雨の呼吸
霧に覆われた麻霧山。
鈍色のもさもさした絨毯が敷き詰められた空。
零れ落ちる、雨の線。
蛙が喜び歌い。
紫陽花は雫を添えて華やぐ。
パラパラ。
パチパチ。
ザーザー。
幾重もの粒が醸し出す水の合唱。
しとやかな時のなか空気の波が音色を変える。
そんな――
「梨花さん、一息、入ったよ?」
今日は、樹くんが朝から私の家に遊びに来てくれている。
「ああ、ありがとう」
私はノートを閉じて腰を上げた。
樹くんは椅子に座って手招きをする。
少し足取りを弾ませて向かいの椅子に腰掛ける。
テーブルの上には桃色と水色、お揃いのマグカップ。
これは、去年のクリスマスに美瑠と駿介くんが、
「ペアで使いなよ」
って、プレゼントしてくれたもの。
それから、お皿には、美瑠が送ってくれたクッキー。
私は両手でマグカップを持って口をつけた。
ミルクたっぷり、鼻から抜けるコーヒーの香。
私たちの間で『一息』という名のコーヒー。
カップの三分の二はホットミルク。
そこに砂糖とハチミツ、そして温かいコーヒーを注いで出来上がり。
普段、樹くんが勉強中に飲んでいるのもの。
この一杯で、こころと一緒に、頭も休まる。
名前の由来は文字通り、一息入れますか。
それが、転じて、一息淹れるになった。
「おいしい」
樹くんは、えくぼを浮かべて、テーブルに置かれたノートに視線を送った。
「どうです? いい言葉浮かびました?」
「ああ、まあね」
「今度、書いたの見せて欲しいな」
「え? 恥ずかしいから、だめ」
咄嗟にノートを胸に抱える。
「だって、美瑠さんには見せてるんでしょ?」
カップ片手に首をかげる樹くん。
「どうして?」
ああ、もう、喋ったな美瑠。
年末年始、東京に帰った時。
何かあったらって、樹くんの許可を貰って連絡先を教えたけど。
「ねえ? 美瑠と何話してるの?」
「え? 別に何も……そもそも、そんなに遣り取りしてないですよ」
コーヒーに口をつける樹くん。
「そっか」
ノートを膝の上に置いた。
美瑠は変なことは言わないと思うけど。
余計な事を言いそうで。
「美瑠さんのケーキ屋さん。クッキーも美味しいですよね。なんか懐かしい味がする」
クッキーを摘まんだ樹くん。
ぽりぽり。
こぎみいい音。
何でも、美味しそうに食べるんだよね。
ほんとうに。
「うん、美味しいよね。懐かしいか。きっと手作りだからなかな」
私も一つ、口に運ぶ。
「ああ、そうなんですかね、昔食べたことがあるような気がして」
目線を宙に向ける樹くん。
あれ?
また?
私の視線に気づいた樹くんは、首を傾げながらクッキーに手を伸ばす。
「もしかしたら、あのお店『ビスケットの中』って。地元じゃ昔から有名だから、お土産とかで食べたのかもね」
「ああ、なるほど。そうかもしれない」
「あっ、じゃあ今度、私もクッキー作ってあげる」
「え? 作れるんですか? クッキー?」
「作れるよ。任せて」
胸を張ってみせる私。
口元を綻ばせて、樹くんは鼻の下をちょんとこする。
あの頃よりは上手に……
ううん。
あの頃と変わらない気持ちを、樹くんに込めて作ってあげるからね。
「私のクッキーは、見た目より中身だから」
「はい。楽しみにしときます」
樹くんは、いたずらっ子のように、クッキーを丸ごとほおり込んだ。
何度となく目にした動作も。
いいなあ。
かわいいなって思ってしまう私。
「あ、ねえねえ、夕凪島は雪降らないの?」
「雪ですか?」
腕を組んで首を捻る樹くん。
「あまり降らないかな、降ったとしても積もりはしませんね」
「そうなんだ。残念」
肩をすくめてコーヒーを一口。
「ああ、山の上の方は多少積もるとは思うけど。それがどうしたんですか?」
「ん? 樹くんと、雪の積もった夜の街を歩いてみたくて、見せたくてね」
「ふーん。雪の夜の街ですか?」
「そう、東京も、めったに雪が降らないから、あまり見たことないんだけど。積もった雪にね、月明かりや街灯が反射して、いつもは暗くて見えない、遠くまで見通せるんだ」
ふいに、あの日のことが浮かんでしまって。
頬が緩んで、唇を嚙んだ。
「へー。確かに見てみたいな。でも、雨から雪ですか。梨花さんの頭の中って楽しそう」
「そう? どうして?」
「なんか、うまく言えないけど、さっき、そこから雨を見ていたでしょう?」
「うん」
「一点を見ているようで、全体を見ているようで、集中している時はそこにないものを見ているみたい」
「そうなの?」
小さくうなずく樹くん。
「少し物憂げな眼差しをしてるなって思ったら、急にキラキラして笑い出すから」
「え?」
両手を頬に添える私。
まじまじと言葉にして言われると。
恥ずかしい。
樹くんはマグカップに視線を落とし、ゆっくりと目尻に皺を寄せる。
「だから、同じ景色を見ていても、違うものをみている。違うな、梨花さんだから見えるものがあるのかなって思った」
チクッとくすぐったい感覚。
「そんな風に言われたことないから、嬉しいような、恥ずかしいような」
カップを手にコーヒーにそっと口をつける。
きゅんてしてる私って。
頬がゆるゆるになる。
「気が向いたらでいいんで、見せて下さい。あっ!」
滅多に出さない大きな声に、私は目をパチパチさせる。
「びっくりした。どうしたの?」
「いや……」
樹くんは、口をシュッと結んで、必死に笑いをこらえているような顔。
何か思いついたんだって、好奇に満ちた瞳。
「なあに?」
「それは……」
「それは?」
「うーん。お楽しみで」
「えー!? 気になるよ」
口を尖らせて、わざと睨む私。
無邪気に肩を揺らせて笑う樹くん――
でも、まだ、時々、遠い目をすることがあるんだよね。
何か不安なことがあるのかな。
「梨花さん、おかわりは?」
澄んだ瞳が見つめてくる。
「お願いします」
私が差し出したマグカップを持って台所へ行く樹くん。
でも、こうやって一緒にいられる。
今が――
そう。
幸せだから。
「あっ」
私は膝の上のノートを開いた。
そんな――
恵みを謳歌しながら過ごす日。
ぽりぽり。
ごくごく。
何気ない幸せの音。
潤いに満ちた私を包む。
こころの水たまり。
ぽちゃんと落ちた一言。
波紋が揺らいで。
土のように固まる。
微笑みながら零す一息。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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