月と太陽(9)
「分からんかったら語尾にingつけとけ。それで大体何とかなるって!」
「……空欄が多いときは~?」
「それはitとかが入る時が多いな。そもそも元の文が……」
授業中にちゃんと聞いてなくて取り切れていないノートに、
洋次は情報を付け足しながら、僕の質問に答え続けた。
――洋次の家についてから約三十分。
こうして洋次はずっと、僕の前で僕のノートを修正したり、
教科書を引っ張って来て見せてくれたりして僕に教えてくれている。
いつもなら隣に来るのに、今日は前に居る。
洋次の解説は、非常に丁寧な解説だった。それは常に変わらない。
僕が嫌な思いをしてまでここに来るほどの価値のある、
明快で分かりやすい、そして僕の頭にスッと入る解説。
長く時間を共に過ごした洋次には、それが出来るんだ。
違うのは、座っている位置だけ。
逆にあからさまと言うか、僕の方が慣れない気持ちになる。
けれど、やはりこうした位置取りをするという事は、
それなりに僕の拒絶は、あの時の洋次に伝わっていたという事なんだ。
洋次は真剣な瞳で僕のノートを追っている。
次々と、足りない部分を探り当て、それを埋めていってくれる。
これこそ、僕には絶対出来ない作業なので、
洋次の手をたくさん借りなければならないのだ。
「テル、字は綺麗なんだけどなァ!」
僕が洋次の言うとおりにノートを取る時、洋次はじっと僕の手元を見ている。
普段ならそろそろ僕の手を取るなり、強引に顔を近づけるなりして、
禁じられた行為の前哨戦を始める所だ。
洋次の目線には、何かしら意味があるように思えた。
――この手を取りたいと、思っているのだろうか。
様々な映像が頭に浮かぶ。
洋次の言っている事が、だんだん聞こえなくなってきた。
……集中、できない。
脳内で、いろんな場面の洋次が、いろんなセリフを吐きかけてくる。
それは単なる登下校の一場面だったり、校内で会って何となく話す時だったり、
洋次の家で、組み敷かれた状態で、漏れてきた吐息だったり。
「おい、聞いてんのか?」
「……うん、大丈夫だよ~。」
綻んでしまった友情関係を取り戻したいから。
単純に怒った僕の機嫌を元に戻したいから。
いずれ再び肉体関係を持ちたいから。
どんな理由であれ、今、洋次は僕に触れてくることは無い。
そして、時刻は八時を回り、僕の帰宅時間となった。
僕がノートを開いてから、今こうしてそれを閉じるまで、
一度も彼は僕の身体のどこかに触れてくることは無かった。
今まででは、考えられない事だった。
「洋次……」
「ん?」
「ありがとね~。」
精一杯作り笑顔をして、僕は荷物をまとめたカバンを背負った。
洋次は立ち上がった僕にゆっくりと近づいてくる。
急に時間が遅くなったように感じた。洋次はもうそばにいた。
それから、僕の肩を持って、身を僅かに屈めて、
ほんの一瞬、柔らかなキスをした。
「お口が寂しいってヤツだな!」
彼はそんな事を言いながら、一度僕に背を向けた。
そうしてくれて有りがたかった。僕は作り笑顔をする事が出来なかったから。
今、この時、僕は確かにパニックになった。頭の整理をする時間が欲しい。
彼が振り向く。いつもと同じ表情だった。
そこに別の人間は写っていなかった。洋次そのものだった。
だからこそ、おかしかった。
「また来いよ!いつでも教えてやっからさ。」
「……うん~。」
不自然さを可能な限り薄めながら、僕は何とか首を振った。
まだ少し温かい感触が、口の周りに残っている。
彼はそれからいつも通りの様子で、下の階に僕と一緒に降り、
いつも通りの表情で、僕を玄関先で見送った。
――分からなくなった。
洋次が何を考えて、あんな事をするのか。
丁寧な解説をして、勉強中は一度も触れて来ないでおきながら、
最後の最後に、あんな不意打ちを僕にくらわせるなんて。
日に日に冷たさを増していく夜風に当たったおかげで、
僕の興奮は冷め、冷静に考える事が出来た。
……彼はやはり、まだ体の関係を続けたいんだ。
僕が怒らない、拒絶しないギリギリのラインを探るために、
ああやってパターンを変えて、試してみるつもりんだ。
新しく彼女を作るには時間が掛かるから、
なるべくは今利用できる肉体関係は利用しようと、
そんな気持ちで、彼は僕にキスをしたんだ。
そう思ってみるとあっけない事だった。
だって、都合の良い相手を失いたくない男が、
一般的に取るであろう、愚かな行動と全く同じなんだから。
次に行くときはもっと触られるかもしれない。
優しくないキスをされるかもしれない。
そうしてどんどん段階を進めていき、元に戻すだけなんだ。
全ては、セフレの、気を引くためだけの行動なんだ。
それだけが、先ほどの彼の行動の意味なんだ。
少し笑えてきた。洋次が、愚かで仕方が無かった。
『洋次も本気で性格悪くなったもんだよ。』
良助の声が鮮明に蘇ってきた。
そうだよ。彼はああ見えて、とっても性格が悪いんだ。
悪いと言うより、自分の欲望にとっても素直で、単純なんだ。
ある意味、達也と張り合う事が出来るかも、しれないくらいは。
家に着いた僕は、夕飯は後で食べると告げて、
姉和佳子の静止を振り切りそのまま部屋へ直行した。
一度ベッドに倒れてみてから、もう一度起き上がって、
それから先ほどまで見ていたノートを開いた。
洋次の家に行く前と行った後では、そのノートは大きく変わっている。
このノートを使えば、僕は赤点を回避する事が出来る。
そうだよ、どうして思いつかなかったんだろう。
僕だって彼を、洋次を利用すればいいんだ。
適当に相手しながら、適当に拒絶すればいい。
そうすれば、今まで通りこのノートは手に入り、
僕が洋次に求める役目は果たされるんだ――。
マナーモードにしておいた携帯が震えた。
じっと机に座っていたから、携帯のわずかな動きに気づけた。
そこには「脇坂 良助」という文字が誘うように光っていた。




