電車
「電車」
藤竹 つきか
僕は死んだ魚みたいな目をして電車に乗り込んだ。電車の中は冷房が効いている訳でもないのに冷え切っていて、体を震わせた。
電車はプルルルル、と音を立ててドアを閉めた。これでこの空間と外の世界は完全に遮断された。残っているのは僕と中をまばらに埋める人数。それと静寂くらいだろうか。この電車は全く音を立てずに進む。電光掲示板には今の速度が書いてあって今は五十キロだった。ずいぶんゆっくり進んでいる。急ぐ訳でもないと、僕はゆったり構えることにした。
電車の中は本当に静かだった。咳払いのひとつもない。僕はその静寂にまるで抑制されるみたいに身動きするにも気を遣った。
僕は何故か人のいない先頭の座席に座り、背もたれに体重を預けて小さくため息を吐いた。そのため息は聞こえないほど小さいものだったけれど、体の中にある混沌をわずかばかりでも外に吐き出せたことで心は穏やかになった。
電車はすぐにホームについた。そこでほとんどの人間は流れこむようにしてホームに降りていった。電車の中は途端にガランとしてしまって、寂しさを覚える。残っているのはと、暇つぶしに周りを見渡してみた。
もう六十歳に近い男女が身を寄せ、まるで何かに耐えているようにじっとしていた。何か吐き出してしまえば楽なのに、それをすることさえ我慢して彼らは体内にそれを留めている。すごい勇気だと思った。僕はきっと耐えきれなくてさっきみたいに少しづつでも吐き出してしまうだろう。
他の人を見ることにした。複数の女性だった。年齢は二十代後半といったところだろうか。長椅子に三人が並んで座っている。おそらく友人だろう。だが、誰も言葉すら発しないし、顔を伏せたままで動こうとはしていない。彼女らもまた耐えているようだった。まだ何かアクションを起こして発散しているだけ先の二人よりは楽そうに見えた。
電車に残っているのは彼らだけだった。誰も彼も重苦しい雰囲気を持ってどこかの駅につくのを待っている。僕らの存在は電車一つまとめて同じ存在のように思えた。
「もう考えるのはやめよう」
三人組の女性の誰かが言った。彼女は言う、もう終わったことなのだと。僕もその点に関しては異論はなかった。誰かが何かを捨てるということに関して僕は口を出す権利を持っていないし、関わる気もなかった。
電車は速度を徐々に落とし始めて、アナウンスで駅についたことを知らせた。彼女たちは未練がましそうに車内を見渡した後、わざとらしく気合を吐いて一緒にホームへと降りて行った。
それから電車はずっと進み始めた。一日の間に休みや点検なんてこともなく、走り続けていた。一日が経ち、二日が経った。僕らは食事もトイレも行く必要がなかった。何故か腹も減らなかったし、喉も乾かなかった。それに関しては特に疑問に思うこともなく、僕らは待っていた。
電光掲示板は相変わらず五十キロという数字をまるで焼き付いたかのように表示し続けていた。
僕はまだ平気だったけれど、二人の老夫婦は憔悴していった。まるでヤスリで削られるかのように少しづつじっくりと彼らは疲弊していく。それでも彼らは何も言わず、耐えるばかりだった。
一月が経過した頃だろうか。老夫婦は少しづつ会話を始めた。
「もう現実を見なきゃ」
「俺は信じん」
「お父さん、そんな意地を張っても戻ってこないのよ」
「………」
彼は押し黙った。そしてそのまま一週間が経った。
電車は次のホームへと滑り込んだ。扉が開いた。老夫婦がゆっくりとした動作で降りると扉が閉まり、また進み始めた。
僕だけすっかり残されてしまった。だが、同時に誰もいないというのが開放感を与えてくれた。かといって僕は何をするでもなく、ただ人を気にせずにため息を吐けるようになっただけだった。
僕は観察対象を失い、宙ぶらりんな気持ちでいた。何度も足を組み替えてみたが一向にホームにつく気配はない。もしかしたらこの電車の最後のホームは通り過ぎてしまったのかもしれない。
このまま数か月、何年と乗り続けていたら降りることができるのだろうか。
いや、そんな時は来ないような気がした。
僕の心の半分が停止してしまったのも今や懐かしい。死んでしまった心を手術によって切り捨てるか、蘇生させるかしないと人間として満足に生きていける自信がなかった。
僕は車両の真ん中まで歩いて、両手を挙げた。片方には捨てるという選択肢を、もう片方には蘇生させるという選択肢を乗せて案山子みたいに立った。
「君自身が選んでくれ、僕はもう選べない」
電車は何も言わずに進んでいく。
僕が降りるホームが見えることはない。これは彼女の選択だと僕は思い込むことにした。
既に亡くなった心――僕の妻である彼女が死んだ時に一緒に鼓動を止めてしまった。僕は決断をすることができなくて、ただ立ち尽くしていた。その限り、電車は止まることはないだろう。




