prologue
残酷な描写、身体欠損、犯罪描写。
または、障害や病気、入院等の描写があります。
ご注意お願いしますm(__)m
梅雨には早い、春の夜。
帰り道、寂れた商店街を街灯が照らす。
シャッターは閉まり、静かな通りに時々車が行き過ぎる。
夜、遅くなった帰りは、商店街を通るようにしている。
一番早く帰れる道は、商店街の通りを横切り一本向こう側の並木道である。しかし、並木道と言うが、視界を遮る木々があり暗い。
街灯も少なく殆ど闇に沈んでいる。
だから並木の手前で曲がり、商店街を通る。
そうして家近くになってから商店街の道を外れて並木道を横切るようにしている。
今日は特に曇り空で、夜が濃い。
商店街から並木に向かう間道も、闇に黒く塗りつぶされているように見えた。
いつもなら、個人商店のわき道から並木のある通りに折れる。
二番目に自宅に近い道順なのだ。
でも夜遅いと、その脇道も通りたくない。
並木道と商店街の道路は平行にある。
そして梯子の足場のように、細い間道がある。
商店街に曲がると最初の間道は、地方裁判所の脇道だ。
ウネウネと宅地を通っており、他人様の庭先を通り抜けるような感じの通路である。ここを通ると、いつもの道順とあまり差が無く、並木道をある程度歩くことになってしまう。
その間道の次が個人商店の脇道だ。
化粧品の店に何故か菓子を扱う店舗がくっついている。
ただ、最近は店を経営していた人が亡くなったとかで、殆ど営業はしていない。
今も遮光カーテンの降りたサッシは真っ暗だ。
枯れかけた鉢植えが店先に並んでいる。
ここから曲がると牛乳を配達してくれる店があり、反対側には釣具屋、その隣が美容室とある。
もちろん、十数年前には開店していたが、今は名残の看板があるぐらいだ。
ただ、この間道は抜けた先がよくない。
並木道を横切る場所に墓場ある。
墓場は怖くない。
否、暗い場所は怖い。
痴漢がでるのだ。
特に春先は素っ裸にコートの変質者が出没するという、ミニパト巡回地域なのだ。
連絡手段も防犯ベルも持っているが、わざわざ通りたい道でもない。
昼間でさえ薄暗い墓地。
怪談よりも現実の人間はリアルホラーである。
どの脇道も暗いし、並木道を横切らなければ帰れないのがまずい。
さりとて、もっと先にある県道に曲がる道を選ぶと遠い。
商店街と並木、更に先の平行する川を抜ける県道は明るい。
だが、家に帰ろうとすると遠い。
商店街の道を駅方向に抜けて、県道に曲がり、並木をカットして川の土手を橋まで歩く。
遠い。遠すぎる。
結局、川沿いの寂しい土手を歩く事になるから、変態の遭遇リスクはそれほど変わらない。
もちろん、墓場に引っ張り込まれるよりも、見晴らしはいいので絶叫すれば逃げやすい。
そこで中をとって、文字通り、その個人商店と県道の中間にある細い間道を選ぶ事になる。
家々の間にある自転車が通れるくらいのわき道だ。
薄暗い事は確かだが、墓場に抜ける道よりは短く並木道に到達するし、大回りにはならない。
私は迷わずに三番目の脇道に入る。
もちろん、背後は確認した。
変態や痴漢は後ろから忍び寄ってくる場合もある。
自意識過剰で笑われる方がマシである。
そして上着のポケットに手を突っ込んだまま、足早に道を歩く。
左手は防犯ブザーを握る。
懐中電灯は、なかった。
いつもは鞄に携帯用の小さな物を下げているのだが、見あたらない。
駆け足をしたい。
そう思いながら脇道の最初にある、古い二階建ての本屋を通り過ぎる。
昔はちゃんとした本屋だったが、今は半分閉店しているようなもので、締め切った硝子戸の向こうに古いアイドル雑誌が見えた。
それが道を曲がってすぐの右手にある。
続いて大昔の映画館跡。
半分崩れた木造の大きな建物は、もうすぐアパートにするらしく立て看板もおざなりに杭で打ち付けられていた。
建物は外壁と屋根だけで、中はむき出しの土だ。
両隣は昔は店を開いていたが、今は古い住宅のまま明かりもついていないので住んでいるのかいないのかわからない。
そして更に進むと左側の石の塀がとぎれる。
緑の生け垣に、これもまた古い和洋折衷の二階建ての木造家屋がある。
色硝子が綺麗なその家は、昔は歯科医院をしていた。
今は高齢になった住人がいるのかいないのか、やはり灯りは見えない。
ここまでは、ついたり消えたりと頼りない街灯がある。
もう一度だけ、振り返る。
すると、やはり私と同じように間道を通り抜けようとする女性の姿が見えた。
年齢は四十代ぐらいか、会社員なのか駅の方向から歩いてきたらしく、携帯を片手に早足だ。
私に気がついてちょっと驚いたようだ。
それも一瞬で、彼女は何気ない風に追い越していった。
カツカツとヒールの音が通り過ぎる。
私は最後の街灯の下で息を吐いた。
ここから並木道まで街灯が無いのだ。
今日は本当に暗い。
だから、女性が先に歩いていったので、少し気が楽になった。
彼女が警戒しない程度に距離をあけて後に続いた。
同性であるから、痴漢とは間違えられないだろう。
ここ数年で旧市内は寂れた。
都市開発機構が作り出した新しい街は北側で、首都圏まで直通の沿線沿いだ。それに北にできた新興住宅地には大型のショッピングセンターとアウトレットがある。
比較しても旧市内は高速道路のインターから遠く、更に駅も本線ではなく私鉄、寂れないほうが不思議である。
昔からの街並みと言えば聞こえがいいが、江戸時代頃の石壁や何かがあっても、暮らす人間には不便は不便なのである。
そして祖父母の前から乾物屋をしていた私の家は、寂れた商店街の外れに居があるわけで。
風光明媚ではなく極普通の田圃の中の一軒家というわけだ。
こうして午前様でもないというのに、真っ暗な帰り道を歩いていると愚痴もでる。
愚痴でも考えていないと、やはり暗闇は怖いのだ。
街灯がとぎれた場所から、古い木造の住宅が灯りも無く暗い顔を連ねている。
陰気な廃屋は、誰かが潜んでいそうで怖い。
もちろん、空き家かどうかはわからない。
もしかしたら、家の奥で夕食を囲んでいるかもしれない。
灯りが漏れていないだけかもしれない。
だけど..
妙な確信があった。
低い平屋建ての家々は、真っ暗である。
陽に焼けたいつの頃に下げたかわからない柄のカーテンの奥は、埃のかぶった白茶けた畳があるだけで、蜘蛛の巣ぐらいしか無いだろう。
道は緩やかに右に曲がっていく。
左はコンクリートの背の低い壁。
右側は塗炭の塀で、庭木が頭上を覆うように飛び出している。
木は枝垂れるように下がり、頭を下げるようにしてくぐらなければならない。
道路というより、元は私道だったのか、木の方が大きな顔をしている。おかげで、道が曲がり枝で隠されて先が見えない。
もう一度背後を振り返る。
商店街の通りはもう見えない。
最後の街灯は、うっすらと白い輪を描いているが、それも黒い画用紙に開いた穴のようだ。
誰もいない。
なのに、誰かが見ている。
そんな馬鹿げた事を思う。
野良猫でもいればいいのに。
そんな事を思いながら、枝をくぐる。
高々、二百か三百メートルの脇道なのだ。
怖がる必要もないのに、やけに静かで暗くて、私は心底嫌になっていた。
枝をくぐった先は、闇が濃かった。
かわりに、灰色の造形が浮かぶように目にうつる。
道の両脇の塀、家、庭、敷石、木々、少し崩れた木の建物。
どれも雑草や落ち葉が荒れ果てた風情を演出しており、下手に口を開いて歌でも歌ったら余計不気味だろう。
先を歩いている女性はいるだろうか。
そんな事を考えて、歩く速度を上げる。
もちろん、視界の先には女性の背中が見えた。
ホラー映画ではないのだ。
先を歩いている女性はちゃんといるし、遠く並木の方角にも小さな灯りが見える。
私はことさら、背後と両脇の気配を探りながら急いだ。
息を切らせて駆け寄るのだけはダメだ。
と、思いつつもすっかり暗闇が怖くなっていた。
焦って肩から鞄の紐が落ちる。
思うよりも慌てていた私は、鞄を持ち直す為に歩みを止めた。
と、鞄を持ち直して前を向くと、先を行く女性も立ち止まっていた。
彼女は右を見て、携帯を片手に立ち止まっていた。
何だろう?
彼女は右側を向いていた。
そして手の携帯を持ち直すと、何処かへかけている。
私は歩き出す事ができずにいた。
彼女の様子がおかしい。
携帯を何度も何度も操作して、耳にあてている。
それから、右側を見たまま後ろに後ずさった。
変態が出た?
咄嗟にそんな事を思った。
私も携帯を取り出そうと上着に手を入れる。
無い?
防犯ベルはあるのに、携帯が無い。
鞄の中か。
そんな事を考えていると、彼女が私に気がついた。
彼女は、私を見ると手を挙げて来るように動かした。
こっちに来てという仕草だ。
その間にも彼女は携帯をかけ続けている。
嫌だ。
そう思った。
面倒とか何とか、そういう理由ではない。
彼女の側の、右側に近寄りたくない。
視界に入る景色の中で、右側だけタールのように真っ黒だ。
黒い景色の中でも、何も見えないほどの黒い場所が怖い。
すっかり怖じ気付いているのに、私の足は勝手に走り出した。
狼狽する表情に、何事かがある。
何事か..私に何かができるとか、具体的な考えは無い。
彼女は携帯を片手に、指を指す。
白い指先が右手を示す。
二階建ての建て売りの隣。
建て売りは煤けた壁に、狭い庭がある。
その隣りは、古い木造の平屋。
茶色いスレートの屋根に、白く陽に焼けた木の壁がある。
引き戸は所々割れた跡。
テープで補修した奥は、破れた障子が見えた。
庭には手入れの悪い木々が伸び放題になっている。
そんな陰気で古びた廃屋を、彼女は指さしていた。
けれど、その指先にあるのは、この寂れた街によくある景色である。
何も驚く事ではない。
けれど、彼女は頻りに繋がらない携帯のキーを押している。
私は私で、その傍らで凝然としていた。
体が重く動けないのだ。
動けない。
息を切らして走ってきたのに、急に怠さにおそわれた。
怠くて、四肢がガクガクと震え。
背を丸め地面を拝むようにして、動きがとまる。
だから、肝心の場所を見ることができないのだ。
見えない手で頭を押さえつけられている。
真っ黒な闇があり、それが私を押さえつけている。
それでも、彼女が震えながら指し示した場所を見ようとした。
見なければ駄目だ。
そう思った。
見ないと、危ない。
見て、危ない物を避けなければ。
そんな馬鹿な事を思った。
だから、目だけでも肝心の方向を見ようと見開いた。
闇だ。
塗炭の塀が途切れ、低い手入れの悪い生け垣が見える。
闇の黒に、濃い緑。
踏み固められた庭の土、壊れた鉢植えの側に足を置く石がある。
縁側の雨戸は開いていて、薄暗い中に白い障子がぼんやりと見えた。
普通の民家の庭先。
だが、私を押さえつけている圧力は左上、頭上からだ。
目を精一杯見開き、左上を見る。
足は根が生えたように地面に吸いつき、私は動けない。
でも、目の本当に隅の部分に、それが見えた。
足だ。
白い裸足が、ぶらぶらと揺れている。
ペディキュアは無いが、若い女の足だと思った。
それが力なく揺れている。
私は何とか首を動かそうとした。
「どうして繋がらないの?」
声が大きく耳に届く。
白い足。
ロングスカートが脹ら脛の中程を覆う。
白地に赤と緑と黒の模様。
目を凝らすと、スカートの裾を花柄が飾っていた。
闇の中、白い足とスカートがぼんやりと浮かんで見えた。
それ以上、私の体は動かない。
だから、見上げる事は無理だった。
なのに、それが、うねる枝からぶら下がっている事がわかる。
柿木の木だろうか、それに荒縄でぶら下がっている。
力なく両手はさがり、右手の中指は爪がはがれている。
そして、肩までの黒髪が揺れている。
黒い闇の中で、白く浮かび上がるその姿を、私は目のはしに捕らえたまま、大きく口を開けた。
首吊り死体を見て、私は悲鳴を..
嫌な事、面倒な事ばかりあると、幸せのレベルが下がる。
幸せが減るのではない。
小さな事で幸せを感じてしまう。と、いう意味だ。
今日は暖かくて幸せ。
雨に濡れなくて幸せ。
普通に歩けて幸せ。
何事もなくて幸せ。
何もかも幸せと感じるが、つまりは、そんな小さな部分でも幸せと感じてしまうほど..。
幸福感のレベルダウンと呼んでいる。
謙虚な訳ではない。
それこそ、最近は息をするのが苦しくなくて、幸せ。
などと寝言を言いそうで嫌だ。
それは人としてのレベルアップではない。
レベルダウンなのである。
けれど、
あまりにも現実めいた夢は怖すぎて、レベルダウンした私でも、良かった良かったとはならなかったようだ。
叫び声はあげなかった..、まぁそれだけは良かったか。
自室の布団の中で、身をこわばらせて目を開ける。
目覚めという感覚は無い。
ただ、夜の闇から突然放り出されたように感じた。
ここが何処であるか、一時わからなかった。
私が何者であるかは理解していたが、時間の感覚が狂っている。
ただ、夢である事は残る恐怖を味わいながらも、納得していた。
何しろ、夢の中の私は中学生だったから。
そして、あの場所は無い。
無いはずだ。
新しい道路が並木と商店街の間に、もう一本作られて。もう、あのような暗い景色は無い..。
「..怖かったよ」
誰もいない部屋が幸せ。
そんな事を思いながら、窓から見える明け方の空を見上げた。
群青色の空は、美しかった。