act.3 影差す桜《セリシール》
午後四時過ぎ。
松土絵利子は、ダイニングで一人、緑茶を啜りながら、そろそろ夕食の支度でもしようかと考えていた。
この不況の折り、賃貸アパートを兼業で運営しながら、六十を過ぎた今でも、夫は外で働いている。
アパートの管理人の仕事は、絵利子も手伝っていた。
とは言え、普段の絵利子は専業主婦とそう変わらない生活をしている。
空になった湯呑みをテーブルへ置いたその時、インターホンが来客を告げた。
「ああ、はいはい」
相手に聞こえないと知りつつ、絵利子はインターホンに小走りで駆け寄る。
「――はい、どなた?」
松土家のインターホンは、今時ではもう古い電話型だ。会話は可能だが、相手の姿を確認することはできない。
『あ、いつもお世話になっております。鷹森ですけど』
答えを聞いた瞬間、絵利子の脳内で記憶の出し入れがされる。
鷹森――鷹森冴綯。
松土夫妻が管理するアパートの、二〇六号室の住人だ。愛想は悪くないし、中々の美人ではあるが、その容姿を生かしたのか何なのか、水商売をしているのはいただけないと思う。
ただ、月々の支払いが滞るなどの問題行動がないので、絵利子としてはヒトの事情に口を出すことはしていなかった。
「あら、どうしたの? 帰るには早いんじゃない?」
仕事柄、彼女が出勤していくのは午後からで、帰りは翌朝の明け方近い。
その日の内に帰宅することなど珍しかった。ましてや、松土家を訪ねて来るなど。
『ええ、そうなんですけど、忘れ物しちゃって。出先から直接来たんですが、鍵を忘れてしまって……』
意外にそそっかしいところもあるものだ。忘れ物を取りに来ようとして、肝心の鍵を忘れるなんて。
「分かりました。ちょっと待ってね」
意外な面を見た所為か、覚えず微笑ましい気分になりながら、絵利子はインターホンの受話器を置いた。二〇六号室の合い鍵を持って、玄関に向かう。
ドアを開けると、整った容貌を申し訳なさそうに曇らせた冴綯が会釈した。
「お待たせ。行きましょか」
自宅の戸締まりをして冴綯の脇を通り過ぎ、彼女を先導してアパートへ歩む。
二〇六号室の前まで来て、合い鍵を差し込み、施錠を解除した。
「さ、開いたよ。用事が済むまでどれくらい?」
「えーっと、そうですね。十分くらいあれば」
「そう。じゃあここで待ってるね。終わったら鍵を掛けるから」
「ありがとうございます」
冴綯はにこやかに絵利子に礼を述べると、自宅の内へ足を踏み入れた。
***
「サイッテーね」
「まったく同感だ。余罪が腐るほどありそうだとは踏んでたけど、予想以上だな」
『セリシール』のバーカウンターで、スツールに座ったママ・若朔瑞琉と、図抜けた美貌の少年が、なぜか意気投合して頷いているのを、冴綯は呆気に取られて見ていた。
彼女らの視線の先には、先刻、千明緋凪と名乗ったあの少年から渡されたスマートフォンがある。少年のほうは、カウンターに直接腰を下ろしていた。
スマートフォンは、緋凪が入って来る少し前から、瑞琉が見始めていたのだ。ロックをどうやって解除したものか、冴綯には皆目見当も付かない。
あの室橋英治のものだが、チラと見るだけで吐き気がする代物だった。
大半が女性のヌード写真で、中にはどうやって撮ったのか、行為の最中のモノまである。しかも、同じ女性ではなく明らかに複数人、そういった関係の女性がいると知れた。
もちろん、冴綯とそっくりの女性のモノも何枚か混じっている。改めて目眩がした。
考えたくはないが、この分では動画もありそうだ。
一体いつ、どうやってこんなモノを撮ったのか。冴綯(とそっくりな女性)以外のものもすべて合成と思いたいが、どう考えてもそれは無理がある。
けれども、冴綯には脳内のどこを探っても、結婚もしていない相手とこんな行為に及んだ記憶はない。
「この分だと強請タカリの常習ね」
「でもよ。コイツって金持ち坊ちゃんなんだろ? 何でその上、金なんか巻き上げる必要あんだよ。よっぽどガメツいんだな」
はあ、と溜息を吐く緋凪を見上げて、瑞琉は呆れたように目を細める。
「あんたもまだまだね、坊や。強請タカリってのは何も巻き上げるモノは金品に限らないわ。脅す人間が男で相手が女性なら、カラダが目的ってこともあるのよ」
「話の腰を折るようで悪いけどな、ママ。そーゆーことする奴を俺は“人間”と呼びたくない」
「でっ、でもっ、アイツ結婚しなかったら写真バラ撒くって……まさか、その女性たち全員に結婚迫ってるって言うこと?」
嘘でしょ、と冴綯は思わず割って入る。
「さてね。変態の思考なんて推察不能だ。分からねぇこと訊かないでくれるとありがたいな」
緋凪は肩を竦めると、瑞琉に手を差し出した。
「取り敢えず、それも宗史朗に預けてくるわ」
「ん、よろしくね。あ、そうそう、ロックは掛かってないから」
解除する必要もなかったというわけだ。
あいよ、と短く言ってスマートフォンを受け取り、店の外へ出て行った緋凪は、程なく戻って来た。
もう店が開く時間帯の為、ほかのホステスたちも三々五々、出勤して来ている。
瑞琉は、ナンバーワンホステスの三木原香純に、少しの間席を外す旨を告げると、冴綯と緋凪を誘って、控え室に引っ込んだ。
瑞琉専用の控え室は個室になっており、誰かが聞き耳を立てない限り、密談にはちょうどいい。
「適当に座ってくれる? 悪いけど、お茶は出ないわよ」
開店前だから、と言って、瑞琉は鏡の前の丸椅子に座った。
「期待してねぇから、いいよ別に」
長居もしねーし、と付け加えた緋凪は、戸口付近に陣取って、壁に背を預ける。
冴綯は、やや逡巡した末に、コートを脱いで、室内に設えられた机の前のパイプ椅子へ腰を下ろした。
瑞琉は鏡に向き直り、緩いウェーブを描いたセミロングを手早く纏め上げながら、口を開く。
「じゃ、早速本題に入るけど。二人共、改めて紹介は要らないかしら?」
言われて瞬時、冴綯と緋凪は互いの目を見交わした。
「……名前と性別の訂正くらいは済んでるけど?」
彼が苦笑と共に言ったので、冴綯はばつの悪さから顔ごと視線を外す。
「あーらま。やっぱり間違われたのね」
クスッと悪戯っぽく笑って振り返った瑞琉は、それだけの動作がひどく艶めいて見える。それでいて、嫌らしさを感じさせない。
「ねーぇ、凪君。やっぱりウチで働かない?」
コツコツとどこか小気味よくヒールの音を響かせて、瑞琉は緋凪に肉薄すると、細長い指先を緋凪の顎に絡ませた。
仰向かされる動きに逆らわずに顔を上げる彼と、瑞琉が見つめ合うその図は、やはり絵になる。彼らの年齢差は、間違いなく親子ほども離れているのにも拘わらず、だ。
「今時だから、女装の道具も結構充実してるわよ。本気で胸やら股間やらに手ぇやられるような売春の店じゃないし、凪君なら立ってるだけで稼げるわ。ノーメイクでもバレないと思うけどな」
おどけた口調と裏腹に、彼女の顔は真剣だ。緋凪は、ふっと息を漏らしながら「遠慮しとくよ」と答えた。
「百歩譲って、黒服かガードマンなら考えるけど」
「あら、残念」
瑞琉は肩を竦めて言うと、緋凪の顎先から手を離した。
「まあ、気が変わったらいつでも言って? カジノのバイトよりお手当はいいわよ」
「カジノ?」
黙って成り行きを見守っていた冴綯は、目を瞬く。
思わず漏れた疑問に、緋凪がこちらへ視線を向けた。
「そ。去年、カジノ法が施行されただろ。それに伴って、こないだ歌舞伎町にできた合法カジノで、夜は警備の仕事してる。週三だけどな」
それに、と挟んで、彼は瑞琉に視線を戻す。
「俺がそこでバイトしてる目的は、あんただって知ってるはずだろ」
(目的?)
一体何のことだろう。
けれども、瑞琉はもう一度無言で肩を竦めると、きびすを返して化粧台へ戻る。
「情報量でも負ける気はしないけどね。じゃあ、話を戻しましょうか」
「ああ。そこのサナさんのガードについて、だったっけ?」
「ええ。と思ったけど、ストーカーさんはもう捕獲されたと思っていいのかしら」
「時間稼ぎにしかならねぇだろうな。アイツがどういう金持ちかにも依るけど」
「……室橋コンツェルン社長の息子だって本人は言ってるわ」
冴綯は、目を伏せて、膝に置いたコートを握り締める。
「室橋コンツェルン?」
「名前は室橋英治。あたしもそれだけしか知らないけど」
「ふーん」
気のない返事をした緋凪は、スマートフォンを取り出して何やら操作をしている。
「やっぱり黙って東京湾に沈めときゃよかったな」
舌打ち混じりに物騒なことを言った彼は、手にしていたスマートフォンをボトムのポケットへしまう。
「まあ、あれだけ証拠があれば札束ビンタも効果はない、と思いたいけど、正当な裁きは厳しいかもな。親が世間体を気にするタイプならまだ、あんたの身の安全だけは確保できるかもだけど」
「どういうこと?」
「たとえば、奴の親っさんが、世間体を気にするタイプだと仮定すれば、こんなに余罪のある息子じゃ今後札束がいくらあっても庇い切れねぇ、って切って捨てるか、さもなきゃ適当な名目で海外に飛ばすかすると思う。そうすれば、少なくともあんたと国内で面突き合わせる心配はなくなるってこった」
「……そういうお金持ちの親って、子どもを切って捨てたりするの?」
冴綯は思い切り眉根を寄せて、素朴な質問を投げた。
そもそも、これまで散々親の金で難を逃れて来たからこそ、今の英治ができあがったのではないか。
そう含みを持たせた冴綯の疑問に、緋凪はボトムからスマートフォンを取り出して操作すると、冴綯に渡した。
画面には、室橋コンツェルンのあれこれが纏まったホームページが表示されている。
「そこにも書いてあるけど、あの英治って野郎は現総帥にとっては三男だ。でもって、今の正妻の息子……つまり元々は愛人の息子らしい。あとから正妻に据えた女の子どもなら、表面的には“血は繋がってねぇから関係ない”ってシラも切れるんじゃねぇかな。ケーサツだって、直接犯罪やらかしたわけじゃないコンツェルン総帥との血縁関係まで調べるほどお暇じゃねーだろうし」
すると、それまで沈黙していた瑞琉が口を開いた。
「でも、お父様にそれをやられたら、あのタイプは自暴自棄になる確率も高いわね。却って冴綯ちゃんの身に危険が及ぶコトはない?」
「ないとは言い切れねぇな」
冴綯の手からスマートフォンを取り、ボトムのポケットにしまいながら緋凪が答える。
「……じゃあ今の内に、冴綯ちゃんを地方に移すコトも視野に入れるべきね」
「地方……」
吐息混じりの瑞琉の言葉を反芻するように呟いて、冴綯は目を伏せる。
それもいいかも知れない。
英治も恐ろしかったが、それ以上に今はあの刑事たちが怖い。またどんな難癖を付けてくるか分からないことが、本当に恐ろしい。
しかも今度はどうやら殺人容疑だ。
「冴綯ちゃん?」
不意に名を呼ばれて、冴綯は顔を上げた。
「どうかした? 顔色悪いけど」
化粧を済ませた瑞琉が、心配げにこちらを覗き込んでいる。
「い、いえ……何でも」
相談したい、と思う気持ちと、話しても大丈夫だろうかという気持ちの狭間で揺れる心はそのまま歯切れの悪さになる。
短い沈黙が落ちたその時、ノックの音が割り込んだ。
「ママ? 香純です」
訪いを告げた声に、瑞琉が入室の許可を与える。
すでに開店の準備を整えた香純は顔を覗かせると、瑞琉に歩み寄り、何事かを耳打ちした。
「……分かった。すぐに行くわ」
頷いた瑞琉は、香純が退出するのを見届けると、冴綯に視線を向ける。
「冴綯ちゃん。今日はお店に出なくていいわ」
「えっ」
自分は何か粗相をしただろうか。
不安に襲われた冴綯に、瑞琉は苦笑に近い微笑を向けた。
「あなたに用があるって、今ケーサツの方が来てるそうなの」
冴綯は思わず瞠目し、次いで顔を伏せる。
あの警官たちには、日を改めるか、店に来るようにとは言ったが、まさかこんなに早く、もう来るなんて。
「あの、ママ……あたし」
どうすればいいだろう。
いずれその内言わなければならないとは思っていたが、ズルズルと先延ばしにしていた告白はまだだ。
瑞琉は、冴綯の抱えているモノを知らない。だから、警察が来たからと言って、冴綯を彼らに会わせないようにする義理も必要もないはずだ。しかし、何をどう解釈したのか、彼女からは意外な言葉が出た。
「うまく言って追っ払うから、今日は閉店までここにいて、凪君の家にでも泊まりなさい」
「は?」
直後、間抜けな声を上げたのは緋凪だ。
「おいおい、ママ」
「凪君も今日はここで冴綯ちゃんと過ごしてくれる? あ、もちろんヘンなコトはしない前提で」
「……いても別に、ママの言う“ヘンなコト”はしねぇけどさ……俺、このあと六時からカジノのバイト入ってんだけど」
「どこのカジノ?」
「今合法カジノっつったら、まだ一箇所だけだよ」
「そこ、確か私が紹介した所よね?」
途端、緋凪の威勢が衰える。
「……まあ……」
「なら、カジノ側に多少の無理は聞いて貰えるはずよ。私から連絡いれるから、今日は冴綯ちゃんに付いててあげて。お代はカジノの日給の倍額出すわ。それでどう?」
緋凪は更に沈黙したのちに、不承不承といった体で口を開いた。
「……誤解のないように言っとくけど、俺は別に金がどうとか、そういうことで動くわけじゃねぇぞ。商談に関しちゃ、あんたを信用してるからだ。あとでちゃんと説明あるんだろ?」
「もちろん」
艶やかに微笑むと、いい子ね坊や、と付け加えて、瑞琉は緋凪の頬にキスを落とす。
「じゃあ、冴綯ちゃんもそういうコトでいいわね?」
「でも」
「余計な心配しないの!」
キビキビと冴綯に歩み寄った瑞琉の人差し指が、黙れと言わんばかりに突き付けられる。
「ここはあなたみたいなワケアリの女の子の駆け込み寺なんだから、一度ウチで面倒見た以上、そうそう簡単にケーサツに売ったりしないわ。それとも、日本語の通じない警官諸氏と面会したい?」
反射で、ブンブンと首を横に振る。
瑞琉はもう一度、婉然と微笑すると、部屋をあとにした。
©️和倉 眞吹2021.