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弐・殺し屋「木乃伊亭」




 大通りの混み具合は、時間が経つ毎にひどくなっている。

 もう歳も十三になるというのに、虹の背は同じ年頃の娘たちと比べて小さく、体つきも小柄だ。通り過ぎる人々に埋もれてしまえば、どこにいるのかさえわからない。精一杯背伸びしても、やっと看板が見えるだけだ。早く大人になりたいと、こういう時には切実に思う。

 人混みを嫌うはしばみは、昼間に商店街に行くことがない。はしばみと外出する以外で外に出る機会のない虹は、がらんとした大通りしか見たことがなかったし、そもそも人混みというものを体験したことがなかった。そもそも、虹の住んでいた場所には滅多に他の場所から人が来ることはなかった。

 歩く度に、人にぶつかる。その都度謝っては、立ち止る。流れていく人の熱気に揉まれ、頭に血がのぼってぼうっとなる。いつしか虹の思考は靄がかかり、前後左右もわからずふらふらと千鳥足になっていた。頭が急に熱を持ったせいで、ずきずきと痛む。

 慣れない多くの人の気配、そこに混じる異形の妖気は、虹の見鬼としての能力を狂わせる。四方八方に意識を持っていかれて、自分を保てなくなる。制御する術を知らない力は、本人の意思など関係なく色んな所に触手を伸ばしていく。

 虹は無意識に、建物の隙間に覚束ない足取りで、喧噪と熱気から逃れるように滑り込んだ。

 ひんやりとした小路は、奥には灰色の〝結界〟が張ってあり、その向こう側は見えない。

 商店街以外の場所は、海市蜃桜門と別の階へ行く門のみ侵入が許されている。その他の場所は未だに荒れ野のままで、異形の者さえ住むことを拒むという。

 頬に当たる冷えた風で、段々と意識が覚醒していく。虹はまだ靄のかかった思考をすっきりさせたくて、頭を振った。

「あれ、あそこって……」

 しっかりとした意識を漸く取り戻して、虹は視線の先に一軒の店を捉える。

 商店街の大通りから外れた小路にも、店が――虹はそこまで考えて、先日はしばみが言っていたことを思い出した。

『商店街にはな、そりゃあ、いろんなとこから店が集まってる。中には、お天道様に顔向けできねぇような〝後ろ暗い〟店だって、この商店街にはあるのさ』

『後ろ暗い……?』

『そう、例えば〝殺し屋〟』

『こ、殺し屋……!』

『どうだ? これこそ、闇の仕事ってやつだろ。殺し屋は、どの世界にも支店を持ってるって話だ。受けた依頼は完璧にこなす。狙われたら最後――生きてはいられねぇ。そんなおっかない店もこの商店街にはあるってことを、胆に銘じておきな』

『わ、わかりました』

 虹の背筋に悪寒が走る。

 どう見たって――眼前の店の看板には、「殺し屋・木乃伊亭」と書いてある。見た目はお洒落な煉瓦造りの洋風な店構えだが、雰囲気が表通りの店とはまったく違っていた。

 はしばみの言っていた店は、確実にこの店のことだろう。虹は震えがとまらない足で呆然と立ちすくむ。まさか、まさか自分がそんな危険な場所に立ち入ってしまうとは思ってもいなかった。恐ろしい……ひたすら、恐ろしい。

 逃げるが勝ち。虹は再び混乱しはじめた思考でそう結論付けた。この狭い小路は殺し屋の領域なのだから、ここから抜け出せばなんの問題もないはずだ。住人と鉢合わせしなければ、己の身に危険は降りかからない。

 かちこちに固まった足を叱咤して、虹はようやくくるりと殺し屋の建物に背中を向けた。――瞬間。

「どうしてお逃げになるの? お客様」

「ひっ……」

 虹の首筋に、冷たい感触が当たる。ぞっとするほどに艶やかな声で耳元に囁かれて、虹の体は完全に硬直した。首筋に当たる感触は、ひやりとした硬質なもの――店の職業を考えると、虹の頭に浮かぶのはひとつしかない。動けば一閃、痛みを感じることもなく絶命してしまいそうで……。掌と額、背中に冷や汗が噴き出る。心臓が早鐘を打って、口から飛び出してきそうだった。

怖い――怖い、怖い、怖い!

 恐怖で頭がいっぱいになりかけた時、後ろから雰囲気にそぐわない苦笑じみた笑い声が響いた。

「ふ、ふふっ、ちょっと脅かしすぎたかしら? ごめんなさい、よろづ屋の新人さん」

「う……え……?」

 首筋の冷えた感触が消える。虹の体を圧迫し、硬直させていた異質な空気は和らぎ、背後の気配も遠くなる。殺気――たとえ本気の気配ではなかったとしても、十三年生きて初めて感じる〝死〟の感覚に、虹の膝がふにゃりと力を失った。

 膝から崩れ落ちた虹に、相手は焦った様子もなくおかしそうにくすくす笑う。

「あら、本当に脅かしすぎちゃったみたいね。大丈夫よ、少し休んでいけばなおるわ」


 室内は照明が限界まで落とされて、薄暗かった。

 入り口から這入ってまず目に入るのは、幾重にもかさねられた漆黒の薄い布だ。緻密な刺繍が施された布は、奥の受付を隠すように視界を埋めている。それを掻き分けて室内へ更に這入り込むと、こちらも豪奢な刺繍のはいった絨毯と、猫脚の立派な西洋の椅子が置かれていた。

「はい、どうぞ。お菓子屋さんの紅茶には負けるけど、私自慢のハーブティーなの」

「あ、ありがとうございます」

 内装は限りなく洋風なのに、出てきたのは湯呑だった。中に満たされたものも、緑がかってまるで緑茶のような色合いをしている。耳慣れない名前のお茶に恐る恐る口をつけてみる。先刻、お菓子屋で飲ませてもらった紅茶とは違って、爽やかな煎茶のような味わいだった。緊張でからからに渇いていた口内が潤されていく。ほどよい温かさのそれを、虹ははしたないと思いつつも一気に飲み干した。

 虹は猫脚の二人掛け用の椅子に座らされている。黒い高価そうな石でできた机を挟んで、彼女は向かい側に座る。四角い机の上には、陶器のお皿に煎餅が綺麗に並べられていた。似合わない――湯呑もそうだが、内装と余りにも趣味が違う。

 虹は向かいの人物を湯呑越しに窺う。さっきは余裕などなく、しっかりと相手を観察することができなかった。

 黒い。最初のイメージはとにかくそれだった。

 髪も、目も、どこまでも漆黒で、着ている洋服もすべて漆黒だった。

 虹の知っている言葉では語れないような豪華な服を着た彼女は、短い裾を翻して虹を店内まで担いできた。

 虹は小柄だとはいえ、重くないはずがない。虹から見ても彼女は華奢で、美しい体つきをしている。腕なんて、少しでも握る力を強くしたら折れてしまいそうだ。それなのに、彼女は腰が抜けて立てない虹を軽々と背負い、担ぎ上げた。女性とは思えない膂力だった。

「怯えさせてしまったのは私ですもの。責任は取らせて頂戴ね」

 艶のある笑顔と一緒に言われてしまえば、断ることもできず、虹は担がれるままに殺し屋・木乃伊亭へと足を踏み入れた。

「殺し屋っていう、安直なネーミングが恐怖のもとなのよね。私はもう少し、オブラートに包んだ感じの方がいいんじゃないかしら? って、上司に言ったのよ?」

 薄暗い部屋で、四角い机を囲んでのお茶会。なんとも奇妙だった。虹には彼女の言う〝ねーみんぐ〟や〝おぶらーと〟がなんなのか理解できなかったが、大体の話の流れを予想する。

「依頼がなければ殺しなんてしないの。それに、店を構える領域では仕事はやらない規則で、ここの世界の依頼は別の世界の支部に行くのよ」

「えーと、じゃあ、どうしてここの商店街に店を?」

「ここは、別の次元や世界から色々な人が来るわ。それはもう、予想もしない凄い人物だって訪れる。だから、私たち〝木乃伊館〟はこの商店街に支部を出すの。情報をいち早く得るため――そして、色んな場所から集まる〝依頼〟を拾うために、ね」

「な、なるほど……」

 虹には別世界のことのようで、漆黒の女性から紡がれる言葉にひたすら頷くだけだ。

 死は確かに身近に存在していた。以前いた世界でも、すぐに赤ん坊は病にかかって死んだし、老人は長生きする者が少なく、村に貴重な知恵袋だった。

 しかし、殺す――は別の存在だと、虹は認識している。やむを得ず、仕方なく定められた死ならば何度も目にしたけれど、突然誰も予想していなかった方法で死を迎える――同じ人間によって命を強制的に絶たれるのは、とても怖いことだった。

 その〝殺し〟を生業としている店は、虹にとっては恐怖そのもののように感じた。

「人は殺すことを怖がらなくなってしまったら、それで人生を捨ててしまうのよ……私のようにね?」

 虹の心を見透かしたように、彼女はぽつりと呟いた。

 妖艶な笑顔で隠された真意はわからないけれど、ぞっとするほど、彼女の瞳は悟りきって清々しい。虹にはわからない、深淵は確かに彼女の中に存在している。暗い感情も、なにもかもを飲み込んだ表情は、一人の人間としてとても完成された姿だと思った。

 虹は羨ましく思う。孤高の美しさを保つ彼女に、少なからず嫉妬した。

「貴女も貴女なりの強さを持っているのに、それに気づかないで卑屈になっていてはダメよ? 私には私の人生が、貴女には貴女だけの人生があるのだから。この世界に、貴女はどんな人生を求めてきたの?」

 ぶれない信念を持つ人の言葉の威力は凄まじい。抉られるような痛みが胸に走る。思わず、そっと手を胸の前で握りこんだ。

 虹にはなにもない。決意したこと、こうありたいという信念、人生の意味――。ただ流されて、生きてきた日々。生かされているという意識のもとで、自分の人生を悲観するだけの毎日を送っていた。

 ここに来て、一体なにが変わったのか。理解できないのではなく、まだ虹は現実を受け入れていない。

 〝生きる意味を探すことを放棄している自分〟を、直視できないでいる。

「さあ、もう腰と脚はしっかり動くかしら。貴女はよろづ屋の主人と契約しているのよね。その仕事を全うしなくちゃ、この世界にいる資格がなくなっちゃうわ」

 彼女がぱん、と手を一回叩くと、奥の照明が届かない暗がりから小さな影が飛び出した。それは虹の見たことがないもので、一瞬不気味な虫に見えて身が竦んだ。思わず立ち上がって後ずさる虹の足下に、小さな影は素早く走り寄る。照明にやっと僅かに視認できたそれは、虹にはやっぱりなにかわからなかった。少なくとも、虫ではない。

「その子に案内させるわね。脅かしちゃったお詫び。小さいけど、立派な騎士だから貴女を守ってくれるわ」

「き、きし?」

「そう、護衛――用心棒って言ったら通じるかしら。私の子飼いの妖精さん。瓶で捕らえて使役するの。貴女にも一人差し上げるわ、親愛の印に」

「えっ……」

 強引に握らされた小瓶は水色がかっていて、中は黒い靄のようなものが渦巻いていて見透かせない。瓶の中にいるという小さな用心棒は、瓶を開けない限り姿を確認できないらしかった。どんな時、どんな用途で使うものなのか……この瓶の中の妖精という存在も、用心棒のような力を持っているのか。

 ぴょんぴょんと足下を飛び回る黒い塊はとても楽しそうだった。少しの照明しかついていない室内では、虹の瞳にはやっぱり虫にしか見えない。

「名前は貴女が決めてあげて。ちなみに、その足下の用心棒さんはアントスという名前よ」

「アントス……」

 虹の声に反応して、黒い用心棒は嬉しそうに大きく跳ねた。用心棒として彼が本当に優秀なのかは不安だったが、主人が自信を持って送り出してくれるのだから、少しくらい期待しても良いだろう。

「えっと、この瓶の中の妖精さんは――」

 どうやって、使役するのだろう。

 正直、虹は見鬼の力を持っているだけのただの少女だ。特殊な修行もしてはいないし、お経だって曖昧だ。知識も簡単な字以外は読めないので、書物で勉強すら出来ない。

 そんな自分が、こんな分不相応なものを貰っても、使い方もわからず放り出してしまうかも知れない。

 彼女は、虹の不安に快活に笑んで言った。

「大丈夫。その子は貴女の危険を察知すれば自分から出てくるわ。それまでは、ただ着物の袂に入れて持ち歩いてね」

「は、はい……わかりました」

 何もせずとも、自分から出てくる――それならば、大切に袂に入れて肌身離さず持っておこう。

 楽しみ半分、不安半分で、虹は着物の袂に妖精の瓶詰をそっと仕舞い込んだ。


「あのっ!」

 体の軸がまだ揺れているような気がする。地面についている足の感覚に違和感が残ってはいたけれど、ちゃんと踏みしめることができた。

 玄関先まで見送りに出てきた彼女に、虹は思い切って声をあげた。

「名前、あなたの名前……わたし知らないです!」

「あら、そういえば。お互い名乗ってなかったわね」

 虹の勢いに押されるかたちで、彼女はびっくりした表情で呟いた。そして相好を崩して、虹の頭を愛しそうに撫でる。

「名前って、そんなに重要なことだと思わないから、すぐに名乗るのを忘れちゃうの。私は桜子――あなたは? 小さなよろづ屋さん」

「わたしは、虹です。虹と書いて、こう」

「虹ちゃん……可愛い名前ね。空にかかる幻想の橋……」

 彼女――桜子の虹への視線はまるで、妹に注ぐそれで。

 桜子の愛情じみた感情を無意識に受け入れてしまっている自分に、虹は戸惑う。血の繋がっている筈の兄姉には、そんな温かな視線を向けてもらったことなどないのに。

「頑張ってね、小さなよろづ屋、虹ちゃん。あの店長に苛められたら、いつでも言いに来ていいから。私がこらしめてあげるからね」

「え、ええと、はい! ありがとうございます、桜子さん」

 虹は照れくさくて頬を染める。誰かに優しくされることに、未だに慣れない。くすぐったいような、むず痒いような、複雑な心地は不快ではなく寧ろ幸せな感覚だった。

 桜子に見送られて、虹は大通りに戻る小路を急ぐ。しっとりとした空気が一変、再び活気のある空気が虹の頬を撫で、人いきれと妖気の波が襲う。しかし、今度は酔うこともなく虹の足は軽やかな動きで人混みに紛れ込んだ。

大人たちに紛れて、虹は首を傾げる。先刻とは、まるで気配の感じ方が違う。薄い膜が張っているような、少し離れた感覚で人の気配と妖気が虹の体を滑っていく。

「もしかして、あなたが守ってくれてるのかな? アントスさん」

 足下で飛び回って、周囲を警戒しているらしい用心棒に声をかける。

 虹の言葉を理解しているのか、アントスは嬉しそうに大きく跳ねた。

 周囲を見渡せば、人混みは少しだけ緩和されていて、看板なども確認しやすくなっている。視線を前に向ければ、商店街の終わり――海市蜃桜門が小さく見えていた。

『探し屋にお遣い……? そう、あそこの所長さんはかなり強烈な人だから、頑張ってね。探し屋なら、海市蜃桜門の近くに店を構えてるわ。すぐにわかるはずよ』

 桜子の助言に感謝しながら、虹はようやく地に足がついた心もちで足を踏み出した。


「我がままで素直じゃない主人を持つと、大変ね……はしばみちゃん」

「まあな」

「虹ちゃん、いい子ね。苛めたら容赦しないって、スサに言っておいて」

 彼女の目は本気の色を宿している。桜子の言葉に、はしばみは苦笑を滲ませた。

 桜子に気配を悟られていることは、最初からわかっていた。彼女は暗殺の達人でもあり、屈指の魔女でもある。

 物陰から姿を現したはしばみに笑みを浮かべて、桜子は高く澄んだ空を見上げた。

「ほんとはね、あんなに親切にするつもりはなかったのよ。ちょっとからかって、終わりにしようと思ってたの」

「不思議だろ、あの子」

「ええ、不思議ね……私に妹なんていたことないのに、可愛くって仕方ないの」

 他人に無関心。それは性格的なものなのか、そうあろうとした結果なのか。それは今となってはわからない。桜子の心に灯ったものは、確かに小さな温かさを宿していて、久しく忘れていた感情を呼び起こしていく。

「私の助言が、足枷になるかもしれないわね。でも、今から会う人なら――それを全部吹っ飛ばしてくれそうね」

 にこやかに笑う桜子に、はしばみは苦い表情を返した。

「自分で行きたくないもんだから、一番下っ端の虹に押し付けただけなんだけどな。しかし、これで虹の止まった時間は動くだろうさ」

「はしばみちゃん、楽しい? 妹みたいだものね、あの子」

「うるせーっての」

 拗ねたように唇を尖らせて、はしばみは桜子に背を向けた。

 喧噪は佳境を過ぎ、熱気は早くも空に昇るように逃げていく。たなびく妖気は、慣れていない者には辛いだろう。息が詰まるほどの濃度で発散される妖気は、慣れているはずのはしばみさえ時折辟易する。久しぶりで中てられたのか、身体の軸が揺れている。高く結い上げた髪が風にあおられる。

「私のとっておきの騎士をつけてはいるけれど、見守ってあげてね」

「わかってんよ」

 ひらひらと桜子に手を振って、はしばみは虹の後を追って海市蜃桜門の方向へと足を向けた。




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