記憶の彼方への招待
鍵盤が弾かれては色とりどりの音色が流れている。
土庄港のフェリーの待合ターミナルに常設されているピアノ。
通りすがりの誰でも弾けるピアノ。
各々が思い思いの曲を調べ、ちょっとしたコンサートのよう。
曲が終わる度、温かな拍手に包まれる空間は、一期一会の縁の凝縮の場にさえ思える。
順番待ちをしていた、一人の女性がピアノに弾むように近づいた。
長い髪をアップにした、かわいらしい女性。
頬が少し赤く染まって、高校生くらいかな。
スマホで録画するのか、三脚をセットしている。
肩で息を整えて指が音を奏で始める。
「ああ」
知ってる曲。
前奏や旋律の中にトルコ行進曲が入っている、TM NETWORKの「HumanSystem」。
もともと旋律がきれいな曲。
体を揺らせて紡がれる音色が清らかに響く。
いつの間にか自分も音楽に合わせて首を揺すっていた。
覚えている歌詞を頭の中で口ずさむ。
音楽がもつ切なさなのか。
弾いている女の子の演奏のせいなのか。
しなやかな雰囲気に包まれていって――
曲が終わる。
手を叩く私を皮切りに、ささやかな拍手が送られる。
小さくお辞儀をして、また肩で大きく息をした女の子。
ポロン。
鍵盤が弾かれ旋律が流れる。
「あっ」
また、耳に馴染んだ曲だった。
中島美嘉さんの『Dear』
指先が滑らかに鍵盤の上を踊る。
曲ごとに感情が入っていて、全身で奏でているよう。
ペダルを踏む足先や指先に、想いを乗せているかのように。
高音は澄み渡り、低音は力強く混ざり支えている。
この曲はちょっと特別。
夕凪島の風景を綴った歌詞が入っているから。
そして、初めてシンくんのお誕生日を祝い。
命日を弔って、お酒を飲んだ日。
その時のお店でかかっていた曲。
きっと。
あの素適なママが何となくかけてくれたのかなって。
不思議な縁ってあるんだって。
今は思えるようになってるから。
――ポロン。
最後の一音を震わせた指先が空中で止まる。
聞いていた中で一番の拍手が巻き起こった。
立ち上がり四方に頭を下げる笑顔の女の子。
スマホをリュックに仕舞いながら、一人の女性の傍に駆け寄っていった。
同じような音色を昔、どこかで耳にしたような気がした。
どこだったんだろ?
ピーンポン。
「まもなく新岡山港行きの……」
アナウンスが流れる。
室内の時計に目をやって、私は建物の外に出た。
ここで、さっきの音楽を聞けたのも縁だから。
ごま油の香が、花や草の匂い引き連れて漂う土庄港。
夕凪島の代表的な玄関口。
高松や岡山、近くの島々を繋ぐフェリーが多数発着している。
街路樹の木陰のベンチに腰掛ける。
バッグの中から万年筆とノートを取り出した。
音楽の中に、記憶が宿るのはどうしてなのだろう。
その時に聞いていなくても――
旋律なのか。
歌詞なのか。
歌声なのか。
その曲自体なのか。
音の中に宿るもの。
共感や共鳴しているのかも。
私自身の中の記憶と。
万年筆を顎に当てながら視線を上げる。
近くの山の南側の斜面には、萌黄色の中に気の早い桜色が、挿し色として点在している。
春霞に誘われたモンシロチョウが、ふんわりと上下しながら飛んでいる。
すらすらと、文字を走らす。
風さそう、ごまの香に、白き舞、のどけき弥生の……
のどけき春のがいいかな?
ピンポーン。
「まもなく、高松行きのフェリーが……」
でも、後が思い浮かばなくてページをめくる。
そこには、樹くんがプレゼントしてくれた万年筆で描いた絵がある。
私の想いを、願いを象ったもの。
ううん、形になるデザイン画がある。
そっと指をなぞらせて、ノートを閉じた。
ブルルル。
フェリーのエンジンの低音が主役に躍り出てきて。
ゆっくりと正面の岸壁に接岸していく。
乗り込む人たちが列をなして、車たちも同じように待っている。
慌ただしく、でも手際よく船員や関係者が下船の準備をしている。
やがてフェリーの口が開いて、車や人が吐き出されて。
私はその姿を見つけて立ち上がる。
気がついた樹くんは、左右を見ながら小走りで駆け寄ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
今日は樹くんの専門学校の卒業式だった。
「あれ、おじさんやおばさんは?」
「ああ、なんか高松で買い物して帰るって、向こうで別れました」
「そうだったんだ」
肩をすくめる私。
きっと気を遣ってくれたのかな。
なんて思ってしまう。
「よいしょ」
樹くんは私が座っていたベンチに腰掛ける。
そっと隣に私も座る。
肩と肩が触れ合う距離で。
「父さんも母さんも、梨花さんのこと好きなんですよ。本当は一緒にいたいくせに気を遣う」
「やっぱり。私も好きだから全然いいのに、じゃあさ、今度の休みにご飯食べに行こうよ」
「いいかも。たぶん僕が言っても遠慮するから。そうしたら、梨花さんから誘ってくれる?」
「うん、いいよ」
樹くんは私の手を握る。
そのぬくもり。
何度もつないでいるけど、慣れることはなくて。
くしゅってなって。
安心する。
私の居場所だって。
「ありがとう。二人とも喜ぶと思う」
「ぜんぜん」
樹くんのご両親とは何回か会っている。
初めてお会いしたのは去年のシンくんの命日の時。
樹くんとお墓参りをしていたら、ご両親と偶然お会いした。
――「彼女の倉科梨花さんです」って紹介してくれて。
嬉しくて、くすぐったくなった。
お父さんは樹くんより少し背が高くて。
シュッとして姿勢が良くて。
キッチリ分けられた白髪が交じりの頭を掻きながら、
「倅がお世話になってます」
わざわざ、お辞儀をしてくれた。
お母さんは、私より背が少し低くて。
私がいうのも失礼だけど、かわいい方だった。
目がクリッとしてて、微笑むと片頬にえくぼが浮かんだ。
ああ、シンくんはお母さん似。
樹くんはお父さんとお母さん、半分半分。
そう思った。
「梨花さん、良かったら今度うちに遊びに来てくださいね」
慎ましやかに頭を下げて笑っていた。
それから、お母さんが連絡をくれるようになって。
メッセージの遣り取りをしている。
樹くんの好きなものとか、学生時代の話を教えてくれたり。
でも――
昔の話はあまりしたくないようで、私も踏み込んで聞くことはしなかった。
お母さんと電話で話している時、
「樹とは、どこで知り合ったの?」
この質問には、どう答えるか迷った。
「えーと、近所の潮風公園で偶然お会いしたのがきっかけで……」
手のひらにあせがにじんで、上ずる声。
嘘ついたから。
でも、正直に話しても――
傷つけてしまいそうで。
お母さんも。
お父さんも。
だから自分が嘘つくことを咄嗟に選んでいた。
あとで、樹くんにこのことを話したら。
「梨花さんのやさしさ。わかってるよ。ありがとう。それでいいと思う。僕もそう言うから」
優しく、優しく、髪を撫でながら抱きしめてくれた――
地面の上にまかれた、まだらな光の粒達が踊って、髪が頬をくすぐる。
止まっていた車たちが、フェリーに飲み込まれていく。
ピンポーン。
「まもなく、高松行フェリーの出港の……」
樹くんが乗ってきたフェリーは折り返して高松に向かう。
人や車で満腹の状態。
どこか嬉しそうで。
誇らしげにも見える。
「そうだ。卒業、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
鼻の下をちょんとこする樹くん。
「学生最後の春休みは、ゆっくりできるの?」
「はい。ただ、少しでも早く仕事に慣れたいから、職場でバイトしますけど」
「相変わらずの、頑張り屋さん」
押し競まんじゅうみたいに体をグッと押し付ける。
やさしく、やり返してくる樹くん。
樹くんの職場は瀬田町にある夕凪島中央病院。
町内だから通勤は楽そう。
仕事は大変そうだけど。
「でも、一緒に過ごす日も作ってくれてるんだよね?」
「あっ、どうだったかな、バイト入れちゃったかも」
樹くんは胸に手を添えて、気まずそうに首を傾げる。
「そっか。仕方ないか」
しゅんとしぼむ私の勝手な期待。
「梨花さんが休みの日は、休みにしてますよ」
耳元で囁く樹くん。
「もう」
私が膨れると、ほっぺをつんと、つつかれる。
そんなことも嬉しくて、楽しくて。
期待は勝手に息を吹き返して緩む口元。
「ありがとね。あっ、でも、樹くんがしたいこと、今しか出来ないこともしときなよ。社会人先輩からの助言」
お姉さんぶってみる。
でも、そうだから。
その時にしか感じれないことって、あるから。
「なるほど」
顎に手を添えて口を尖らせている樹くん。
かさかさ。
木の葉の柔らかいさえずり。
そのままの姿勢で首を傾げてこっちを向いた樹くん。
「じゃあ、お願いしてもいいですか?」
いいこと閃いたんだけど、どうかなって、そんな瞳。
「お願い? なんでもいいよ」
「姫路城、見に行きたい」
「姫路? 城?」
突拍子のない名前に首を傾げる。
「うん。梨花さんは行ったことはある?」
「えーと。中学の修学旅行で一回だけ」
「え? 修学旅行で姫路だったの?」
目を丸くして首を傾げる樹くん。
姫路で美瑠たちと、ご当地の美味しいものをたくさん食べて。
赤穗の神社で、こっそり縁結びのお守りを買ったんだ。
確か、カバンにつけていた筈だけど。
あのお守り、どこやっちゃったんだろ。
「ああ、えーと。京都、姫路、赤穗。珍しい行程みたいだけど」
「そうなんだ。僕も一回見てみたくて」
スッと外した視線は遠くを見つめている。
そう言えば樹くんのお母さんが、体のことがあるから、学校の行事はあまり参加しなかったって。
症状が落ち着いていた高校の頃も自ら辞退したって。
握っている手にぎゅっと力を込める私。
「うん。いいよ行こう」
樹くんは胸に手を添え、うっすらえくぼを浮かべる。
ぎゅっうっと、握り返してくれて、ちょっと痛かったけど。
もう、痛さの意味を知っているから。
「梨花さん。ありがとう」
優しさを分けてくれる響き。
樹くんは、一瞬、眉を上げてポケットから取り出したスマホを操作する。
「どうしたの?」
「ああ、えーと。少しだけ待ってください」
「はあい」
軽やかに動く指先。
気持ち逞しくなった気がする首筋。
まつ毛がふわりと瞬きをして。
視線は真剣。
少しだけ口の端が上がると、黒目が大きくなる。
「よし」
大きく息をつく樹くん。
なんか楽しいことを思いついたんだって顔。
私は黙って言葉を待ってみる。
「じゃあ、支度して行きましょう」
「うん。え? どこ行くの?」
「姫路です」
「今から行くの? お昼は?」
「梨花さん明日休みでしょ? ダメですか? 学生のうちにしときたいことなんですけど」
「ううん。いいけど、今から行っても夕方だよ姫路に着くの、明日にしたら?」
白い歯を輝かせ、スマホの画面を見せてきて。
「今、ホテル取りましたから。何か赤穗によさげなホテルがあったんで」
確かに予約確認画面が表示されている。
「わっ」
咄嗟に胸に手を当てる。
急な小旅行の始まりに、ドキドキと高鳴る鼓動が手のひらに伝わる。
「じゃ、じゃあ、支度しないとね」
「はい。今日は赤穗に泊まって、明日赤穗と姫路、探検しましょう」
「うん」
樹くんが立ち上がるのに合わせて、私も腰を上げる。
ホーホケキョ。
鶯が行ってらっしゃいって。
清々しい声で背中を押してくれていた。
風さそう、ごまの香に、白き舞、のどけき弥生、二人の船出。
さそう君、まばゆき笑みに、彼方の記憶に交わる音色、ホーホケキョ。
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