虹が架かった日
今日は11月3日。
樹くんの20歳の誕生日。
私たち三回目のデート。
私は三神さんおすすめの絶景スポットに樹くんを案内している。
とはいっても、車を運転しているのは樹くん。
前回も樹くんが車を出してくれたから、今日は私が出すと言ったけど。
樹くんは運転が好きだから、自分の車じゃないと馴染まなくてって、頑なに譲らなくて。
でもね、結局のところ樹くんに運転してもらってよかった。
今、私たちがいるのは、夕凪島にある八十八カ所の霊場の一つ西龍寺。
瀬田町を見守るように聳える麻霧山の山頂近くにあるお寺。
ここまでくる道が、想像以上の急勾配とヘアピンカーブの様な切り返しを何度も行なって辿り着く感じだったから。
灯篭に挟まれた長い長い階段を上りきると、山門の楓が真っ赤な顔で出迎えてくれた。
境内自体は僅かな平な空間に所狭しと灯篭や銅像、母屋や鐘撞堂がぎゅうっと詰まって、山城の曲輪のような造り。
とても静謐で厳かな空気感が一帯を包んでいるような気がした。
西龍寺の本堂は、一番奥の大きなクスノキの手前、岩壁をくりぬいたようにはめ込まれていた。
中は外より一段空気がヒヤリとしている。
仏様のような柔和な微笑みを湛えた住職が、寺の由来を冗談交じりに面白おかしく話をしてくれた。
なんか、柔らかくてあったかい声を耳にしているだけで。
こころがふわりとして和んで。
ほんわり心地いい。
その余韻のまま、私たちは住職に導かれて、そこから奥に伸びていている洞窟を進む。
突き当りには「龍水」という水が湧いていて、右に逸れた洞窟を少し進むと外に出た。
光線の明るさに思わず手をかざす。
「あの護摩堂からの眺め、是非見ていって、ゆっくりしてください」
住職が手で指し示した先。
正面の通路の階段の上。
境内の一番高い場所にある護摩堂が見えた。
そこからの眺めが最高だよって、三神さんが教えてくれていた。
実際、小説『島へ……』の中でも写真は公開されていて、まるごと瀬戸内海を見ているようなものだった。
実際目にした光景は――
「わー」
と自然に声が漏れるほど。
雲が多い空の下。
はるか遠く四国の山々や眼下に広がる瀬戸内海の大パノラマだった。
樹くんも初めて見るみたいで、
「すごい、すごい」
って興奮している。
雲間から差し込む陽射しを受けたからなのか、こころの内を現しているのか。
キラキラした瞳でやわらかく微笑む樹くん。
その横顔を見ながら、私は息を吸う。
デニムジャケットの胸元を掴むと、脈打つ鼓動が指先に伝わって、息が詰まりそうになって。
もう一度深く息を吸う。
ざわざわ。
木々が騒いで、髪が唇に残る。
頬にひやりとしたひとしずく。
雨――
ふんわりとした雲が上空に広がっていた。
喉まで出かかってるのに、好きって言葉を伝えるのって――
頑張れ私。
目を閉じて、握った拳でトントンと胸を叩く。
ゆっくり瞼を開く。
「樹くん、話し聞いてくれるかな?」
「ええ、何でもいいですよ」
手すりにつかまりながら、樹くんは私に顔を向けた。
すぐに表情が強張る。
余程、緊張してたんだろうね私。
だって、初めての告白だから。
手に伝わる鼓動を飲み込んで。
パラパラッ、パラ、パラ。
雨を受け止める葉音が私たちを包む。
「あのね、私と……付き合って欲しい。樹くんのこと好きだから」
樹くんは、まるで漫画みたいに、ポカーンと口を開けたまま微動だにしない。
その様子が、ちょっぴり間抜けに見えちゃって。
お陰で笑いが込み上げて。
私のこころは和らいだ。
なんか、おかしくて、もう少し見ていたい気もしたけど。
怖いけど――
答えが聞きたくて。
ちょんちょんと樹くんの肩を叩く。
ハッとして、鼻の下をこする。
「えーと……」
胸に手を当てながら。
目が泳いじゃって。
頬が染まって。
かわいらしかった。
私もきっと同じなんだけど。
ほっぺに触れていく風がさっきより冷たいから。
一瞬、樹くんの瞳に雲がかかる。
「今すぐ、返事しなくてもいいから」
でもね――
ダメかなって思って、逃げ道を作ったつもり。
樹くんの瞳が揺れて、視線は逸れたまま。
さわさわ。
パラパラパラ――
木が揺れて、樹くんの前髪が流れる。
雨粒が一つ。
その頬に。
「……僕でいいんですか? 梨花さん?」
今度は私がハッとした。
きゅっと唇を嚙んだ。
そうだよね。
樹くんは、私が兄のシンくんを想い続けていた事を知っている。
自分に兄を重ねているんじゃないかって思うのは当然のこと。
でも、私は樹くんが好きだし。
こうやって聞く樹くんもまた、自惚れじゃなくて私に好意を持ってくれている――
そう思えた。
「うん、私は他の誰でもない、樹くんが好き」
目を逸らさず、樹くんの揺れる瞳を見つめた。
すると、その目尻がスッと下がる
「ありがとう。ただ……」
樹くんは視線を遠く宙に向けた。
雲の白さが映える青い空に。
なんだろう。
そう、時々見える樹くんの心の間。
欄干を握った手に力が入ってるのは傍目にも分かる。
パラ、パラ。
その甲に雫がひとつ。
落ちる。
ふっと息を吐き、樹くんは片手をまた胸に添えていた。
「梨花さん、僕が病気だったのは知ってるでしょ?」
――頭の中に、シンくんが書いた絵馬の映像が瞬時に浮かぶ。
それをきっかけに樹くんが看護師を目指したという話も。
「……ああ、うん」
「僕、小さい頃から心臓が悪くて……8年前、12歳の時に心臓の移植手術を受けてるんです」
大きな吐息を吐く樹くん。
口にする勇気を振り絞っている感じ。
そんな大病だとは思っていなくて。
どうしてか、あの日の元気のなかったシンくんの面影が重なってきてしまう。
「……そう……だったんだ」
「はい。お陰様で経過は良好で、今は年に一回検診を受けに行ってるくらいで」
やわらい言い方だけど、言葉の端々に震えが残る。
「うん」
樹くんは私の方に向き直る。
えくぼを浮かべながら、潤んだ眼差しを向けた。
「お付き合いする女性には伝えなきゃと思ったんです。僕も梨花さんが好きです、その、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる樹くん。
好きです。
その言葉がこころに届いて、体の隅々に伝わっていく。
私の中に味わったことのない初めての感情が静かに確かに息づいている。
淡い光のような、小さなともし火のような。
嬉しくて、優しくて、あったかい。
そして――
大事な病気のことを話してくれた。
私と分かち合いたい、私を好きだから、きっとそうだよね。
きっとこのことだったのかも。
あの寂しそうな表情をしていたのって。
瞳が同じだったから。
「こちらこそ」
私も頭を下げる。
サラサラ。
背後の山の枝葉が優しく歌う。
好きな人から言われた、好きって言葉が、とてもとても嬉しくて。
全身に行き渡ったぬくもりが、こころの一点に集まってきて。
目尻に浮かんできた想いが零れそうになった。
手の甲に滲ませて顔を上げたらちょうど目があって、私も樹くんも笑っちゃったら、ホッとして力が抜けちゃった。
「……だからなんだね、そのクセ」
私は、樹くんの胸に添えられた右手を指さした。
無意識に心臓を守ろうとしているのかなって思えて。
「え? ああ、これ」
苦笑いしながら首を捻る樹くんは、自分の手のひらを見つめふっと笑う。
私はその手を取って繋いでみた。
樹くんは、ぴくっと少し体を仰け反らす。
初めて握った樹んの手の感触は、思っちゃいけないけど――
シンくんのと同じ、大きくて温かいものだった。
ギュッと力が込められて、痛いけど想いの強さの証明と心地良さを私にもたらして。
「梨花さん、ありがとう」
語尾が優しく跳ねる。
今までで一番、全部が嬉しいみたいな、目元が緩んで、もうこれ以上嬉しいことはないみたいな瞳。
きゅうって、またあたたくなる私の体。
「あ、そうだ。ちょっとごめんね」
私は繋いだ手をそっと離して、トートバッグの中から樹くんの誕生日プレゼント取り出す。
「樹くん、お誕生日おめでとう」
「え?」
私が差し出した両手の上のマフラーをじっと見つめている。
「これって、梨花さん作ったの?」
「うん。初めてにしては上手に出来たと思うんだけど」
今日のために毎日少しずつ頑張ったんだよ。
樹くんのことを想って、私の想いも編み込んだんつもり。
ライトグレーの細めのマフラー。
縁には、オリーブグリーン。
夕凪島の特産品オリーブと樹くんの名前をイメージした色。
端にはさりげなく?
堂々と樹くんのイニシャルも刺繍した。
「めっちゃ、うれしい。ありがとう梨花さん」
両手で受け取った樹くんは、首にさらりと巻いた。
ちょっと、首元を直してあげる。
樹くんは私の手元を嬉しそうに見つめている。
「うん、すっごく似合う。樹くんマフラーしてなかったでしょ? だからどうかなって」
マフラーをギュッと握りしめる樹くん。
「大事に使います。もうずっと冬がいい」
冗談とも本気とも取れる口ぶり。
「え? 寒いのばっかりやだよ」
樹くんは、ふっと白い歯を見せると、自然な動作でスッと私を包み込むように優しく抱きしめてきた。
ビクッとしたけど。
その温もりの中にいるのが心地よくて。
少し早い樹くんの鼓動さえ安心する。
樹くんの匂いがして。
私の居場所って心から思えた。
「梨花さん、ありがとう。大好きです。これからもよろしく……」
涙まじりの声。
あの日以来の――
「大好きだよ、樹くん。大好きだよ」
嬉しくて、私も想いがまた零れた。
好きな人に抱きしめられるのって、ドキドキするけど、こんなに安らぐんだって。
初めてのことだったから。
「あっ……虹……」
私の声に抱擁を解いた樹くん。
「初めて、見ました」
ふわふわの雲が連れて来た雨は止んでいて。
目の前に小さな七色の架け橋が浮かび上がっていた。
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