1-8
鮮明ではない視界と頭のはずなのに。
なぜかそうしなければならないと頭が命令する。
食って、食って、食って、食って食って食って食って食って。
ただ噛み砕いたんだ。ただ食ったんだ。自分から剥がれ落ちていく、目の前の〈魔人〉が、俺の記憶だというそれを。
血が口端からこぼれ落ちて、舌べらが切れて、上顎を傷つけて、痛くてしょうがなくても俺は食った。
ぬめとした液体が手を汚す。鉄の味と嗅ぎなれた匂い。俺は、口に運ぶ指さえ食う勢いだった。
喉を通るわけがない。
細かくもない破片は取り損ねた魚の骨のように刺さる。違和感と痛みが同時に襲いかかってくる。
そんなこと気にするな。
食え。
そうやっていると、次第に体に力が入るようになる。立てもしなかった俺は膝を震わせながら足に力を入れてゆらりと立ち上がった。剣片手に敗れた服と一緒に。荒い息と落ちる涙と一緒に。まだ頭はぼぉっとしている。けれどそれすら気にならないくらい俺は考えていた。
今消えた記憶は一体何だったのか
すごく大切でとても暖かいはずだ。胸元を押さえる手に力が入っている、剣を握る右手は細かく震えている。何よりの証拠は止まらない涙だ。俺はわかっていなくても頭はわかっている。
だから安心してもいいと言われているような気さえした。
だけれどそれも次第に消えていっているようだ。だんだん、酔いが覚めるように、俺の頭はクリアになっていく。まるで何も考えなくていいよと言われているみたいで。
死にそうだ。
そう思ったその瞬間、一番ひどい音が辺りに響いた。
酷い音?
そう、ヒドイ音だ。
「あ”あ”あ”ああぁぁあぁ!!!!」
それはイザクの悲鳴だ。イザクが、切られてすっ飛んで石柱にぶち当たって、出した悲鳴。
そして俺の、
「イザクっっ!!!」
親友の名前を呼ぶ掠れた声。
それに呼応する、
「人は、脆弱だのに何故、抵抗する…もうじゅうぶん弱さは自覚しておったろうに」
という氷の声。声の主は倒れこんでいるイザクを踏みつける。黒のかかとの高い靴は容赦なく傷口を掘り返して血を溢れさせる。その度に悲鳴がつんざく。楽しそうに歪んだ口元を黒の扇で隠す。
俺はどうしようもないと思ったままそれを見ていた。どうせ何もできない、と。動かない体じゃ、満足に動かせない体じゃ。助けになど行けないと。
でも
体は?
動く
腕は?
動く
頭は?
働く
足は?
動く
息は?
できる
なら、
『………ゼン』
…頭の中で最後にその声が聞こえた時、俺は空を切って魔人に剣を振り上げていた。
泣きながら。
「ちくしょぉぉおおおおおお!!!!」
裂けてもおかしくはなかった。それくらい俺は大声で叫んだ。
魔人はその叫びと空気の動きによって俺に気がつく。そしてギリギリのところで扇をかざし俺の攻撃を防いだ。金属製のそれと剣はぶつかり合いけたたましく衝突音を響かせる。
魔力と衝撃の反動が相まって俺の腕は悲鳴をあげた。けれどそんなもの、どうだってよかった。
魔人は俺が動けていることに驚いたのか、若干目を見開きながら何故、と呟く。
「如何にして、貴様、動けて…」
「うっせぇよクソ女……」
俺は続ける。
「食ったんだよ、食ってやったんだよ!!!」
あれは、
「俺の記憶だ!食って何が悪い!!!」
力任せに押し切る。火花が散って魔人は後ろに跳躍した。俺はそのまま間を詰めて今度は斜めに切り上げる。ひらひらした袖がそれで切れて、それしか切れなかった俺は舌打ちしてもっと追い詰める。
その時、俺は気がついた。
俺の体がもう普通になっていることに。鱗を剥がれ落ちさせていないことに。何故だ、と疑問には思う、けれど今はどうだっていい。ただ目の前の女を倒せたらそれでいい。それでよかった。
俺は次々に斬りかかった。上、下、斜め、横、ありとあらゆる方向から。その度に避けられて、その度に次の攻撃に移る。その速度は上がっていった。次かと思えばもうその次だった。これ以上ないくらいに体が動いた。
だからか。
気がつく。
「…まさか、〈神遺物〉になりうるのか!」
「何を叫んでいる」
「…貴様の記憶には〈魔神〉の呪いが染み込んでおる。それが具現化したものなど〈神遺物〉とも同義。〈神遺物〉を食って何ともないなど、おかしい!」
「じゃあ、俺は”得た”わけだ」
東屋のほぼ中心。回り回って俺たちはそこで止まる。
宵の風は俺たちを撫でて消えていく。空はガキが塗りたくったように暗い。俺とコイツの目は驚くほど無感情だ。
剣を女の扇にかち当てたまま止まった俺は言った。
「俺は、得たんだ。失うことを、得たんだ」
どうやらそういう運命らしいと俺は思った。あの人はもう死んで、イザクからもらったコートはとうにボロボロで。記憶を失うのはこれで2回目で。このまま何もかも全部ありとあらゆる俺が持っているもの全て。失くしてしまいそうで。
だけどそれは嫌だった。
イザクを、親友を、失いたくなかった。
イザクが今一番失いかけているものだった。
記憶は、あの人と出会った時の記憶は、もう失くない。
こいつを殺すために食ってしまった。
俺は口を歪ませた。どうして、こうなんだと恨む。どうして俺は失わなければならない。
それが運命ならば、俺はどうしたって、何をしたってそれを壊したい。
「だから、まずは、お前を、倒す」
見据えたまま言う。これ以上ないくらいフラットな声。途切れる言葉。俺は女が笑むのを見た。
「貴様が死ぬが早いか、我が死ぬが早いか。どちらかな」
「そりゃあ、一択だろうが。俺の親友を傷つけたんだしよ」
「そうか、なら、貴様が去ね」
「ふざけんな!!!!」
均衡は崩れる。俺は一瞬力を緩めてすぐにまた斬りかかる。
空気を切る音が痛いくらい勢いよく左上から右下に振り下ろした。もちろん女は避けるからすぐにまた次を用意する。上体を低くしたまま地面を蹴った今度は振り上げて、その反動で蹴りを突っ込んだ。
俺の動きは少しずつ魔人を押す。
ジリジリと、夏の日差しが地面を焦がすように嫌味ったらしく。動けば動くほど体はそれについていった。
頭は冴える。次を考える前になんても先を考えて実行した。足を動かし腕を動かし息はリズムを整えた。
俺が一歩東屋のタイルを踏むたび、魔人は追い詰められていく。
だんだんそいつの服が切れていった、血が見える、傷が増えた、動きが鈍る。
狂気を孕んだ目が弱くなった。
「大口叩くわりには…余裕だな」
それくらい俺の得たものは予想外だったのか。余分な思考は早々に削除してもっとフラットに持っていく。
そして女が舌打ちをしたその時、俺は久しぶりに感覚を得た。
肉体を切断する、引っかかるような、綺麗な切れ味を。
戦闘シーンは表現が同じようなのになってしまうスパイラル。
ありがとうございました。