「不協和音は雨に消えて」
梅雨は七月に入ってもいっこうに明ける気配がなく、空はいっこうに機嫌を直そうとしなかった。期末試験のただなかにあって、生ぬるい熱気は制服のシャツを背中へじっとりと貼りつかせ、傘を打つ雨だけが、重く垂れこめた夜気のなかで、規則正しい音を刻みつづけていた。
街灯のオレンジ色がにじむバス停に、美紀はひとり立っていた。ぽつ、ぽつ、と控えめに傘布を叩いていた雨は、いつのまにかざあざあと連なる白い帯に変わり、アスファルトの上で細かく跳ね返っては、うっすらとした霧のように足元を這っている。ローファーのなかまで湿気が忍び込んでくるようで、美紀は身をすくめながら、明るい携帯の画面に視線を落としていた。
「うん……そうそう、その範囲だけやっとけば平気だと思う。うん、また明日ね」
携帯を耳に当てたまま、美紀は空いた手で濡れた前髪をかき上げた。友人との他愛ないやり取りだけが、この心細い夜のなかで、たったひとつの温かな灯りのようだった。通話を切ると、包み込んでいた声の余韻はすっと消え、代わりに雨音がいっそう大きく耳の奥まで迫ってきて、あたりの闇をひたひたと満たしていく。
試験勉強で頭も体もくたびれきっていて、早くベッドにもぐり込んでしまいたい、と美紀はぼんやり思った。通りには人影ひとつなく、閉店した商店のシャッターが雨に濡れて黒く沈み、遠くを走る車のヘッドライトが、水たまりの上に赤い尾を引いては、また闇のなかへ消えていく。時計を確かめると、最終のバスは予定の時刻を過ぎてもなかなか来る気配がなく、こんな夜更けにこの停留所へ立っているのは、たぶん自分ひとりきりなのだろうと、美紀は傘の柄を握り直した。
時刻表よりもずいぶん遅れて、雨のカーテンの向こうに、ようやく二つのにじんだ光が浮かんだ。
「あっ、やっと来たァ」
安堵の声が思わず口をついたその瞬間、美紀はふと妙な気配を感じ取って、肩越しにうしろを振り返った。いつからそこにいたのだろう、自分のすぐ背後に、傘も差さずスーツを雨に濡らした中年のサラリーマンが、身じろぎもせずに立っている。ひとりきりのつもりでいたバス停に、いつの間にか増えていたもう一つの黒い影——その気配に、美紀の背筋を冷たいものが撫であげていった。
近づいてくるバスは、しかし穏やかには止まってくれなかった。停留所のずっと手前から、耳をつんざくクラクションが幾度も幾度も夜を切り裂いて鳴り響き、雨のカーテンを激しく震わせながら、車体が乱暴に路肩へと寄せてくる。あまりの剣幕に、美紀は思わず一歩、二歩とあとずさった。
(なに……? 今の、なんなの……)
乗るのをためらう気持ちが、胸のうちでせり上がってくる。それでもこれが最終のバスなのだと思い出したとたん、この土砂降りのなかを一時間も歩いて帰る自分の姿が目に浮かび、足はしぶしぶと乗降口のほうへ向いていった。
プシュウ、と湿った音を立てて扉が開いたその向こうで、運転席の中年の男が、こちらをものすごい形相で睨みつけていた。血走った両目をかっと見開き、眉間には刃物で刻んだような深い皺を寄せたその顔は、乗客を迎え入れる人間のものとは到底思えず、美紀の心臓を、きゅうっと硬く縮み上がらせる。
乗りたくない…と全身が声にならぬ悲鳴をあげていた。それでも他に手立てはなく、美紀は震える指でステップの手すりを握りしめ、身を硬くしながら、じめついた車内へと一歩を踏み入れた。すぐうしろから、あのサラリーマンも、足音ひとつ立てずに続いてくる。
運転手は、美紀が乗り込んだあとになっても、なお首をねじ曲げるようにして、鏡のなかからこちらを睨みつづけていた。
車内はがらんとして、蛍光灯の白い光が、雨に濡れた窓ガラスへ冷たく反射している。乗客は美紀のほかに、真ん中あたりの席で背をまるめた眼鏡の男がひとりいるきりで、そのほかの座席は、ずらりと空いたまま闇のなかに沈んでいた。
扉が閉まると同時に、バスは低い唸りを上げて急発進し、美紀は前へつんのめりながら、慌てて吊り革へと手を伸ばした。空いた座席に腰を落ち着けても、落ち着くどころではまるでない。ふと顔を上げてルームミラーへ目をやると、あの運転手の血走った両目が、鏡越しにまっすぐ、自分の顔をとらえていた。
「ああ……あああ……」
運転手の喉の奥から、意味をなさないうめき声が、切れぎれに漏れてくる。ミラーのなかの広い額には、玉のような汗が幾筋も伝い落ち、蛍光灯の光を受けて、てらてらと不気味に光っていた。ハンドルを握りしめたその手の甲には血管が太く浮き上がり、まとわりつくような異様さは、走行が進むにつれて、少しずつ、しかし確実に、その濃さを増していく。
(もういや、さっきからいったいなんなのよ、あの運転手)
(またこっちを睨んでくるし……)
(最終のバスじゃなかったら、絶対に乗らなかったのに)
いたたまれなくなった美紀が、そっと立ち上がって一つうしろの席へ移ると、それを追うようにミラーの角度がわずかにかしぎ、運転手の視線は、まるで見えない糸で縛りつけられてでもいるかのように、ふたたび美紀の顔を執拗にとらえてきた。どこへ逃げても離れないその視線に、じっとりと嫌な汗が、背中を一筋、伝い落ちていく。
窓の外へ目を逃がしてみても、そこには雨に濡れて歪んだ自分の顔と、そのすぐ背後で光る運転手の両目とが、二重写しになって浮かんでいるばかりで、美紀はいよいよ、どこにも視線の置きどころを失っていった。膝の上で組んだ指先が、いつのまにか氷のように冷たくなり、心臓は肋骨の内側で、逃げ場を求めるように痛いほど暴れている。声をかけて確かめる勇気もなく、かといって笑い飛ばして忘れられるほど、この気配は生ぬるいものでもなかった。ただ息を殺して、この時間が一秒でも早く過ぎ去ってくれることだけを、美紀はひたすらに願っていた。
やがてバスは、次の停留所へと差しかかった。傘を差した人影が二つ、街灯のにじむ光の下で、バスの到着をじっと待っている。ところが車体は速度を緩めるどころか、その脇をざあっと大きな水しぶきを上げながら、平然と素通りしてしまった。
「えっ、なんであのバス、止まらないの……?」
濡れた窓越しに、取り残された人影がぽかんと口を開ける様子が、みるみるうしろへ流れて、雨の闇のなかへ吸い込まれて消えていく。その光景を目にした瞬間、美紀の胸のなかでこれまで漠然としていた不安が、はっきりとした恐怖の輪郭を、ようやく結びはじめた。
(このバス……本気で、ヤバいのかもしれない)
乗客を乗せるはずの停留所を素通りしたということは、このバスはもう、路線図の上を走ってなどいないのかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎって、美紀は自分の腕を、思わずぎゅっと抱きしめた。窓ガラスの外を流れていく街並みも、いつのまにか見覚えのないものに変わりはじめていて、どこをどう走っているのか、まるで見当がつかなくなっている。
雨はいよいよ勢いを増し、フロントガラスを叩く音が、車内じゅうに絶え間なく響きわたっていた。屋根を叩き、窓を叩き、路面ではじけては流れていくその無数の水の音が、幾重にも折り重なって、まるで巨大な生きものが低く唸っているかのように、狭い車内を隅々まで満たしていく。ワイパーが必死に左右へ水を払っても、視界はすぐにまた白く塗り潰されてしまい、そのわずかな隙間を縫うようにして、バスはスピードを緩めることなく夜の道を突き進んでいく。
「早く……」
運転手の口から、独り言のようにかすれた声が漏れた。
「早く、おりたいなァ……」
その言葉が何を意味しているのか測りかねて、美紀はごくりと生唾を飲み込んだ。冷たい汗がこめかみを伝い落ち、握りしめた鞄の持ち手が、手のひらの汗でじっとりと湿っていく。少し離れた席の眼鏡の男もまた、背をまるめたまま、身じろぎもせずに前方の一点を見つめているようだった。二人分の沈黙と、運転手の吐き出す異様な気配とが、この狭い車内でねっとりと絡み合いながら、息が詰まるほどに濃度を上げていく。
(……あの時、素直に送ってもらっていたら)
追い詰められた心が、たまらず、ほんの数時間前の穏やかな光景へと逃げ込んでいった。
それは、親友のめぐみの家で試験勉強をしていたときのことだった。
開いた参考書とルーズリーフが散らばる机の向こうで、壁にかかった時計の針が、ちょうど夜の十時を回ろうとしていた。台所からひょいと顔をのぞかせためぐみのお母さんが、いくらか心配そうな声で、美紀に呼びかけてくれる。
「美紀ちゃん、そろそろ最終のバスの時間になるけど……よかったら、おばさんが車で送っていきましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。そんな、悪いですから」
美紀は反射的に、小さく首を横に振っていた。変に世話になってしまって、次からこの家へ遊びに来づらくなるのも気が引ける、という遠慮のほうが、先に立ってしまう。
「美紀ー、もう遅いんだし、送ってもらいなよォ」
めぐみが眠たそうな声で口を尖らせても、美紀は困ったように笑って、バッグを肩にかけただけだった。
「平気だって。バスで帰るから。……じゃあね、また明日ね」
あのなにげない一言が、これほどまでに重く、取り返しのつかないものになろうとは、そのときの美紀には、知る由もなかったのだ。
回想のなかのやわらかな灯りから引き戻されると、車体を叩く雨音と、運転手のうめき声だけが、いっそう生々しく耳へと戻ってきた。
(どうして、あんな遠慮なんてしたんだろう)
後悔ばかりが、胸のなかでどす黒く膨らんでいく。あのとき、申し出に素直にうなずいてさえいれば、今ごろは暖かい車のなかで、たわいもない話をしながら、とっくに家へ着いていたはずなのに。
ほんの一言、遠慮を口にしたばかりに、自分はどうしてこんな暗い雨のなかで、得体の知れない男とふたりきりで閉じ込められているのだろう。考えれば考えるほど、喉の奥が締めつけられるように苦しくなっていく。
それでも美紀は、窓の外を流れていく暗い街並みに必死で目を凝らし、見慣れた自分の町の景色が近づいてくるのを、ほとんど祈るような思いで、待ちわびていた。
(早く、早く……早く着かないかな)
声にならない言葉を心のなかで幾度も繰り返しながら、美紀はただひたすらに、自分の降りる停留所の名が告げられる、その瞬間だけを待ちつづけた。
やがて、車内アナウンスが、なんの感情もこもらない平坦な声で流れた。
「次は、保健医療センター前……保健医療センター前です。ただ今の時刻は、二十二時五十七分」
「……ついた!!」
救われたような思いで、美紀は降車ボタンへと手を伸ばし、すぐに押した。橙色のランプが灯り、バスはようやく速度を落として……停車した。鞄を胸に抱えて立ち上がり、逃げるように乗降口のほうへと一歩を踏み出した、まさにそのとき——
運転席から音もなく伸びてきた太い腕が、美紀の手首を、がっしりと掴み止めた。
「!?」
驚いて振り返った美紀の目の前で、運転手はぐるりと首をこちらへ回し、汗みずくになった顔を、ぬうっと突き出してきた。
「定期……券……見……せろ……」
絞り出すような、途切れ途切れの声だった。何がなんだかわからぬまま、美紀は震える手で定期券を取り出し、おそるおそる差し出してみせる。すると運転手は、充血しきった両目をかっと見開いて、その小さな券面を穴のあくほど睨めつけた。
「偽造っ……だな……」
「これは……」
「そ……そんな、私、そんなことしていません!」
喉の奥から、悲鳴じみた声がほとばしり出た。
「ちゃんと、駅の定期売り場で買ったんです!!」
「ダメ……だ……」
運転手は、汗を滴らせながら首を横に振る。
「とに……かく……いっ……しょに……来て……もらう……」
「なんで行かなきゃいけないのよォ!」
美紀の必死の抗議など、まるで耳に入っていないかのように、運転手はいっそう血相を変え、シートから大きく身を乗り出してきた。
「ダメだ、何がなんでも来てもらうぞ……おおおおおおおおーーーーーっ!!!」
汗のしぶきを撒き散らしながらあげたその絶叫とともに、丸太のように太い両手が、美紀の細い腕へと掴みかかってくる。
「いやぁっ!」
「はなしてください、はなして!!」
美紀は渾身の力で身をよじり、掴まれた腕を必死に振りほどこうともがいた。
揉み合う二人のすぐうしろでは、いつの間にか例のサラリーマンが、同じ乗降口から降りようとして立っていた。運転手は、掴みかかったまま、そちらへ向かって声を張り上げる。
「さっさとどけっ!」
「他のお客さんの迷惑だっ!」
入口を塞ぐ格好になっていた美紀を片手でぐいと押しのけながら、運転手はサラリーマンに、先に降りるようせわしなく促した。男は無言のまま、ゆっくりとステップを踏んで、雨の車庫のほうへと降りていく。その背中を目で追いかけながら、美紀はほんの一瞬だけ、男の横顔をとらえた。どこにでもいそうな、ごくありふれた顔立ちの中年男。取り立てて特徴もなく、すれ違ってもすぐに忘れてしまうような、あまりにも平凡な顔だった。
ふと車内を見れば、あの眼鏡の男だけは降りようともせず、席に座ったまま、じっとこちらの様子をうかがっていた。
扉が閉まり、バスはふたたび走りだす。掴まれた手首はじんじんと痺れ、振りほどこうともがくほどに、運転手の指はいっそう強く食い込んでくる。窓の外はもう完全な闇で、雨のしぶきだけが、ヘッドライトの光を浴びて白く飛び散っていた。ひとり運転手に捕らわれたまま、美紀の頭のなかを、答えの出ない問いだけが、ぐるぐると際限なく駆けめぐっていた。
(なんで? どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの?)
(私を、いったいどうしようっていうの?)
(この運転手は、いったいなんなのよ……!)
どれほど走ったのか、やがてバスは、雨に煙るバス会社の車庫へと静かに滑り込み、深い闇のなかで停まった。屋根を打ちつける雨の音が、この閉ざされた空間ではいっそう激しく、途切れることなく叩きつけて、耳のなかを埋め尽くしていく。
エンジンが切られ、車体の唸りがやむと、運転手はゆっくりと、美紀のほうへ向き直った。さきほどまでの鬼のような形相が嘘のように消え失せ、その顔には疲れきった、それでいてどこか穏やかな色が、静かに浮かんでいた。
「……もう、安心していいからね」
優しく告げられたそのひとことが、かえって美紀の混乱を、底なしに深くしていく。
連れていかれたのは、営業所の一室らしかった。壁の一面にずらりと据えられたモニターには、いくつものバスの車内の様子が映し出され、点滅する小さなランプが規則正しく並んでいる。防犯カメラの、管理室のようだった。
「うちの会社ではね、全車に防犯カメラが装備されているんだよ」
声のしたほうを振り向くと、車内で背をまるめていたはずの、あの眼鏡の男が立っていた。ただの乗客だとばかり思っていたが、どうやらこの会社の人間で、私服のまま車内を見張っていたらしい。
「先程は、ずいぶんと怖がらせて、本当にすまなかったね」
眼鏡の男は、痛ましそうに言った。
「けど……ああするより他に、仕方がなかったんだ」
「……どういうことですか?」
男は答える代わりに、正面のモニターのひとつを、そっと指し示した。そこには、さきほどまで美紀が座っていた座席と、そのちょうど真後ろの席とが、鮮明に映し出されている。
映像のなかで、美紀の背後の席に腰かけていた、あの——ありふれた顔をしたサラリーマンが、ふところから、ぬらりと光る刃物を取り出していた。ナイフを片手に握りしめ、両目を毒々しいほど真っ赤に充血させ、両目を、眼球が今にも眼窩から飛び出さんばかりに大きく見開き、だらりと長い舌を口の端から垂らしながら、美紀の後頭部を——ねっとりと、舐めまわすように見つめている。
その顔は、もはや人間のものではなかった。悦びとも狂気ともつかぬ笑みに口の端が耳のあたりまで裂け、透明な涎を糸のように細く引きながら、獲物を目の前にした獣のように喉の奥をごろごろと鳴らしている、そんな凄惨な表情が、モニターのなかで、ぴたりと凍りついていた。頬は上気して赤らみ、こめかみには喜悦の汗が浮かび、白目までもが血の色ににじんで、瞳の奥では、狩りの快楽だけがぎらぎらと生々しく濡れ光っている。
美紀は、息をのんだまま、指の一本すら動かすことができなかった。
「あの男はね、ずっと、君のことを狙っていたらしい」
眼鏡の男の声が、どこか遠いところから聞こえてくる。
「バスジャックみたいな物騒な事件が続いてね。だからこうして車内を見張っていて、あの男が君の後ろに座った時点で気づいたんだ。あの暗い停留所で降ろしていたら、あいつはそのまま君を……」
けれどモニターに釘づけになった美紀の耳には、もはやその声すらも、半分ほどしか届いてはいなかった。画面のなかの、あまりにも凄惨なその顔にすっかり心を奪われて、自分自身の背後で、たった今、何が起きつつあるのかということに、まるで気づいていなかったのだ。
背後で、くぐもった呻きと、何かが床に崩れ落ちる湿った音がした。けれどモニターに吸い寄せられた美紀の意識は、それを拾い上げることさえしなかった。
あの運転手の鬼のような形相も、素通りしていった停留所も、定期券をめぐるちぐはぐな問答も、いま思えばすべては、この会社の管理室という安全な場所まで、少女を無事に運びきるためのものだったのだ。
ことばで説明すれば、あの男に気取られてしまう。だからあの運転手は、あえて恐ろしい顔をつくり、あえて怪しく振る舞い、少女を暗い夜道へ降ろすまいと、必死に時間を稼いでいたのにちがいなかった。けれど、その真意に美紀が気づいたときには、もう何もかもが遅すぎた。
美紀は、はっとして声のしたほうを振り返った。だが、そこにはもう、誰も立ってなどいなかった。
管理室の隅——冷たい床の上に、さっきまで穏やかに話しかけてくれていた、あの眼鏡の男が、ぐったりと倒れ伏していた。ワイシャツの胸を赤黒く染め、力なく投げ出された手の先から、赤い筋が、じわじわと音もなく広がっていく。その少し向こうには、制服姿の運転手もまた、身じろぎひとつせず横たわっていた。
では、たったいままで美紀に語りかけていた、あの声は——。
美紀のすぐ背後に、ずぶ濡れの人影が、いつからか音もなく立っていた。
画面に映し出されていた、あの姿そのままで——ナイフを頭上高く振りかざした男が、そこにいた。耳まで裂けた口の端からは、涎とも雨ともつかぬ雫が、ぽたり、ぽたりと床へ滴っている。雨に濡れそぼった前髪の隙間からのぞくその双眸は、逃した獲物をふたたび追いつめた歓喜に、ぎらぎらと濡れ光り、耳まで裂けた口の端からは、涎とも雨の雫ともつかぬものが、ぽたり、ぽたりと…静かに床へ滴り落ちていた。
ただ快楽のためだけに人を狩るその男は、取り逃した獲物と、それを阻んだ運転手とを追って、この雨けぶる車庫の奥深くまで、どこまでも執拗に、ついてきていたのだった。
*
——雨の降りしきる夜のバス停に、ひとりの少女が立っている。
携帯の明るい画面へ落とした視線は、その四角い光にじっと吸い寄せられたまま動こうとせず、傘の縁からしたたる雫にも、足元にじわりと広がっていく水たまりにも、少女はまるで気づいていない。すぐそばで何が起きているのか、何が静かに近づいてきているのか、明るい光の外側で渦を巻いているものごとなど、少女の意識には、かけらすら上ってこないのだった。
そのすぐ隣に、いつからか、あの眼鏡の男が、ぴたりと並んで立っていた。
街灯のにじむ光の下でその輪郭をあらためて見れば、それはもう、先刻まで、あんなにも穏やかに詫びてみせた男の顔ではなかった。顔の半分は溶け崩れたようにどろりと爛れ、もう半分は黒く濡れた血にてらてらと光り、歪んだ眼鏡の奥では、二つの眼球が、それぞれ別々の方向へぐるりと向いている。人の形をかろうじて保った、なにか別のものが、雨のなかで、じっと少女のほうを見下ろしていた。
その手には、ナイフが一本、街灯の光を受けて鈍く光っていた。
少女は、それにも…まるで気づかない。
携帯の白い光に下から照らされたその横顔は、うっすらと——微笑んでいた。
「不協和音は雨に消えて」 了
今回、初めて小説でホラー作品に挑戦しましたが、「文字だけで恐怖を表現すること」の難しさを改めて実感しました ε-(;-ω-`A)
映像作品であれば、画で見せたり、登場人物にセリフを言わせたり、効果音を使ったりすることで、一つの場面を直感的に伝えることができます。
しかし小説では、読者の想像力に訴えながら、言葉だけで情景や恐怖感を描き出さなければなりません。その難しさを知ると同時に、とても良い学びになりました。
今回の経験を、これからの作品制作にも活かしていきたいと思います ビシッ(*`・ω・)ゞ敬礼




