Prologue
「あーらオーソヨー、なーぎ君」
リビングに入ると手痛い挨拶で迎えられた。緋凪は悪夢の追い討ちに遭ったような気分で、その綺麗な顔をゲンナリと曇らせる。
「……寝坊したのは悪かったよ」
シャワーで悪夢の余韻を洗い流していたら、結局現在午前八時過ぎだ。朝食の準備どころか、カフェの下準備もアウトな時間帯で、今日カフェは臨休決定である。いつもなら六時には起きて、二つの準備を同時進行しているところなのだが。
「うっわ、緋凪君何そのカッコ、寒々しい」
さり気なくその場にいた宗史朗曰くの『寒々しいカッコ』とは、ジーンズのボトムにタンクトップ、肩先にタオルだけを引っかけたそれだ。
確かに十一月も半ばになれば、こんな格好は寒々しく見えるかも知れない。
「あんたはいつ来たんだよ、宗史朗」
しかし、宗史朗の言い分には頓着なく、頭髪に残った水分を肩に掛けたタオルで拭いながら、冷ややかな流し目をくれる。それをものともせず、「今さっきかな」と宗史朗はのほほんとのたまった。
「朝霞さんに叩き起こされてさー。緋凪君が起きて来ないからコンビニで何か買って来てくれって」
「……なーんで俺を起こさないかな、朝霞サンは」
「その前に自分で買いに行ってって話だよね」
「律儀に買って来た奴が言う台詞じゃねぇだろ」
それにしても、自分でどうにか手料理をしようとしなくなっただけ進歩したものだ。何せ、彼女の料理の腕と来たら本気で壊滅的なのだ。
以前、宗史朗に聞いた『彼女は料理が得意じゃない』という評価は、大袈裟でも謙遜でもなく事実だった、と緋凪も自身の舌ではっきりと確認した。しかも、緋凪と同居し始めてしばらくはその自覚がなかったのだから、権力を持った暴力団よりある意味タチが悪かった。
――というのは、緋凪も宗史朗も賢明にもこの場では口には出さなかったけれど。
他方、緋凪にやはり冷えた目で睨まれた朝霞は、珍しく言い淀んだ。
「……うん、まあねぇ。お養母様もこう見えて気ぃ遣うこともある訳よ」
「どこに気ぃ遣ってんだか」
吐息混じりに返して肩を竦めたものの、緋凪は何に気を遣われたのかを何となく悟っていた。大方、うなされてるのを垣間見られたのだ。
それならそれで早く悪夢から救ってくれればいいものを、そうしたらしたで多分そのあとの対応に、朝霞自身が困るから放置を選んだのだろう。
(……それって結局、気ぃ遣われてんのか遣われてねぇのか……)
はーっ、と何度目かで朝から疲れた溜息を吐きながら、緋凪はキッチンに回る。細口ドリップポッドに水を入れ、火に掛けた。
「コーヒーだけでも淹れるけど、宗史朗も飲む?」
「わあ、いいの?」
「まあ、俺の寝坊のトバッチリ食わせたみたいだから、今日は無料で淹れてやる」
「わーい、ありがと」
皮肉混じりの言葉にも素直に喜べるのが、この男の長所だと思う。
「ところで宗史朗」
「何?」
「あんた、叩き起こされたって言ったけど、今日仕事は?」
三年前の事件のあと、宗史朗は本人の希望通り警察学校へ進み、今は刑事として働いている。彼の兄・佳月の飲酒運転に対する疑いだけは、ドライブレコーダーの映像・録音と、周囲の友人知人の証言で晴れたからだ。
ついでに言えば、車への細工されていたかも知れない件も、ドライブレコーダーにバッチリ映っていたらしい。もっとも、犯人の人相などは未だ分からないが。
彼の所属は、このカフェもある地域の所轄・知來東署一課らしい。
「お休み。キチョーな朝寝坊できる日だったんだけどね」
「へーへー、すいませんー」
ベッ、と舌を出しながら、湯が沸くのを待つ間に、サーバーとドリッパーを用意する。ドリッパーにペーパーフィルターをセットしてから、人数分のコーヒー豆を挽いて、フィルターに放り込んだ。
***
『理不尽な困り事、相談に乗ります』――
その文言を、メニューの一番端っこに備えたカフェ兼古書店を、養母である朝霞が開店したのは、二年ほど前のことだ。
路地裏に居を構える、店舗と店舗の隙間にある路地に立つこぢんまりとした立て看板が、辛うじて道行く人に、この奥にカフェがあることを教えている。看板には、『カフェ瀧澤古書店』という店名と、『こちら』という文字と共に矢印が書かれていた。
人がようやくすれ違えるくらいの細い通路を抜けると、開けた場所に出る。前庭は、縦幅三メートル、横幅五メートルほどだろうか。
オープンカフェとして使用されている庭には、全部で五組の丸テーブルと椅子のセットが並んでいる。
その奥に、ひっそりと建っている本店舗である建物は、レトロという言葉がピッタリなデザインだ。壁は石造りで、蔦が生い茂っており、窓をも覆い隠さんばかりに張り付いている。だが、手入れが行き届いていないとは映らない。店員である緋凪が言うのも何だが、寧ろ趣があっていい。
分厚そうなドアは木製で、上部にポツンと明かり取りの磨り硝子が取り付けられている。
コロン、とカウベルの音を立てて、緋凪は店の外に出た。腕を突き上げ伸びをしてから、庭先に向き直る。
今日はやむを得ずの臨休だが、一応黒いソムリエ・エプロンに、白ワイシャツと黒のスラックスを、均整の取れた無駄な肉の一切付いていない身体に纏っていた。
庭先に設えてあるテーブルセットの拭き掃除をする為だ。外にあるそれには時節柄、毎朝霜が降り、昼になるに連れ水滴に変わる。手入れを怠ると、あっという間に錆がいってしまう。
(やっぱこれ、夜は中に入れたほうがいいよなぁ……)
脳裏でぼやきながら、緋凪は籠に入れて持っていた乾いたタオルでテーブル拭きに掛かる。
置く場所がないし、そもそもテーブルのほうは安定をよくする為、脚を地面へ埋めてしまっているから移動のしようがない。というのが朝霞の言い分だが、結局こうしてメンテナンスをするのは緋凪だ。
彼女は店長という名分で店にいるのだけれど、料理が無能な時点で店を回す役には立っていない(古書店の店番はできてるよ、とは朝霞の言だが)。
バイトを雇うということも頭によぎらないでもないが、裏の商売の都合上、そうおいそれと外部の人間を関わらせるのも憚られる。
なぜか今日は朝から溜息ばかり吐いている、と思いつつもまた一つ吐息を漏らした直後、ボトムに突っ込んであった携帯端末が振動で着信を告げた。
取り出してみると、画面には割と最近知り合った相手の名前とナンバーが表示されている。
「はい、もしもし千明」
『あ、凪君? あたし、瑞琉』
耳に滑り込んできたのは、明るい声音だ。
「分かってるよ。久し振りじゃね?」
『あらやーだ。そんなにお姉さんに会いたかったぁ?』
クスクスと楽しそうに笑う相手に、緋凪は見えないと知りつつも頬だけに苦笑を浮かべた。
「今日のご用は雑談ですか、お姉様」
『ううん、真面目なご用よ。急で悪いんだけど、今から来られない?』
「今からって、店に?」
『うん、そう。それともそっちのお店、忙しい?』
「いや、今日は臨休になってるから……」
手にしていたタオルをテーブルの上で動かしながら、脳内でその後の予定を思い返す。
「午後の四時くらいまでなら空いてるけど」
『そ、よかった。じゃあ、待ってるわ。あとでね』
©️和倉 眞吹2021.