終・よろづ屋見習い「見鬼の虹」
「お帰りー! って……なんではしばみも一緒なの?」
「途中で一緒になっただけだ。どうせだから二人で帰ってきた」
元気よく二階から駆け下りてきたスサに、はしばみは曖昧な顔をした。
何故か、「途中で一緒」のくだりで目が泳いでいた気がする。
大通りで虹と出くわしてから、彼はどこか様子が変だった。
「ただいま帰りました、スサさん。これ、天照さんから預かってきました」
「げ、なんだろう……どうせまた余計なこと書いてあるんだろうなぁ」
受け取りたくないと渋面を作る彼に、無理矢理手紙を渡す。絶対にアイツに渡せと、天照に言われたからだ。
何が書かれているのかは虹には見当もつかなかったけれど、天照が絶対に渡せと言うくらいだ。余程大切なものなのだろう。
虹の中で、天照は急速に憧れの対象に変化していた。彼女のような素敵な女性になりたいと、秘かに胸を熱くする。
憧れで尊敬の対象である天照からの言いつけを、無碍にするはずがなかった。
「虹、お前疲れただろう? 今晩の夕飯は俺が当番代わるから、少し休んでこいよ」
「えっ、大丈夫ですよ? これくらいで音をあげたりしません」
はしばみに気丈に振る舞ってみせたが、虹は正直言えば色々とありすぎていますぐ倒れ込んで眠ってしまいたかった。
太腿と脹脛、足の裏が悲鳴をあげている。山近くの田舎育ちで足腰には自信があったが、久しぶりに歩き通しに歩いて、あまつさえ慣れない人混みに晒され、異形に襲われた疲労は、虹の体力を根こそぎ持っていってしまった。
「虹ちゃん如きの強がりは僕らには通用しませーん。駄々捏ねてないで、さっさと自分の部屋に行く行く!」
ついにスサにまで邪魔者扱いされる始末だ。
はしばみも、虹の疲労困憊加減を見抜いているのだろう。眉間に皺を寄せて、心配そうにこちらを見ている。
人に気遣われるのに慣れない虹の頬が、照れに僅かに染まる。
スサの声音と言葉には相変わらずからかいの響きがあったが、虹は素直に彼らの好意に甘えることにした。
「じゃ、じゃあ……御膳の準備は手伝うので、それまで休みます」
「早く行ったら? 足もとふらふらしてるよ、虹ちゃん」
「し、してませんよ!」
震える膝に鞭打って、虹はスサを睨んでから階段を上り始めた。
「……お前から、獣臭い気配がする。虹ちゃん、なにかに襲われたの?」
「まあ、お前に隠せるとは思ってなかったけどよ……。狼男だ――なりそこないの」
「そう……怖い思いさせちゃったね」
虹の前では決して見せない、薄く笑んだ表情は、スサの本来の顔に近い。無機質で、笑みを浮かべているのに感情を乗せていない顔は、それでも近しい者には当たり前の顔だった。
スサは仮面を被るのがうまい。心中ではどう思っていようが、酷薄で道化師のような表面を崩さない。信頼していない者、そして、まだ本性を晒して嫌われたくない者には、表面の顔しか見せなかった。
虹は完全に後者の存在だと、はしばみは長年の付き合いで気づいている。スサにしては珍しい、他人に気を遣うなんて――絶対に出来ないものだと思っていた。
「気に入った相手ほど苛める癖、いい加減直せば、ちったぁ虹もお前に懐くと思うぜ?」
「こればっかりは無理。あの子に慣れてもらうしかないかなー」
それには一体、どれほどの月日がかかるのか――想像しただけでうんざりしてきた。
「で、僕の命令無視して一日虹ちゃんにくっついてた報告、してもらおうか?」
にっこりと感情の見えない笑みを向けられて、はしばみは面倒そうに頭を掻いた。
「あー……ひとまずよろづ屋の仕事は合格だな。運も才能の内だろ? 砂漠から来た魔女パティシエ見習いと、闇虚の魔女、そしてお前の永遠の天敵である天神所長――これだけの大人物たちをあっさり味方にしたんだからな。以前のお遣いも含めれば、完全に合格だ」
「すごいね、ほんとに。あの子を引き止めて正解だったよ、はしばみ。ありがとう」
「お前の為じゃねぇよ。アイツの為だ。ここにいた方が、アイツには生きる自由がある」
「ふふ、楽しみだなー。これから、どんな事件を起こしてくれるのか――」
「縁起でもないこと言うなよ……」
スサの声にも言霊は宿る。姉――天照と同様、言葉に力を通わせる彼は、たまに望みもしない事態を予言するのだ。
台所の長机に行儀悪く腰かけ、スサは天照の手紙を流し読んでいる。眉間の皺の数から見て、また彼の気に入らない内容だったようだ。
「面白くないなー。アイツ、虹ちゃんのこと相当気に入ってるみたい。〝虹を泣かせたら、直接お前に会いに行く〟――だってさ」
「ほら、お前が縁起でもない予言するから……最悪の事態を早速呼び寄せたじゃねぇかよ」
「大丈夫、大丈夫。天照はここが好きだから、壊すまではしないよ」
「お前の大丈夫は信用できねぇんだよ」
はしばみは憮然として、夕飯の準備を始める。桶で冷やしておいた野菜を取り出し、包丁を握る。
スサははしばみの背中を見詰めて、おもむろに手紙を宙に放り投げた。そのまま、右手をゆっくりと振る。刹那――手紙は青白い炎に包まれて一瞬で燃え尽きた。
「虹ちゃんには、明日からよろづ屋見習いとして働いてもらおうか」
「やっと、その気になったのかよ」
「うん」
きっと、よろづ屋の仕事は虹には辛いものもある。そう思って今までは、正式な依頼からは遠ざけていた。しかし、虹には見鬼の力があり、度胸もある。人を惹きつける才能もある。何より、虹自身が望んでいるような気がした。
この店の一員になりたい。そう思ってくれるなら、受け入れる覚悟をこちらもしようじゃないか。
「僕の優秀なはしばみさんが、虹を一人前に育ててくれることを願ってる」
「てめぇに言われなくても、そのつもりだよ」
はしばみの声は自信たっぷりだった。
まるで妹を任された兄のような態度に、スサはおかしくて声をあげて笑う。
満足するまで笑って、スサはぴたりと表情を消した。思案する風に、顎に手を添える。
「見鬼の虹――か」
スサの呟きは、誰にも聞かれることはなく、空中に溶けていった。
このお遣いの日の翌日、虹は正式に、〝よろづ屋・八月一日〟の仲間となる。
期待が少し、不安が大半。
まだまだ未熟な子どもなのに、仲間と数えてもらえることに嬉しさと不安を覚えてしまうのは仕方がない。
決して、道のりは穏やかなものではないだろう。虹は何度も躓いて、何度も二人に迷惑をかけるはずだ。
それでも、虹は前に進む。ここには虹を拒絶する人はいない。受け入れてくれる人がいる。
それだけで、辛いことも頑張れる気がした――。
卑屈にはならない。後ろ向きにもならない。一人で悩むこともやめる。虹はそう自分を戒めた。
虹の長い長い人生は、黄泉平坂から再び動きだした。