なぜ日本人なのか その2
テンプレ夫君は、比較的自重しない系主人公。
作中小説 テンプレ夫君の異世界譚3
~はじめてのお出かけ~
5歳になった。
今日ははじめて屋敷の外に出て街に行くだ。
馬車の窓から、石造りの中世ヨーロッパ風の街並みをながめる。市場で馬車をとめ、母親と手を繋いでいろいろ見て回る。
魔道具の出店に興奮しているうちにはぐれてしまった俺は、人さらいに捕まり非合法奴隷として売られそうになったが、持ち前のチートパワーでどうにかなった。
あと、騎士団が来たりして人身売買組織は壊滅した。
この世界に奴隷制度があることは知っていたが、実際に目の当たりにするとやっぱりショックだった。
保護された人たちのなかに、よその国からさらわれてきて、しかも本人が幼くて(俺と同い年)帰る場所がわからない猫獣人の女の子がいた。
結局その子はうちが引き取ることになり、気が付けば俺専属のメイドに――どうしてこうなった?
異世界ものの主人公を日本人にするもうひとつの理由は、価値観の共有があげられると思います。
社会の仕組みがまったく異なるということは、当然価値観も異なってくる。
その世界の住人を主人公にして、我々日本人とは異なる価値観を説得力を出しつつ表現して、しかも主人公に感情移入してもらうよりも、価値観の同じ日本人を主人公にしたほうが読者は共感しやすい。しかも、自分も書くのが楽。
江戸の頃は、付け火したり十両盗んだら問答無用で死罪だったわけです。
当時の衛生事情や医療、交通の便などを考えるに、今の我々の感覚よりもずいぶんと死が近い世界だったのではないでしょうか。
異世界なんて、大抵が封建的な社会制度、魔物や盗賊もうようよしている。公衆衛生や医療もたいして発達していない。すぐ死ぬ。
ついでにハーレム要員確保のためには、奴隷制度も欠かせない。
これで現代人と価値観が共通のわけがない。江戸時代の価値観よりもその差は大きいかもしれませんね。
いきなり異世界のシビアな価値観を突き付けられても、読者はそれになじむのに時間がかかると思われます。
なので、緩衝材として日本からやってきた主人公を置き、彼あるいは彼女と一緒に新しい世界に慣れていくのです。
この手法は、これがそのまま設定や世界観の説明にもなっています。
主人公に説明する形で自然に読者にも伝えられるし、一石二鳥ですね。
こむるは、チーレム主人公は嫌いです。鈍感系だともっと嫌いです。
でも、無自覚鈍感系逆ハーヒロイン(自己評価低め)が一番嫌いです。
じれじれして勘違いしてすれ違ってを3セットくらい繰り返してようやく
「わたし……彼のことが好きだったんだ……」
とか、最高にイライラします。
これは個人の好みの問題でもうどうしようもないのです。イギリスの恋愛ものは受け入れられても、アメリカの恋愛ものは受け入れられないようなものです。
大学のサークル内でカップルをぐるぐる回すみたいに引っ付いたり別れたり引っ付いたり別れたりぐるぐるぐるぐると――