約束のあと
*この作品は「約束の木の下で―忘れられない初恋の記憶―」の続編です。
先に本編「約束の木の下で ―忘れられない初恋の記憶―」
同じく派生作品の「約束の木の下で ー風と雪の中にー」「約束の木の下で ー心友ー」
を読まれることを強くお勧めします。
*この作品だけではおそらく理解しきれない箇所があるかもしれません、予めご了承ください。
欄干に手をかけて、空を見上げると、夏の空は高くてふわりとした白い雲が、ゆっくり形を変えながら泳いでいる。
ザー、ザザーッ。
フェリーの波を切る音が淡い潮風を運んでくる。
その涼やかさがワンピースを膨らませて、ふわりとこころを掬ってくれているよう。
視線の先、夕凪島の姿は遠く離れ緩やかな稜線を大らかに広げていた。
あの頃と似ている空や海。
でも同じものはなくて、ちゃんと風は流れていて。
私の想い出はそのままだけど……
宙に遊ぶ髪をそっと押さえる。
昨日――
8月19日。
10年前、10歳だった私が初恋の人との再会を約束した日。
坂手の町の高台にある公園のブランコ。
約束の場所。
私の目の前に現れたのはその人、シンくんでなくて弟の樹くんだった。
仕草や面影が本当にそっくりで、私は最初、シンくんだと思ったくらい。
鼻の下をこするクセ、左頬にだけ出来るえくぼ、眼差しに、声色までも。
そして、樹くんから告げられた。
シンくんの死――
真っ白になった頭の中。
意味が分からなくて、理解できなくて、信じたくなくて。
でもね、彷徨うこころを。
私を連れ戻してくれたのは、遠い昔に聞いたシンくんの声だった。
「嘘はつかん……」
昨日、あれからシンくんのお墓参りをしたいという私の申し出に、樹くんは快く応じてくれて、隣町にある霊園に案内してくれたんだ。
ゆるやかな山の斜面に秋倉家のお墓はあった。
蝉時雨に抱かれて、陽射しを一杯に受けて眩しそうに光っている墓石。
それが、なんかシンくんが照れてるみたいに見えたりして――
近くの花屋で買った小さなひまわりを一本供えたんだ。
太陽みたいなシンくんの笑顔に似合うと思って。
その時、樹くんがシンくんの事故のことを教えてくれた。
胸に添えた手を震わせながら話す樹くんを見て、仲のいい兄弟だったんだって、悲しんでるのは私だけじゃない。
悲しみに度合いがある訳じゃないけど、目の前にいる樹くんだって私以上に悲しいのかもしれない。
だってもう何年も経ってるのに、目に涙が滲んでたから。
――それは、冬の日の夕暮れに起こった。
信号のない横断歩道を渡ろうとしていた10歳の小学生の女の子。
そこに無灯火のトラックが突っ込んできた。
近くにいたシンくんが、轢かれそうになった女の子を助けようとして代わりに撥ねられたんだって。
シンくんが突き飛ばした女の子は軽傷で済んだけど。
シンくんは意識不明の重体で、約一週間後の12月5日。
16歳の誕生日に亡くなったって。
その話を聞いた私は、なんか、シンくんらしいなって思って、笑っちゃったら、樹くんも、
「兄ちゃんらしいですよね」
って笑ってた。
お墓の前で、ううん、シンくんの前で、たくさん話をしたよ。
ちゃんと声に出して伝えたよ。
私もシンくんのこと好きだよって。
大好きだよって。
ずっとずっと、約束忘れなかったよって。
巻貝もぬいぐるみも、日日草の押し花も見せてあげた。
大事にしてるでしょって?
私の生涯の宝物にするって。
金魚のひかりちゃんのお墓を作ってくれたこと。
大切に育ててくれたことのお礼も言えたし。
そうしたら、トンボがふらっと墓石に止まって。
なんかシンくんが捕まえたみたいに思えて、ずっと話し終わるまで羽を休めていた。
でもね――
分かっていたけど、もう会えないって。
5年前じゃ私にはどうすることも出来なかったし、大学生になって会いに来たとしても、もう会えなかったんだもん。
ふいに押し寄せてきた想い出たちが、私の口から零れてしまった。
声聞きたかったよ。
手握って欲しかったよ。
また一緒に風の中を駆け抜けてみたかった。
会いに来れなくて、ごめんね。
私のこと大切に想っていてくれて……ありがとう。
最後にまた涙が溢れて、シンくんの前で泣いてしまって――
ピーヒョロロロ。
おもちゃの笛の様な甲高い鳴き声につられて空を見上げたら、ハートの形をした雲が空を漂っていて。
見た途端、フッと笑えて力が抜けて、なんだかシンくんが笑わせてくれたような気がした。
ずっと黙って見守ってくれていた樹くんが、小さなハンドタオルを差し出してくれて、それで涙を拭ったら、石鹸とお日様と潮の香りがして。
匂いまで同じだねって話したら、
「たぶん、うちの洗剤ですよ」
樹くんはそう言って、わざと鼻の下をこすってくれた。
その何気ない心配りさえ、優しさの形も同じで、笑みが込み上げていた。
私がタオルを洗って返すねって行ったら、
「え? また来られるんですか?」
よほどビックリしたのか、樹くんは胸に手を当てて、目と口をまんまるにして固まっていた。
「来たいと思ってる。少なくとも学生のうちは来れると思うから」
「……そうですか、ありがとう、梨花さん」
語尾の上がる「ありがとう」の言い方が、声色までそっくりで、今度は私が固まってたら、
「そんなに、似てますか?」
って、苦笑いする樹くんに頷く事しか出来なかった。
名残惜しかったけど、炎天の中ずっといる訳にもいかなくて、きらきらしたシンくんに、
「また来るね」
手を振ってお墓を後にした。
バス停までの坂道を樹くんと肩を並べて歩く。
隣を何の抵抗もなく。
今までなかったことに戸惑いを感じて、胸に手を添えていた私。
すると、背中を押すように、心なしか涼しい山からの風が追い越していった。
そのあと、お墓参りに連れてきてくれたお礼に、少し遅めのお昼ご飯を樹くんにご馳走した。
時間的にどこもやってなくて、町で唯一のファミレスでご飯を食べた。
お腹は空いているはずなのに、食欲を忘れてしまったようで。
私がとりあえず食べれそうなサンドイッチを頼むと、樹くんも同じものを注文していた。
そこで、それぞれ遅ればせながらの、お互いの簡単な自己紹介をして連絡先を交換した。
樹くんは三歳年下の高校二年生。
将来は看護師の資格を取るために3年制の専門学校に進学するって話してた。
自分が小さい頃、体が弱くて病気がちだったから、そういう人達の助けになりたいって。
「偉いね、すごいな」
私が感心していると、胸に手を当ててはにかむ姿が可愛かった。
バイトがあるからってファミレスを出たところで樹くんと別れた。
「じゃあ、梨花さん気を付けて」
ちょんて鼻の下をこすって、自分で照れて笑っていた。
シンくんのクセは弟の樹くんも一緒。
そっくりだねって言ったら。
苦笑いしながら、鼻の下をこすってみせてくれた。
「またねって」
手を振ったら、胸に手を当てながら手を振る樹くんを見て、樹くんのクセが分かった。
それから、少し気が抜けちゃって、ホテルの部屋でぼんやり過ごして、何も考えられなかった。
ううん――
ただ、ひたすらにあの5日間の想い出が、どこを見ていても、頭の中に映像が甦っていたような気がする。
浴場からの夕焼けの海の眺めも、美味しそうな夕食のコース料理も。
なんでだろう。
哀しくて味気なかった。
夜になって美瑠に電話をして――
シンくんのこと話したら、美瑠ったら、大泣きしちゃって。
まるで美瑠が失恋した当事者みたいで。
いつのまにか私までもらい泣きして、二人して電話越しに泣いていた。
美瑠は私が東京に帰ったら、
「梨花に会いに行くからね」
そう言って電話切った。
変わらずに、美瑠が傍にいてくれること。
当たり前にいてくれることがとてもありがたく思えたよ。
失恋なのかな――
ザー、ザザーッ。
髪が宙を泳いでいる。
片手でそれを抑えて、ぼんやりとどこを見るわけでも眺めている。
今はまだちゃんと受け止められてるわけじゃないけど。
もう会えないってことは理解しているつもり。
悲しいよ。
ずっとずっと、私の中に、この10年間、居続けた人だから。
大切に大切に想っていた人だから。
幾度となく繰り返し想い出して、上書きして、体の隅々まで染み付いちゃってるから。
会ったら色んなこと話そうって考えてたよ。
でもね、顔を見たら、きっと泣いちゃうだろうなって思ってた。
まさか、悲しみの涙になるとは考えてもいなかったけど。
でもね、何度となく心の中に灯るのは、私と同じ想いでいてくれたこと。
しかも、シンくんは毎年8月19日に約束の木に訪れて絵馬を書いていてくれた。
だって、それだけ私のことを大切に想っていてくれた。
そう、証を見れたから。
だから、なおさら亡くなってしまったことを想うと……
悲しいよ――
――けれど、それと同じくらい、しっかりしなきゃって。
シンくんのことは忘れないし、忘れたくない。
忘れちゃいけないとおもう。
私に愛を教えてくれた人だから。
初めてこころを差し出した人だから。
たかが10歳の子供のしたことだけど。
私のこころの中には――
シンくんの片頬だけに出来るえくぼを浮かべた笑顔も。
鼻の下を指でこする癖も。
握った手の温もりも。
「ありがとう」の語尾の上がる言い方も。
一緒に食べた綿あめの甘さも。
「梨花って、ずっと、かわいいや」そう言ってくれた真っ直ぐな声も瞳も。
褪せることなく覚えているから――
フェリーが青い海に残した白い航跡をタンカーや多くの貨物船が横切っていく。
少しずつ遠のいて霞んでいく夕凪島。
「またね」
島影に向かって、風に乗せた言葉。
前方に視線を移すと高松港がゆっくりと迫ってきている。
太陽の目映さに一瞬、目が眩む。
胸に手を添えた私。
ぎゅっと苦しくなる。
でもね――
シンくんのが辛いよね。
だって――
生きたかったよね。
私は――
シンくんの分までこの陽射しをたくさん浴びるよ。
だから、見守っててね。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、そっと瞼を開ける。
凪の水面は光をはじき返して、その上を多くの船が行ったり来たり。
風がするりと頬を優しく撫でて――
「ありがとう、梨花」
そんな声が耳の奥で響いた気がした。
バッグの中から二人で書いた絵馬を取り出す。
ザラっとした表面に滲んで残る文字。
願いが叶ったら絵馬を書いた人が持って帰るんだって樹くんが教えてくれた。
だから、シンくんが書いた五枚の絵馬も私が貰い受けたんだ。
想いは重なっていたし、あの木漏れ日やトンボに雲。
昨日もちゃんと会いに来てくれたそう思えたんだ。
だって、声が聞こえたから私には。
ちゃんとあの頃のシンくんの声が風の中に。
さっきみたいに。
だから願いは叶ったんだって。
そう思うよ。
「ありがとう、シンくん」
私はそれを胸に抱き締めた。
大切に大切に魂の中にある想い出の引き出しにしまい込んだ。
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