零・異界への誘い
ちりん、ちりん、どこからか鈴の音が聞こえる。
しっとりと濡れた空気にも負けず、ひたすらに清澄な音を響かせる鈴は、どこからともなく聞こえては遠ざかる。
虹は足を止め、その音に耳をすませた。
この音は――外界から誰かが来る合図の音だ。
また誰かが、迷い込んできたのだろうか? それとも、この商店街に用のあるお客人だろうか?
現在、時刻はまだ明け方で、空は薄く水っぽい色をしている。起きだしている者は疎らで、吸い込んだ空気は夜露の味を残している。
虹はすっかり慣れてしまった動作で、店の入り口に打ち水をする。乾いてからからになった煉瓦畳が潤い、濃くなった色が目に鮮やかだった。
この世界には季節はないようだ。もうこの世界に来て一年は経っている筈なのに、寒いとか暑いとか、感じたことがなかった。
しかし、外界での季節の境に合わせるように、この世界でも雪が降り、植物は入れ替わる。
一体、どんな仕組みなんだろうかと、虹はいつも目を白黒させては奇跡のような出来事に驚嘆していた。何もかもが新しく、不思議だった。
緩やかに手を動かしながら、虹は周囲をぐるりと見渡す。
何度こうやって、この世界を見ただろう。何度見渡しても飽きない風景に、自然と笑みが口元に浮かぶ。
虹が住んでいた田舎では考えられない、洒落た建物が並ぶ。煉瓦造りの二階建ての建物は、遠い海の向こうの異国の建物のようだ。
鹿鳴館という建物が東京にはあると聞いた。その建物も瀟洒な煉瓦造りの建造物で、異国情緒溢れる様相らしかった。
――否、今はもうその建物も古くさいのだろう。
『この世界はね、時間が外界とは違う流れ方をしているのさ。お前さんには、まだ一年しか経っていないように感じても、実際はもっと気の遠くなるような時間が外界では流れ去ってんのよ』
『じゃ、じゃあ……私の生きてた時代は、もう遠い昔なんですか?』
『そうさなぁ……遠い遠い昔、になっちまうんだろうな』
虹を助けてくれた人はそう言って苦く笑った。
まるで、虹がまだ元の世界に未練があると思っているような口振りだった。虹は激しく頭を振って、それを否定したかった。
虹は、この世界に来られて幸せだった。
「おーい、虹! 朝飯できたぞ、なか入んな」
「はい! はしばみさん、いま行きます!」
聞こえてきた凛と美しい声に、虹は背筋をしゃんと伸ばす。
入り口を振り返れば、榛色の髪と瞳を持つ麗人が顔を覗かせていた。
彼――否、彼女? ……虹は正しく目の前の人物の性別を理解してはいない。
ふと窺ったかんばせは女性のような艶やかな美貌を湛えている。しかし、ある時そっと見上げた顔をはっとするほどに男らしかったりする。
名前と同じ色をした榛色の髪は真っ直ぐで、絹のようにさらりと流れるままだ。背中まで届きそうな髪は日毎に結い方を変えていて、今日はまだどんな結い方にするか本人も決めかねているらしかった。
明らかに女性用の紬の着物を違和感なく着こなしている様子は、どこからどう見ても〝女性〟だ――。
それなのに、はしばみの声は女性とも男性とも言えず、中性的。口調はどこか江戸っ子のような雰囲気を持っていて、男らしい。声と口調から言えば、〝男性〟と言えるかもしれない。
虹は答えの出ない疑問に首を傾げるしかなかった。はしばみの性別は、未だに闇の中だ。
はしばみは、虹を助けてくれた恩人で、同時にこの世界での虹の後見人のようなものだった。
「今日は、久しぶりに鮭焼いてみた。味噌汁と、あと卵焼きもあるぞ」
「朝からご馳走ですねー。はしばみさんの焼いた玉子焼き、大好きです!」
「スサの好みに合わせてるから、甘いだろ?」
「元いた世界だったら、卵さえ滅多に口にできませんでしたし、砂糖も高価でしたから……甘い玉子焼き、大好きですよ?」
「……そっか。んじゃ、好きなだけ食え。スサは少ししか食わねえからな」
「はい、ありがとうございます!」
柔らかな微笑を浮かべたはしばみは、虹の頭をぽんと優しく撫でて、その足でもう一人の住人を起こしに二階へと続く階段を上っていった。
ぎしぎし、木造の古びた階段が軋む。ドアを乱暴に開く音が聞こえたと思えば、「コラァ! スサ! 起きねぇか、この寝坊助がっ!」と、はしばみの怒鳴り声が屋内に轟いた。
「はしばみは横暴だと思うんだ。ねぇ、虹ちゃんもそう思わない?」
「……起きないスサさんも悪いと思いますけど」
「あーあ……虹ちゃんもはしばみに懐柔されちゃったかぁ。つまんなーい」
起きてきてからずっと、はしばみに早朝から起こされた文句を言い続けているこの店の主――スサは、行儀よく朝食を平らげていく虹に大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
まだ眠いのか、腫れぼったい瞼を時折こすって、大きな欠伸を繰り返す。
スサの髪は虹が知る限りいつもぼさぼさで、四方八方に飛び跳ねている。青みがかった綺麗な黒髪に似合う真っ青な瞳は、一見しただけでは何を考えているのかわからない――不気味に深い色をしていた。
虹は、スサを第一印象から〝少し怖い人〟と認識していた。
あながち、間違ってはいないと思う。
現に、今も虹を見る視線は笑っているようで笑っていない。深海を断崖絶壁から覗きこんだような不安が、虹の胸に湧き上がる。
出会った最初が最初だったし、はしばみが優しい人でなければ、とっくに虹はこの店から追い出されていただろう。
「無駄口叩いてないで、とっとと食え。お前がちんたら食ってるせいで、全然片付かねぇだろうが」
「だってさ、はしばみ。僕が鮭嫌いなの知ってて出した? 魚なんて食べたくない。生臭い」
「……餓鬼みてぇな我儘言うんじゃねぇよ。虹だって、文句言わないで黙って食ってるってぇのに。それにな、鮭が生臭いわけねぇだろ。癖のない魚だってのに……」
「えー……ねぇ、虹ちゃん。魚って、生臭いよね?」
「鮭なんて、滅多に食べられないお魚でしたし……それに全然、生臭くないですよ?」
はしばみが淹れてくれた温かなお茶を飲みつつ、虹は思案顔でそう言った。
滅多に食べられない魚を生臭いなどと、言えるはずがない。そして、はしばみの下処理のお陰だろうが、まったく臭みなど感じなかったのも事実だ。
虹の返答に、二人はまるで苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙り込む。そしてそのすぐ後、まるで悪いことを聞いてしまったような気まずい表情で、スサとはしばみは顔を見合わせた。
「スサよ……いまの聞いたか?」
「あー……うん。僕が悪かったと思う。鮭、美味しいよね、塩がきいてて」
「そうだろうよ、なんせ人魚の作った〝真珠塩〟だからな」
先刻まで文句しか言っていなかったスサの突然の豹変に、虹はただ目を瞬かせた。
一体、どんな心境の変化があったのだろうか?
黙々と鮭と玉子焼き、ほかほかと湯気の立つ白飯を食べ始めたスサに、虹は戸惑いながらも笑みを浮かべた。
食べることは、身と心を保つ大切なことだ。少なくとも、虹は経験でそう思い知っている。
食べなければ心も狭くなる。からだもうまく動かせない。些細なことで落ち込み、苛々する。
虹は、そうやってひもじい思いをして育ってきた。だから、日に三食ご飯を食べさせてくれるこの店が、天国に思えた。
「ほら、虹。お前もういいのか? まだ残ってんぞ、玉子焼き」
「へ? いえっ、あの……もう十分いただきましたよ? これはお昼に食べましょう」
何故か心配そうな――寧ろ憐れんだような表情で玉子焼きを差し出してくるはしばみに、虹は慌てて首を振った。
(なんだか……気を遣われている?)
複雑な思いでそう心中で囁いて、虹はもう一口お茶を啜った。
「そうだ、虹ちゃん。今日君に大事な用を頼まれて欲しいんだけど」
もぐもぐと行儀悪く食べながら言葉を発したスサは、これまた行儀悪く丹塗りの箸を虹に向けた。
虹はスサの言葉に姿勢を正す。
スサが虹に頼む用――それは、十中八九〝面倒〟なものだ。
この一年間、虹が得たスサへの警戒心は相当なものだった。スサが虹に頼むこと――それは、スサにとっては一種の悪戯であり、虹への試練だった。
「今度はなんでしょう……もう『鎮めの池』に住む河童に媚薬を届けるとか、『荒れ野』に住む仙人に山犬の目玉の酢漬けを届けるとか――私に荷が勝ちすぎる用事はご遠慮したいのですが……」
「はは、警戒されてるなぁ、僕」
「当たり前だ」
はしばみが呆れたように口を挟んだ。
「毎回毎回、心臓に悪いことばっか虹に押し付けやがって。あんな仕事、俺だってやりたかねぇよ」
「でもさ、はしばみはそう言って、虹ちゃんを手助けしてやろうとはしないよね」
「仕方ないだろ。〝店〟の主人から請けた依頼は正式な“契約〟になる。誰も手助けできない決まりだ」
その決まりを破れば、いかなる存在であってもこの世界では生きていけない。〝留まる〟資格を失う。
虹がはしばみから最初に教わった、この世界での決まりの一つだった。
虹のいた世界でも決まりは少なくはなかった。寧ろ、ヒトはその決まりを守ることでしか自分を保てないかのようだった。
雁字搦めに決まりや仕来りに縛られて、人々は群れを作って生きていた。
しかし、この世界の決まりは外界とは違うものだ。縛るのではなく、自由に生きる為に。聞けば聞くほど、虹には理解しがたい決まりが多い。
「で、やる? やらない? どっちか選んでね、虹ちゃん」
鮮やかで、仄かに黒い影を纏った笑顔で、スサは虹に問う。けれど、この問いはかたちだけのものだ。
虹は心の中で自分に手を合わせた。再び、苦難の時が訪れる。
「……やります。なにをすればいいんですか?」
「返事が心地いいねぇ。だから女の子は好きだよ、僕」
「そういう発言は、〝せくはら〟というらしいと、この前来たお客さんが言ってました」
「変な入れ知恵されてんじゃねぇよ、虹……」
「大丈夫だよ、虹ちゃん! 僕は少女趣味じゃないから」
「お前もお前だ! 自分の発言に恥を知れ!」
はしばみの怒鳴り声がまたもや室内に響き渡った。
もうすぐこの世界にも目覚めの時間が訪れる。
はしばみの苛烈なお説教を聞き流しながら、スサははいはいと頬杖をついている。
虹には説教はないが、さっきの言葉はよくない意味だったらしい。
もう少し、言動に気を付けなければと思いながら、虹はすっかり温くなったお茶を啜った。
この後、どんな用事を頼まれるのか――不安を胸に抱きながら、虹は店の開店準備をするべく空になった湯呑を持って台所に駆け込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※
虹は右も左もわからず、走っていた。
ここがどこなのかもわからす、ひたすら前に見える光に向かって走っていた。
背中に感じる圧迫感がひしひしと、心臓に迫る。鷲掴まれて、段々力を加えられているような――拷問めいた苦痛が襲ってくる。
いつどこで、こんな変な場所に迷い込んだのか。虹にはなにもわからない。混乱した思考はずっと一つのことを訴える。『光が欲しい!』
闇は怖いものだ。おっかないものだ。
幼い頃から大人にそう言われ続けた子どもたちは、日が暮れはじめると一斉に家に帰る。どれだけ遊び足りなくても途中で放り投げ、みんな強張った顔で暮れていく空を見上げて、焦ってあぜ道を走っていく。
それはあたかも、闇の中には〝なにかが〟居るというように、大人も子どもも一様に闇を嫌った。
虹の住んでいた場所は更にその傾向が輪をかけてひどかった。
夜には家の戸を完全に閉め、決して外には出ない。囲炉裏の炎を絶やさず、余裕がある時には蝋燭まで点した。
闇は怖い。闇はすぐ隣で息をひそめている。いつ襲ってくるか、わかったもんじゃない。
虹を邪険にしていた父親でさえ、そう言って怖い顔を虹にしてみせた。
『鬼子! やーい! 鬼の子!』
『貰われっ子、拾われっ子!』
『こっちに来るな! 神隠しにあうぞ!』
『どうしてこんな子が……私の子なのかしら……この、化け物……!』
闇の一本道をひたすら疾駆しながら、光を求めながら、虹は同時に村人――そして母親の声を聞いた。
心臓が尚、竦む。ずきずきと痛む気がする。血が通った場所に鋭い棘を沢山埋め込まれて、滝のように赤い赤い雫が湧き出しているような。
毎日毎日、罵倒されて蔑まれて虹は生きてきた。少しの悪意ならば、滑稽に笑って流せるようにまでなるくらいに。虹の毎日は、灰色だった。
時折、奇妙なもの、不気味なものを〝視る〟。ただそれだけの理由で、虹は爪弾きにされた。
「……あ、れ?」
いつしか、虹の目の前には煉瓦畳が広がっていた。
朱色の煉瓦畳の両側には、見たこともない柱のようなものが等間隔で立っている。頭の方がぼうっと光るそれは、行燈のようなものだろうか。
煉瓦、という言葉も最近村に来た旅人に聞いたばかりだった虹は、等間隔に並んでいる柱が『瓦斯燈』と呼ばれるものだと知らなかった。
息が乱れて、言葉さえ発するのが億劫だった。鼓動が乱れて、落ち着いてくれない。
不規則な呼吸を繰り返しながら、虹は辺りをぐるりと見回した。
柱――そして、煉瓦畳。それ以外は存在しない。壁はぼんやりとした灰色に覆われて、手を伸ばせば突き抜けそうな半透明な存在だった。
虹はどうしてか、ここへ来る前の出来事を思い出せないでいた。
靄がかかったように記憶は朦朧として、村で何をしていたのかさえ忘れている。朝起きて、上の兄姉から押し付けられた家事をこなしていたのは辛うじて覚えていた。
――神隠し。
ふと、村の長老が呟いた言葉が虹の脳裡に蘇る。
『闇に捕らわれたものは〝黄泉の国〟の一歩手前まで……連れて行かれちまう。地底におわす神様に、貰われてくんだ』
村の子どもは、虹がその神隠しから返ってきた子どもだと信じている。神様に一度貰われたのに、不気味な〝鬼子〟だと送り返されたのだと――。
違うと、虹は言えなかった。たとえ言ったとしても、村の子どもたちは虹の言葉を受け入れてはくれないだろう。
村の大人たちの虹に対する態度、身内の彼女に対する冷たい仕打ち――どれをとっても、虹を擁護するような者は現れない。
不気味なものは恐れ、厭え。受け入れるな。
迷信深い田舎の村では、虹はまごうことなき〝鬼子〟だった。
「……ここは、わたしを鬼子だと言う人はいないのかな」
もしそうなら、もう帰りたくない。虹はじっと前を見据えて、そう願った。
産んでくれた母親や、捨てずに育ててくれた父親には感謝している。でもそれは、親に対するものというよりも、刷り込みでただこの人たちに敵意を向けてはならないのだと、思い込んだ結果といった方が正しい。
事実、虹は村で生きてきた人生を、ちっとも楽しいと思えなかった。
どこかへ逃げたい。遠い場所へ行ってみたい。
虹を〝鬼子〟だと蔑まず、罵らない国へもし行けたならば――。
「お前さん、どっから迷った?」
夢想する虹の思考に、唐突に声が割り込んだ。
大袈裟に肩を跳ねさせ、虹は目の前の空間を凝視する。
そこには、不思議な色の髪と目を持つ人が、立っていた。
「ここはな、お前さんのような子どもが来る場所じゃねぇよ。今なら引き返せる。俺が案内してやるから、帰んな」
「あ、の……ここは、黄泉の国なの?」
「まあ、そこに似たようなもんかな。本物の黄泉の国なんざ、死なねぇと入れないぜ」
虹の言葉に、苦笑しながらも彼は答えてくれた。
榛の色だ――彼の髪を見ながら虹は心中で囁いた。綺麗な榛の色を染め抜いたような髪と瞳。
整った人形のような貌は苦み走った笑みで彩られ、浅葱色の紬がよく似合っていた。
――言葉づかいは男性のようなのに、容姿や着物は女性のものだ。
虹は目の前の彼の〝性別〟を判別しかねた。
「で、なんでお前さんはこんな場所にいるのかいい加減、教えてくれねぇかな」
「そ、それがわからなくて……気が付いたら、ここにいました」
虹の言葉に、彼はすべてを理解したように瞳を眇めた。
「――ほう。お前さん、〝見鬼〟なのかい?」
「けんき?」
「見る鬼と書いて、見鬼。お前さん、小さい頃からヒトじゃねぇモノを視たりしなかったか?」
彼の言葉に、虹の胸が不安でちくちくと痛みだした。
どうして……どうして、彼は虹のあの一言だけでそこまで見抜いてしまうのだろうか。
言葉を継げない虹に、彼は穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「見鬼の力を持つ者は、よくここに迷い込む。この世ならざるモノを視やすい〝目〟は、ここに繋がる綻びを見極める」
「やっぱり、ここはわたしの住んでいた所とは違うんですか……」
見回す限り一本の道である場所。ここは、どこかへ繋がる入り口になのだろう。
寒くもなく、暑くもない。風さえないここは、一体どこに繋がっているのか――。
考えただけで、好奇心が疼く。
「お前さん、帰りたくないと……思っているだろう?」
「えっ……」
いきなり、彼は虹との距離を縮めつつ言った。彼の表情は一変し、硬く、真剣だ。
図星をつかれ、虹は怯えたように後ずさる。心を見透かされたようで――目の前の彼が突然怖くなった。
「そう怯えなさんな。取って食いやしないよ。――帰りたくないと、戻りたくないと、思ったのか?」
彼の言葉は残酷だった。
虹の真意を簡単に暴き出し、引き摺り出してしまう。
じゃり、虹の履いていた草履が煉瓦畳に擦れて音を立てる。戦慄く体で立ちすくんで、虹はふっと小さく息を吐いた。
「帰りたく……ないです。元の場所に戻りたくない。違う場所に行ってしまいたい……」
着物を固く握りしめ、虹は血を吐くように言葉を吐き出した。
虹が本音を言うということは、恐怖を伴う行為だった。
「わたしを〝鬼子〟と言わない人だけの、場所に行きたい」
心臓が痛い。ここへ来てから、心臓への負荷は相当のものだろう。
じくじくと熱を持ったように痛む胸を押さえて、虹は願いを込めて言った。
「……それで本当にいいのか、お前さん」
真剣な視線が、虹を射抜くように見つめる。榛色の瞳は真摯な光を宿して、ただ虹を案じているように見える。
今まで、こんなにも優しく真剣な瞳で見られたことがない虹は、思わず赤面して頷いた。
一陣の風が、首筋辺りで切りそろえられた虹の漆黒の髪を揺らす。前方から吹いてくる風は、温く甘い匂いを運んできた。
「この先の場所じゃあ、確かにお前さんを〝鬼子〟と罵るヤツはいねぇだろうな。まず、生粋の〝人〟がいない。みんな〝化け物〟だ。元いた人の世界と違って、まともなヤツは誰ひとりとしていやぁしない。そんな場所だ。普通の精神じゃあ、住んでいけねぇ……そして、足を踏み入れれば最後、死ぬまで他の場所に移り住んだりできねぇ」
彼の言葉は重く慎重だった。まるで虹に諦めさせようとしているような響きを感じる。この先には、なにも楽しいことは待っていないと――マトモに思考が働くなら、この先には進むなと。
虹は、その視線に、言葉に、ゆっくりと微笑んでみせた。
「毎日、毎日、苦しくて辛くて、自分の居場所が欲しくて……そこでは、わたしの居場所を見つける自由がありますか?」
虹の言葉に、彼は一瞬瞼を伏せる。
逡巡するような仕草で頬に手をやり、彼は再び虹を見つめた。
「そっか……お前さんは、自分の居場所を求める自由が欲しいのか。そういう意思を持てるのは幸せだな。中には、その自由を求めることさえできねぇ不器用なヤツだっているのに。お前さんは、求めることを諦めないんだな――だったら、片道の一本道、行くか? 俺と一緒に」
「いいんですか? あなたと一緒に行っても……」
「ああ。俺はここの管理人から、そういう道先案内人の仕事を請け負ってるし、それに……俺はお前さんが気に入ったよ」
悪戯っぽく笑う彼に、虹も自然と柔らかい笑みを浮かべる。
虹のどこを気に入ってくれたのかはわからないけれど、ひとまずは受け入れてくれたのだと……そう、思えた。
「変に特殊な力持っちまうと、子どもなんかは捻くれてるヤツが多い。世を僻んで、頑ななんだな。しかし、お前さんは違うだろ。真っ直ぐに育ってる。性根を腐らせないで生きてこれた、稀有な子どもだよお前さんは――おっと、そういや名前を聞いてなかったな」
いつまでも「お前さん」だと味気ないな。そう言って笑った彼の顔はびっくりするくらいに無邪気だった。
差し出された手に己の手を重ねて、虹はゆっくりと一本道を歩き出した。
「虹、と書いて〝こう〟と読みます」
「いい名前じゃねぇか。俺は髪と目の色をまんま名前にしたようなもんだな。平仮名で〝はしばみ〟だ――よろしくな」
彼――はしばみの滑らかな手が、虹の手を優しく握る。温かく、予想外に大きな掌の感触に、虹は漸く心の底からほっと安堵した。
「名前を交換するのは、ここでは契約の代わりになる。これで、虹は正式にこの先の国の住人だ」
「はい。よろしくお願いします、はしばみさん」
「あと、お前さんは俺の主人が運営する店で働いてもらうぞ。その見鬼の力も、役に立つだろうしな」
やっと、道の果てが見えてきた。虹一人で彷徨っている時には、まったく近づいてこなかった光が、目の前にまでぐっと迫っていた。
ここを潜れば、もう元の場所には帰れない。
わかっているのに、虹の心は不思議なほど凪いでいた。
今までの人生を否定するなんてことはできないけれど、あの村から解放された喜びが勝って、虹の心は歓喜に震える。
「ようこそ、俺らの地獄へ――」
はしばみの声と同時に、虹の視界いっぱいに光が満ちた。