09 懐かしい顔
南の港町にも国王の婚儀の噂が届いた。
忙しい厨房から出来上がった料理の皿を運びながら、女将はきれぎれに飛び込んでくる単語を聞くともなしに拾う。
「やっと国王様が身を固められる……」
「確かいっぺん婚約話がなかったか?」
「そういやそうだな。女将、こっちこっち、あと魚の香草焼きを追加で頼む」
はいよ、と元気よく返事をして大声で厨房の亭主に伝える。調理器具をひょいと持ち上げて、聞き届けたことを示すのが亭主の癖だ。
目の回るような忙しい昼時もようやく落ち着いて、夜の開店までの束の間の休憩に入る。とん、と卓にお茶が置かれた。
「お疲れ様」
「……ああ」
寡黙な亭主と切り盛りする宿屋と食堂。もうずっと二人でやってきた。そうでなかったのは……。
「国王様が王妃様を迎えられるんだって」
その王妃になるのは、侯爵家の令嬢らしい。
「あの娘はどうしているのかねえ……」
亭主は無言で茶をすする。女将は両手でお茶の入った器を持って、懐かしいなにかを探すような眼差しになった。
もう数年前になる。短い間だったけれど、姪としてここで働いた娘。
自分と同じ赤い色に髪の毛を染め、珍しい黒い瞳は大陸からだと客には説明して、くるくると給仕をしてくれた……。
あっという間にいなくなってしまった、あの娘はどこでどうしているのだろう。
珍しくしんみりした女将だったが、いつまでも湿っぽくはない。お茶を飲み干して、さて宿屋の準備と食堂の買出しに出かけるかと腰を上げた時、表に馬車の止まる音がした。
さして気にするでもなく厨房へと向かいかけた女将は、次には心臓が止まるかと思うほどに驚かされる。
「伯母さん」
つい今しがた話題にしていた娘の声が聞こえるが、まさか、そんな、ありえないとの思いの方が先にくる。
あの娘はとんでもない娘だった。ここから消えた後で東の大公様のところでの噂を聞き、それから国王様と婚約したとも。
それきり新しい噂が流れることはなく、国王様は新たな婚約を発表した。
その娘の声がしたと思うなんて。もうろくしたのかね、と苦笑する女将はもう一度同じように呼びかける声を聞く。
振り返ると、そこには黒い髪の毛を隠しもせずに晒して娘が立っていた。
笑っているのに目は濡れている。泣き笑いの表情だった。
「あんた……なんで、こんなところに」
言いかけて女将は我にかえる。慌てて服をつまんでお辞儀をした。
姪として気安く接していたが、この娘は、このお人は……。
「伯母さん、顔を上げてください。そんなお辞儀をしてもらうことはないんだから」
「でも」
「ご無沙汰しています。伯父さんも伯母さんもお元気そうで安心しました」
顔を上げれば手を握られる。耳にはあの頃から変わらずにつけている、赤い耳飾が黒を引き立てている。
それでようやく、もうろくでも夢でもないと思うことができた。
「あんたこそ元気だったのかい?」
「はい」
「今はどうしているんだい?」
ちらりと背後をうかがう娘に呼応するように、大きな体が扉をくぐって入ってくる。
一度だけ会ったことのある、騎士団長だった。
「久しぶりだ。あの節は世話になった」
東の国との戦の立役者と評判だった騎士団長と伝説の娘の取り合わせに、さすがの女将もどう反応していいかと立ち尽くした。
亭主も厨房から出てきて、それでも女将のすぐ後ろに立ち、さりげなく何かあればすぐに対処できるような位置を取っている。娘が団長から、夫婦に視線を移した。
「今は王都の、公爵家に身を寄せています。ここへはお二人に式に出席してほしくて、招待状を届けに来ました」
そう言って差し出す分厚い封筒を女将は受け取った。
自分と亭主の名が書かれている表書きを注視する。
「式?」
「我々の、婚儀だ」
我々の、ところはいやに強い口調で団長が女将に伝えた。女将は封筒と団長、団長の手を肩に置かれた娘に順番に視線を当てる。
しばらくこの成り行きが結びつかずにいた女将をよそに、亭主はひょいと封筒を取り上げて、ふっと口元を緩めた。
「おめでとう。だけど、俺達みたいのが参列してもいいのか?」
「是非、そのためにここまで来た」
多忙なはずの騎士団長と、その婚約者。本来なら関わるはずもなかったのに、短い間とはいえ浅からぬ因縁を持った。
その二人の新たな始まりに招待してもらえたなら、立ち会って見届けたい。
「あんた……」
「ああ」
短いやりとりで意思が伝わる夫婦の様子を、娘は羨ましいと思う。
自分と団長とではまだまだ、といった感じだ。どうしても照れが出てしまう。
こんな風に自然に、寄り添っていければ。娘は女将に小さな袋を差し出した。
「これ、旅費とここを休む分です。あと、衣装を仕立てる費用も」
手に持てばずしりとした重量に、女将は鼻白む。
「水くさいことをお言いでない。大事な姪っ子の晴れの日だよ。心配しなくてもちゃんとするさ」
「いえ、あの、これは……」
「私の父の侯爵と、彼女の義理の母の公爵夫人の意向なのだ」
予想もしなかった貴族の名を出されて、袋をつき返そうとした女将が止まった。
亭主もわずかに目を見開く。そんな二人に団長が苦笑交じりで頷いた。
「さんざん気を揉ませた婚儀なので、とにかく力が入っていてな。ごちゃごちゃ言うようなら、その、こちらの騎士団も動かしかねんのだ」
「なんでそこまで……」
「内密にしてほしいのだが、国王陛下も非公式に参列予定なのだ」
今度こそ腰が抜けそうになった女将を、亭主がすばやく支えた。
娘が心配して駆け寄り、二人して女将を椅子に座らせた。勝手知ったる厨房から、娘が汲んできた水を女将は飲み干して、ようやくいつもの調子を取り戻した。
「随分と豪勢なことだね」
「不本意ながらな」
「お二人には、親族席にいてもらいたいんです」
「……それなら、恥をかかせちゃ、いけないな」
ぼそりと落とした亭主の声に、女将もそうだねえ、と同意する。
娘が公爵夫人からの紹介状を持ってきたので、貴族御用達の店で衣装をあつらえることができそうだ。
旅も乗り合い馬車ではなくて、夫婦のために一台用意する。宿もこちらで取る段取りもできていると団長が示す。
「じゃあ、さっきの旅費は」
「道中の食事などの分です」
中を見れば金貨で、女将は驚きを通り越して半ば呆れる。
まあ、貴族様の中に入って恥をかかない衣装や装飾品は金額がかさむ。それを見越してのことだろう。
そうと決まれば行動は早い。夕食までの空き時間を採寸と意匠を決めるのに使い、その間娘が護衛つきで留守番することになった。
「それはそうと、あんた達二人で来たわけじゃないだろうね?」
未婚の男女が二人きりで旅など、赦されるものではない。
そこは仮とはいえ伯母の気持ちだ。大事な姪に婚儀の前に悪評がたつなど。
娘はこちらの習慣に疎いところはあるが団長はそうはいかないと一睨みすれば、当然とばかりに否定される。
「勿論。彼女は馬車で付き添い人が付いている。私は馬だ」
未婚の女性の監督と礼儀作法を請け負う付き添い人が一緒なら、と女将は胸をなでおろす。団長は、ただ浮かない顔で付け加えた。
「もう一人、これは彼女の義理の弟に当たる者も一緒だ。南に興味があったのだと同行した」
「へえ? 弟さんか」
「もう、よろしいか。この地の貴族の館に行きたいのだが」
ひどく尊大な言い方は、まだ若い青年になりかけの男性のものだ。不幸なことに、ここにはその威光にひれ伏すような者はいなかった。
「夫人からここに泊まるようにと仰せがあっただろう? わがままも大概にしろ」
「ここに?」
あからさまに眉をしかめる青年に、娘が静かな声をかける。
「ここは、私がお世話になった恩ある方のところです」
「失礼しました。私は、慣れていませんから」
「ふん、従騎士が何を言う。野宿も雑魚寝も経験済みだろう」
「団長っ。――ああ、上からの口調はもうよいですか?」
いきなり砕けた口調になった青年は、夫婦に向き直りきちんと礼をした。
その姿は優雅で流れるような仕草だった。
「無礼な発言をした。私は公爵家の長男で、義姉上の護衛と南の情勢の視察も兼ねて同行させてもらった。よろしく頼む」
「……あんたのおかげで、ご立派な客が増えたね」
娘に苦笑して、女将は部屋を割り当てた。付き添い人も含めて、いたって身軽に港町の宿屋の部屋におさまった。
娘の義理の弟はさっそくに海へと繰り出し、王都にはない風情を楽しむ。
付き添い人の女性は衣装のことで夫婦に助言をする、と一緒に出て行く。
結局留守番役の娘と、団長が残る形になった。食堂の扉は開け放してあり、密室に二人ではないという体裁だけはとっていた。
「懐かしいか?」
食堂をぐるりと見渡して娘が微笑んだ。
偶然一緒になって、南へと逃げ出した。追っ手でやってきたのが……。ここから東に流れて、そこも逃げ出した。
またここに来れたことは本当に感慨深い。
何より髪の色を偽ることもなく、誰はばかることなく望んだ相手と一緒にいられる。
「変わってない。食堂も宿屋もそうだけど、伯父さんと伯母さんも」
「そうだな、俺の邪魔をしてくれたあの時とちっとも変わっていない」
宿屋の二階での攻防を思い出して、ふふっと笑い声が重なる。
団長が娘の手を取った。
「やっと二人きりになれた。だが、ここでは何もできん」
手のひらを指でくすぐられて娘は、軽く団長を睨む。
幸せな時間は、常連客の遠慮のない来店で破られる。その夜は娘は昔のように、注文を取り皿や酒を客に供した。付き添い人はさすがに荒くれの中での食事とはいかずに、部屋で食事を取った。
団長と未来の義弟は隅の卓で酒を酌み交わしながら、生き生きと働く娘を目で追う。
「その黒髪、よく似合うな」
「王都の流行だからね、はい、今日のおすすめです。空いた皿は受け取りますよ」
「おーい、こっちに酒を追加してくれ」
「伯母さん、お酒の追加です」
「はいよ」
久しぶりの里帰りだと説明した娘を、常連客はすんなり受け入れた。
年月を感じさせずにあの頃と同じような空気になる。それを団長と義弟はやや複雑な思いで見守った。
「しかし、本当に型破りな人だ。仮にも……、それがこんな所で働いていたなんて」
「こちらの予想の上を行かれたな。お前も肝に銘じておけ、あらゆる可能性を考え柔軟に動くように」
詳しくではないがいきなり義理の姉ができたいきさつは聞かされている義弟は、団長の助言を真摯に受け止める。
誰が想像するだろう。伝説の娘が南の港町の、庶民相手の食堂で働いているなど。
ある意味母親以上に扱いが難しい人かもしれない、と義弟は考えている。ただ両親が養女としたからには異議を唱えるつもりはないし、彼女が公爵家の一員となることの利点もわきまえている。
この団長と義理に義理と、やや複雑ながらも兄弟になることも喜ばしい。
「とりあえずの目的は果たしたわけですから、今夜は新鮮な魚介とこの土地ならではの酒を楽しみましょう」
そう言って杯を合わせる。
南の夜は陽気にふけていった。