03 侍女の想い
東に国王が赴いてから時間だけが経過した。ようやく勝利の知らせが届いた時には王城中が歓喜に湧いた。侍女は主のいない部屋の掃除を監督しながら知らせを受け取り、こみ上げるものを抑え切れなかった。
勝利の次にもたらされたのは国王と兄である団長の無事の知らせで、ようやくずっと体の芯にあった重苦しいものがなくなったように思えた。
無事でよかった。本当に良かった。
あとは陛下の凱旋を待つだけだ。侍女はこれまで以上に居住空間を美しく、清潔に保つことに腐心した。あてがわれた部屋で神に感謝の祈りをささげ、帰ってきたらどう疲れをとって差し上げようかと夢想する。自覚と同時に諦めた想いは見て見ぬふりをした。
そんな侍女の耳に、新しい噂が飛び込んだのは朝食の席だった。
交代制で皆と同じ簡素な食事を口に運んでいた最中に、斜め後ろから興奮した声が聞こえた。
「国王陛下が東の王女を娶るんですって」
「あら、側室にするって聞いたわ」
「東の残務処理につきあっていらっしゃるにしては、滞在が長いと思ったけれどそうだったの」
途端、食事の味がしなくなったのはどういう訳だろう。
侍女はどうにか最後まで食べ終えて食器を戻し、廊下を歩く。見慣れた王城の廊下は床は磨き上げられ、壁には絵画と壁際には彫刻も飾られている。天井は広く、王城内は明るく活気に満ちている。
行きかう人も忙しそうに、戦勝の雰囲気のせいか生き生きとして見える。
機械的に国王の私室へと向かいながら、侍女は指先が冷たく、かすかに震えるのを抑えられなかった。
心を落ち着けるために窓を開け、空気を入れてから埃を払う。慣れた作業に手はよどみなく動く。裏腹に侍女の心は乱れきっていた。
想いを自覚したそばから封印し、それでも王城に戻ったのは未練がましくも近くにいたいから。叔母の所や実家に留まることもできない。王城で配置換えを申し出ようとは何度も考えたのに、実行できなかった。
どうにもならないのだから、せめて身の回りの世話をしたい。
そう決めたはずだったのに、あまりにも簡単に気持ちが揺れている。
寝室で綺麗に寝具を整え、調度を磨く。ふと振り返ると広い寝台が目に飛び込んできた。ここで誰かと夜を過ごし、朝を迎えるのだ。
国王である以上伝説の娘と婚儀を挙げ、子を残すのが義務なはずだった。それは兄のせいで阻まれた。妹である自分は父や兄の人質さながらに王城にいる。いずれ何らかの処断が下されるまで、お情けで生きている。
いかに想いをつのらせようとかなうはずもなく、想うことすら赦されない。
それでも、と思っていたのに実際の婚姻や側室の話にこんなにも動揺するなんて。
「しっかりしなくては。何のためにここにいるの?」
自分を叱咤激励するそばから胸が塞がれる。辛い、苦しい。顔をうつむけて侍女はこめかみを押さえた。
こんな想いをあの伝説の娘も持ったのだろうか。彼女の場合は想いは通じていた。代償は大きく、結果的にここから消え去ってしまわざるを得なかったけれど。ここでかなう想いではない点では同じだ。
それでもひどい傷を負った彼女が兄に向けた笑顔は満ち足りていた。一緒にはいられないと知っていても、顔を見るだけで嬉しいのだと表情が物語っていた。
「浅ましくても、側にいたいのならきちんと働きなさい」
けして本心を悟られてはならない。葛藤の末にようやく結論を出して、侍女は強張った体の力を抜いた。
後で花を切って活けよう。侍女は掃除が終わったと呼びにきた同僚にいつもと同じように笑顔を向けた。
国王の凱旋は沿道の熱狂を連れた華々しいものだった。喧騒を窓越しに眺め、侍女は国王の姿を探した。
ひときわ輝く堂々とした騎乗ぶりで、国王が声援に応えながら馬を操っている。
日の光も甲冑に当たり、神々しいと呼ぶに相応しい。どこにも怪我はないように見える。胸の前で組み合わせた手を額に当てて、侍女は神に感謝した。
賑やかなざわめきがどんどん近づいて、扉が開かれた。
「今、戻った」
晴れやかな声で国王が告げる。髪の毛が少し伸びていた。屋外での日々を受けてやや日にも焼けている。精悍さを加え、王者の貫禄も兼ね備えていた。
侍女は深々と頭を下げた。
「ご無事のご帰還、重畳に存じます。何より戦の勝利を心からお祝いいたします」
お疲れ様でした、と顔を上げればにこやかな笑顔が返ってくる。
甲冑を外させながら軽くなっていく体に満足の溜息をもらした国王は、どっかりと長椅子に腰掛けた。
「帰ってこれてほっとした。茶を淹れてはくれぬか」
「はい、ただいま」
次々に高官が訪れる中、侍女は用意してあった茶葉をポットに入れて湯を注ぐ。
国王は王弟からの報告や、東の報告などの情報交換を慌しくしている。少し疲れは見えるがそれを補って余りある機嫌のよさだ。
勝利が勿論嬉しいのだろう。帰還したこともだ。加えて東の王女を連れてきたのではないか、それで機嫌がいいのだろうかと茶葉を蒸らしながら自分の心がいぶされる。
茶を国王に出すと、香りを楽しんだ後で口に含んでゆっくりと飲み下した。
「美味い」
しみじみと言われて、ようやく国王不在の非日常が正常に復したように思えた。
その姿を見、声を聞き、存在を身近に感じる。
いつまで赦されるか分からない幸運をしっかりと噛み締めなければ。侍女はポットを揺らしながら自分を戒めた。
戦の余韻を引きずるでもなく、たまった執務は待ってはくれない。国王は翌日から執務に追われる毎日になった。
新たに広がった領土に加えて、東の王族の処遇を決定し、臣下に褒章も与えなければならない。警戒を強める北と西の国とも折衝して緊張を緩和しなければならない。体がいくつあっても足りそうにない忙しさだった。
「ようやくひと段落か」
「お疲れでしょう、一日二日は羽をのばせますよ」
のんびりと言う王弟は、正式に宰相となっていた。しばらく当たり障りのない話をした後で、ふと声を潜める。
「時に、団長をどうなさるおつもりですか?」
「どうも何も。褒章も辞退して、従来の主張をしているぞ」
国王は渋面になる。東の地で苛烈なまでに敵をなぎ払った団長が、残務処理が終われば罪に服すると考えを曲げない。首を刎ねてくれ、罪状はいくらでもあげられるだろうと国王にこいねがっていた。
「首を刎ねるのはさすがにはばかりがありますから、事故にでも見せかけますか? そうすれば侯爵家に累は及びませんし」
こともなげに宰相となった王弟は提案する。国王のもちものを掠め取ったなら、相応の罰を。本人が願っているのなら、かなえてやるのはむしろ慈悲。
国王はそんな裏の意図をつきつけられて沈黙した。罪を明らかにできない、それはどちらの枷だろう。もとより侯爵家に累を及ぼすつもりはなかったが、姦通ー反逆の罪を公にすれば咎められても仕方がない。
「できれば穏便にと思っている。団長は今失うには惜しい」
側近くにいる、茶色の髪の毛と瞳の色が思い浮かぶ。兄を思う妹を悲しませるのはしのびない。
とかく肉親の情とは難しい。自分達も囚われていることは骨身に染みているだけに、死んで終わりにはしたくなかった。
甘いといいたげな視線をやりすごし、国王は窓の外を眺めた。
翌朝は前夜の深酒がたたったのか頭が重い。海の底に漂うような意識が呼びかけでゆっくりと浮上する。ようやく目を開けたなら、眩しい光とそれを背景にかがみこむ柔らかな曲線が視界に広がった。
「お寝覚めになりましたか。お食事はいかがなさいましょう」
微笑をうかべてのぞきこむのは侍女だ。ひどく優しい雰囲気は、濁った思考には妙にしゃくに障った。
「そなたは、あれと兄の恋を応援したのか?」
寝起きの質問としては唐突で、思いを侍女にぶつけるのは適当ではないのは理解していても、ぶつける当人達がここにはいない。八つ当たりだった。
侍女ははっとした後で、きっぱりと言い切った。
「あの方には『兄を好きになってくれてありがとう』と申しました。想いばかりは――誰にもどうしようもありませんから」
胸をえぐられた気がした。想いは当人にすらどうしようもないことがある。国王であっても、伝説の娘であってもだ。権力もしきたりも何も通用しない、無力さだけを痛感した想い。
娘を想うがゆえに封じ込めたはずの想いがどろどろとあふれ出すのを感じる。きちんと向き合わないと、この怪物は成長してしまう。
「知った風だが、そなたには誰か想う相手はいるのか?」
「――かなわないと承知していますが、おります」
「かなわなくても想うのか」
「相手の幸せを願えれば、それでよいと思えました」
自分の想いは報われなかった。権力もまるで役には立たなかった。
今も失恋の痛みから癒えていないのだと自覚して、国王は自分を振り返る。
「余はあれの幸せを願えたのだろうか」
「だからこそ、元の世界に帰還をお赦しになったのでしょう?」
侍女の声は優しく、ひび割れた心に染み渡る。辛い恋をしているから説得力があるのだろうか? 国王は痛む頭をなんとかはっきりさせようとしながら、とりとめなくそんなことを考えた。
侍女は一度寝室を出て、戻ってきたときには嫌なにおいのするものを持っていた。
「薬湯でございます。お飲みくださいませ」
しぶしぶ寝台の上で飲めば、とてもまずい。思わず顔をしかめた国王に微笑を向けながら、侍女は小さな包みを差し出した。
「砂糖菓子でございます。お口直しにどうぞ」
「済まぬ。気が利くな」
甘い菓子は口の中でほろりととけて、嫌な感触を押し流してくれる。
国王はゆっくりと味わった。侍女は食事の用意をすると寝室を出ていく。侯爵令嬢の侍女のかなわない想いの相手とは誰だろうか、とふと興味がわいた。ずっと昔から知っている、妹のような存在が苦しい恋をしているのか。
かなわないと言い切るからには、既に婚姻や婚約済みの男性なのだろうか。それとも遠くに行ってしまったとか、死んでしまったりとかなのだろうか。
国王は突然侍女が見知らぬ女性になったような錯覚を覚えた。