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act.1 発覚

 その教師から端末を引ったくって確認したところ、トップページはいわゆる『出会い系サイト』と呼ばれるもののようだった。

 その掲示板に、春生のバストアップの写真と学校名、本名と下校時間、そして短いコメントが記されている。

 『市ノ瀬(いちのせ)春生はるきです。趣味は男漁り。一時間三万円で何でもします。下校時間に誘拐しに来てくれると嬉しいです』という文章のあとにはハートマークまで付いている。

「……なっ……んだよ、これ」

「カキコミを見かけたと匿名で知らせてくれた生徒がいてな」

「ソイツは叩かないのかよ! 明らかにこんなサイトに出入りしてるのソイツじゃん!」

「うるさい、部外者には関わりないことだ」

「俺は春姉の従弟いとこだぞ!」

「血縁というだけだろう。さあ、どうなんだね市ノ瀬君」

 日が暮れた通りを照らす街灯の光量でも、春生の顔が蒼白になっているのが見て取れる。緋凪から言わせれば、それは決して自身のやらかしたことが露見しての反応ではない。

 だが、彼女が震える唇を気丈に動かしてやっと、

「……身に覚えが……ありません」

 と言ったのを、教師は後ろ暗いことをしたからだと決め付けているらしい。

「だが現にこうしてカキコミがされているんだぞ」

「こんなの明らかに隠し撮りだろ!」

 緋凪は構わず口を出した。

 しかし、五十絡みの教師はうるさそうに緋凪を一瞥いちべつしただけで春生に視線を戻す。

「さあ、どうなんだね。真実を話す気はないのかね」

「私は真実を話しています」

「市ノ瀬君」

 教師が、宥め諭すような口調になる。

「これ一回なら不問に付そうと言っているんだ。正直に罪を認めたまえ」

「見てください!」

 ついに春生も声を荒らげた。

 彼女は、深緑のハイウェストスカートのポケットから、自身のスマートフォンを取り出し、ズイと教師に突き付ける。

「調べてもらえば分かります。私はそんないかがわしいサイト、今まで出入りしたことありません。検索だって掛けたこともありません。ついでに言えば、そんな写真だって撮ってません」

「写真データの削除くらいは先生でもできる。それに、検索や閲覧の履歴の削除もな」

「じゃあ、これから今すぐ警察に持ち込んで調べてもらって構いません。今時の科学捜査なら消去した履歴でも復元可能だと聞いています。先生にも私の潔白を確認していただく意味で同席していただきます。お時間よろしいですか?」

 警察、という単語が出て来た途端、教師は瞬時、言葉を呑んだ。

 先刻、野次馬を追い払い、緋凪の端末を取り上げて強引に通信を切ったことからも明らかだが、少なくともこの教師は警察に関わりたくないらしい。

「……家にパソコンは」

 それでも教師はしつこく食い下がってきた。何がどうでも、春生の落ち度にしたいようだ。だが、春生も負けていない。

「保護者である伯父が使っているものだけです」

 春生は両親が世界を飛び回る仕事をしている為、物心付いた時からずっと、彼女の妹と共に緋凪の家で暮らしている。よって、保護者と言えば、春生には伯父夫婦である緋凪の両親を指した。

「でも、要求があれば伯父は喜んで差し出します。やましいことはありませんから」

 教師は軽い舌打ちと共に、「とにかく、今日のことは他言無用だ」と言って緋凪から自身の端末を奪い返す。

「次に何か問題起こしたら退学処分の上、しかるべきところへ訴えるから覚悟したまえよ」

 捨て台詞と共に、校門の内へ引き返していく教師に「だったら今すぐ然るべきところへ訴えろよ、誘拐未遂犯を!」と怒鳴るが、教師が振り返ることはなかった。

「……どうする春姉」

 遠くなる背に、追い縋ってぶん殴りたい衝動をどうにか抑えながら、緋凪は春生に目を向ける。

「当然、この足で警察署にチョッコーよ。一番近いトコにね。凪君も付き合ってくれるでしょ?」

 日本人形のような楚々とした見た目に似合わぬ強気な言葉が出て来て、緋凪は思わず苦笑した。

「当たり前だろ。俺目撃者だし、このあと春姉一人にするの危なすぎるし」

「……そう言えば何で都合よく居合わせたの?」

「通ってる空手道場、この近所なんだ。駅までの帰り道だよ。春姉こそ今帰り? 行き合うなんて初めてだよな」

 すると春生は、言い淀むように唇を噛むと、視線を逸らす。そんな彼女の顔をジッと見て、緋凪は口をひらいた。

「……なんかあった?」

「何かって……凪君も見てたじゃない、今」

「じゃなくて。さっきの誘拐未遂以外に」

 穏やかに、だが反論や言い逃れるのを許さない口調で追及する。春生は尚も目を泳がせていたが、早々に諦めたような吐息を漏らした。

「……関係あるかどうか分からないけど……実はその……いじめに遭ってるっていうか――」


***


 春生によると、ことの起こりは昨年の九月。

 夏休み明け、華道部の帰りに突然、見知らぬ男子生徒が声を掛けてきたという。

「名前は、小谷瀬こやせのぞむ。学園理事長の息子らしいんですけど……」


 当然のように『ボクのこと、知ってるよね?』と言われて、春生は面食らった。

『いいえ』

 首を横に振ると、相手も面食らったように瞠目した。

『本当に知らないの?』

『はい』

『一度も顔も見たことない?』

『全然……あの、もういいですか? 私、帰る所なので』

 第一印象で人を判断しないという信念を持つ春生には珍しく、もう関わりたくない人種だと思った。

 失礼でない程度に素っ気なく一礼し、きびすを返そうとすると、相手は素早く春生の進路を塞いだ。周囲には取り巻きと思しき少年たちも数人いる。

『この学園に通っててボクを知らないなんて有り得ないんだけど……』

『本当に知りません。どいてください』

『分かったよ。ボクの名前は小谷瀬臨。この学園の理事長の息子で、二年B組。さあ、君の名前と学年とクラスを教えて?』

『どうしてです?』

『どうしてって、ボクがわざわざ名乗ってあげたんだよ? 知ってるクセに知らない振りするから、仕方なくね。こっちが名乗ったんだから君も名乗るのは当然の礼儀じゃないか』

 唖然とした。

 いきなり目の前に現れて人を嘘吐き呼ばわりした上に礼儀を口にするなんて、春生からすれば『頭のおかしいサイコパス』としか言いようがなかった。

 黙ったままきびすを返そうとするが、後ろにも取り巻きがいる。そこから去ろうとしても、どうしても動けなかった。

『あの、帰る所なんです。通してくださいませんか?』

『じゃあ送っていくよ。家はどこ?』

 馴れ馴れしく肩を抱き寄せられて思わず悲鳴が出掛けるが、どうにか呑み込んだ。

『セクハラで訴えますよ?』

 目の笑わない笑顔で言って、肩に回った臨の手を捻り上げる。

 思わぬ反撃に、臨のほうが悲鳴を上げた。

『なっ、何するんだよ!』

 臨がはじかれたように離れる。必然、囲みが崩れ、春生はその隙を逃さず猛然と廊下をダッシュした。


「……何するが聞いて呆れるな。初対面のクセに肩に手ぇ回すとか立派なセクハラじゃん」

 思わず吐き捨てるように言った緋凪の反応に構わず、目の前にいる警官が「それで?」と先を促した。


『ねね。お兄ちゃんと付き合うことになったんだって?』

 その翌日、これまた見知らぬ女子生徒から囁くように話し掛けられて、春生はまたも面食らった。

 昼休みも後半に差し掛かった頃のことだ。

 昼食も食べ終えて、図書室から借りた本を読んでいた春生の机の周りを、話し掛けてきた女生徒と、その取り巻きと思しき三人の女生徒が取り囲んだ。

『……どちら様?』

『ねえ。本当にあたしのこと知らない?』

 物言いが、前日のサイコパス男とそっくりだ。血縁だろうか。

 そう言えば、比較的整った顔立ちには、やはり男の面影がある。

『問いに問いで返すのは失礼よ』

 春生は、目を落としていた本に栞を挟んで机に仕舞った。借り物をこういう言い争いの場に出しておくと、碌な結果にならない。

 すると一拍のを置いて、『小谷瀬貴美芳(きみか)』と唐突に相手が名乗る。

 胡乱げに視線を上げると、名乗った少女は細く引き締まった腰に片手を当てて春生を見下ろしていた。

『小谷瀬臨の妹よ。あなたとは同い年だけど、あたしは理事長の娘なんだから、ちゃんと敬語で話して』

『……“理事長の娘”ってだけの肩書きに敬語が欲しければ、おおせのままに』

 うっすらと微笑んで平板な口調で言ってやる。さすがにそれが嫌みだと分かったのか、貴美芳は頬を引きらせた。

『ふ、ふん。いいわ。好きにして』

『これはどうも。恐縮でございます』

 春生は変わらず丁寧に、胸元へ片手を当ててお辞儀もしてやった。

『それで、貴美芳様。わたくし如き庶民に、どういった御用向きでしょう』

 殊更大仰になった敬語は、最早完全な嫌み以外の何者でもない。取り巻きにも理解できているのだろう。三人は何とも微妙な顔付きになり、貴美芳は唇の片端をヒクヒクと震わせている。

『大袈裟な敬語はやめてよ! とにかく、お兄ちゃんと付き合いたいんでしょ!?』

『いいえ?』

 やめろと言われても、どうしようもない。やめたらやめたで何を言われるか分からないのだから。

 時代劇がかった敬語をそのまま、小首を傾げた春生に、貴美芳は目を見開いた。驚く表情まで兄妹はそっくりだ。

『何で?』

『なぜ……とおっしゃいますと』

『だって、だってお兄ちゃんは、ここの理事長の息子よ!?』

『それで?』

『おまけにイケメンだし!』

『だから?』

『現代の立派なプリンスじゃない! 知らない振りまでしてお兄ちゃんの気を引いたクセに付き合いたくないなんてどうかしてるわ!』


「……そいつがどうかしてるわ」

 緋凪が、やはり吐き捨てるように断じる。吸い込まれそうな青い瞳が、心底呆れたと言わんばかりに細められた。

「随分一方的な話だな。知らないものを知らないって言っただけなのに、それが知らない振りで気を引いたことになるなんて、どーゆー脳の構造してんだ?」

「さあ」

 不機嫌そうな警官の前だからか、春生は言葉少なに言って肩を竦めた。

 だが、目の前の警官は、それ以上春生の話の続きを促す様子がない。肘を突いて、退屈そうにボールペンの芯を出したり引っ込めたりしている。

「……で、それからずーっと嫌がらせは続いてんのか」

 仕方なく緋凪が水を向けると、春生はもう一つ肩を上下させ、警官に視線を戻す。

「先生に訴えたところで無駄でした。相手は理事長のご子息とご令嬢ですから」

「私立校に勤める教師の悲しさだな。首が飛ぶってほとんど文字通りだから」

「それでも、現実世界での嫌がらせなら我慢できたんですよ。だってせいぜい机ん中にゴミ入れられたり教科書ズタズタにされたり、上靴に画鋲が入ってたり下履き隠されたり図書室から借りた本が焼却炉に放り込まれたり、トイレに入ってたら上から水ぶっかけられたり、兄貴のほうにストーカーとかセクハラされたりとかされるくらいでしたから」

「……春姉……それもう我慢の臨界突破でいいレベルだぞ」

 淡々と列挙される嫌がらせのリストは、ベタといえばベタだが、黙って耐えていいものとは違う。

 これ以上呆れようがないくらい呆れた声で指摘した緋凪は、警官の前でいうには釈迦に説法だが、と思いながら続けた。

「てか、立派に犯罪じゃん。机ん中にゴミと水ぶっかけられるのと上靴ん中の画鋲は暴行罪だろ。教科書と図書室の本の件は器物損壊罪だし、下履き隠しは窃盗かな。セクハラは強制猥褻罪。ちなみに暴行罪は二年以下の懲役か三十万以下の罰金、器物損壊は三年以下の懲役か三十万以下の罰金、窃盗は懲役十年以下か罰金五十万以下で、強制猥褻は六ヶ月以上十年以下の懲役にできる。ストーカーはストーカー規制法違反だな」

「……さすが、元弁護士の息子」

 感心半分呆れ半分の春生の口調に、緋凪はニヤリと唇の端を吊り上げた。

「その父さん仕込みのいじめ対策だよ。大体、世間じゃガキの暴力行為を『いじめ』なんて軽い言葉で表現するから加害者もてめぇらのやってることが軽いと思っちまうんだ。深刻なことやってる自覚がねぇんだよ。だからこうやってズルズル正式な罪状と処罰を並べるだけで、小学校の中学年くらいまでなら大抵震え上がって、パタッとこっちに構わなくなる」

 整った顔に不敵な笑みを浮かべて、得々と父受け売りの対策を披露するが、それにも警官は動じた様子を見せない。

「しかし、要は高校生同士の揉め事だろう」

「はあ!?」

 あっさり言い捨てた警官に、緋凪は顎が落ちた錯覚を覚えた。

「だってそうじゃないか。君、市ノ瀬春生さん、だったか?」

「は、はい」

「市ノ瀬さんの対応にも問題があるんじゃないか?」

「何でそーなるんだよっ!」

 反応したのは、訊かれた春生ではなく緋凪のほうだ。しかし、警官は動じた様子を見せずに緋凪に視線を向ける。

「だってそうだろう。交際申し込まれた時にけんもほろろな対応したり、嫌みで応酬したりするからいじめられる結果になるんじゃないのか」

「だから、何でそーゆー盗人ぬすっと猛々(たけだけ)しい理屈になんだよ! 百歩譲ってそれが原因だとしたって、出会い系掲示板に勝手に人の写真載せてカキコミとかして、誘拐未遂に発展してりゃ世話ねぇぞ、立派な犯罪だろ!」

 バン! と机に掌を叩き付けて椅子を蹴る。

 しかし、警官は相変わらず意に介さなかった。

「ホラ、もうこんな時間だ。あと三十分で都条例違反の一つ、午後八時以降の未成年者外出禁止の時間に引っかかるぞ。今日は特別に見逃してやるから、早く帰りなさい」

 警官はパタパタと持っていたメモ帳を上下に振ると、さっさと部屋を出て行く。

「待ちゃーがれ、税金ドロボーが――――っっ!!」

 緋凪の叫びは、警官が素気なく閉じた扉の音に掻き消されたらしい。その扉は無情にも、もうピクリとも動く気配を見せなかった。


***


 想定外だったというべきか、想定内というべきか。

 聞いてみれば、『今時の不祥事が漏れ聞こえてくる警察組織の人間なら言うかも知れない』という範囲のものだ。けれど、それにしたって有り得ないと思った、という意味では予想を超えていた。


 その内容を、その日の内に父・千明ちぎら緋向ひなたが帰宅するなり告げると、緋向はすぐに動いてくれた。春生も、緋凪が緋向に話すのを阻みはしなかった。もう、自分だけが我慢して済む事態でなくなっていると理解していたのだろう。

 一応会社勤めとは言え、ジャーナリストという職業柄か、それとも会社の特色なのか、父の勤める出版社は割と休みの融通が利く所らしい。

 翌日、休みを取ると、父は春生を連れて改めて警察に乗り込んだ。

 緋凪も一緒に行きたかったのだが、『直接の関係者というわけじゃないんだから』という至極もっともな理由ではばまれた。血縁という意味では関係者だが、いじめの目撃者ではないし、春生の同級生というわけでもない、と言われればまったくその通りだった。『拉致未遂現場に居合わせたのに』と食い下がったものの、覚えていた車のナンバーを誘導でうまく吐かされたあとは、『今日はひとまず学校へ行きなさい』と言われてしまった。

 ジリジリする思いで一日の日課を過ごし、スポーツ部のストーカーまがいな勧誘をかわしつつ帰宅すると、どうにも浮かない表情の春生と難しい顔をした緋向がリビングのソファに腰を下ろしていた。


「まあ受け付けときましょうって……何だよ、ソレ」

 緋凪は、帰宅後の儀式(つまり、手洗いうがいなどだ)を終えるも惜しくソファに座り込んだ。

 聞き取りを担当した刑事は、そう言っていかにも適当に二人を追い返したというのだ。昨日と違って大人が一緒だったから、取り敢えずの対応をしただけというのが、現場に行かなかった緋凪にも分かった。

「落ち着きなさい、緋凪」

「落ち着いてられっかよ! 人が暴力受けてるなら、助けるのが警察だろ!」

 それなのに、『話は聞いたからあとはご勝手に』と言わんばかりの態度は何だというのだ。

 漏れ聞こえてきた警察の不祥事は、あくまでも一部だと思っていたのに、居住地域の所轄にもまさかその『怪しからん一部』がいたとは嘆かわしい。

 しかし、緋向は厳しくも穏やかな表情を崩すことなく、懐の名刺入れから一枚の名刺を取り出した。

「中には真剣に警察としての職務を果たそうとしてくれてる人もいる」

 ローテーブルに置かれた名刺には、名前と警察としての階級、その所属署が記されていた。

瀧澤たきざわ朝霞あさか……巡査長?」

 警察の階級に『巡査長』という地位はない。ただ、内部で巡査のおさを勤める人をそう呼ぶとは聞いている。

「今日、受付に立っていて、最初に対応してくれた人だ。昨日、緋凪たちが駆け込んだ時に受け付けてくれた女性警官が、瀧澤巡査長と親しくしていた人らしい。巡査長はその人から話を聞いたと言っていたよ」

 実際に聞き取りを担当したのは、春生によると昨日と同じ警官だったらしい。井勢潟いせかた圭毅たまきと名乗ったという。役職は巡査部長だそうだ。つまり、ぞんざいな対応をしたのは、その井勢潟刑事だ。

「署を出る時、瀧澤刑事は我々が暗い顔をしていたのに気付いたんだろう。わざわざ追い掛けて来てくれて、自分にも詳しい所を聞かせて欲しいと言ってきたんだ。最初は、同じ署の刑事だし、話しても変わらないと春生も父さんも思ってたんだが……」


『大まかな話は昨日、智花ともか……いえ、大村おおむら巡査から聞きました。とにかく私も、もう一度ご本人にお話を伺いたいと思っていたんです』


 井勢潟と違い、真摯な目でそう訴える朝霞に、ダメ元で緋向は同じ話を繰り返したという。名刺は、その時に貰ったものらしい。

「彼女は、何か困ったことがあったら今後も遠慮なく言ってくれと。上司では当てにならない、自分が力になるからと」

「でも井勢潟って刑事は上役なんだろ。結局上司に押さえ込まれちまうんじゃねぇの?」

 春生は同意するように無言で溜息を吐き、緋向は苦笑した。

「まあ、内部にまったく味方がいないよりはマシだからね」

「それで、このあとどうするんだよ」

「うん……解決にどのくらい掛かるか分からないけど、誘拐未遂なんかがあったからもう学校に行くのはやめたほうがいいな」

 はじかれたように顔を上げた春生の顔は、少し青ざめていた。できれば、決定的なことは訊きたくないのだろう。彼女がその制服に憧れて、在学中の西院凛さいりん学園を受験したのは、緋凪も知っている。

 ただ、今は通学を続行することに、最早命が懸かっていると言ってもいい状況なのも、彼女なら分かっているはずだ。しかし、唇を震わせて言葉を発せない彼女に代わって、緋凪が口を開いた。

「……退学ってことか?」

 父も、痛ましげに眉根を寄せたが、きっぱりと頷いた。

「可能なら、転校したほうがベストだと思う。ご両親にも連絡を取って、他校へ編入手続きするのが一番だけど、春生の気持ちもあるし、編入ということになると今在学中の西院凛学園の協力も不可欠だ。だが、学園側はそもそも誘拐未遂を隠蔽しようとしたし、他校への編入の手続きに協力してくれるかどうか、何とも言えない。ネット上にアップされた写真をどうにかする必要もある」

 そこで言葉を切った父は、春生に目を向けた。

「春生はどうしたい?」

「……私は……」

 言いさして、春生は伏せた瞼の下で視線を左右させる。膝に置いた両手が、一応の正装ということで着ていた制服のスカートを握り締めた。

「もうほとんど辞めても構わない方向に傾いてるけど……」

「何か、心残りがある?」

 父が優しく訊ねると、春生が首を横に振る。

「心残りって言うより……不安です。あの……まさか報復されたりはしないと思うんだけど、その……」

 父が、眼鏡の奥にある切れ長の目をしばたたく。緋凪も瞠目した。確かに、可能性として有り得ないとは言い切れない。

 父の目を見れば、恐らく彼も同じことを考えているのだろうことは分かった。が、もちろんそれを口には出さない。父も、緋凪も。

「そうか。じゃあ、春生の気持ちとしてはもう退学の方向で動いて構わないかな?」

「はい。お願いします」

 春生は、俯いた状態から更に頭を下げる。

「了解。今日の内にお父さんとお母さんには、経緯も含めて連絡するよ。退学手続きやネットの写真の処理もすぐに動く。だから、問題があらかた片付くまで、春生はもう一人では外出しないこと。なるべくなら家に閉じ籠もるか……」

「千明の祖父じいちゃんに行くとかは?」

 緋凪の提案に、父は「ああ、その手もあったな」と手を打つ。

 千明の祖父ちゃん――つまり、緋凪には父方の祖父は、春生にとっては母方の祖父だ。春生の母が、緋凪の父の妹に当たるのだ。

 祖父母たちは緋凪のほうは父方・母方共に健在で、それぞれの住居で生活している。千明の祖父母は、四国在住だ。

 首都圏の緋凪の家からは遠方で、疎開先には持って来いと言える。

「てゆーか、いっそ海外とかは? ハーグリーヴスの家とか」

 ハーグリーヴスは母方の姓で、母方の祖父母はイギリス在住だ。

 その例を挙げると、父は苦笑した。

「さすがにそこまでは追って行けないって発想はいいと思うけど、遠ければ遠いほどいいってモノでもないだろう。それに春生の話によると、相手は学園理事長のご子息たちだろ? 目立つことすると却って危険かも知れない」

 学園理事長家庭の子、すなわち、これまで金にモノを言わせて生きていた人間だ。

 確かに、休学して海外までストーカーすることも不可能ではないかも知れない。

「……そうだな。その辺は父さんに任せるよ」

「うん、任された」

 幼い頃のように頭を撫でられながら、チラと春生に視線を向ける。彼女も、どこかホッとしたように眉尻を下げて微笑していた。


©️和倉 眞吹2021.

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