる」
「頼んだ」
「貸し二つ目って言いたいけど、今のビーフストロガノフで手を打つよ」
美味しかったからね、と付け加えて微笑する宗史朗に、緋凪は苦々しい表情で「お粗末でした」と言って舌を出した。
「あ、宗君」
立ち上がった宗史朗に、朝霞が声を掛ける。
「ついでだから、もう一つ頼まれてくれない?」
©️和倉 眞吹2021.
 




