娘の婚約者が浮気をしている場面を目撃してしまったのだけど
「君の可愛い唇に触れる機会をくれないか」
聞き覚えのある声にピタッと足が止まる。少し外に出て、涼んでから戻ろうとしたときだ。甘くてスウィーティな声がした。意味が一緒だって?まぁまぁ今はそんなことは気にしなくていいじゃないか。
シトリンはれっきとした貴族の妻であり、聞き間違いでなければ聞こえてきた声の主を知っている。二時間前に娘を迎えにきてくれた男の子だ。一年前に婚約を前提に婚約を結んだ。年は彼方の方が上であり、娘が嫁に行く方。
「ハビッロ様……」
娘がいるのかと体がピシリと硬直したが、声の相手は違う相手でホッとした。ホッとしたけど別の理由で体が固まる。唇やらを言うということは、口付けのお誘い。娘でない相手に。
子爵同士でパワーバランスはいい感じであるが、今の会話を聞いていると話が変わってくる。夫は娘に誠実な男をと友人の子爵に息子と縁付かせた。政略の意味は弱い。無理矢理というわけじゃない。
本人たちの意思確認も行われ、子息だって娘に婚約者ができて嬉しいと猫をかぶっていた。被っていた件については誰でも同じことをするので、そこは責めまい。
しかし、浮気や不貞は話が変わってくる。嫁入りだろうと婿入りだろうと娘相手には綺麗な状態でいてほしい。思春期なので手を繋いだり、目を合わせるなどという心でどうしようもない部分は止められない。わかっているが、やめてほしいのだ。高望みはその程度。
しかし、口付けは程度が違う。娘の婚約を拒否してなら関わることは絶対しない。娘との婚約を進めてくれといったその口で、扉の先で他の令嬢の口を合わせようとしているのだ。
女遊びがしたいのなら断ればよい。断ってもいいとお互いちゃんと伝えていたのだから、威圧もしていないのだ。
「ダメですわ。あなたには婚約者ができたと聞きました」
向こうもそれを知っていたのかと安堵した。女の方が拒否していたとしても、男の方が積極的にしたがっていた事実はあるが。
「シー、それがなんだと言うんだ?婚約者など親に無理矢理決められたものなんだ。そこに恋や愛はない。誓う。君以外にしないと。捧げるよ」
気持ち悪い。シンプルに気持ち悪い。控えめに言っても、プレイボーイぶってて気持ち悪過ぎる。
唇大好き坊ちゃんに格下げしなければ。あだ名にしたらもうダメだ。将来は娘の夫になるが、今は婚約者にしても近寄らせてはいけない不審者にランクアップした。夫が継続すると世迷言をもし言ったら、牧場に行って牛としてもらおう。気持ちはわかるだろうきっと。
そんなことにはないならないこともわかっているので、保険として乳牛のところへ連絡を先に取っておいた方がいいかもしれない。夫が愚かな言葉を吐き出す可能性はないだろうが、可能性を潰してはいけないだろう。大人だって成長する余地があるのだから。
つらつらと考えて、家に戻ると調査を依頼して婚約者の男の子を詳細に調べるために動く。手に調査書が渡る頃、娘が婚約者からパーティのお誘いを受けたので行きたいと言われる。夫の方を見ると、青ざめた顔で止めたそうにしていたから首を振った。
今止めても納得しないだろう。娘が好きになった男の子。あんなに嬉しそうにしていたのに、何を言っても納得させるのは難しい。親が言うと変に曲げるかもしれず、見せた方がいいだろうと事前に示し合わせていた。
「ダメ?」
「いいえ」
夫人であり、貴族であるシトリンは愛娘の心傷を最小限にするために笑みを浮かべて「いってらっしゃい」と見送る体で進言した。
夫はやはり事前に言えばいいのではないかと弱気なことを言うが、言ってしまえばあとから娘本人に「あのとき親の一方的なお節介で」とぶちぶち静かに、柔らかく恨まれるよりマシだ。
証明の仕方なんてないのだからこの方法でしかすぐに対処できなさそうなのだから、仕方ない。シトリンたちは足音を立てずに立ち上がると、質素な服を見繕うように使用人たちに指示を出した。
「君の唇に触れる許可をくれないか」
「ハビッロ様」
ハスキーボイスな男の声は、甘い空気にゆらゆらと揺れている。触れてくる婚約者に対して身を預けるのは、婚約者として間違っておらず当たり前に許された特権である。ハビッロの声は切実さを含んでおり、しかし、親は許さないだろうというブレーキはあるものの同級生たちも口付けを婚約者としたと、又聞きぐらいはしたこともある。
親に言われたことはないが、男女間の適切な距離を取れと学園でも家でも言われている。平民だろうと貴族だろうと変わらない教育だ。目を閉じてソッと待ち続ける。ドキドキとした心音が彼の温かな手を介してさらに、グッと固まっていく。
スッ
何かが唇に触れた。目を閉じていて開ける勇気はなく閉じたままにしていると「んぶ」と声が聞こえて目を薄く開ける。
「?」
何も見えなかった。婚約者のハビッロの顔も何もかも。目を左右に動かすとここにいるはずのない存在に気づき、声にならない悲鳴をあげる。
「お母様っ……!?」
*
娘ペルメルの驚愕の瞳と声音を耳に落とし込みながらも、視線はたった今我が子の大切なものを奪おうとした男を、殺してやると言った視線を和らげず、ずっと睨みつけていた。
「んぶ、んぐっ!?」
持参している薄い下敷きを男の方に押し付けるように、後ろに下がるのに合わせて押しやる。鼻で息をすればいいのだが、混乱しているらしく口で息をしようとして鼻で吸ってばかり。それにより酸欠になったらしく、倒れ込む。ドサッとみっともない尻を地面につけるハビッロ。
「ふ、夫人……これは、その……!」
言い訳をしようとしている。それを察して下敷きを下にやり、娘からもよく見えるようにしたら駆け寄ろうとした。だから、娘に止まるように伝えたが信じているので、まだ心が男との口付けをする前の乙女のままだ。
「お母様!私が望んだの。だから、やめて!」
「夫人、私たちは相思相愛の婚約者であり恋人なのです……不埒な真似とはわかっておりますが、どうか」
彼は落ち着いてきたのか、冷静ぶってこちらの心が狭いと言いたげに謝る。いや、まだ謝っているとは言えないか。
「許しません」
腕を組み、男を睨みつけたまま宣言すると婚約者同士の二人は目を潤ませる。引き裂かれた悲劇の恋人の気分なのだろう。
「酷いわ、お母様っ。お父様と口付けしたのはそんなに歳が変わらない時だって聞いたわ!もっと小さい時にだって事故でもと、聞いてるのにっ」
「今は私たちの話は何の関係もありません」
「な、お母様」
「夫人、確かにはやいかもしれませんが、私たちは婚約者なのです」
「ふぅん、婚約者がいるという意識はちゃんとあったのね?」
トントンと指を腕で鳴らして、威圧を込めた。相手はそれでも自分の語ることに利があると思っているのか、こちらの怒りを軽く受け取っている。そんなわけがないとなぜわからないのか。
「信じてください。傷付けるわけがないじゃないですか。婚約者相手に。今まで交際させていただき、切実にしておりましたでしょう?」
「交際なんて許した覚えはないけれど」
婚約者の契約は結んでいるが、娘と付き合うことを許した覚えはない。恋人になることも。最近浮かれている様子は知っていたが、付き合い出していたとは。
「なっ。流石にそれはおかしなことです。彼女とは婚約者であり、恋人になるのに許可など」
反論している男の顔を白けた目で見続けた。婚約の契約と交際は別だ。娘はまだ成人の年齢ではない。恋愛に憧れを持つ年齢であることはわかるが、交際と婚約は別である。もっと早く調べればよかった。後悔しかない。
「これは、聞きしに勝る方だ。あなたのような人を毒親というのですよ」
「な、ハビッロ様、やめてください!お母様を責めないで!」
何を聞いたのかは知らないが。キスや交際を許していない横暴に、急に若者に最近流行っている言葉を当てはめるとは。聞きしに勝るプレイボーイである。ほう、と顎を上に上げて毒親らしさに拍車をかけた。
「毒親ねぇ」
「そうです。皆もきっと同じことを言いますよ。友人もあなたのような方をそう言ってました」
この男、ハビッロの言うその他大勢はおそらく自分に都合の良いことを言っただけの拾い上げだろう。娘やその他の子たちと交際していると思わせている手腕は、詐欺師である。なんならプロも、顔負けしているかもしれない。
調査をかけた結果、娘の婚約者は娘と婚約したあとになんの紐が切れたのか、幾人もの令嬢や町娘たちと会っては付き合っていると思わせて、デートを重ねていた。
浮気やなんやかんやを想像していたら、少し思っていたのと違った。交際していたり、付き合っていたりしたのかと思えば口付けをしたあとに色々、理由をつけて別れを切り出している。
うまい感じでやりくりしているみたいでトラブルになっていない。今はなっていないだけで、将来必ず最悪な結果を招くだろう。さらに、娘も標的になるのは簡単に想像できる。
女が恨むのは男より女というのは、相場が決まっている。うまいこと言っていたと述べたが、シトリンが聞いた時に婚約者がいることを知っていてハビッロと付き合っているつもりの人もいる。
それらの令嬢には後日慰謝料を求める。当たり前だ、知らなかったや軽く見ていたなどという若気の至りにはさせない。今問題ないのは、娘がまだ情報を得る機会が少なく、馬鹿にする令嬢が出ていないだけ。
続けていればかならずマウントを取る女も出てくるに決まっている。おそらくその時の言い訳は「友人なんだ」だろう。あちらには「婚約者は女に見えない」とかなんとか言っていると報告書にあったので、あながち空想でもない。
男の言葉を鵜呑みにして、娘に別れろ、なんて言う人間だって出てくるだろう。口付けが別れるトリガーになっているみたいだが、ハビッロのやりくりが上手くなっていけば別れずにキープだってするだろう。別れを繰り返すのはリスクが高い。
「毒親っていうのは知りませんけれど、あなたのことは知ってるのよ」
下敷きを彼の目前に突きつける。貴族がやるにはアクロバティックだったみたいで「ヒッ」と逃げ腰になった。
「私ね、あなたと他の令嬢が口説きあって口付けているのを見たの」
「え」
「え」
娘とその婚約者の唖然とした顔や声がシンクロする。人は驚く時ほど同じ反応をするのだ。シトリンも然り。
「盗み見てごめんなさいね?でも、娘の婚約者が他の令嬢に君の唇が〜なんて話していたら、立ち止まって確認するのも当たり前だと思わない?」
淡々と声の幅もなく、冷静に告げるこちらとは違い。彼は婚約者の母親の言葉を頭の中で咀嚼していって、ザザッと青白くさせた。汗だってかきだして。
「そんな!誤解です。気分が悪いという令嬢を介抱していたのです。それを浮気だと言い張るなんて無茶苦茶ですよ夫人」
無意識に早口になるのは子供なだけはある。大人でもなるので、そこはプレイボーイ擬きであろう。しかし、手を緩めるつもりはなく、娘に諦めさせる意味もあるから続けた。
「婚約者は親の決めた人だからって……あなた、何様?」
「え……そんなことを……」
娘の第二弾の声が聞こえた。きっと今は茫然自失だろうが、まだ問い詰めている最中なので手が離せない。
「ですから、それは勘違いだと」
「調査させたのよ、あなたのこと」
「なっ」
今までは誤魔化せると思っていた顔が、調査を聞いた途端にピシッと固まった。
「高位貴族も利用する信用の厚いところにね。おかげでこちらの見る目の無さにがっかりしたけど。夫も落ち込んでたし。ねぇ、ハビッロさん、あなた……これでもまだなにか言い訳するの?なんなら、結果をあなたの歴代の彼女たちに配り歩きましょうか?」
「そ、それはっ、や、やめてくださっ」
土色に変化する。そんなことをしたら外に出た途端に、ナイフでやられるかもしれないからだろう。自分が散々恨まれるようなことをしてきた意識があるらしい。
こういう人間は本能が強く、生き残りたい気持ちが誰よりも高い。隣に娘がいるときにそんな事件があれば、彼は躊躇なくペルメルを盾にするタイプだ。
「あとね、この下敷きにあなたの方にだけ毒を塗ってしまったみたいで……そろそろ効き目が出てくるかもしれないのよねえ」
あたかも、失敗してしまいましたという顔をしてため息を吐く。ハビッロは「ハァ?」と唇を反射的に触り、ピリピリしているだろう感覚に今し方気付く。今まではこちらに意識を向けていて、指摘されて初めて感じ取ったに違いない。
「ど、どうしてっ、こんな、毒なんてっ」
「どうして?おかしなことを言うこと!私を毒と最初に罵ったのは……あなたよ」
顔を近付けて深淵を覗かせるように見つめてやれば、弾かれたように扉に走り出した。
「うっ、うわあああああ!!?」
お化けを見たような叫びを響かせて女二人を置き去りに、一人だけ逃げ出す。無様さに溜飲したシトリン。くるりと娘の方に向き直ると、ペルメルは次は己の番だと言わんばかりに肩を揺らす。
「うう、お母様……本当に毒を?」
気にするところはそこなのかと、苦笑して首を振る。
「ピリッとする調味料を付けただけだから、命に関しては大丈夫。あんなのでも貴族子息だから……これが精一杯」
安心したのかポロポロ泣く。
「ハビッロ様がいろんな子たちにしてたのは本当なの?」
傷つくとわかっていても、しっかり言わねばならない。
「ええ」
「見たの?」
「見たわ。あなたとは無理矢理婚約させられたと言っていた」
「!……あ、う、くっ」
ボロボロになって泣く子供をゆっくり慰め、落ち着くまでそばにいた。時間をかけて家に帰宅し、父親にも頑張ったなと言われて勝手に付き合ってごめんなさいと言った。
「私たちが認めてないから、付き合ってなんかないわ」
「そうだ。付き合ってなんかない」
「でも、婚約していたし」
「私たちが勝手に婚約させたの。あなたにはなんの責任もないのよ」
ハビッロと縁付いたミスはシトリンたち親が責任を取る。夫と目を合わせて、揃って目で会話をし合った。その後、ハビッロがこちらに、毒を盛られたと言うのを真に受けてうちにやってきた義親たちに、さまざまな報告書を叩きつけて婚約解消になった。慰謝料付きの。
こちらが毒を唇につけたという難癖は毒などなかった検査結果により、さらに侮辱の慰謝料を上乗せした。最後までぶちぶち煩かったのだが。
流石にその後すぐに彼と過去付き合っていたり、現在進行形で付き合っていると思い込んでいた女の子たちが次々、実子の息子を連名などで訴えたことにより庇う暇も言葉もなくした、げっそりしていく向こうの夫妻。
改めて息子のことを調べたらしく、毒の件も有耶無耶になったみたいだ。それに、彼はまた屋敷のメイドなどとキスしようとして、目の前で吐いたなんて情報が入ってきた時は効果抜群だったのね、と思わず口元が上がった。
「お母様、この色は?」
「いいわ。それをいくつか買いましょう」
娘にトラウマは無いらしく、一緒にコスメショップでリップを見ていた。下敷きを透明でなく、不透明にしてよかった。微差であるが、汚いものが一生記憶に残るなど悪夢以外の何物でもないから。
娘にお揃いのリップを手ずから渡され、明日は同じ色の唇になるのだろうと、幸せを味わうように吐息を呑み込んだ。
最後まで読んでくださり感謝です⭐︎の評価をしていただければ幸いです。娘は大切なものを失わずに済みました




