壊れたワタシ ①
注)本日二話目です。
ACT1
頭痛だ。
吐き気はしないが、頭が痛い。
力が抜けた身体は、恐ろしいほどで。
柔らかで暖かな布団に沈むようだ。
あぁ頭が痛い。
寝返りを打てそうもないほど、身体に力が入らない。
まるで、私の身体ではないようだ。
いつもなら、もっと..
不意に、黒々とした穴をのぞき込んだような気持ちになる。
目を閉じたまま、私は、意識をはっきりさせようとした。
眠っているのだ。
私は眠っている。
学校に行くんだ。
だから、起きる。
母さん、父さん、それから、おばあちゃん。
霞のかかった頭には、確かに、家族の絵は浮かんでいる。
でも..私は?
何だかおかしい。
わかっているのに、わからないような。
もどかしい気持ちがする。
多分、目が覚めれば、わかるんだと思う。
だから、私は大きく息を吐いて、目を開けた。
白い天井、ベットの周りを囲むベージュのカーテン。
カーテンレールを見て、学校の保健室を思い出した。
頭は相変わらず痛い。
右側に視線を向けると、点滴があった。
大きな透明の袋、点滴を落とす機械。
多分、病院だ。
カーテンの裾に防火マーク。
左側が明るい。
朝か昼か、腕は動かせないからナースコールを探す事もできない。
動かせないのは、よく見たら縛られているから。
大きな手袋みたいなのが、はまってる。
よく意識のない人が怪我しないようにはめるやつだ。
少し頭を起こしたら目が回った。
急に吐きたくなった。
私は、病気か怪我のようだ。
しばらく意識がなかったようだ。
人の気配に目が覚める。
白い制服、看護婦さんだ。
私は声を出そうとしたが、何だか、喋らない方がいいような気がした。
でも、その若い看護婦さんは、私が目を開けているのに気がついた。
そして医者らしき男の人が来る。
聴診器、ペンライト。
微かな問いかける声。
私の右耳は聞こえていないようだ。
「大丈夫、一時的ですよ。二週間ぐらいで聴力は戻りますからね。雑音が聞こえますが..」
私以外の誰かに説明している。
お母さん?
相変わらず、ぼんやりとした感じだ。
色々な管は午後には外すそうだ。
よかった。
これでトイレも自由に行ける。
相変わらず力がでない。
けれど、ご飯を食べるようになったら、大丈夫。
大丈夫?
お医者と看護婦さんが出て行くと、左側からカーテンが引かれた。
窓。
空と山、街並み。
病室は、ビルの上の方なのかな。
けれど、景色を堪能するよりも、私はカーテンを引いた男に驚いた。
誰?
見覚えのない男だ。
「よかったな」
誰?
「ミナコ、早く家に帰ろうな」
知らない男が、知らない名前で私を呼ぶ。
私は、何も言えなかった。
だって言い返せない。
私は、空っぽ。
記憶が無くなった訳じゃないけど、繋がらない。
言葉になって出てこない。
お母さん、お父さん、おばあちゃん。
私。
名前、言葉として形にならない。
わかっているけど出てこない。
記憶喪失?
違うような気がする。
私は私だし、この人は、知らない人。
わかるけど、わからない。
病室の椅子は結構頑丈そうな木製だ。
大きさもあるのだが、その人には小さかった。
そう、見覚えの無い男は、大きかった。
2メートル近いのではないだろうか。
「どこまで覚えてる?」
とても低い声。
まるで猛獣のうなり声のようだ。
けれど、どこか優しい。
私の無言に、その人は困ったように眉を下げた。
眉は左側が少し欠けている。
怪我をした痕だろうか、少しだけ皮膚が白い。
陽に焼けているのとは違う色の浅黒さ。
少し灰色がかった薄い虹彩。
「じゃぁわからない事はあるか?」
わからないこと?
貴方は誰?
ここは何処の病院?
私はミナコじゃないよ。
お母さんとお父さん、おばあちゃんは何処?
私は病気なの?
次々と疑問がわく。
けれど、私は怖いくらい身体に力が入らない。
そして喋りたくなかった。
「..入院している理由はわかってるよな?」
私の表情を読もうとして、その人は顔を寄せてきた。
グリーンノート、それから不思議で嗅ぎなれない香り。
あぁ思ったよりも若い。
この人、三十になってるかな。
あれ?
三十が若い?
私の倍以上の年なのに。
私は、あれ?
首を傾げる仕草に答えを見たのか、その人はゆっくりと喋りだした。
「最初、運び込まれた時の事は覚えてるか?」
意味の分からない言葉が並べられていく。
日本語だけれど、奇妙な感じ。
「何度か意識を戻したんだが。
多分、その時に受けた説明は覚えて..ないよな」
言い渋るように、その人は続けた。
「医者が言うには、怪我の炎症、脳の腫れがひくまでは、記憶が混乱してるだろうってことだ。
今、どういう状況か、わかるか?」
無反応の私に、その人はゆっくりとした口調で言った。
「..ミナは、殴られた。
右側の鼓膜が破れてる。
頬骨にヒビも入っててな、そこは自然に治るから。
整形もいらんぐらいだから、可愛いまんまだ。」
安心しろと言い、それから私の目を見つめた。
「犯人は死んじまった。
祖母さんは一応無事だが、元々ボケてるから、今は施設だ。」
犯人?
「もっと具合が良くなってから聞くか?」
手袋のとれた手を動かそうとした。
髪の毛が痒かった。
「さわらない方がいい。
全身打撲だ。
三日も意識が戻らなかった。
それからは一応受け答えはあったが、今みたいにずっと目を覚ましているのは初めてだ。
入院は、今日で一ヶ月ちょいだ。
そのあたりは覚えてるか?」
大きな手のひらに、私の手が乗せられる。
打撲の痕が、派手な色合いで皮膚を飾っていた。
「犯人、覚えてるか?」
犯人とは何だ?
「親の事、聞くか?
何処まで記憶にある?
..あぁ先送りにしたいんだが、多分、今日明日にも他人から聞く羽目になっちまう。
多分、俺から聞くより重いから、まぁ嫌うなら俺だけにしとけよ」
その人は、自由な方の手で顔を撫でると言葉を切った。
意味がわからない。
正直なところ、知らない人から何を聞いても、判断しようがない。
全部、嘘かもしれないだろう?
と、言い返したかった。
だが、私はその人の人差し指を握り返した。
すると巻き付く私の指が、優しく撫で返される。
でも、怖い。
酷く、冷たい目だ。
氷よりも鋭く、むき出しの怒り。
でも、その視線は何も無い床を睨む。
そして再び私を見ると、情けなさそうな、申し訳なさそうな顔になった。
今度は早口だった。
早口で囁くように言った。
「義兄さんと姉さんはダメだった。
火をつけられたのが不味かった。
お前も一緒に燃やされたかと、最初はな。
でも、離れの祖母さんが、お前は外だ外だと騒いでな。
お前、殴られて、下の川に落ちたみたいだ。
刺される前に、殴られて。
それとも飛び込んだのか?
溺死しなかったのは奇跡だよ。ほんと、生きててくれて良かった」
一息に言われた言葉が、私を混乱に突き落とした。
家族?
犯人?
怪我?
全てが、現実から遠く、私には遠い出来事に感じた。
絵は浮かぶ。
家族の絵は。
でも、父親の名前、母親の声、おばあちゃんとの思い出がわからない。
加えて、私は私なのに、私の事がわからなかった。
ただただ、違和感だけがあり、それでいて、忘れていると言うより霞がかかっていて手が届かないだけだとわかっている。
私は、私であるという何かが失われているのに、何も無くしてはいないという確信もあり。
つまりは、混乱し、訳も分からず、途方にくれていた。
「家は燃えちまったからな。
警察の方でも、ミナが回復したら話をしたいそうだ。
無理にとはいわない。
弁護士も、お役所も、うるさいカウンセラーも、お前が一番つらくない方法をとると言ってる。
ただ、申し訳ないんだが」
その人は、私の無言を拒絶ととったようだ。
だが、私は、単に見知らぬ人から、ゲームのシナリオを聞いているような気持ちだっただけだ。
深刻に受け止めるだけの情報も、証拠も、そして私の記憶もなかったから。
「悪いとは思うが、俺はこの街にくらしていないんだ。
だから、ミナは引っ越す事になる。
学校の友達と、距離ができちまうし、新しい学校に転校する事になっちまうんだよ。」
どうして?
無言の問いが聞こえたように、その人は言った。
「一番血の近い親戚は、俺、だけなんだ。
俺の方の親戚は腐るほどいるんだがよ、義兄さんの方は、ヨシ祖母さんしかいない。
今度のことでボケが益々進んじまったからな、今は殆ど寝たっきりだ」
つまり、この人は、私の面倒を見ると言っているのだ。
そしてこの人は、お母さんの弟のようだと、やっと理解した。
叔父さんだ。
その理解と共に、頭痛が酷くなった。
目を閉じる。
もう一度、寝て起きたら、もっとはっきりするんじゃないか。
こんな馬鹿馬鹿しい話があるわけがない。
記憶が混乱し、家族が事件に巻き込まれ、火事で家を無くす。
私は殴られ、身体を痛め、入院している?
そして見知らぬ叔父さんが、私の面倒を見る?
何と、馬鹿馬鹿しい話だろうか。
私が目を閉じると、叔父さんは大きくため息をついた。
私の手は握られたままだ。
不愉快な感触は無い。
乾いてタコのある大きな手。
暖かくて、軽く私の手を包んでいる。
ただ一つ違和感があるとすれば。
シャツの袖から見える手首に、入れ墨がある事だけだ。
叔父さんと名乗る男の両手首には、タトゥーがのぞいていた。