壊れたワタシ ②
ACT2
結局、私は何も喋れなかった。
声を出す事はできるので、頭を殴られた事による障害ではないか。
脳の損傷は軽度で、今は出血も腫れも無い。
画像診断では確認が難しいが、外傷性脳損傷にはありえる事態。
と、まぁ医師が言うには、あるべき機能が損なわれているらしい。
私は、少し壊れてしまったという事だ。
引っ越し先の病院を紹介されると同時に、様々な手続きが行われた。
一ヶ月に二回の通院とは別に、カウンセラーは半年間は週一回。
リハビリはできれば毎日。
そして転入先の学校も、私の事情を汲んでくれるらしい。
カウンセラー常駐の、私立の高校だった。
私は、高校生のようだ。
相変わらず、私の中では、混乱が続いていた。
どうも、私の中では、私は中学生のような気がしていた。
中学の制服を来た小さな私。
でも、病院のトイレで見たオバケみたいな私は、少し身長が高くなっていたし、髪の毛も長かった。(頭部の治療で一部剃られたようだが、髪の毛自体の長さは保たれていた。)
だが、その中学生だという認識もおかしい。
この妙に疑り深く臆病な、なんとも嫌な性格、そして考え方は、あの頃の私にあったろうか?
もっと空気の読めない、無謀な明るさに支配されていたような気がする。
アイドルの話題、誰かのファッション、格好いい男子、それから、歪な子供同士の人間関係。
中学生の頃の毎日は、記憶されている。
けれど、やはり遊離したように、私は知っているだけで、何の感慨もわかない。
体育祭の時のレモンのスライス。
テストの時の前の席の子の背中。
担任の先生、クラスの皆、友達?
顔が浮かぶけど名前はダメ。
人の名前と顔が一致しない。
「ミナ、大丈夫か?」
一番の問題。
私は、桂木実奈子というらしい。
そして、車椅子を押す叔父さんは、鏑木恭二という。
桂木と鏑木。
同じような響き。
ただし、何も覚えていない。
実奈子って誰?
意志をもって言葉を綴る。
それが酷く難しい。
もちろん、口から言葉はでるのだけれど、それが旨い具合にはたらいていない。
今の段階では、文字を書く事の方がスムーズだ。
言語障害とは少し違うとも言われた。
私の首からは小さなメモとペンが下がっている。
そして様々な疑問、は、あるのに不安という感情が欠落。
残るのは違和感と、申し訳なさだ。
だって、知らない人に面倒を見てもらうのって。
でも、家族は。
悲しみ以前に、死んだなんて。
家族って言う景色は見えても、壊れてしまった私には、理解できなくなっている。
悲しいという概念はあるのに、麻痺したように意味が分からない。
私には、滑稽な嘘に思えた。
お母さんもお父さんも、生きているし、私がわからないだけ。
おばあちゃんに会いたい。
でも、会って、それでも理解できなかったら、どうなる?
どうにも、ならない?
「本当は静養するのがいいんだが、外からの刺激も受けないとダメらしい。だから、編入して様子を見ることになった。
でも、引っ越ししてすぐじゃない。
生活になれてからだ。」
最近の私の返事は、わからない。
という面白味のない答えだ。
先生にも、看護婦さんにも、弁護士さんにも、そして役所の人やカウンセラーのおばさんにも、同じ答え。
そして、壊れた機械のように、誰?誰?
と、単語で返す。
今も、口からは私の考えは伝わらず、一番最初の疑問だけが繰り返される。
すると、ワンボックスカーの扉を開けながら、叔父さんが繰り返す。
「俺は、恭二。
実奈のママの弟だ。」
それに私は、変だ、変だと繰り返す。
よっぽど、私の方が変なのだけれど、叔父さんは笑って返す。
「確かに変だけどよ。
まぁ薄い繋がりだが、実奈は俺の姪だ。」
ひょいと叔父さんは私を助手席に座らせる。
そして手際よく荷物のようにシートベルトを締めた。
「まぁ叔父さんって呼ばれるよりは、恭二がいい。」
おかしい。
と、私は思った。
何がおかしいのか、わからないけれど、私は叔父さんの離れていこうとする腕を触った。
すると、叔父さんは困ったように続けた。
「ん、どうした?」
頭と口が少し繋がったのか、意味のある単語が出た。
「うすい?」
「あぁ、薄いってのはだ。
前、会ったのは、実奈のママとパパの結婚式と、そっちの祖父さんの葬式、まぁ数えるほどだ。
それに、血もな、繋がってない訳じゃないが、薄いんだ。」
私の手をポンポンと叩くと叔父さんは扉を閉めた。
車の芳香剤は爽やかな香りで、予想とは違い煙草臭くなかった。
叔父さん、否、恭二が言うには、私とは親戚だけれど、限りなく血は薄い。
何故なら、ママのママは、恭二のパパと再婚したのだ。
連れ子同士の再婚。
でも、それなら血は繋がっていない事になるのだが、彼らも親戚なのだそうだ。
いとこ、同士の再婚らしい。
だから、薄いという表現になるようだ。
限りなく他人だ。
その考えが伝わったのか、恭二が運転しながら続けた。
「多分、実奈が思うより俺たちは家族だ。
お前、家の親父に似てるぞ。
色が白くて黒い目が大きくてな、じっと見られ
ると疚しいことがバレたかとヒヤヒヤしてなぁ」
私の反応が良かったのが嬉しかったらしい。
恭二は笑いながら続けた。
「ごらんの通り、俺は酷い息子だからなぁ。
じっと見られると、あの悪さがバレたのか、この悪さがバレたのかと、そりゃもう。
さて、親父の話が出たついでだ、家の事を話しとくか。
俺は、仕事の関係で時々長く家を離れる。
今は休みを入れているから、実奈が学校に行けるまでは家にいる。
学校に行けるようになったら、送迎は親父。
家事の殆どは人を雇ってる。
親父は元教師だ。
臨時の仕事以外は、家で遊んでる。
嫌みな爺だが、意地悪じゃないから安心しろよ。
それから通いで来てもらってる人は、年輩の女の人だ。
親父と俺では不安だろうが、長年通ってもらってる人が二人いるから、何か俺と親父に言いにくいことは、彼女たちに言ってもらってかまわない。
それから、実奈の後見人は親父だ。
後は何だ..そうだな。
俺たちと暮らして困ったことがあって、俺や親父に言いにくい事が出てきたら、弁護士の小田さんに言うこと、かな。
まぁなんだ男所帯だが、実奈が不快に思うようなことがあったら、どんどん言ってくれていいんだ。
無神経な犬だと思って叱り飛ばしてくれていい。
つまり、そうだ、実奈が一番偉いお姫様だな」
ふと、思う。
私は、何も心配していないと。
これも不思議。
むしろ、安堵した。
何故だろうか、安堵した。
今の話の、何が、私を安堵させた?
手厚い保護か?
違う。
暮らし向きが悪そうじゃないところか?
違う。
薄くとも親戚だから?
違う。
行き過ぎるフロントガラスの景色に、答えが流れていく。
若い女は、いない。
ぼんやりとした私に、頭の片隅の私が言う。
大丈夫、恭二は男。
お祖父さんは、もちろん、男。
そのお家に来るのは、おばさんが二人。
弁護士の小田さんも、おじさん。
大丈夫。
若い、女は、これから行く場所の近くにいない。
学校やお医者は、しょうがないけど。
一人、にならないようにすれ、ば?
何だ?
妙なこの考えに、私は身体が震えた。
何だ?
女性全般に対する愚かな嫉妬心ではない。
そんな感情らしき動きは、私の中で死滅している。
若い、女?
妙に居心地が悪い何かが、私を揺さぶる。
若い、女、が、何だ?
看護婦さんは、若い女だった。
何が、違う?
否、違わないとわかっている。
何?
見てはいけない。
聞いてはいけない。
そして、私は喋ってはいけない。
わかってるでしょ?
「どうした実奈?」
「..わからない」
明るい緑と白と灰色の家。
明るく暗く、程良く手入れのされた庭。
花と草木、水の音。
住宅地の奥、公園の側の家。
黒いワンボックスカーは、仕事用という話だ。
何の仕事か、まぁ私の貧困な想像力からすると、水商売っぽい気がする。
そして広々とした家のガレージには、祖父の日本車が停まっていた。
クラッシックな形のセダンで、日本車のマークだが、ガレージの雰囲気と同じくどこか洋風な感じだった。
どこもかしこも、きちんとしており清潔。
庭も自由奔放に草木が茂っているように見えて、庭師の手が入っている。
田舎の雑然としていた我が家とは違っていた。
我が家という言葉と絵がマッチする。
あぁ帰りたいという感情もだ。
おや、少し鮮明になってきたようだと、私は車椅子に下ろされながら密かに思う。
私が私の舵をとれていないのが今の状態だ。
オール一本で私は舟を漕いでいる。
そして目指す灯台の灯りも、星の光りも見えない。
けれど、忘れてしまった訳じゃない。
「すてきな、お家。いいのかな」
すんなりと言葉が出た。
久しぶりの目に優しい緑に、緊張がほぐれたのだろうか?
でも、こんな静かで美しい場所は、ダメだ。
場違い。
私には、場違い。
そんな気がする。
私はもっと、暗い場所にいた方がいいのだと思う。
わからないけれど、その方が安心。
安心?
見上げるように大きな叔父は、そんな私にちょっと唇を引き上げる。
「子供が気をつかうなよ」
強面というには、少し優しい感じ。
小さな動物を相手にしているような、そんな感じ。
「ゆっくり身体を治して、ゆっくり大人になればいいんだ。
これからは、俺が親代わりだ。
嫌だって言ったって、俺は、お節介をするからな。
覚悟しろよ、姉さんより口うるさいからな。」
わからない。
人の心も、自分の心もわからない。
叔父の顔を見つめたまま、壊れた私は首を傾げていた。