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妄想論

ランキングと作品は一つの創作

作者: とびうお君

 なろうは小説じゃない。こういうのは簡単です。それははっきりと違いますと答えます。問題のポイントはそこじゃ無いです。全員参加の評価ランキングはすべてこういった性質を帯びます。それはベストセラーも同じです。じゃ何故なろうの小説を特別扱いして排除しようとする勢力がいるのでしょうか?それは、ある程度は当たっています。層の違いです。


 本質的な性質は大衆的なものはすべて同じです。一般大衆層とは何か?と言うと国民投票が最も近いと思います。すべての国民を参加させればこれは紛れも無い日本の平均値になります。ですが、なろうはそれが偏っています。視聴率が分かりやすいでしょう。母集団=日本国民平均集団の傾向を探るために標本、無作為=ランダムに選ばれた視聴者を対象にします。

 なろうは明らかにランダムに選ばれていません。全く逆で、読者が能動的に選んだ結果で、180度ぐらい標本とは逆の状況です。その手のプロが見たらなろうはおそらく最初から母集団の傾向を探る場所としては不適格だと問題外の烙印を押すと断言できます。


 エッセイ(ランキング批判)の質が上がらないのは、こういった小説の中身と関係ない部分の知識があるととてもじゃないけど思えない書き手の人が多いです。それなのに小説の中身を延々と語るから無駄な言及ばかりが増えます。ここまでは、なろうは参考にならんって話ですが、逆になろうを特別視して排除するのは間違ってるです。


 中身は違いますが、傾向は同じです。細かい所を見すぎるせいです。どんな集団になろうとも通用する抽象的な共通性を見出せないからつまらない言及が増えると見ています。なろうだけの特別性と多くの創作に共通する全員参加の評価ランキングの共通性に分けてみないからおかしな話になります。


 何故なろうが特別なのに特殊例として排除してはいけないのか?と言うと、一般小説がすでに文学と言うものから乖離してる部分があるからです。と言うかそもそも純文学って歴史を探ると小説マニアのサークル内の同人小説だったと聞きます。それを歴史を知らない現代人が、昔の読者は賢かったみたいな幻想を作り上げていると思います。


 なろうとの相似現象に、アメリカのヒロイックファンタジーの大流行と言うのがあります。正確にはSF作品も含みます。まあSFはライトにするとはっきり言って軸となる面白さはファンタジーと変わりません。だから漫画においてSFとファンタジーを区別するのは間違ってるとずっと書いています。有名な作品ではコナンザグレートがあったと思います。似たようなコピー作品がイナゴみたいに大発生したかと思ったら、すべて一瞬で消えてなくなったそうです。今でも残滓はあるのかもしれませんね。


 ここからなろうは間違った道を歩んでると、歴史の賢者ぶる事は出来ます。ただ私はそれは有料だった場合だなと見ています。無料は絶滅しない。淘汰圧が無いからです。客は減るか?なら減るでしょう。じゃ間違って無いか?そもそも異世界転生というドーピングなしになろうはここまで大きくなれたのか?が疑問です。ドーピングの勢いが落ちるだけで、元に戻り読者の数が減る事で今の状態が間違ってると断定する事は愚かな発想だと思っています。


 おそらくビルボード誌のヒットチャートオリコン。なんでもかんでも全員参加で特定の選ばれた評価者が居ないものはすべて同じ性質を帯びます。なろうに限った事じゃない。ならなろうを特別視するのは間違っています。その逆に共通性を見出し深くそういった性質を知る材料にするには是非参考にすべきです。


 じゃ何故なろうはこんなおかしいの?それは国民全てが参加して無いからです。じゃ本屋は参加してるの?して無いです。本屋のベストセラーより私はTVの視聴率の方が当てになると思います。そして今若者のTV離れが叫ばれています。ありとあらゆるものが国民の全員参加時代から進んで崩壊しています。安直に一般を持ち出すのは価値観が古いんですよ。


 傾向は全て同じ、でも受け手の中身が大半のランキングで必ず偏る。それは好みなのか?私は違うと思う。楽に楽しみたいという姿勢、これがライトです。ライトは好みとは言えない。ライトはでも傾向として好みを作ってしまう。それを分析は出来ます。ただその根底は、好みと言う言葉で単純に処理して良いのか?私は違和感を感じます。


 そこで何度も書いてる。なろうは能動的な読者によって支えられていて、これがなろうの特殊性を産んでいると書いています。基本読者の大半は受身です。それは8割は評価しないと言う分析をしたかたのエッセイを読んでください。ですが、これが罠なのです。実はこの受身極まりない読者がすでになろうを選んだ時点で国民平均ではとんでもない能動的なグループに入っています。


 その集団がオタク層です。じゃすべて解決じゃないか?そうじゃないです。オタク層が過去に較べて大衆化してるのです。パンピー的になっています。それゆえ過去の分かりやすいオタク像は全く通用しません。商売の上でなんとなく薄っすら傾向分析できる程度だろうと見ています。今のオタクを知るには大衆的な受けをしる必要があります。だから結局この集団は共通性があるのです。


 大衆的な一般層について中身が違っても共通する現代的傾向はライト層の存在です。ライトである事とオタク的である事はまったく性質が違います。これを混同して語るからエッセイの大半は可笑しな話になります。その原因が何か?と言うとライトノベルのせいです。ライトノベルは、今現在その大半がハイでもローでもファンタジックな要素を含みます。実質ライトノベルはファンタジーと言うジャンルだと言えなくも無いです。


 でもライトノベルの特徴はファンタジーじゃ無いです。ライトに楽しめるものです。敢えてファンタジーを軸にしない。それがゼロ年代の学園者をライトノベルに組み込めた要因です。ファンタジーが軸じゃないのです。ファンタジー要素が混じっていても突っ込まずにスルーするその態度が取れるものが読むもの。これがオタク層だと見ています。


 単純にファンタジー以外のジャンルのライト作品がつまらんからなろうはこういうランキングになってるだけだと思います。なろうの今の状態はファンタジーと言うよりライトノベルだと感じます。

オタクから傾向を読み解こうとしても無理、ライトから傾向を読み解こうとしても無理。創作全般は現代ライト的になっている。これが基本。オタクもその大原則からは外れてない。その中でオタクだけの特別性を見出せば読み解けると思う。


 さて大原則になるライト的な傾向ですが、これは今に始まったことじゃないです。創作の客が大衆的になったこれが最大の原因です。分かりやすい例だとそれが当たり前じゃない時代があります。ダヴィンチの頃のメディチ家です。ダヴィンチのスポンサーは一般大衆と言う今なら当たり前のそうじゃ無いです。メディチ家がお金を出してくれるから創作活動が出来ます。


 根本的にこれが影響でないわけ無いだろ?って話です。じゃ何故今変化を感じるか?ならそれは程度です。量の違いであって質の違いじゃないとはっきり断言できます。より頭を使わない創作に進む、それがライト化です。当然限界があります。何故アニメがある程度受けが良いか?と言うと、アニメは基本、低年齢=頭の使わない=頭の使えない子供向けに作られてるからです。それがライト化した大衆層の頭の使い方とすごく似てるからです。


 受け手の頭が悪くなったって話には言及しません。それは決め付けで妄想論です。事実は頭をあまり使わなくても楽しめる創作が好まれやすいだけです。安直な国民白痴論は下らない話なのでしたく無いです。事実は頭をあまり使わなくて楽しめる創作が現代好まれやすい。だから全員参加のランキングではそれが評価されて当たり前だと言う話になります。


 これは過去のエッセイで触れています。大事なのは、ランキングと作品は一体で見るべきなのです。なろうと言う現象を読み解こうとするなら作品の中身を見ても解けません。受け手の反応を込みで見るのです。それが一つの作品です。それを小説じゃないと言うのは簡単ですが、私はそう思いませんね。そもそも聖書の頃から物語の本質は、興味のない大衆を引きこむための分かりやすいロジックなんですから。


 なろうを小説じゃないと思う人は、それはランキングと作品を一体の創作としてみる視点が欠けています。全員参加の評価ランキングはすべて笑いと芸人と観客の関係に集約されます。芸人が観客の反応を無視して価値を語ったら笑いですか無いでしょ?そんなもの小説じゃない。いえそれも小説のひとつの形だと思います。そうじゃない小説を展開したいなら、ランキングとは縁を切る事です。だからライトノベルキーワードを作ってライトなオタク層を排除すべきと前回書きました。


 なろうは、過去から積み上げてきた小説好きのサイトに無理矢理ライトオタク層がどかんと乗ってるだけです。接点がない。何故無理に争いながら関わろうとするのか?根本的に漫画アニメラノベにベースがあるライトオタク層と小説マニアの設定は一切無いです。参加者の全員に受けるか?受けないか?ですべて決まるような創作の価値に参加したいのですか?私が小説マニアの立場なら是非距離を置かせて欲しいと頼みます。違うものだから相容れないからです。


 そしてそれはなろうは小説じゃないってちっぽけな言及じゃ駄目なのです。あらゆるベストセラーオリコンなどのランキングの価値はすべて毒されていて、相容れる部分が無いのです。それはそれで笑いの様な面白さなのです。笑いは知的です。でも笑いはパッと聞いてすぐ面白さが判断できます。どうですか?何かと似ていませんか?ライト化の進むランキングを突き詰めるとそれは笑いに似てくると私は見ています。そしてそれはライトノベルだけじゃないです。あらゆる創作はすべてその傾向があります。


 今のオタクとは何か?ライトである立場を一切崩さずに玄人になる存在。(本人がそうあろうとしたのじゃなくて、馬鹿でもアホでも浴びるように漫画アニメラノベ見てりゃ慣れてない人と価値観がずれる)それは過去の玄人的マニア的オタクからは理解できません。偏りを示す言葉であるオタクがライトな大衆的になってしまったんですから。ではオタク同士のジェネレーションギャップもエッセイが攻撃的な要因の一つじゃないか?なら多分そう。小説マニアと過去のサブカルオタクには共通性が高いから。どっちも現実逃避好きな妄想系ですから。オタク外から見たら目くそ鼻くそ、どっちも本質は現実逃避、そのあり方がライトになっただけです。


 リアリティとリアリズムが過去は距離が近かったけど、今はおそらく遠くなってる。フィクションの中だけのリアリティに変質しつつある。だから肌感覚であるリアリティがあわなくて過去のオタクが今の作品に面白さを見出せないのも問題の一つだと見てる。私自身もずれを感じつつやりすぎだと感じつつ楽しめてるような所があるから。


 じゃ物語は消滅して笑いになってしまうのか?と言うとそれは無いと思う。ただ今危機なのは物語じゃない。文字によって物語を展開する小説と言うやり方が危機なのだと見ている。これは今に始まったことじゃないって事を中年読者作家はもっと意識して欲しい。ライトノベルのスタートが出版社側の漫画アニメ層を取り込みたい経済的な戦略に過ぎないって事。だから小説一般論なんてまるでなろうでは意味がないとずっと書いてる。漫画物語論の方がなろうファンタジーの面白さは深く読み解ける。出版社が予想した危機感がやっと今切実な問題になってきたという事かと。


 なろうファンタジーを読み解く時重要なのは、絵や映像で進化した表現を取り入れざる得ないデメリットです。そんなもの面白い分けないだろう?これがそうとも言えない。何故なら、アニメ漫画から、物語と関係があるものと関係が無いものを峻別して分離する技量なんてどんな作家にも無いからです。


 明らかに問題のある混入状態で進化した刺激を使わざる得ない。今更過去に戻って古典的作品を展開する事は出来ないから。ジャパファンタジーとでも言うような独特の発達をして、それが実際海外でも一部受け入れられてる。分かってる海外のマニアは日本のファンタジーが進化してるのを知ってる。確かにハリーポッターは受けた。しかしそれはそれこれはこれ、日本人がハリーポッターを作っても多分失敗する。


 日本人は毒物交じりの物語しかもう作れない。私ははっきりと小説にとってはデメリットだと思います。でも混ぜ物をした進化自体は価値だと思っています。何故アニメ監督はオリジナル作品に失敗するのか?それは彼らが映像を作るだけの職人だからです。物語を作るセンスに欠けているから。結局、最終的にアニメ漫画のコアな部分は最先端で展開される進化された漫画物語の魅力になります。


 なろうはブルーレイディスクは1万程度が限界です。昨今BDは全く売れません。ただし、それでもなろう作品は少ないと思います。それはおそらく物語を軸にBDを売るのは1万が限界だと私は見てるからです。なろうはなら物語としては最高水準といえるのか?ならそうだと見ています。何故こんなゴミみたいな物語がそんなすごいものになるのか?ならアニメ化で妙な選択がなされています。見れば分かりますが、単純にランキングの上位からアニメ化はしていません。アニメとして売れそうな作品を巧みに見抜いてると思います。


 もし無作為に上位ランキングをアニメ化したら多分失敗します。アニメの購入者は物語のコピー品を嫌います。こういった楽しみは安価なメディアでの楽しみです。私はなろうの面白さはコミック化の方が向いていると見ています。書籍化は上位から機械的にされてるだけなのであまり意味が無いです。あんな選択アホでも出来ます。


 私は物語として新奇な進化をしたなろう作品を小説じゃないとする言及は全て否定します。ただし、なろうファンタジーは文字として展開する小説には向いてないなら全面的に賛成です。これはハンデです。なろうファンタジーは常にハンデを背負ったまま、小説向きの作品をランキングでなぎ倒します。それがすべての答えです。もっと力を発揮できるのにわざわざ不自由な媒体で表現してる。それがなろうファンタジーです。


 ちなみに私が現代知識スゲーを嫌ってるのは、これは小説独自の文字の表現に甘えたもので、面白い点もありますが、アニメの進化には多分寄与し無いだろうなと見てるからです。GATEと現代知識スゲーは本質的に異なります。GATEはテクノロジーがすごいのであって知識は知る必要が無いのです。これで分かるでしょう。現代知識スゲーは文字の表現の小説だから発達した漫画物語としては歪みの面白さだと。まあ古典SFの科学知識スゲーの亜種だと思うと落ちるけど面白いですけどね。


 なろうファンタジーが小説の体を崩してるのは、根本が漫画物語の歴史の延長にあって混ぜものがあるからです。本来文字だけの表現ならありえない発達が混じってしまってるからです。それは魚とクジラじゃ進化の形が違うのと同じです。同時そんな酷い状態でもランキングで勝ち残れるのはきちんと小説としての価値があるからです。


 それゆえなろうは小説じゃないと言うのは否定します。ただし、同時に書いてる事がポイントになります。なろうランキングで上位になるには、小説としては全力を出せない作品しか無い不完全な作品だならその通りです。無理矢理現代知識スゲーが頑張ってますけどね。ただし、あの中で1作ぐらいはアニメ化あるかもしれません。でも根本的に設定語り重視の小説向きの魔法科がSAOに較べてBDと発行部数の乖離が大きいのは偶然じゃないと思います。


 何故こうまでして、私はなろうを小説だと力説するか?と言うと、過去から小説は受ける受けないって部分の技術がしこたま磨かれていて、そういった部分が切り離せないほど重要な部分になってるからです。それを除いたら多分小説はマニアにもつまらなくなると思っています。じゃ何故不満が出るのか?なろうは、そればっかりだからでしょ。旨味グルタミン酸を味の素にしてぶっこんだだけの料理を上手いとか言われたら料理人は誰でも腹立つでしょ。


 じゃこれはいつものように、ええそうです。質じゃなくて量の問題に過ぎません。小説じゃないと言及する限りは質の違いを証明し無いといけません。出来るわけがない、だって量の違いでドンナ小説も受けるためのテクニックに溢れてるんだから。


 歴史を知るべきだと思います。将来小説はランキングを通じて笑いになってしまうのか?なら一つの形としてカクヨムでのオレオを思い出してください。エッセイを読んでる人なら知ってるでしょ?多くの人は不満と賛同に別れたと思います。それは小説が笑いの様な受ける受けないから自由じゃないってのを多くの作家は知ってるからです。インタラクティブな面白さと言うものだと思います。ネットの新しい小説の形として受け入れた人が居たと思います。私は好きじゃないです。ただこういう形もあるなと思いました。


 でも私はそれは杞憂だときっぱり切り捨てます。過去ロボットアニメが進化した理由に、ストーリー性が薄いロボットプロレスにストーリー性を加味して今の時代があるからです。いくらなんでもライトにも限界があるんですよ。そこまで壊れたらバラエティー番組見るから。物語としての最低限の形は守られます。じゃないと意味が無いから。ただその形は杓子定規に定義できるような厳密なものじゃ無いです。じゃ何故読者はこうも作者に信頼されないか?と言うと、頭の悪い物語を楽しむ読者は頭が悪いって命題が正しく無いからです。ただし、データを取ったら社会的にあまりよろしくない階層の人か子供の割合が高い可能性はありますけどね。


 傾向と命題は別です。馬鹿な極論杞憂が生まれるのは、所詮は作家特有の妄想癖です。そんなもの論理じゃないです。作家は私は馬鹿だと思っています。だって現実ではデメリットになるかもしれない妄想的判断がスキルになってるんですから。でもエジソンとか創造的だったぞ?それは現実に叩き付ける妄想を繰り返すからです。作家の問題は自分の妄想を検証し無いからです。だから論理の話をさせると滅茶苦茶になる。


 エッセイとしては面白いんでしょうけどね。

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