act.2 一時捕縛
「なっ、何だ君は! それを返せ!」
「返して堪るかよ。第一こーんなモン、世界にバラ撒いて見ろよ。肖像権の侵害じゃ捕まりゃしねぇけど、訴訟に持ち込むことはできるんだぜ? ある判例じゃ、総額二百万くらい賠償取られたって案件もあるしな」
英治をからかうように言ったのは、ずば抜けた美貌の持ち主だった。
年の頃は十代半ば。うなじを覆う程度の長さのある緋色の髪と、深い海を思わせるコバルト・ブルーの瞳が印象的だ。無駄な肉が一切付いていない華奢な身体に、レザー地の上着とティーシャツ、黒いジーンズのボトムを纏い、足にはスニーカーを履いている。
「ちょっと持ってて」
美貌の主は、英治の手から巧みにスマートフォンを避けつつ、自身の背中に冴綯を鮮やかに庇った。次いで、英治から奪った彼のスマートフォンを冴綯に渡す。
「ちょっ」
何するんだと言わんばかりに、英治が美貌の主の背後にいる冴綯に手を伸ばす。
だが、恐らく少女と思われる美貌の人物は、伸ばされた彼の手首を掴んで、素早く背後に捻り上げ、壁際に押し付けた。
「いっ、痛い痛い痛いぃ!!」
「はい、ちょっと静かにしてくれよー。おい、あんた」
「はっ、はいっ?」
突然視線を向けられて、冴綯は固まった。
「ママに電話掛けてくんねぇ?」
「まっ、ママって」
「『セリシール』のママだよ。瑞琉サン」
「あっ、えっとその」
ママの番号は、スマートフォンに入力してある。が。
「あたしのスマホ、今その人が持って」
そう、英治に取り上げられたままだ。
「ってことなんで、まずそのスマホ、出して貰えるか?」
「だっ、誰がっ、あ、痛たたたた!!」
「正当な理由もなく相手に怪我させると、フツーは暴行罪で逮捕、下手すると起訴、でもって間違いなく前科一犯、って展開になる」
痛みから逃れようと暴れまくる英治を、難なく押さえ付けた少女は、彼の耳元へ唇を寄せて、優しく聞こえる口調で続ける。
「それが嫌だったら、フツーはそこまではやらない――あくまでもフツーは、な」
「いっ、痛!」
「けど、生憎だがコレは正当防衛だ。何でかって? 今のあんたの言動は脅迫罪がきっちり成立するからな。『生命、身体、自由、名誉、または財産に対し、害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役、または三十万円以下の罰金刑に処される』って、ちゃーんと法律書にも載ってる。どこにかって? 刑法第二百二十二条だ」
「そっ、そんなものっ、金でも握らせればどうとでもなる!」
「あらら、そーゆーこと言っちゃう?」
「うっ、――――ッ!!」
英治は益々甲高い悲鳴を上げようとしたようだったが、少女の挙動のほうが早い。彼女は、どこからともなく取り出した布切れを、問答無用で英治の口腔に突っ込み、彼の背後に捻り上げた腕を掴んだ手に力を込める。
その光景は、見ているだけで痛そうだった。つい先刻まで英治に恫喝されていた冴綯でさえ、思わず彼が気の毒になってくる。
英治は、少女に掴まれていない手で、壁をバンバンと叩いた。プロレスか何かの試合で見掛ける、ギブアップの仕草に思える。が、少女は手を離す様子もなく、涼しい顔で言葉を継いだ。
「俺、そーゆー金の力で札束ビンタして公権力でも黙らせようって人種、この世で死ぬほど嫌いなワースト・スリーに余裕で入っちゃうんだよなぁ。まあ、そういう物言いが出て来るってことは、今までの人生、ぜーんぶそれで乗り切って来ちゃったんだろ。ある意味気の毒な奴だよな」
クスクスという笑いを合いの手に、少女は楽しそうに英治の耳元へ囁く。
一見、美青年の英治と、それを遙か上回る美貌の少女がそうしていると、顔の部分だけは絵になった。そう、この光景が無声映画で、且つ英治の表情が穏やかなそれなら、という但し書きが必要だが。
「さて、お坊ちゃん。俺がこのままもうちょっと力を加えるだけで、あんたの腕の骨はぽっきりイきます。そうして欲しくなかったら、彼女のスマホを素直に返してください」
「ふふぁふぇふは、ふぁれふぁふぉんなふぉふぉ!!」
訳すると、『ふざけるな、誰がそんなコト!!』だろうか。
しかし、少女は英治の言葉を見事に異訳した。
「えー何々。そうしたら俺が脅迫罪に問われるって? ご心配なく。その前にあんたがまず強盗罪と脅迫罪に問われるから。彼女のスマホを強奪して、尚且つ彼女を脅迫した罪だな」
「ふぁふぁふぁ、ふぉんふぁふぉふぉふぁふぁふぇふぇふぁいふぇふふぇふぃふっふぇふぃっふぇふふぁふぉう!!」
「だからそんなモノは金で解決できるって? しょうがねぇなー。じゃあ俺が犠牲的精神を払って、あんたへの脅迫罪と暴行罪でしょっぴかれてやるよ。俺は前科が付くけど、あんたは骨折で痛ーい思いをして入院、しばらく彼女には近付けないわけで万々歳だ。骨折の治療まではきょうびの医療技術でも金の力じゃ時短は利かないからな。ま、個人の自然治癒能力で差はあるだろうけど。ちなみにその場合、折角しょっぴかれるのに腕一本じゃ詰まらないし割に合わないから、死なない程度にあちこち何本かヤらせて貰うけど、構わないよな? 金持ち坊ちゃんなら最先端医療のお世話になれるから、金の心配は要らないだろーし」
冴綯は、思わず「ざまぁみろ」と言いそうになり、ついでにニヤケて吹き出しそうになった口元を押さえる。
少女の声音は、掛け値なしの本気だ。英治がこれでもスマートフォンを返さない意思を示せば、直後には彼は身体の骨を数本折ることになる。
冴綯が英治の立場なら、絶対に御免だ。間違いなく、実行される前に白旗を揚げるだろう。
「さ、どうする? 俺はこう見えても結構慈悲深いほうだからな。猶予は五秒くらいくれてやるからその間に決めろ」
五秒。たったの。
そのどこが慈悲深いんだか、というか、そもそもこの体勢からしてどの辺りが慈悲深いのか、懇切丁寧な説明が欲しい。――と、英治が思ったのは冴綯にも分かった。
その間にも、少女は構うことなく容赦のない秒読みを始める。
残り一秒まで来たところで、英治はようやく白旗を揚げた。辛うじて自由の残っていた左手で、冴綯のスマートフォンを取り出す。
少女が、冴綯に向かって顎をしゃくったので、冴綯は慌てて英治の手に飛び付いてスマートフォンを奪還した。
その後、冴綯が再度用心深く英治から距離を取るのを確認すると、少女は冴綯に向けて口を開いた。
「おい、あんた。名前は?」
「え、あ、た、鷹森冴綯、だけど」
「そうか。じゃあ、サナ。俺はこういうモンだ。ママにちょっと遅れるって伝言よろしく」
少女は、油断なく引き続き英治を押さえ付けつつ、空いた手で懐を探り、取り出した紙切れを冴綯に向かって投げる。
何とか空中でキャッチしたモノを確かめると、それは紙切れではなく名刺だった。
中央には『千明緋凪』という印字があり、その横には少女が便利屋であることと、彼女の連絡先と思しきメールアドレス、電話番号が書かれている。
「……チアキ、ヒ、ナグ……?」
「やっぱ仮名でも振ったほうがいーかなー……千明緋凪って読むんだよ」
「新しいホステスさんかと思ってた」
「ホステス?」
途端、彼女は眉間にしわを寄せた。
「念の為に訊くけど、ホステスって女だよな?」
「え、ええ」
言葉遣いはともかく、この美貌だ。冴綯の勤めるセリシールで働くには髪の色がいただけないが、元の色に戻しさえすれば雇用に問題はない。彼女さえその気なら、黙っていても容姿だけでたちまち売れっ子になるだろう。
「あー、それ、ママにも言われたことある。女装してやんないかって。バレないほうに一億賭けるとまでな」
「…………え?」
彼女の言ったことを理解するのに、たっぷり十秒は掛かった。
――女装。バレない。一億賭ける。
「……女装?」
いや、理解はできなかった。女装、とは普通、男性が女性の格好をすることを指すはずだ。そこで思考は停止する。
「ああ。よく間違われるんだけど、俺男だから」
「お、おと??」
今何て言った――この美貌の持ち主が、まさかの男だって?
「はい、呆けるのも考え込むのも、ひとまず店に入ってからやってくれる? あと、ママに伝言するの忘れないでくれよ。無断遅刻するとあとが怖いから」
***
鷹森冴綯と名乗った女性が、何だか分からないショックで固まっていた足を、ギクシャクと動かしてスタッフ専用の通用口へ消えるのを見届けると、緋凪はようやく男の手を放した。
「ぶはっ」
途端、男は緋凪から距離を取り、口に突っ込まれた布切れを手で引っ張り出す。
「はぁ、はぁ……ったく、外見の割に何て女だと思ってたら、男だったとはね……クッソ、馬鹿力め」
男は、思う様顔を顰め、ねじ上げられていた右手上腕部をそろそろと撫でる。
「このままタダで済むと思わないコトだね。その美貌で、女性なら酌量の余地もあったんだが……」
緋凪は面白がるようにクスリと笑って、唇の端を吊り上げた。
「へぇ? フェミニストなんだな」
「誤解しないで欲しいな。僕はこう見えても女性には優しいんだ。逆に同性には厳しいから、僕には本当の性別を隠しておくべきだったね、千明緋凪君? 特に、僕を不当に痛め付けた男のコトは忘れないんだ」
「ふぅん。一度名乗っただけなのに、意外に記憶力もいいんだな。名刺、必要なかったか?」
今度は嘲るように笑いながら肩を竦める。
脅し文句に怯えもしないのが癇に障ったのか、男は唇を噛み締めた。
「君も覚えておいたほうがいい。金はすべてに於いて最強なんだ。相手が警官だって、金を握らされれば黙る。君だって目の前に見たこともない大金を積まれれば、目の色を変えるさ。冴綯も僕と結婚すれば、それでよかったと思う日が必ず来る」
程々端正な顔立ちが、微笑の形に歪む。
緋凪は、ただ呆れたように目を細めて、深い溜息を吐いた。
「悪ぃけど、目の色がちげーのは生まれ付きなんだ」
「その目の色じゃないよ」
わざと放ったボケにしっかりツッコまれるが、それを敢えて無視して言葉を継ぐ。
「それに、ヒトの恋路をとやかく言うつもりは更々ねぇんだけどさぁ。ホントに振り向いて貰いたかったら、あんたのやり方は逆効果だぜ? 北風と太陽の寓話、知ってるだろ?」
「そんなコトは関係ないさ。冴綯と僕は愛し合ってるんだ」
相手を思い切り脅迫した上に、思い込み型ストーカー。おまけに脅迫している意識がないとなると、処置なしである。
ここで、『ホントに思い合ってんなら相手が嫌がるわけないだろ』などと説得を重ねても通じるまい。日本語が。
通じない言語でいくら説得しても、時間と労力の無駄というものだ。
「さあ、次は君の番だな。まず、僕のスマホを返して貰おうか」
「え」
パチクリと目を瞬いて、緋凪は「あ、ワリ」と心籠もらない謝罪をした。
「アイツに預けたままだ。あの、サナとか言う女」
「じゃあ、返して貰う為に彼女に会っても文句はないね」
「いーや、ダメだね」
即座にスタッフ通用口へ入ろうとする男の進路に、緋凪は大股で割り込んだ。
「このまま預からせて貰う。大事な証拠物件だからな」
「どういう意味かな」
「あんたに渡すとリベンジポルノに手ぇ貸すコトになりそうだから、勘弁してくれよ。必要なら新しいの買えば? 金持ち坊ちゃんなら、スマホの一台や二台、はした金だろ?」
前髪を掻き上げながら、不敵に笑って見せる。
男は、苛立ったように「だから」と挟んで続けた。
「彼女と僕とは愛し合ってるんだ。あんな写真、思い合う恋人の間じゃ撮るのに許可なんて必要ないんだよ」
「百歩譲って愛し合ってるとしても、そんなスゴいトンデモ屁理屈は初めて聞いたぜ。統計、どっかにあんの?」
「こっちこそ、君の屁理屈が聞きたい訳じゃない。どいてくれ。彼女の目を覚まさせないと」
性懲りもなく男は緋凪の肩に手を掛け、クラブの建物へ入ろうとする。
「あんたもいい加減目ぇ覚ませば?」
肩に掛かった手首を掴み様、男の足下を払う。悲鳴と共に倒れ込んだ男の胸部に足を乗せて、骨を折らない程度に体重を掛けた。
そうしながら、掴んだ腕も放さない。
「さっきので、俺の間合いに入るとどうなるか、学習しなかったわけ? 記憶力はいいはずなんだろ、お坊ちゃんよ」
「って……貴様、何を」
「あんま暴れねーでくれると有り難いな。手と違って足ってのは加減が難しいんでね。あんたも無駄にアバラの一本とかヤりたくないだろ?」
すると、悔しげに睨み上げながらも、男は緋凪の足の下から抜け出そうとする努力をやめた。
「そーそ。物分かりは案外いいんだな。助かるぜ」
それでも油断することなく男の言動に注意を払いながら、緋凪は自身のスマートフォンを取り出して、画面を親指だけで操作する。
『――はい、椙村』
「あ、もしもし、宗史朗? 俺。緋凪だけど」
ツーコールで電話に出た相手に、緋凪は前置き抜きで本題に入る。
「今ちょーっと、足の下にストーカー及びリベンジポルノ予備軍捕まえてるから、引き取って自宅聞き出して、余罪追及してくんね? 叩けばたっぷりホコリが出て来そうだぜ」
『ちょっとちょっと、緋凪君? 今日僕非番だって言わなかったっけ』
今朝家で別れたばかりの彼は、一応の個人の権利を主張した。
『警察案件ならフツーに110番してくれる?』
「あんたまでその辺のケーサツと同じこと言わねぇで欲しいな。被害者が、多分だけどワケアリなの。頭の固い一般のケーサツに駆け込める案件じゃねーんだよ」
途端、宗史朗は押し黙った。彼も、ストーカー被害ではないが、身内が理不尽な事件に巻き込まれた経験がある。その為か、警官としては模範的なことを言っていても、それが彼個人としては是としていないことのほうが多い。
「まあ、いいぜ別に。あんたが引き取りに来なかったら来なかったで、足に重石付けて東京湾にでも沈めるから。俺、こーゆー人種に掛ける情けって全っ然持ち合わせてねーし。それ差し引いても、こういうクズ男は、死んだほうが世の為人の為だしな」
意図せず自分でもゾッとするような温度の、低い声が喉から滑り出る。チラと男を見下ろすと、彼の顔が面白いように青ざめた。
電話の向こうで、宗史朗が溜息を吐くのが聞こえる。
『分かったよ。今どこ』
このままだと、言葉の内容を実行し兼ねない。そんな風に思っているのが、ありありと分かる声だった。
緋凪は、苦笑と共に、「銀座のクラブ“セリシール”のスタッフ通用口前」と短く答える。
『了解。今からそっちに向かうよ。……車だからそうだなぁ、三十分くらいで着けると思う』
「助かる。朝霞にも連絡付けとくから、こいつ拾いに来てからウチに回って彼女も乗せてってよ。で、そのままホシの自宅にチョッコーよろしく」
すると、再度溜息と共に『あのね、緋凪君』という堅い声が返った。
『念の為に言っとくケド、フツーはそういうの、令状取らないとできないことになってるの。知ってる?』
「知ってるよ。でも、多分正攻法じゃ無理っぽいぜ。札束ビンタでみーんな黙らせて来たみてぇだから。どこの金持ち坊ちゃんだか知らねーけど、大方親父が権力のある財閥とか、じゃなきゃケーサツの上層部にコネがあったり、暴力団と癒着してたりすんじゃねーかな」
瞬間、金切り声が耳を裂きそうになる。
『そんなヤバいの独断で足の下に敷かないでっ!! 君、一応一般人で未成年なんだよっっ!?』
素早く目一杯耳からスマートフォンを離すが、それでも充分聞き取れた。
「うっせーな。そんなヤバいのを札束ビンタで放置しとくケーサツのほーが問題あるだろ」
札束ビンタされれば、無実のガキに冤罪着せるのにも一所懸命にもなるしな、と口には出さずに付け加える。
そんな内心を知ってか知らずか、宗史朗はばつが悪そうに口籠もった。
『まあ確かにそういうヒトもいるのは否定しないけどね? 暴力団との癒着って、ホントに本人が言ったの?』
「知らね。ホントだとしても言うわけねぇじゃん。確認取っとくか? あんたが到着するまでに吐かせるってのも面白そうだ。暇潰しにはちょーどいいし」
言ってチラリとまた踏んづけている男を見ると、やはり彼は怯えた顔で、どういう意図があるのか、ブンブンと首を横に振る。
奇しくも同じタイミングで、
『やめて。ホントにやめて。それはこっちでやるから。じゃないと僕が朝霞さんに殺されるし』
と半ば泣きそうな声で宗史朗に懇願されて、緋凪は思わず吹き出した。
©️和倉 眞吹2021.