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act.11 降り懸かった冤罪

 身じろぎすると、後頭部がズキリと悲鳴を上げた。

「ッ……いて……」

 無意識に頭に手をやって背を丸める。

(えっと……何してたんだっけ……)

 もう朝だろうか。昨日は確か、宗史朗そうしろうに送られて家まで戻ってきて――いつの間にベッドに入ったのだろう。

 それにしては夕食を食べた覚えもない。

 とにかく起きないと、と思った途端、後頭部だけでなく体中が痛いことに気付く。ベッドにしてはいやに寝ている場所が固い。床でうたた寝でもしていただろうか。

 それに、妙に背中が重い。たとえるなら、まるでランドセルかリュックサックを下ろさないまま横になっているようだった。

 うっすらと目を開けると、赤黒い何かが目に入る。

「……?」

(赤……ペンキか何かか?)

 それにしては床を塗り替えるようなことは父も母も言っていなかったし、第一赤い床というのもちょっと――目がチカチカして落ち着かない気もする。

 うつ伏せになっていた状態から起き上がろうと、緋凪ひなぎは両腕を引き寄せた。その時になって、右手が何かを掴んでいることに気付く。

「何……」

 惰性でそちらへ目を向ける。自身の右手が握っていたのは、ナイフだった。それも殺傷能力のいかにも高そうな、俗にサバイバルナイフと呼ばれているたぐいのそれだ。

「はあ?」

 何これ、と思いながらそれを手放すこともできずに立ち上がる。ようやく視界に収まった室内には、両親が変わり果てた姿で倒れていた。

 声も出なかった。

 母はソファで横になるようにして、父は床に倒れ、それぞれに心臓の辺りを真っ赤に染めている。もっとも、父はうつ伏せに倒れていた。その身体の下に、赤い血溜まりができている。

 あまりのことに、呆然となった。

 直後、バン! と乱暴に扉が蹴り開けられる。

「動くな!」

 大音声で言われて、ビクリと身体が震えた。

「そのままだぞ。ナイフを捨てろ」

 銃口を緋凪に突き付けているのは見覚えのある顔だった。確か――

井勢潟いせかた……」

 春生はるきが亡くなる前後、ひどく事務的でぞんざいな対応をしてくれた、あの刑事だ。背後には、配下と思しき警官か機動隊か――彼らが、ドラマか映画で、たまに見かける透明の盾を構えている。

「早くナイフを捨てろ」

「どういうことだよ」

 答えは銃声だった。射撃訓練でさんざん耳慣れた音だったが、耳当ても通さず近距離で上がったそれに思わず空いた手で耳を塞ぎ、身を縮める。

「三度目はないぞ。ナイフを捨てるんだ」

 井勢潟が天井に向けていた銃口を下ろし、緋凪にポイントし直す。

 チラリと、自分が意図せず手にしていたそれに視線を向ける。やいばに、ベットリと血が付いているのに、今になって気付く。

 ジリッと足を引くと、再度銃声がして床に弾痕が穿うがたれる。

千明ちぎら緋凪! 殺人の現行犯で逮捕する! ナイフを捨てて、おとなしく従え!」

 井勢潟の宣言に導かれるように、盾の軍団が緋凪に向かって足を踏み出す。とっさに手に持っていたナイフを牽制のつもりで投擲し、きびすを返す。

 リビングの窓のカーテンを引き開け、鍵を解除するに銃声が二度轟いた。思わず身を竦めるが、窓を開け放って庭先へ飛び降りる。

 わけが分からない。何を考える余裕もなかったが、暗くなった庭先の塀へ走る。それを飛び越えてギョッとした。

 千明家の庭を囲む塀の向こう側は、隣家の庭だ。その隣家の庭先にも機動隊が配備されていたのに気付かなかった。

 認識した時にはすでに遅く、緋凪の身体は宙を舞ったあとだ。

 舌打ちと共に、無理矢理身体を捻る。スレスレ、透明の盾の手前に降り立つと、間髪入れずに機動隊が威嚇するように緋凪に迫った。

 彼らの持つ盾が、緋凪を押し潰さんばかりに肉薄する。直前、緋凪は垂直に跳躍し、宙返りの要領で囲みの外へ着地した。

 素早く身をひるがえして、隣家の裏手にある塀を飛び越える。そのままその家の敷地を抜け、門扉を飛び越えて道路へ走り出た。

 混乱する頭で必死に逃げ道をシミュレーションする。

 ここは緋凪の家の裏手、つまり自宅前の道路を一本越えた場所にある。

 右手に出ればいつもの中学校への通学路だが、緋凪は左に進路を取った。

 そちらには、雹ヶ谷(ひょうがだに)駅がある。その駅と、緋凪の通う能勢のせ中学校を直線で結んだ真ん中辺りに緋凪の自宅はあった。

 駅まで自宅からは、直線距離にしておよそ九百二十五メートル。その道中は、ひたすら建物の密集地だ。

 走りながら、一瞬にして先日会った大人たちの顔が浮かぶ。『何かあったら連絡して』と言ってくれた宗史朗の顔も。

 だが、今立ち止まっている暇はない。話をしている時に迫られたら話し声で見つかるし、のがれられる選択肢が減ってしまう。

 五百メートルほどで最初の大通りに行き当たる。その通りにあるコンビニのトイレに飛び込んだ緋凪は、ボトムのポケットを探り、入れっ放しになっていたスマホを取り出した。

 リュックだけでも背負ったままでいて本当によかったと思いながら、谷塚やつかの番号を呼び出す。しかし、程なく呼び出し音は『お客様のお掛けになった番号は、電波が届かない場所にあるか……』というお馴染みの音声に変わってしまった。

 あまりグズグズしていられない、と緋凪は諦めてトイレの外へ出る。

 チラチラとコンビニの外へ目線を投げながら、スマホの充電器と軽食を購入して店を出た。

 雹ヶ谷駅まで一気に走り、ひとまず電車に飛び乗る。行き先は吟味していられなかった。取り敢えずは、自宅の地元から離れたほうがいい。

 そこでまた、マナー違反だとは重々承知だったが、今度は宗史朗に電話を掛けた。

『……はい。もしもし』

 と聞こえてくるまでのスリーコールが、ひどく長かった。

「宗史朗? 俺、緋凪」

『緋凪君? どうしたの、さっきの今で』

「……家か? そう言や今何時?」

 宗史朗の問いに対して、つい噛み合わないことを言ってしまう。

『本当にどうしたのさ。今? 七時くらいかな、夜の』

 宗史朗に家まで送って貰った直後は、午後の三時くらいだった。ということは、誰かに襲われ、気を失ってから四時間ほど経っているということだ。

 知った声を聞いた所為か、今になって安堵のあまり足から力が抜けそうになる。

「宗史朗……」

『どうしたの? 何かあった?』

 どうにか縋るように手摺りを握る。

 時間帯にしては空いている車内から推し測るに、どうやら下りの電車に乗ったらしい。

「たす……けてくれ、父さんと母さんが……」

 口に乗せた途端、ついさっき家で見たばかりの光景が脳裏にまざまざと蘇る。

『緋凪君?』

 名を呼ばれて促されても迷う。続きを口にしたら、認めることになってしまう。それが怖い。

 緋凪が認めようが認めまいが、二人がもうこの世にいないことは動かせない事実だというのに、目の前で見たのに信じたくなかった。何より、自分が二人を置いて一目散に逃げ出した事実を認めたくない。

 不意に脳内を激しい混乱が襲い、駆けている時よりも息が上がる。

 座り込んだら二度と立ち上がれない気がして、緋凪は手摺りを握った手に力を込めた。

『……緋凪君、落ち着いて。今どこ?』

 今どこか、という問いにだけ反応して、緋凪は改めて車内を見回した。行き先がスクロールする車内の電光掲示板の文字が行き過ぎる。

「……次……岩海いわみ台……」

『そっか。ちょっと待って……品川まで出られそう?』

「分からない。追われてるんだ」

『どういう状況なの』

「……俺……俺が多分……」

『うん。何?』

「と、父さんと……母さんを……こ、殺した筋書きになってる」

 “俺が父さんと母さんを殺した筋書きになってる”――脳裏で、どういう冗談かと思える言葉を、無意識に反芻する。口に出してみても有り得ないと分かるのに。けれども、どう考えてもそうとしか思えなかった。


“千明緋凪! 殺人の現行犯で逮捕する!”


 井勢潟はそう言っていた。

 あの状況を見たら、彼でなくても緋凪が父と母を殺したと思うだろう。緋凪には身に覚えがまったくないのだが、あのナイフには自分の掌紋も指紋もこれでもかという勢いで付いているに違いない。

 ついでに言えば、家には防犯カメラなんてハイテクなモノは付いていない。どう頑張っても、緋凪が犯人に祭り上げられることになる。捕まればそこでジ・エンドだ。

 目眩がした。気が遠くなりそうだが、暢気に気絶している状況でもない。何とか――何とかしなくては。

『――ん。緋凪君?』

 耳に聞こえる呼び掛けに、我に返る。

『緋凪君、大丈夫?』

「……何とか……」

『詳しい状況はあとで聞くよ。ひとまず今は合流しよう。谷塚さんには連絡した?』

「……繋がらなくて」

『じゃあ、ひろ君には?』

「まだ……」

『そっか。分かった。じゃ、緋凪君は皓君に連絡取って。僕は朝霞あさかさんに知らせる。朝霞さんに連絡付いたら、僕か朝霞さんから捨てアドに連絡入れるから』

「うん……」

『気をしっかり持ってね。大丈夫だから』

「うん……」

『取り敢えず、緋凪君は品川に向かって。僕か朝霞さんが君を拾えるように動くから』

「分かった……ありがとう」

 宗史朗のいつもと変わらぬ口調を聞いていると、波立っていた思考は少しずつ落ち着いて来た。それを宗史朗も感じ取ったのだろう。『じゃ、一旦切るからね』と言い置いて通信を終えた。

 緋凪も自分のスマホの画面をタップする。

 もう、マナー違反云々は考えられず、次に皓樹の番号に連絡するが、こちらは留守番電話になっていた。

 仕方なく、谷塚、皓樹、朝霞の非常時用の捨てアドに、それまでの経緯をしたためて送信する。それから、今いる場所から品川へ行くにはどう電車を乗り継ぐべきかを検索した。

 見るともなしに車内に視線を投げる。まばらにいる乗客でこちらを見ている者は誰一人いない。電車内で通話するべからずというマナーを守らない若者など、珍しくはないのだろう。

「……緋凪君?」

 直後、不意に声を掛けられて、緋凪はビクリと身体を震わせた。

 反射で向けた視線の先には、見覚えのある男が立っている。

「緋凪君だよね? 俺のこと、覚えてる?」

 問われて、彼から距離を取ろうと、気持ち後退あとじさる。一度だけ会ったことのある――確か、楠井くすい翔太しょうたという名だった。

「父さんの……」

 無意識に呟くと、楠井はパッと破顔した。

「そうだよ! 楠井翔太! ああよかった、覚えててくれたんだね。そう、一度だけ会ったよね、話はしてないけど」

 楠井は、ごく親しい人間がそうするように緋凪に近付く。

 ドアのすぐ脇に陣取っていた緋凪は、それ以上足を引けない。だが、警戒心一杯に、顎を引いて相手を見上げた。

「……あんたは小谷瀬の犬になったんだろ。今更何の用だよ」

 すると、楠井は困ったように眉尻を下げた。

「お父さんから聞いてないかな。俺はあれから考え直したんだ。これから市ノ瀬(いちのせ)春生さんの件についての裁判を一緒に戦う予定なんだよ」

「え?」

 緋凪は目を瞬く。

「じゃあ、父さんの言ってた味方してくれる弁護士って」

「俺のことだ」

「でも、あんた確か妻子の為に犬になるって決めたんじゃ」

「……正義から目をそらしたほうが後悔する。だから……妻とは離婚したんだ」

「……たった一つの裁判の為に?」

「一つじゃない。今後続く裁判の為でもある。これからことあるごとに、周りの人たちの為に脅迫に屈してたら、弁護士で居続けられないし……小谷瀬こやせの顧問になるってことは悪事に手を貸すってことだ。そう思うと……やり切れなくてね」

 楠井は、自嘲気味に苦笑した。

「だから、身軽になることにしたんだ」

「身軽ねぇ……両親も標的になってるとか聞いた気がするけど?」

 すると、楠井は瞬時息を呑むように口を閉じた。

「妻子や両親以外の親類は? 血縁でなくても友だちとかが危険に晒されたらどうするんだ?」

 矢継ぎ早に畳み掛けると、彼は完全に黙ってしまった。

「そこまで考えてなかったってことか?」

「……キリがないよ」

「ああ、そうかもな。だけど、キリがないところまで切り込んでくるのがサイコパスだぞ。あんたは一度奴を裏切ったことになる。後戻りできねぇ覚悟はあるわけ?」

「離婚でその覚悟はしたつもりだよ」

 寂しげな微笑は、覚悟のそれでもあるように見える。緋凪は、一つ息を吐いて楠井に背を向け、空いていた席に座った。

 そのすぐ隣に、楠井も腰を下ろす。

「で、こんな所でどうしたの、こんな時間に。何かあった?」

「別に……」

 この男をどこまで信用していいのか、緋凪は考えあぐねていた。

 考えすぎると動けなくなる、という谷塚の言葉は覚えているが、考えなしに動くこともできない状況だ。

「……あんたには関係ないよ。じゃあな」

 頭を巡らせた末、相手を信用しないことに決めた緋凪は、座ったばかりだというのに立ち上がる。

 次の駅で降りるのが得策だ。

 けれど、「待って」と呼び止められる。声だけで制止されたのなら従わないが、同時に腕を取られて緋凪は足を止めざるを得なかった。

「これ、君だろ?」

「は?」

 目の前に差し出されたスマートフォンの画面には、どこかで隠し撮りしたと思しき写真が表示されていた。写真に映っているのは緋凪自身だ。

「な、んで……」

「ご両親を殺して逃げ出したことになってる。本当?」

「違う!」

 反射で叫ぶと、レールを走る音以外に何の音もなかった室内には存外に大きく響き、車内にいた乗客の目は一斉にこちらに注がれる。

 それに驚いて、緋凪は小さく身を縮めた。

「第一……何でそんなモノが……あんたそれ、どこから得た情報だよ」

 声のボリュームを落としながら、楠井を睨み上げる。しかし、楠井は困ったように眉尻を下げただけだった。

「ネットに流れてるんだよ」

「ネットだ? どーせアンダーネットだろ」

「いや。東風谷こちたに署の正式な手配掲示板だよ」

「何だって?」

 言いながら、緋凪は楠井の持っていた端末を引ったくる。この場にパソコンがないのが痛い。ちゃんと調べれば、この情報のページが嘘か本当か分かるだろうに、この端末で見る限りでは、緋凪の写真入りで掲載された手配内容は、本物としか思えなかった。

 トップへのリンクをタップすると、東風谷署の公式ページへ戻る。試しに画面を切り替え、検索ホームページから東風谷署を検索し、手配ページへ跳ぶと、やはり緋凪の手配のページへ行き当たった。

「……マジかよ……」

 悪い冗談だろ、という文章が脳裏を通過する。

 携帯に表示された時刻は七時半。家を飛び出して来たのが何時頃か正確には分からないが、現行犯だからという点を差し引いても、こんなに短時間で指名手配が回るものだろうか。

「無実だって言うなら、きちんと証明しよう。逃げ回ればそれだけ不審を深めるだけだよ」

「どうやって!」

 反射でまたも大声が出る。緋凪は慌てて自身の手で口を塞ぎ、声量を抑えて続けた。

「明らかに警察のでっち上げだぞ。俺は気絶させられて、気が付いたら両親は死んでて、凶器と思しきサバイバルナイフは俺の手に握らされてた。家には防犯カメラもない。どう頑張っても俺がやったことにしかならない状況だ。いくらあんたが思い直したからってどうにかできる状況じゃなくなってんだ、中坊の俺にだってそんくらい分かる!」

「だから逃げるのかい?」

「逃げなかったら死ぬだけだ」

「バカな。いくら何でもそれはないよ。ちゃんと調べれば君がやったんでないことくらいすぐに分かる。だから、ね? 俺と一緒に行こう? 大丈夫だから」

「もう大丈夫な状況なんて通り過ぎたよ!」

「いい子だから駄々コネないで」

 肩を抱え込むように抱き寄せられて、覚えず背筋に寒気が走る。

「放せよ!」

「君の言う通りだ。俺は妻子の為に小谷瀬の犬になった。実は今もそうなんだ、頼むよ。君を連れて行かなかったら、妻と娘が殺されるんだ。君の両親はどう頑張ってももう戻らない。だったら、まだ生きている俺の妻と娘を守る為に君が犠牲になってくれたっていいはずだ、違うか?」

「はあ? 何言ってんだよ、あんた正気か?」

 言いながら、緋凪はどうにか楠井の腕から抜け出す。しかし、妻子をしちに取られているというのは事実のようで、彼も必死だ。緋凪の腕だけは掴んで離そうとしない。

「至って正気さ。妻と娘を守る為なら何だってする。その代わり、今君が警察に行ってきちんと裁きを受けてくれたら、君の命だけは守るし、裁判の弁護も受け持とう。執行猶予も勝ち取ってみせる。もちろん無償でね。悪い話じゃないはずだよ?」

「はいそうですか、って言うとでも?」

「言うしかないはずさ。助かりたければね」

「俺だって元弁護士の息子なんだ。知らないとでも?」

「何を?」

 キョトンと楠井が目をみはる。同時に、電車がスローダウンし始める。

「十四歳未満の犯した罪は刑事責任を問われない」

 瞬時、息を呑んだ楠井が、次にうっすらと笑った。

「だが、君は今十三歳だろ? 罪を犯した場合、少年院送りにはできる。俺の匙加減ではね。俺は現役の弁護士だ。釈迦に説法の上、君の知らないことまで深く知っているという意味では君より有利だ。マウント取れると思ったなら甘いよ」

 内心で舌打ちする。

「さあ、どうする? 執行猶予が欲しければ俺の言う通りにしたほうが利口だ。君だってバカじゃないと俺は思ってるよ」

「やってもない罪犯した前提でしか動いてくれねぇ弁護士なんて、クソの役にも立ちゃしねぇよ。あんただってそんくらい分かってんだろ」

「おやおや、矛盾してるねぇ。いみじくも、たった今さっき君自身が言ったじゃないか。罠にハマって絡め捕られて、何の傷も負わずに抜け出せる状況じゃないってね」

 次の駅名を告げる車内放送がやけに遠くに聞こえ、停車駅の景色がはっきりし始める。

「さ、どうする? 今俺の言う通りに一緒に来てくれるなら、俺は君の傷が浅くて済むよう最大限の努力をすると約束する。少なくとも、執行猶予だけは確実に勝ち取るよ。くどいようだけど無償でね」

 取られた腕と楠井の顔を見比べる緋凪を見ながら、楠井が笑みを深くする。自分の勝利を確信している笑顔だ。

 改めて首筋に寒気が走る。

(……友だちは選んでくれよ、父さん)

 小谷瀬を裏切ると言った楠井を、父が簡単に信じたのかどうかは緋凪にも分からない。

 だが、これだけは緋凪も確信していた。楠井も、間違いなくサイコパスだ。平気で口先の嘘を並べ、他人の痛みに共感もできない。自分が世界の中心だ。小谷瀬や、彼の子どもたちと同じように。

 そんな人間の口約束は信用できない。その場限りの出任せだ。

 やがて、電車が完全に停止する。慣性の法則に従って、緋凪も楠井も二、三歩蹈鞴(たたら)を踏んだ。

 ドアが開き、ホームで待っていた客がパラパラと乗り込んで来る。

『発車します。閉まるドアにご注意ください』

 アナウンスの直後、閉じようとドアが震えた瞬間、緋凪は動いた。掴まれた腕を捻って拘束を逃れ、閉じ掛けたドアのあいだに滑り込む。

 不意打ちだった所為か、楠井はその動きに反応が遅れた。慌てて彼が緋凪を追うが、彼が外へ出る直前、絶妙のタイミングで扉が閉じる。

 チラリと振り返ると、楠井が凄まじい形相でこちらを睨みながら、ドアのガラスをバンバンと叩いていた。


©️和倉 眞吹2021.

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