19 姫と夜会
姫は『意地悪宰相を見返す計画』に邁進した。勉強して二度と物知らずなんて言わせない。お子様と笑われないように、体の発育だけはどうしようもないが好き嫌いをせずにきちんと食べて規則正しい生活を送るように努力した。
優雅な仕草も自分のものにするように、と厳しい教師の指導にも耐える。
「随分と熱心だと聞き及んだが、どういう心境の変化だ?」
時折ふらりと現れる宰相にからかわれるのが悔しい。
黙っていれば優しげな風貌なのに、口を開くと辛辣なことばかり。
姫はつんと澄ましている。以前は首が痛くなるほど見上げていたのが、ほんの少しだけ角度が小さくなっていた。
「人質として過ごすなら時間を無駄にしたくないんです」
「そうか。ああ、頼んでいた本とやらはこれか?」
数冊手渡された本に姫はぱっと喜色を浮かべた。ありがとう、と心からの言葉を述べて受け取る。賑やかさとは無縁に近い生活の中での楽しみ。
ことに別の大陸の旅行記も入っていたから、姫の嬉しさといったらなかった。本でならここにいながらに、世界を巡れる。思いもよらない不思議に出会える。
「先生からうかがって、読みたかったの。本当にありがとうございます」
「変わっているな」
姫は小首をかしげた。そんな姫をなんとも複雑そうに眺めやって、宰相は姫の居間の長椅子に腰をおろした。護衛を扉の両脇に立たせ、ほどなく用意された茶を口に運ぶ。
「服や装飾品より、本が嬉しいか」
「あら、美しいものは大好きです。でもここで着飾っても見せる相手もいないし、勿体ないでしょう」
「言うようになったな」
「だって……さんざん無知を馬鹿にされれば誰だってそうなると思います」
宰相とのやり取りは、姫にとっては緊張の連続だ。
聞き出したところによると女性には優しく礼儀正しく、国王の片腕として宰相を立派につとめているらしいのに、自分に対してはからかうか小馬鹿にするかの態度しか取らない。
こうなったらこの国のお金でしっかりみっちり学んでやる、と暇つぶしと自分磨きを同時に行う手段として活用していた。
「贅沢する気はないし、本だと何度も読み返せるから」
「合理的、というわけか」
珍しく長居をしてしかも機嫌がよさげな宰相に、姫は薄気味悪さを覚える。
いつもならつっかかる姫を適当にあしらうのが宰相だ。それなのに……。
「なにか、ありましたの?」
姫の質問に宰相は黙って茶を飲んだ。お代わりは断って、茶器を卓に置く。何も言わずに帰るつもりかと姫は不満に思った。
ここの生活で何が一番の苦痛かといえば、退屈だ。何も知らされないのが堪える。本や教師からの情報も貴重だが、宰相が教えてくれる『生きた』情報は姫にとってのごちそう、ご褒美に等しい。そのためにからかわれるのも我慢している節もある。
軽く結って後ろに流している髪の毛が、姫が首を傾げるのにあわせて揺れる。ふわふわと波打つ蜂蜜のような髪は姫の密かな自慢だ。
衣装だって派手ではないが姫の青い瞳に似合うように仕立てられている。
卓を挟んで問いかける姫に、宰相は内心瞠目した。
こんな風に相手や周囲をおもんばかる娘ではなかったのに、いつの間にか成長しているのだと感心する。人との接触に乏しい離宮にあっても、変化は訪れるものらしいとも。姫が連れてこられてから三年近くが経過しようとしていた。
幼さの目立っていた姫もさすがに三年経てば。
「国王陛下に良いことがあったのだ」
「そうなのですか。お兄様とは仲がよろしいんですね」
宰相の前では両親である先代の国王夫妻の話はしないように、と注意されて以降は家族については口に出さない姿勢を取っていた。
侍女とのおしゃべりの中から、どうやら先代は夫妻ともにあまり幸せではなかったと察せられたせいでもあった。その宰相が珍しく自分から兄の話を持ち出したので、姫も好奇心を前面に出した。
「たった一人の肉親だからな」
そういえば東の国と交戦する前に叔父も討ち取ったっけと姫は思い返す。あの大公が砦にいたために、手が伸ばせないと父親の国王がこぼしていた。あまり肉親に恵まれない、そんな家系なのかと納得もする。
国王に良いこと、が何かはよく分からないけれど宰相が嬉しそうなのは……まあよいのではないかしら、と独りごちる。
「とんだ副産物もついてきたが」
ぽつりと呟いたのが妙に重い響きを伴う。疲れを滲ませた宰相に姫の好奇心は刺激されてしまうが、下手につつくと返り討ちなのは嫌と言うほど経験していた。だからこの謎めいた単語を元に、あれこれ自分なりに考えようと決める。
侍女や教師からそれとなく情報を引き出し、組み合わせて推論を練り上げる。
知的な暇つぶしとやらを楽しませてもらおう、と姫はにっこりと笑った。宰相が自分の髪や瞳に視線を注いでいるのを不思議に思い、なぜだか決まり悪さを覚えても。
持ってきてもらった旅行記を読んで、地図でその場所を確かめる。海へと漕ぎ出して様々な苦労を乗り越えて不思議な風習や、こちらでは珍しい風貌の人々や建物を目の当たりにしてなおかつ無事にこちらに戻ってくる。まとめて書き記してくれたからこそ、自分も遙かなる彼方へ旅する心持ちになれたのだと姫は満足のため息を漏らした。
「私もいつか行ってみたい。いえ、贅沢は言わないから王城から――離宮から外に出てみたいものだわ」
「騎士団長様の婚儀がありますから、姫様もごらんになりたいでしょう。王城で夜会も催されるそうです」
「その方――」
「失礼いたしました。うかつなことを申しました」
騎士団長とは東の国で父を打ち破ったその人ではないか、と姫が気付き失言した侍女も慌てて謝罪した。その人のせいで国は負け、自分ははるばる連れてこられたのだと複雑な心境に陥る。
ただ、教師に学んだおかげでわかったこともある。生国の王族や貴族の課していた税が重税と評される水準であり、国は疲弊していたこと。むしろ国境の川を危険をかえりみずに渡って、この国に逃げ込むような民もいてそれがだんだんと増えていたこと。
肉親の情はあれど父王が戦上手ではなく、もっと悪いことに女性に弱かったこと。
――だから負けたのは仕方ないと結論づけられてしまったこと。
「――いいのよ。夜会なのね、ここまで音楽は聞こえてくるかしら」
「姫様……」
自分には関係ないことと割り切っていた姫に、意外な申し出があった。
「夜会をのぞいてみるか?」
「今度は何を企んでいらっしゃるの?」
「人の厚意は、まあ気まぐれか。素直に受け取るものだ」
誘い主があなたでなければ飛びついたかも、と姫は警戒しながら返答する。
宰相は執務の合間に寄ったらしく、手にインクがついていた。だらしないと思いつつ執務が忙しいと教師に聞かされているから、お疲れ様とも密かに思っている。
「ずっと籠もりきりでは息も詰まるだろう。勝手は赦さないが、少しくらいなら着飾ってもいいのではないかと思ってな」
「正式な出席ではないのでしょう? のぞいて雰囲気を味わうという感じでしょうか」
「よくわかっている」
仕立てやその他の細々したことについては後から人をよこすからと、宰相は段取りをたてる。姫はいきなりのことにときめきながら、今日ばかりは悪態も引っ込んだ。
夜会。東では夜ごとあった宴は華やかで、あっという間に時間が過ぎたものだ。
この国の夜会はどんな感じなんだろう。薄物を身に纏った踊り子はいるのかしら。甘い果実酒は出るのかしら。どんな衣装にしようか、仕立ては間に合うんだろうか。楽しい想像に胸を膨らませ、姫はうきうきと過ごす。
副産物についての追求は、ややおろそかになってしまったが。
大人っぽく装って姫は当日を迎えた。昼間、神殿で婚儀があったそうだ。騎士団長の奥方になった人は、公爵家の令嬢だとか。さぞ盛大な婚儀だったのだろうと、姫は想像を働かせた。
本来なら騎士団長の侯爵家で披露目の宴をする予定だったのが、王城で夜会を催して一気に披露目をすることになったらしい。姫は夜会の中盤以降に招き入れられる手はずになっていた。
「おかしくないかしら」
「お美しいですわ」
髪の毛は結い上げ、くるんと首筋に沿うように一部を流している。髪のつややかさと項から胸元が強調されるはず。気をつけていたせいで綺麗な谷間もつくれた胸元を縁取るレースは暇にまかせて姫自身が編んでいたものを流用した。
薄桃色の衣装は白いリボンとレースで可憐に仕上げている。紅玉の首飾りともよく合う。化粧を施した顔は、母譲りで上出来ではないかと姫は鏡の自分を注意深く検分した。
「お迎えに参りました」
正装の騎士に守られて、姫は連れてこられた時以来初めて離宮から外にでた。
割に大きい城だこと、ときょろきょろするのははしたないからぐっと我慢して姫はしずしずと歩む。
大広間に近づくにつれて音楽と人の声が耳を打った。緊張を払拭するように姫はくっと顎を引き背筋を伸ばして広間へと入る。
途端目に飛び込んでくる人、人、人。しばらく静かな生活をしていた姫には圧倒的で音も響きすぎるような気がした。あらかじめ指示があったのか、騎士は姫を守るように人波をものともせずに中へと進んだ。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「あ、あの……」
「果汁にしてくれ」
人いきれに圧倒されていた姫、は間近に聞こえた声に飛び上がりそうになった。
振り返ると礼装姿の、宰相がいた。群青色の上着は白い縁取りが印象的だ。どうにか目を見張るのをおさえて、姫は反射的に宰相の差しだした杯を手にした。
「化けたな」
「あ、なただって」
宰相を認めた途端に緊張からとは別に鼓動が早くなった。
意地悪さんのはずの宰相が、王子様に見える。内容はいつものようなのに声が優しく、顔には――。優しげな笑顔を浮かべている。まるで他意などないかのように。
「おおっぴらに紹介はしない。目の届くところで楽しんでくれ」
どぎまぎしている姫によそ行きの笑顔を見せ、宰相は話しかけてきた男性と会話を交わす。皮肉を言うか冷淡かの宰相が自分以外には穏やかに接している姿に、妙に悔しい思いを味わう。話が一段落し、男性が離れたところでそっと宰相の袖口を引いた。
「婚儀をあげられたという騎士団長のご夫妻はどちらですの?」
「――国王陛下と歓談しているのが、そうだ」
大広間でも段が高くなった一角に玉座があり、そこに楽しげな男性二人と伴われている女性が二人いた。金髪で王冠をかぶっているのが国王なのだろう。その隣に茶色の髪の毛の女性がいて、相対している男女と笑顔で話している。
男性の方は護衛の騎士と似たような服を着ていて体格がいい。隣の女性が小柄に見えるくらいだ。
姫の目はこちらからは後ろ姿しか見えない女性に釘付けになった。結い上げて海の宝石を飾っている髪の毛は――艶やかな黒。
「かつ……ら?」
実際に大広間には他にも黒髪の女性を見かけた。でもどうしてだか、全く別物に思える。頭が不自然に膨らんでいないからだろうか。いかにも人造といった艶のなさが見受けられないからだろうか。
でも、と姫は眉をひそめた。この国で黒髪は王妃しかいないのではなかったか。きっと瞳の色は別だろう。
「あなたも挨拶をするか?」
「そう、いたします」
間近で確認したいと考えた姫に、宰相は優雅に腕に手をかけるように促した。