参・探し屋「六月一日」
獣のような臭いがする――。そう感じたのは、海市蜃桜門が眼前に近づいた頃だった。
虹は田舎育ちで、獣の気配や臭いには敏感だ。背後から、むっとするような臭いが漂ってくる。荒い息遣いや、舌なめずりする音まで鮮明に聞こえてきそうで……虹は寒気がする背中をぶるっと震わせた。
何か――不思議なものに出くわすのは慣れている。ほとんどが悪事などせず、害もないモノばかりで、虹はそういう存在を好みはすれ、憎みはしなかった。彼らはそこに存在し、過ぎていくだけのもの。人間が怒らせなければ、無関心でいてくれる隣人というべきものだ。
たとえ、その不思議なものが視えることで冷遇されようとも、蔑まれようとも、虹は嫌うなんてことをしたくなかった。
村の人々よりも、喋らない鬼火のような不確かなものと一緒にいる方が、虹には気が楽だった。暴力に怯えて、罵声に怯えて、貝のように口を閉ざすよりも、ふわふわと浮かぶ光る玉や、小さな人のカタチをしたものに話しかける方が楽しかった。
天にのぼったお天道様が、傾こうとしている。昼ごろに大通りに出たというのに、まだ目的の店につかない。商店街は店が密集していて狭く感じるが、実はかなり広大だった。虹の働くよろづ屋と、海市蜃桜門はちょうど逆方向にある。かなりの距離がある道のりに、虹の足腰は悲鳴をあげていた。
「ううっ、こんなに遠かったっけ? そういえばわたし、あの門を通ったことがないような……」
虹は特殊な例だと、はしばみは言っていた。
ここの住人は自由にこの世界と別の世界を門を使って移動できる。力がある実力者ならば、かなりの数の世界を行き来できる為に、行商などの商売を行う者が多い。
たとえば、よろづ屋の近くにある部分屋、先刻お邪魔したお菓子屋、殺し屋――そして、今から向かう探し屋も、数多の時空と世界を股にかける腕利き商人の集団だった。
しかし、虹はそういった契約が出来ない。己の力を知りつくし、制御し、完全に自我を保てる者にしか、門の外へ自由に出る許可は貰えない。虹が門の外に出たいと思えば、はしばみかスサ、もしくは他の実力者の知り合いと一緒に行くしかなかった。
「――!」
ぞくり……背筋に一際ひどい悪寒が走る。
人混みはかなり緩和され、道行く人にぶつかることもなくなった。
先刻まで、周りを見る余裕さえなかった虹は、今更だが道行く人々の顔を見上げてみる。商店街にはあまり子どもはいない。いても虹よりも年上の子ばかりで、いつも見上げてばかりなのが癪にさわる。
見上げた人々の顔は、様々だ。普通に人とかわらない容姿の者もいれば、顔だけ獣だったり、背中に蝶や蜻蛉のような翅が生えていたり、角が生えていたり、継ぎ接ぎだらけだったり――最初は仰天した虹だったが、流石に一年ここで暮らしていれば慣れてしまう。
時たま見知ったよろづ屋の常連に声をかけられたりしながら、虹はさきほどから背後に感じる気配に戦慄した。
背筋がずっと寒い。獣の臭いも薄れるどころか、さっきよりも強くなっている気がする。妖気は他の人々のものと混ざって判別できないが、確実に虹を追っていることは確かだ。虹を小物だと思って侮っているらしいことが見え見えだった。怯えさせて、怖がらせて、隙を見て襲い掛かる気だと――。
森で一度、狼と出くわした時を思い出した。
「お嬢ちゃん、気をつけな。美味しそうな妖気垂れ流してるぜ、あんた」
誰ともなく、虹にそう囁きかける。見回しても、虹を見ている人物などいなくて、一体どの人物が言ったのかわからない。雑踏の中でその声は不鮮明で、ともすれば聞き逃してしまいそうだ。虹はばくばくと忙しく脈打つ鼓動を持て余す。恐怖が胃の腑をせり上がって、油断すれば吐きそうだった。ひいていた冷や汗が再び掌を濡らす。
虹は自分の妖気を自覚できない。他人の気には人一倍敏感だったが、己の気と力の制御はまっさらの素人だった。垂れ流していると忠告されても、抑える方法がわからない。この世界で妖気を制御できないのは、すなわち気配をずっと誰かに知られているということだ。追手からは、どうしても逃げられない――。
「あ……」
冷えた風――そう感じた時には、虹はまた袋小路に迷い込んでいた。今度の小路には店はない。がらんとした殺風景な道が結界まで続いているだけ。
完全に、道を間違えた……。敵に襲う隙を、好機を与えてしまった。
虹は振り返る。明るい大通りを背にして、一人の大柄な男が影に沈んでいた。逆光で、顔は見えない。ただ、大きい。肩を大袈裟なほど怒らせて、虹をじっと見つめているようだった。
「見鬼の娘……聞いたぞ、お前の妖気は極上だってな……食わせろ――食わせろ!」
濁声が叫ぶ。びりびりと虹の肌を衝撃が襲う。相手が走り出して、恐るべき脚力を見せて一瞬で虹の目の前まで迫った。息を呑む時間さえ与えてくれない。相手の男の瞳は金色が濁って、薄い膜がかかったようだ。全身が茶色く薄汚れた毛で覆われている。ギザギザに傷ついた耳が、男が狼か犬の異形であることを示していた。大きく膨らんだ尻尾が、興奮で左右に大きく揺れる。瞳孔が開き切った狂気の表情が、至近距離からぱっくりと獣特有の臭いと一緒に、口を開けて襲い掛かってきた。
「わ、あ、あ……」
食われる――! 体はいざという時、反応してはくれない。
呆然と眼前の恐怖に硬直し、虹は男の凶牙をひたすら凝視した。
相手の動きが鈍く感じる。もういっそ、早く終わりにして欲しいと――虹が目を閉じそうになった、その瞬間。
「鎮まれ!」
音が止む。喝の入った言霊は、男だけでなく、虹の体さえ縛ってしまった。
なにが起こったのか、わからない。男は眼前で大きな口を開けたまま、固まって動かない。腐った肉の臭いがする。気持ち悪くなって、虹は唯一動く喉を鳴らして吐き気を堪えた。
男の体越しに、誰かが歩み寄るのが見えた。姿は女性のようだ。影が女性らしい体つきを映している。かつかつ、硬い履物が煉瓦畳に当たって高く音を響かせる。男のすぐそばまで歩いてきたその人物は、おもむろに細くすらっと伸びた足を振り上げて――凄まじい勢いで男を蹴り飛ばした。鋭く尖った西洋の履物は、見事に男の脇腹にめり込んで、そのままの勢いで男の体は壁へと吹っ飛ぶ。固い煉瓦壁に当たって湿った音が響き、男は声も上げることができずに沈黙した。
呆気ない最後だった。
虹の思考は再び混乱の渦中にあった。眼前の、綺麗な女性は誰なのか。
「おーい、生きてるか?」
銜え煙草が男らしい。苦く甘い紫煙が鼻を擽る。鴉の濡れ羽色の髪を腰まで伸ばし、風に靡くにまかせている。西洋の服を完璧に着こなし、腰に手をあてて仁王立ちする姿は、どこを見ても悪い所が見つからない。輝くような焔色の瞳が、覇気を湛えていた。
美しい、女性だった。虹が見てきた誰よりも、強烈な印象を与える存在だった。
「お前、運がいいんだな。〝闇虚の魔女〟の妖精が俺の所に飛んでこなきゃ、今頃頭から食われてたぞ」
彼女が指す場所を、反射的に目で追って、虹は驚愕する。
妖精というのは、恐らくアントスのことだろうとは思っていたけれど――まさか人型になっているとは思わなかった。
アントスは蒼い西洋の鎧を着た青年だった。髪も瞳も蒼い。真っ蒼な姿は凛々しく、まさに妖精といった雰囲気の美しい青年。
「……」
無言で暫時、アントスは虹の安否を確認していたらしい。
しかしどこにも傷はなく、無事だとわかった途端に彼は笑顔を浮かべて消えた。蒼い花びらをまき散らして、甘い花の香りを残して。虹の知らない馨しい香りは、すっと鼻腔に入り込んで溶けていく。
「成程、あの妖精はどこか遠くにある異国に咲く蒼い薔薇の化身か。道理で魔力が強い。しかし、桜子も相変わらず美青年好きだな」
呆れたように吐息をついて、彼女は虹に向き直る。彼女の瞳から、目を逸らせない。強大な存在感は、視線を外すことを許してくれない。
まるでお天道様だ――行く道を明るく照らす、燃え盛る巨大な道しるべ。
「お天道様……」
思わず呟いた虹の言葉に、彼女は驚いたように目を見開き、そして破顔した。
女性にしては大きな手が、虹の頭に優しく置かれる。ぽんぽんと軽い感触で撫でられて、虹は肩を竦めた。
「お前、直感すげぇんだな。相手の本質を見破る稀有な見鬼。長らく見ない逸材だなぁ……スサんとこにいるのは勿体ないな」
「あ、あの?」
「俺に荷物、届けに来たんだろ? あがっていきな、ジュースくらい出してやるよ」
「……あ! は、はいっ」
虹は漸く気づく。目の前の人物こそ、自分が荷物を渡すべき人だったことに。
背中の背嚢に入った本の重みを、今更ながらに思い出した。
煉瓦畳に突き刺さりそうな尖った靴を高らかに鳴らし、彼女は虹を置いてどんどん先に行ってしまう。
小路から大通りに彼女が出た途端、道行く人々が息を呑む。皆一様に畏怖の表情を浮かべて、焔の化身のような彼女を見つめた。
「探し屋の――」
「天神所長だよ――」
「焔の女神――」
「――の化身」
言葉の端々が断片的に耳に入ってくる。虹には理解できない言葉もあって、唯一彼女の名前が「天神」というらしいと見当をつけた。
海市蜃桜門が虹の眼前に鎮座している。堂々と佇むその姿は、さながら巨人が仁王立ちしているようだ。頂上の方では、風が渦巻いている。びょうびょうと耳にかかる音が門の大きさを示していた。門にはお天道様とお月様、龍神と猫、そして桃の彫刻が施されている。統一感のない彫刻は、それでもこの門にとても似合っていた。
彼女の背を追って、虹は短い脚をひたすら動かした。探し屋の所長は長身で、虹とは歩幅が違う。ずんずんと大きな歩幅で歩き去ってしまう彼女を追いかけるのは、かなりの苦行だった。段々と息があがってくる。
海市蜃桜門のすぐ傍、門の管理小屋と隣接するように探し屋・六月一日は建っていた。
近代的な建物で、三階建て。縦に長い箱のような建物だった。淡い色合いの朱色で塗られた壁、均一に並んだ窓、看板には上品な筆記体で「六月一日」と書かれている。
「ようこそ、探し屋へ」
紫煙が視線の先を流れていく。紫煙は甘く苦い香りを残して、空中で霧散する。
虹は何も言えず、ただその建物を紫煙の残り香と一緒に見上げた。
見慣れない机と椅子に囲まれて、虹は恐縮したままだった。
あの後、引きずられるようにして探し屋に入った虹は、ここの所長――天神天照と漸く互いの名前を交換した。
「ふーん、虹か……人でなしの両親だが、名前だけはいいもんつけてやがるな」
虹は両親のことも、境遇のことも天照に言った覚えはない。名前を名乗り、この世界に迷い込んだことだけを説明したくらいだ。その会話の中で、天照は的確に虹の境遇を見抜いている――すごい人だと、改めて思い知った。千里眼でも持っているのか。
「人にはな、特有の気がある。洋風に言えば〝オーラ〟だ。色も違えば、形も違う。その気を読み解けば、その人物の過去を覗くことも簡単だ」
新しい煙草に火をつけて、天照は虹をしっかりと見据える。その瞳は燃え盛り、虹の何もかもを見透かしているようだ。鼓動が早くなる。
一言も発せず、虹はごくりと喉を鳴らした。
「闇虚の魔女に何を言われたか知らないが、お前はまだ若いじゃねぇか。ほんの小娘だ。油断すんな、人生は長いぞ。前の世界よりも、この世界ではそう思う場面がたくさんあるだろうよ。悩め、そして前に進めよ、お前は生きてんだから」
すとん――心に何の違和感もなく天照の言葉が落ちてくる。衒いも、お世辞も、蔑みもない真っ直ぐな言葉。空気のようにそっと溶け込んで、虹の中を一杯に満たしていく。ふわふわと安定感のなかった虹の足場が、急速に固まっていく。冷えていた手先に熱が巡り、仄かに頬が赤く染まった。
焦燥感が、あっという間になくなった。あるのは開けた視界と、これから先の人生に対する期待と少しばかりの不安だけ。
「私の、生きる意味……ここで探せるでしょうか?」
「生きる意味なんて深いもん探してたんじゃ、いずれ壊れちまうよ。気楽に生きろ。元気に先を見て生きてたら、その内大切なものは見えてくるさ。弟にはな、綺麗事言うなって言われちまったけど、俺はそう思ってるし俺自身もそうやって生きてる」
「気楽に、生きる……」
「そうだ。楽しく人生を生きなきゃどうする。しんどいこともあるけどな、そこで立ち止ったら人間駄目になって終わりだ。目先の楽しみでもいい。何か楽しいことを見つけてりゃあ、人はそれだけで生きていけるもんだよ」
「はい……」
卑屈な虹の一部は、境遇でそんな考えはいくらでも変わってしまうと囁く。しかし、天照の言葉は言霊となって虹の心に浸透していく。信じてもいいと思える力が籠っていて、天照の言葉を聞いていると安心する。彼女の視線は怖いほどに苛烈なのに、声音は優しく頼もしい。
急に喉の渇きを覚えて、机に置かれた硝子の茶器を手に取る。透明な器に注がれた薄い橙色の飲み物を口に含んだ。途端、口内に広がる甘みと蜜柑の香りに驚く。〝おれんじじゅーす〟という西洋の飲み物なのだと、天照は言っていた。蜜柑を搾った飲み物なのか――と感心しつつ、美味しくてついすべて飲み干してしまった。
「美味いだろ。俺の好物だから、飲みたきゃいつでもここに来ていいぞ」
「ありがとうございます」
「弟に苛められた時も、遠慮なく頼って来いよ。俺が鉄槌食らわしてやるからな」
「弟って?」
「ああ、スサだよ。お前んとこの店主」
「え、ええー?」
衝撃の事実に、言葉もない。
似ていない――天照とスサの、器の広さ、性格、なにもかもが似ていない。
絶句した虹に、天照は悪戯っぽく笑いかけた。
「はしばみがいるんだから、そんなに心配しちゃあいないが……アイツは気に入ったヤツを苛める悪癖があるからな」
気に入っているなんて、そんなことは絶対にない。そう思ったけれど、言葉は呑み込む。余計なことを言って、からかいのダシにされるのは真っ平だ。どこから会話が漏れるかわからない。閉鎖的な田舎で、虹が学んだ教訓だった。口は災いのもと。
「ここは、今じゃでっかい商売の場になっちまったが、昔は貧相でなんもない所だった。あったのは俺の事務所と、スサのよろづ屋、あとは部分屋くらいだったな。その頃は、この世界は元の世界で〝生きにくく〟なったヤツらを受け入れる、駆け込み寺のような存在だったのにな……いつの間にか、本来の役目を忘れてる。誰でも住めて、自由な楽園――それは、思い違いも甚だしい」
「だから、私を受け入れてくれたんですね……この世界は」
「そうだ。逃避を望む者の場所なんだよ、ここはな。だから、何かしら心の傷を背負った住人が多いんだ」
「心の傷……」
虹に逆らう意思がなければ生まれなかったはずの心の傷は、いまこの世界で生きるためのきっかけをくれた。辛く苦しい記憶だけれど、忘れたいとは思わない。この記憶と経験があるから、虹は他人に優しくなれる。虐げられ、蔑まれ、誰にも必要とされないのは、悲しくて痛いことなのだと、身をもって知っている。
「さあて、もうすぐ日が暮れるな。夜は見鬼の能力者には厄介な時間だ。完全に暮れちまう前に、帰った方がいい」
力強い声音に背中を押されて、虹は慌てて立ち上がる。
両足が重い。今まで緊張で感じていなかった疲労が、安堵した途端に襲ってくる。これは、明日は確実に筋肉痛になるだろう。
どうやってスサの目を盗んで、はしばみに湿布を貰うか――虹はその計画に頭を悩ませながら、天照のあとを追って探し屋を出た。