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act.12 逃走劇

 楠井くすいが凄まじい形相で狂ったようにドアのガラスを叩きながら遠くなるのを一瞥いちべつすると、緋凪ひなぎはきびすを返し、ホームの階段を駆け上がる。

 改札口に設置された時計は、八時になろうとしていた。

 リュックに突っ込んであった度ナシの眼鏡を掛け、少しでも顔を誤魔化すとスマホを確認する。

 自分のスマホから確かめても、緋凪の手配はバッチリ掲載されていた。もしかして、楠井の携帯から見た時だけそう見えるよう偽装されたものかと思っていたのに、微かな期待は裏切られる。

 よく考えれば、未成年を写真入りで公開指名手配するなんて余程でないと違法行為だ。

 しかし、仮にマスコミに叩かれたとしても一時的なことだし、東風谷こちたに署や小谷瀬こやせ陣営は『出したモン勝ち』くらいの認識なのだろう。

 実際、謝罪会見をして『二度とこのようなことがないよう、真摯に対処して参ります』などというお決まりの文句を言って反省の姿勢を見せたところで、一度ネットの海に出てしまった写真や情報は、回収・削除は実質永久に不可能なのだ。世間だって、『今後の対応』とやらを見守るしかすべはなく、被害にあった人間に同情することくらいしかほかにやれることがない。それを、向こうもよく分かっているのだ。

 舌打ちを一つ挟んで次の電車が到着する一分前にホームへ降りながら、緋凪は皓樹ひろきにもう一度連絡を取った。

『……もしもし』

「皓か?」

『凪……』

 答えた声は、どこかおかしい。

「皓?」

 言いながら、緋凪は眉根を寄せる。何かあったのか、と問おうとした時、皓樹の声が『どうしよう、俺どうしたら』と続けた。

「何だよ、どうした?」

『おやっさんが……おやっさんが』

「おやっさんて……谷塚やつかのおっちゃんか? どうかしたのか?」

『どうしよう、どうしたらいい』

「落ち着け、皓。まず深呼吸しろ」

 緋凪自身、抜き差しならない状況だというのに、助けを求めたはずの相手を先に宥める羽目になる。しかし、相手にまず落ち着いて貰わないことには話もできないし、あっさり見限って『掛け直す』というのも薄情だ。

 緋凪に言われた通り、深呼吸でもしているのか、向こうの沈黙が続く。そのあいだに、次の電車が来た。

 緋凪は、皓樹の応答を待つあいだに乗り込み、できるだけ乗客の少ない車両を探して歩き出す。

 結局先頭車両まで来て、足を止めると同時に、『悪い』と耳元に応答があった。

「おっちゃんがどうかしたのか。訊いて大丈夫か?」

『……今さっき……ネカフェの近所にある公園で……な、……亡くなってるのが発見されて……』

「ええっ!?」

 反射で頓狂な声を上げてしまい、緋凪は慌てて口元を押さえる。車内に目を投げると、こちらを見ていた数人の乗客は、さり気ない振りで緋凪から視線を外した。

 音量を抑えるよう意識しながら、緋凪は口元を覆って「どういうことだよ」と問いを重ねる。

『分からねぇんだ。宗さんにネカフェの近くまで送って貰って、730のブースに戻ったらその前に警官がいて……ここに住んでる谷塚晃史(あきひと)さんを知ってるかって訊かれて……一応息子みたいなモンだって答えたら、き、今日の朝……公園で遺体になって発見されたって……』

 緋凪は、“大丈夫か”と問おうとして、唇を噛んだ。大丈夫なわけがない。仮にも、養父だった人を突然失くしたのだ。訊かなくても分かることを訊くのは、たった今開いたばかりの傷口に、容赦なくマスタードでも擦り込むようなものだ。

 そんな精神状態の彼に、電話した用件を――東風谷署のホームページへ侵入して緋凪の手配記事を削除して欲しいと――打ち明けるわけにはいかなくなった。

 自分でどうにかしなくては。

(……それにしても)

 このタイミングで、緋凪の両親だけでなく谷塚まで命を落とすとは、あまりにもできすぎている。これも、小谷瀬の差し金だろうか。

『……凪』

「何」

『……俺……今、警察から出たんだけど』

「警察? どこの」

『ウチの……ネカフェの住所の管轄で、久和くわ北署。俺の身元も洗われてさ、どうも……ヤバい雰囲気だったから』

「ヤバいって何が」

 今現在、緋凪自身かなりヤバい状況だ。心当たりが多過ぎて、皓樹が言うのがどの“ヤバい”なのか、見当が付かない。

『俺、実は家出少年なんだよ。実の父親の虐待に耐え兼ねて逃げ出してストリートチルドレンになったってヤツ。母親は俺が九歳ん時に俺をDV夫の人身御供ひとみごくうにして逃げ出して、以来会ってない。もちろん、居場所も知らないし。このままだと最悪一度親父ん所に帰されるから……当分姿眩ますわ』

 ある意味、皓樹は大丈夫と言えなくもない、と緋凪は思い直す。

 人間、本当に非常状態に置かれたら、身内をくした悲しみにのんびり浸る暇はないと、緋凪自身痛感している。

『落ち着いたら、捨てアドに連絡する。宗さんと朝霞あさかさんにもよろしく言っといて。じゃ』

 必要なことだけ言って、皓樹の通信は途切れた。

 緋凪は、ツー、ツー、という通信切れの音を無情に耳元で囁き始めた端末を、ノロノロと下ろす。

(……やっぱり大丈夫じゃないってことだな)

 通常なら、緋凪から来た連絡なのだから、用件を訊くだろう。けれども、最初こそ動転して、誰かに状況を聞いて欲しいと思っていただろう皓樹は、緋凪と言葉を交わす内にあっという間に冷静さを取り戻した。

 そして、自分の状況だけ整理して通話を切ってしまった。

 その上、彼は養父である谷塚の敵討ちや、死の真相を探ることより自分の身の安全を優先した。

 けれども、それを薄情だと責める気にはなれない。緋凪だって、たった今さっき、両親を残して逃げ出して来たのだから。

 いつしか待ち受けに戻った画面のスマホに目を落として、緋凪はそれを再度操作した。

 そして、宗史朗そうしろうと朝霞のアドレスに連絡を入れる為にひらいた自分のアドレスに、彼らから連絡が入っているのに気付く。

『待機完了。いつでも連絡可』

 その短い文章を読んで少し迷った末に、緋凪は谷塚と皓樹の状況と、ついさっき楠井に遭遇したことをしたためて送信する。それだけ済ませると、頭が妙にすっきりしてしまった。

 運転席のすぐ後ろの壁に背を預け、ぼんやりと窓の外を眺める。

 手近な所は高架下や住宅街が闇に沈んで見えたが、遠方は、黒く塗りつぶした場所に、色とりどりの発光する宝石をぶちまけたようになっている。

 これからどうするのか考えなくてはならないのに、頭がうまく働かない。どこか――脳内の一部が麻痺してしまったような気がした。


***


 一つ目の乗換駅――逢津名台あづなだい駅で降りたあと、緋凪は一つ深呼吸して気を引き締め直す。とにかく、朝霞か宗史朗と落ち合うまで、気を抜いてはだめだ。何があるか分からない。

 連絡通路を通ってホームを移動し、碩水茶屋おおみぢゃや駅行きに乗り込む。そこで乗り換えれば、品川まではもうすぐそこだ。

 緋凪は全身で緊張しつつ、キャップの鍔を前にし、目深にかぶり直した。直後、ボトムの端末が震える。

 画面を確認すると、朝霞からの通話着信だった。

 視線だけで無意識に左右を確認し、なるべく人の少ない場所を探しながら電話口に出た。

「……もしもし」

『もしもし、凪君? 今どこ? 無事?』

「無事は無事だよ。ちょっと待って今……」

 人の少ない場所に移動するから、と続けようとして、緋凪は息を呑んだ。

「……そのまま、ゆっくり進め。大声を立てるなよ」

 耳元に低く落とされた声音に、首筋が粟立つ。知らない男の声だ。そして、声の主は緋凪の肩に片腕を回し、通常の音量で「久し振りだな。元気だったか?」と親しげに声を掛けた。

 緋凪はとっさに、通話状態にしたままの端末を、ボトムのポケットへ滑り込ませる。

「う、ん……まあね」

 ぎこちなく答えながら、緋凪は男にせっつかれるまま歩を進めた。

 脇腹にいつの間にか、何かが押し当てられているのが分かる。衣服の上からではそれが銃口なのかナイフの切っ先なのかは判断が付かなかった。だが、引き金を引くなり押し込まれるなりされれば、とんでもないことになるのは確かだ。

 促されるまま歩いて行くと、またも先頭車両に行き着いた。

 電車で空いているのは、時間帯にもよるが、大抵先頭か最後尾の車両――つまり、ホームから乗る時階段から遠い場所と相場は決まっている。

 人目を避ける為だろう。男は運転席のすぐ後ろの、広い空間まで緋凪をいざなった。

 そうして緋凪を角へ追い込み、自分が緋凪と第三者との盾になるように立つ。男はそれきり、何も喋る気配がない。

「……少しいいか」

 比較的小声だった所為か、男は「何だ」と応じた。

「あんた、結局何がしたいんだよ。要求は?」

「このまま俺と来てくれればいい」

「どこの誰かも分からないのに付いてくバカいないぞ。小学生だって、知らない奴にホイホイ付いてくなって教わるのに」

「俺は楠井くすいから要求を受けてここにいる。お前が不用意に逃げ出すから、俺の出番になったんだ。お前こそ、少しは大人に従うってことを覚えたほうがいい」

(楠井?)

 あの男は、妻子が質に取られたと言って、半ば半狂乱で緋凪を警察へ連れて行こうとしていた。あのまま大人しく引っ込むわけはないとは思っていたが、まさかこういう手段に出るとは。

「……あんた、楠井とはどういう関係?」

 振り返ることを許されそうにない空気に、緋凪はまだ相手の顔も確認していない。

 しかし、男はにべもなかった。

「お前が知る必要はない。俺がいいと言うまで口を閉じてろ」

 言い終えるなり、男は脇腹に押し当てた凶器を、緋凪の身体に食い込ませた。

 身体を強張こわばらせ、男から見えない角度にある顔を歪める。怖いか怖くないかで言えば、今最高潮に怖い。

 春生はるきが亡くなってから裏社会へ足を踏み入れ、およそ九ヶ月ほどのあいだ、その世界で生き抜く為の技術を叩き込まれては来たものの、実際にそこの住人と命のやり取りをしたことはない。

 ただたった今、彼らがいつも相手にしてきた不良少年たちとは、根本的に種類が違う相手だと心底思い知らされた気分だ。

 怖い、この男を押し退けて今すぐここを離れたい。それよりも脇腹にあるだろう物騒なものを退かして欲しい、それさえ退けてくれたら何でも言う通りにするから、と喚きたくなるのを必死でこらえた。

 暴れるように脈打つ心臓を宥めようと胸元に拳を当てる。ボトムのポケット中で朝霞に繋がったままの回線が、辛うじて緋凪の正気を保たせていた。

(……落ち着け)

 今し方、皓樹に向けた言葉を、程なく自分に向けることになるなんて、思ってもみなかった。目を閉じて、深呼吸を繰り返す。

 次の駅は、目的の碩水茶屋駅だ。急行だから、停車駅は少ない。時計が見られないので何とも言えないが、走行時間はさほどなかったはずだ。

 とにかく、降りたら速攻で駆け出す。それしかない。

 脇腹に当てられている武器が銃かナイフかは分からないが、標的に突然駆け出されたら相手もいくらかは動揺するだろう。銃ならいきなり人混みで発砲するわけにもいかないし、ナイフなら近接武器だ。離れた相手をどうにかしようと思ったら、投げる以外に手段はない。

 もっとも、これらの予測はすべて、常識的な範囲での話だ。

 ここまでで十二分に非常識なことをやってきた連中相手に立てる予測としてはあまりにも甘いと言わざるを得ないのは、緋凪にも分かっている。

 分かってはいるが、ほかにどうしようもない。とにかく行動するしかないことだけは確かなのだ。

 車内放送が、次の停車駅が近いことを告げる。

 もう一つ深呼吸し、伏せた目を上げると、鏡のようになったガラスに映った自分と目が合う。

(最悪、命があればそれでいい)

 掠り傷も、身体のどこかに負う傷も、ひとまず無視する。痛くてもその場にうずくまることだけはしない。

 それだけを決めると、緋凪はガラスの中の自分に目だけで頷いた。

 直後、電車がスローダウンし、駅の風景が徐々に見え始める。

 時刻は午後八時前後だろうか。だのに、東京の真ん中だからか、人はそこそこいる。

 完全に電車が停車する直前、背後の男が「降りるぞ」と声を掛けた。無言で首肯すると、男は緋凪を扉の前へ立つよう促す。

 ただ、降りるも何も、この電車はここが終点なのだ。トレイン・ジャックでもやらかさない限り、この車両に乗ったままこの先へは行けない。

 周囲に怪しまれない為か、この時の男は、緋凪の肩に腕を回してはいなかった。しかし、凶器だけは変わらず腰の辺りにポイントされている。

『碩水茶屋駅。碩水茶屋駅……』

 扉が開く音と共に、ホームにアナウンスが流れる。この電車は折り返しらしく、それまで乗っていた客と入れ替わりに、ホームで待っていた人たちが乗り込んで行く。

 乗客の一団と完全にすれ違った瞬間、緋凪は何の準備動作もなく駆け出した。

 けれど、男は先程の楠井と違ってプロだった。そんな動きはお見通しとばかりに緋凪の襟首を簡単に掴んで引き戻す。

「……ナメられたもんだな。痛い目見ないと分からないか?」

 舌打ち一つすると、緋凪は無言で次の攻撃に出る。襟首を掴まれているのを利用し、男の腕に体重を預け、思い切り足を後ろへ蹴り出した。

「ッ……!!」

 ヒットした向こう臑は弁慶の泣き所とも言われる急所だ。さすがのプロも、たまらず襟首から手を放してうずくまるしかない。

 自由になった瞬間、緋凪は猛然とダッシュした。一瞬、武器を叩き落としてからのほうがいいかと思ったが、即座にその考えは捨てた。

 こういう状況に慣れない自分には、欲も迷いも命取りだ。

 とにかく、命を持ったまま朝霞たちと合流する。それが最優先だ。

 階段を駆け上がって、周囲に目を走らせる。しかし、焦るほどに目的とする品川行きに乗るのにどのホームへ行けばいいのかが分からない。仕方なく改札へ走り、駅員に訊ねた。

 教えられたホームへ走るが、電車はまだ来ていない。案内の出ている電光掲示板を見ると、電車が来るのは五分後だ。

「くそっ……!」

 覚えず、悪態が漏れる。こんな状況の五分は永遠にも等しいが待つしかない。

 やはり全力で警戒しながら緋凪は階段の裏側の空間へ身を隠す。ボトムのポケットへ手を伸ばし、繋ぎっ放しにしていた端末を耳に当てた。

「……朝霞、聞こえるか」

『聞こえるわよ。今まで何してたのかはほとんど分からなかったけど』

「悪い。次の追っ手に捕まってた」

『大丈夫?』

 問うたのは、宗史朗の声だ。どうやらスピーカーフォンの状態にしているらしい。

「何とかいて来た。だけど、次の品川行きが来るまであと五分弱ある」

『凪君。あなた、確かお祖父じい様がイギリスにいるんだったよね』

 出し抜けに話題が転がった気がして、緋凪は眉根を寄せた。が、取り敢えず頷く。

「ああ」

『もしそこで捕まりそうになったら、駅から出て大使館を目指しなさい。あたしたちにいちいち連絡しなくていいから』

「大使館?」

『そう、イギリス大使館よ。今の時間帯、入れて貰えるかどうかも分からないけど、身分証は持ってる?』

「財布は持ってるけど、学生証は家だ。パスポートも」

『保険証は?』

「ある」

『そう、よかった。英語は話せるのよね?』

「ちょっとだけ」

『OK。上等よ。万が一に備えて、道々大使館へのルートは検索しておいて。皇居のすぐ傍、最寄りは半蔵門駅よ』

「分かった。でも何で大使館?」

『もういざとなったらそこに守って貰うしかないでしょう。聞いたことない? 亡命を希望する人が大使館の敷地に入った時点で、国の追っ手でも容易に手は出せなくなるって話。大使館の敷地はイコールその大使館の国の領土なのよ。治外法権が適用されるから』

「や、それは知ってるけど……」

 何で大使館にかくまって貰うなんて発想になるのかが分からない。すると、朝霞が焦れた口調で言った。

『だから凪君、イギリスに身内がいるんでしょ? あなた、確かクオーターだったよね』

「それだけで匿って貰えるか?」

『一か八かよ。凪君、今小谷瀬陣営に捕まったら一発アウトよ、状況分かってる?』

「分かってるよ」

『だったら迷わないで。小谷瀬陣営だってどうせ権力の届く範囲は所轄の管轄内だけよ。万が一、警視庁に顔が利くとしても大使館まではごり押しできないと思う。あとでいくらでもフォローしたげるから、今は追っ手を振り切ることだけ考えなさい』

「……分かった」

『でも矛盾するようだけど、大使館を頼るのは最後の手段よ。本当にどうしようもなくなったらそこへ駆け込みましょう。でも今はまだその手段を頭に置いておくだけにして。あたしたちは品川で待ってる。携帯の電池、あとどれくらい残ってる?』

 一瞬緋凪はスマホを耳から離し、残量を確認する。

「あと半分くらい」

『そう。できるだけ電源は入れっ放しにしといて。少なくともあたしたちと合流するまで』

「了解」

『じゃ、話は終わりましょう。何かあったらいつでも声掛けてよ』

「ありがとう」

 通話状態のままの端末を元通りボトムのポケットへ戻す。直後、ちょうど電車がホームへ滑り込んで来た。行き先は品川。緋凪は用心してそっと階段の裏側から目線だけで左右を確認する。

 この時になって、緋凪は肝心なことに気付いた。追っ手の顔を知らないのだ。だが、それは今言っても仕方がない。

 怪しい気配がないのを見澄まして、電車に乗ろうとしたその時、横から腕を引っ張られた。そのまま、階段の壁に叩き付けられる。一瞬意識が遠のきそうになるが、歯を食い縛ってどうにか現実に踏み留まる。

 反射で閉じた目を開くと、前腕部を緋凪の喉元に押し当てているのは、角谷かどたにだとようやく分かった。

 相手との身長差の分だけ足が宙に浮いて、ちょうど首吊り状態になっている。意識が落ちる前にどうにかしなければと足を蹴り出した。

 角谷がその場を飛び退く。解放された緋凪は咳き込みながらも電車に駆け込もうとした。その足下をすくわれひっくり返る。しかし、角谷には皮肉なことに、倒れ込んだ先は電車の中だった。

 そのタイミングで扉が閉じる。

 肩で息をしながら閉じた扉を呆然と見上げた。そんな緋凪を、周囲の乗客たちが好奇混じりの視線で見ていたが、気にならなかった。

 程なく走り出した電車の中で、四つん這いで車内の端に寄って膝を抱える。今になって震え出した身体を宥めるように、緋凪は自分自身を抱き締めた。


©️和倉 眞吹2021.

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