雪のあとに残る記憶―彼女に触れてしまった夜
舞香は、誰からも愛されていた。
それは疑いようのない事実だった。人は自然と彼女の周りに集まり、笑い、安心し、そして彼女を特別な存在として扱った。
だが、いつからか舞香は人を傷つけるようになっていった。
理由は分からない。ただ確かに、舞香の言葉や態度は少しずつ鋭さを帯びていき、気づけば人は離れていった。残ったのは、それでもなお舞香を愛し、理解しているわずかな者たちだけだった。
なぜそこにいたのかは覚えていない。
気づけば、暗い部屋にいた。舞香と、残された者たちと、そして俺。誰一人として口を開かず、重たい空気だけがそこにあった。
舞香は隣にいるやつに何かを話しかけていた。声は聞こえない。ただ、その距離の近さと視線の動きから、彼女はキスをしたかったのだと分かった。
だが、隣のやつは何も言えず、ただ俯いていた。
沈黙。
そのあと、舞香はゆっくりと俺のほうへ歩いてきた。
目の前で止まる。距離が近い。息がかかるほどに。
舞香は、いわゆる高嶺の花だった。こんなことを本気でしてくるはずがない。そう思っていたから、顔が近づいてきても俺は避けなかった。
そして、そのまま唇が重なった。
数秒だったはずなのに、やけに長く感じた。驚きと、ほんの少しの喜び。だから拒まなかった。
けれど、触れているその最中に気づいた。
――ああ、誰でもよかったんだ。
その感覚は、冷たく、はっきりとしていた。
唇が離れる。
その瞬間、周りのやつらがゆっくりと舞香に近づき始めた。
最初から近くにいた者は、すでに彼女に触れている。頭を擦りつけるようにして、何かに縋るように。
その動きは異様だった、ただの欲望だけじゃない。
誰もが、彼女のことを理解していた。
彼女がどれだけ歪んでしまったのか、どれだけ苦しんでいたのかを。
触れたいという衝動と、壊したくないという想いが、同時に存在していた。
そのどちらも本物で、どちらも消せないまま、全員がゆっくりと彼女に引き寄せられていく。
止まれない。
止めなければいけないと分かっているのに、誰も止まれない。
俺も同じだった。
自分の中にも同じ衝動があると分かっていた。
それでも、目の前の光景がこのまま進めば取り返しがつかないことも理解していた。
葛藤のあと、俺は一歩踏み出した。
「……食い止める。だから、逃げろ」
声は思ったよりも小さかった。
舞香は何も言わず、ゆっくりとその場を離れた。
場面が変わる。
舞香は、窓の前に立っていた。
誰も動かなかった、動けなかった。
全員が分かっていた、このあと何が起きるのかを。
舞香がどこまで追い詰められていたのかも、どうしてここまで壊れてしまったのかも、ここにいる誰もが知っていた。
だからこそ引き止めることが出来なかった。
引き止めてしまえば、この苦しみを、また舞香に背負わせることになる気がした。
終わらせることを、奪うことになる気がした。
そんな考えが、誰の中にもあった。
舞香は窓を開け、ゆっくりと身を乗り出し、そして叫んだ。
「――あの時から、全部間違ってたんだ! だって、辛かったんだもん!」
その言葉は、やけにまっすぐで、子どもみたいだった。
気づけば、涙が溢れていた。
「……今まで、生きててくれてありがとう」
声は震えていた。
視界が、ふっと切り替わる。
窓の外の景色。その中に、舞香の過去が重なっていく。季節が巡り、日常が流れていく。笑っている姿、何気ない時間、まだ何も壊れていなかった頃。
最後に残ったのは、雪だった。
静かに降り続く雪の中、そこにはもう誰もいなかった。




