10 同じ景色
朝の忙しい時間も終わり、宿泊客も出立してようやくほっとした空気が流れた。
娘は亭主と女将を手伝って、部屋から寝具や布などを回収して籠に入れる。厨房の片付けも済んだようだ。
「ありがとね。籠はそこに置いといて。お茶を飲んだらゆっくりしな。お客なのに手伝わせて悪かったねえ」
「久しぶりですごく楽しかったです。こっちに戻ってからは、やってもらう方だったから……」
さすがに洗濯までは手が回らないので、人を頼んである。回収にくる人のために籠を入り口付近に置いて、娘は食堂の卓についた。
向かいに女将も座り、お茶を飲んで大らかな笑みを浮かべた。
「あんたはともかく、団長様と弟さん、だっけ? もよく働くねえ。騎士様とは思えないよ」
彼らも手伝いを申し出て、亭主と一緒に宿屋の修繕や薪割など男手の必要な仕事に精を出している。女将は彼らの手際のよさと、よく働く様子に驚いていた。
「実家は貴族でも、騎士団に入ったら自分のことは自分でらしくて、住まいのあれこれもするようですよ」
「まあ、戦場で着替えさせてもらってちゃ世話ないからね」
それもそうかと納得した女将は、娘の付添い人にも興味を向けた。
「それはそうと、付き添いのあの人にうちの食事は口にあったのかねえ」
見るからに淑女然とした付添い人には、港町の宿屋など未知の経験だったろう。
夜は酒場も兼ねているからなおさらだ。付添い人はたいてい主人の遠い親類などがつとめることが多く、身分はそこそこだがそれだけで食べるのが難しい境遇の者が行儀を教え、監督も兼ねるかわりに住み込みで食住をまかなう。
娘は付添い人の女性の様子を思い出して、女将に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。確かに、戸惑ってはいたけど持っていった食事も美味しいって食べていたし、今も食後に海辺に散歩に行くって出かけたから。馬車で移動していたから、外の空気を吸えて気分転換になったみたいです」
「一人でかい?」
「あ、いえ。伯父さん達の目の届くところの浜辺らしいから」
そこに大工道具の箱を小脇に抱えた団長が戻ってきた。上はシャツだけ。さすがに剣は身につけてはいるがくだけた雰囲気だ。
作業の後でうっすら汗をかいたのかシャツのボタンも上のほうは外し、そでもまくっている。
「雨漏りの箇所と樋は修繕しておいた。他にはないか?」
「もう充分ですよ。ありがとうございます」
「敬語はいい。彼女の伯母さんなら、俺にも伯母になるのだろう?」
にや、と冗談まじりに笑って団長は道具箱を物置にしまって、同じ卓の椅子に座る。
目の前に出されたお茶を一息に飲み干して、もう一杯お代わりを要求した。
「二人できりもりするのは大変だろう」
「さすがに洗濯や掃除は人を頼んでいるよ。馬の手入れも近所の厩舎を紹介しているしね。それでも亭主の手の回らないところは出てくるから、今日は助かったよ。……坊ちゃんは?」
娘の義理の弟を目で探すと団長は、海の方に顔を向けた。
「付添い人の女性について、海にいる」
「それなら安心だ。ここらへんの男は根は悪くないが、育ちや振る舞いはお世辞にもいいとは言えないからね」
「あの女性はあいつの遠縁だし、そこらへんは心得ているだろう」
国内でも有数の名家の跡取り同士で、従兄弟。階級に差はあっても騎士団の同僚なので団長の義弟への信頼は厚い。いずれは次代を担う自負も頼もしいと思っているので、行動をとやかく言うつもりもない。
お茶を飲んで、娘に向き直った。
「我々も海にいってみるか?」
「そりゃいいね。行っておいで。今日はいい天気だから海はきれいだよ」
女将にも後押しされて、二人は浜辺へと出かけた。
女将の言葉通り、今日の海はきらきらと太陽の光を反射し輝いている。波もそれほど荒くなく、海風も気持ちがいい。
遠くの海上では海鳥が群れをなしているのも、のどかに映っていた。
「きれい……」
「気持ちがいいな」
波打ち際まで歩いていくと、きれいな砂と打ち寄せる波が刻々と移り変わっていく様子が面白い。
娘のいた世界よりも海も、砂浜も開発されていない分素朴で美しい。
なんでもない港町のはずなのに、極上の保養地のような美しい景色に娘は目を細めた。
「ここにいた時に、休憩でよく海を見にきていたの」
「危ない目には会わなかったか?」
娘は顔を横向けて、心配性の団長を見上げる。
本人は大真面目だ。
「うん、大丈夫だった。伯父さんと伯母さんの目も光っていたから」
「そうか」
その頃は赤毛にしていた、と懐かしく思い出す。今、海風になびいているのは黒髪だ。
顔にかかった髪の毛を団長がはらい、そのまま手を繋いできた。
「二人で同じ景色が見られるのは、いいものだな」
同意を示すために、娘はきゅっと繋いだ手に力を入れた。
こうやって同じ世界で、隣に立っていられる。様々な出来事と思惑の産物。
共に凪いだ海を見つめている。
未来はどうなるか分からない。自分のもといた世界よりも簡単に人が死んでいく。病気は勿論、戦でも。なにかあればその場に身を置く立場にいる人、その人と手を携えることを選んだ。
いつか不意の別れがくるかもしれない。
それでも、今、隣にいられるのは幸せだと思う。
じっと手を繋いで海を眺めていた二人を、女将が呼びに来た。
「お客だよ」
南に、自分達を訪ねてきた客などいるかと二人は顔を見合わせる。ただ女将が冗談を言っているようにも思えない。とりあえず戻ることにする。
食堂に入れば、旅装の騎士がいた。団長は顔に見覚えがあるらしい。
「お前……」
「お久しぶりです。王都の宰相閣下よりの書状をお持ちしました」
懐から取り出されたそれを団長に渡して騎士は控える。座るように促して、団長は書状に目を通し始めた。次第に眉間にしわがよってくる。
最後まで読んで、団長は元のようにたたんで今度は自分の懐にしまった。
「仔細は承知した。仰せに従う……が」
そこでほんのわずかだが自分に視線が向けられて、今しがた受けた指令に自分が問題なのだと娘は気付く。
騎士もそれは織り込み済みだったようだ。
「ここへの途中で、ご下命により団長のご実家に寄りました。侯爵様配下の騎士がこちらに向かう手はずになっております」
「閣下の書状では、できるだけ早くとあるから彼らが到着し次第、か」
「は、私は団長に従うようにと申し付けられています」
「なら、あいつは父の所へか……」
低く唸って団長は娘の腕を取り、食堂の隅に連れて行く。
顔を寄せて耳元で囁く。
「今から東に行かなければならなくなった。あなたは、行かない方がいい。顔が知られているだろう」
娘も心持ち緊張しながら頷く。東の大公、そして続いた東の国との争乱で人も入り乱れた。誰が素性を知っていて、利用や排斥をしようとするか分からない。
「これからどうするんですか」
「もう少しすれば、父の所からの人間が来る。あなた達三人は父の領地に、俺はこいつと残りとで東に向かう」
ついさっき二人で穏やかな景色に身を置いたばかりなのに、と不安を抑えながら娘は団長を見つめる。
団長は上に話をする、と二人で階段を上がった。
騎士から死角になる踊り場で、娘を腕の中に閉じ込めた。
「旅先で離れたくはないのだが」
だが命令では仕方がない、と恨み言は封印し、代わりにまた当分側にはいられない娘の感触を確かめた。
「うまく言えないけど、気をつけてください」
「勿論だ。戦は終わっているし詳細は言えないが、そう危険なものでもないから」
「ん……」
それでも送り出すのは二度目で、不安は拭えない。
駄々をこねたら困らせるだけなのは理解できても、感情は割り切れない。少し背伸びをして鎖骨のところに額を押し付けた。
また、拘束が強まる。隙間をなくすかのようにぴたりと寄り添って、互いの体温を感じる。
「顔を見せて」
少しだけ緩んだ腕の中から見上げれば、優しく微笑む団長が間近だ。
人目を忍んで。もう一度だけ抱く力を強めて、団長は身を引いた。
「荷物をまとめないと」
そのまま二階へと上がり、出立を知らせる。慌しく、ただ大荷物でもないので程なく食堂には荷物と面々が揃った。
折りよく、食堂の前に馬のひづめの音が響く。三十人ほどが食堂の前に到着した。
「今度は騎士様達か。なんだかここが上等の宿屋になった気分だよ」
女将は冗談めかして言うが、この面々をなんとかしないと常連が店に近寄れない。団長は急いで人数を振り分けた。十人を馬車の護衛に、そして二十人を自分と東へ。
公爵家の長男に、真剣な眼差しを向けた。
「父の所までよろしく頼む」
「お任せください」
娘は主夫婦との別れを惜しんだ。ぎゅっと抱きついて、式での再会を誓う。
「王都で待ってます」
「うんと着飾っていくから、ちゃんと見つけておくれよ」
「勿論です。伯父さんも……」
「ああ、忙しいだろうが、体には気をつけてな」
団長が馬に乗り、号令をかける。振り返り、馬車の方に手を上げて東へと向かう街道を走り出した。
姿が見えなくなった頃、馬車と護衛の馬がこちらは別の道を進みだす。
馬車の窓から、手を振り続けて、娘の短い里帰りが終わった。
「いつもながら慌しいことで」
馬車で娘と付き添い人の向かいに、義弟にあたる公爵家の長男が座った。
「東に行きたかったんじゃないですか?」
「確かに。でも団長の判断ですから。それに、侯爵家に向かうのでしょう? 是非、指導を受けてみたいと思っているんです」
がらがらと車輪の回る音に耳を傾けつつ、さすがに貴族の子弟らしい優雅さで義弟は微笑んだ。
どうやら前の団長である侯爵の薫陶を楽しみにしているらしい。
「それにしても団長も心配性ですね。来たときには騎士は二人だったのに、自分が離れるとなると私を入れて十一人か」
付き添いの女性にもくすりと笑われて、娘はからかわれていると感じた。
確かに心配性かもしれない。それに、自分もそうだが向こうも離れることに過敏になっている。過去の出来事がそうさせていると分かってはいるが。
どんどん遠くなる潮の香りを残念に思いながら、娘はゆっくりと目を閉じた。
「やあ、無事についたか」
侯爵は上機嫌で一行を迎えた。騎士をねぎらって早めに休むようにと声をかける。東からの逃避行ほどではないにしても、急いで戻ってきた一行だ。疲れはそれなりにたまっている。
侯爵は馬車の三人を部屋へと案内もさせた。
「夕食までゆっくりすればいい」
にこやかに言われ、荷物を運ばれて娘も部屋に落ち着いた。
駆け足のような旅の疲れが、座ったとたんに押し寄せる。熱いお茶で人心地ついてから、着替えをする。
馬車で座っていただけでもその座り続けるのは、苦行に近い。外の景色も、窓を開ければ物々しい騎士の姿が目に入り、落ち着かない気分になっただけだった。
それでも手と顔を洗い、さっぱりした気分になると余裕も出てきた。
扉が叩かれ応じれば、顔を出したのは侯爵だった。
「見せたいものがあって」
未来の義父は、恭しく腕を差し出す。娘も儀礼にのっとって、腕を組み侯爵に案内された。廊下の両脇に肖像画がかけてある。侯爵家の代々のものだろう。
その一つの前で侯爵が足を止めた。
「私と妻だ」
見れば、優しげな顔の女性が微笑んでいる。侯爵の方は白髪としわが増えただけで、面差しは変わっていない。艶のある茶髪と、新緑のような緑色の瞳が、絵の向こうの女性をいきいきと見せている。
「お嬢さんにそっくり」
「公爵夫人にはあまり似ていないだろう」
姉妹のはずなのに、確かにそうだ。それぞれ美しいが人目を引く派手な顔立ちの夫人に比べて、繊細な印象がある。
お母さん。自分の母親とは全然違うけど、お母さんに当たる人。
胸になにかがこみ上げてくる。この人がいたから彼が生まれて……。
「形見の装飾品がいくつかある。いつか、あれが婚儀を挙げるときに譲ってやってくれと言われているのだ」
貰ってくれないだろうかとの意外な申し出に、最初は驚きが、ついで嬉しさと申し訳なさのないまぜになった感情が浮かんだ。
おそらく誰よりも反対だっただろう侯爵から言われたからだろうか。やっと認められた気がしたからだろうか。
思わず涙ぐんでしまい、慌てて目元を拭う。
「泣かせてしまったら、馬鹿息子から叱られてしまう」
珍しく慌てた様子の侯爵に今度は笑みが浮かんでしまい、感情の振幅が大きいと思いながら娘は涙を止めた。
「すみません、泣くつもりじゃなかったのに。……私がいただいてもいいんですか?」
「そのために取っておいたものだ。ようやく手渡すことができて、妻もほっとしているだろう」
なにしろ馬鹿息子は朴念仁で、と侯爵のぼやきが続くが本心からではないのが伝わる。
認められて、ここで生きていける。
娘は地に足がついたような気がした。
「あいつがいない間に、色々教えておこう。随分やらかしたからな、きっと知っておけば役に立つだろう」
「それなら何かに書き留めておかないと」
「名案だ」
結託した未来の父と娘が和やかに廊下を後にする。
絵画の女性の微笑みが一瞬深くなったようだが、気付いた者はいなかった。




