闇の中の傀儡子(くぐつし)
暗くて細い階段が続いている。
下から吹いてくる風の冷たさに身体が震える。この先に世界的大富豪ムスタさんの隠れ家があるなんてとても信じられない。
耳鳴りがして、私は思わず耳を押さえた。
「ミオンもするの? 耳鳴り」
すぐ後ろにいるランが心配そうに眉根を寄せた。
「働かせすぎなのよ」
前を歩くレイが吐き捨てるように言う。
確かに働きすぎ。いや働かされすぎだ。
アイドル。
なんて響きほどよくない。スポットライトの中では常に笑顔。寝不足だろうが、次の歌詞を念仏のように頭の中で唱えていようが、メンバーと喧嘩していようが関係ない。いつだって目の前にいる、見てくれる人のために愛嬌を振りまく。
しかし振りまきすぎた愛嬌のために、今こんな目に遭っている。
「海外でシークレットライブを行ってほしい」
マネージャーさんに言われ、半ば強制的にスニールとかいう国にやってきた。でもライブは盛況だった。歌いながら、ここまで熱狂的なファンがいるなんて、と感動していると突然、舞台に男たちが上ってきた。
キラッとした刃が見え、舞台は騒然となった。
逃げようとして、着ていたスカートが切られ、悲鳴を上げた。
運営スタッフと警備が押し寄せ、わたしたちは抱えられるようにして舞台袖に引っこんだ。
「まさかこんなことになるなんて」
マネージャーさんが頭を抱えている。
結局、舞台に上がった男たちは捕まらなかった。宿泊先のホテルはファンが囲んでいるという情報が入り、マネージャーさんの顔色は青を通り越して真っ白になっていく。そこに、宿泊先のホテルのオーナーで世界的大富豪のムスタさんが救いの手を差し伸べてくれた。
「私はこれから警察に行かなきゃいけないけど、必ず後で合流するから。大丈夫、君たちは絶対に安全に帰国させるから。大丈夫だから、それまでムスタさんの隠れ家にいてくれ」
マネージャーさんの言葉に頷くしかなかった。
それにしても、この階段どこまで続くんだろう。いつになったら扉が出てくるの? 途中、何個か踊り場みたいなところを通ったけど扉なんてなかった気がする。階段の下に入り口があるって聞いたけど……。
「ねえ、みんな無事?」
不安に駆られた私の声が地下の階段に響く。その時、ランが、
「リルがいない! 待っていて、私探してくるから」
「行かないで!」
私はとっさに声を上げた。
「レイ、ユウ、ランを止めて!」
何だか嫌な予感がする。ランを追い、私たちは階段を上った。
階段の途中に何かある。最初、それは黒い塊に思えた。
「ラン!」
ランを抱き起こした。眼をむき、口から血を流しているばかりで、すでに息はない。
「何で、こんなことに?」
ユウが上ずった声で泣き出した。
「あいつらだ。あの舞台でミオンのスカートを斬った奴らが嗅ぎつけたんだ。このまま見つかったらヤバい」
レイの切迫した声に足が震え出した。
ヤバいって、どうヤバいの? まさか私たちもこうなるの?
「早く! とにかく早く逃げなきゃ」
私たち3人はムスタさんの家に急いだ。
ランをそのままにしていくのは気が引けた。でもがくがく震える足で階段を踏み外さないようにするのが精いっぱいで、とてもランの遺体を背負って下りられない。ぐずぐずしていたら私たちだって同じようになりかねない。いなくなったリルだって、今頃は……心臓がバクバクする。
階段を降りきったところに大理石の扉が見えた。その前に黒いスーツを着たムスタさんの執事だという初老の男が立っていた。
「5人とお聞きしておりましたが、おふたり足りないようですね?」
私たちは降りてくる途中の出来事を必死に訴えた。
「そうでしたか……しかしご安心ください。ここにいらっしゃる間は安全ですから。さあ、中へ、旦那様がお待ちかねです」
白檀の香りが鼻をかすめ、途端に耳元でさっきから響いていた耳鳴りが消えた。心底安心したのか足の震えも止まっている。私たちは白い大理石を敷き詰めた廊下を横切り、応接室へと案内された。
そこは柔らかい赤い絨毯が敷き詰められた部屋だった。天井からは見事なクリスタル製のシャンデリアが輝いている。
「ようこそ、いらっしゃいました」
でっぷりと肥ったムスタさんが私たち三人の手を次々と握った。
「ここにいればもう何も怖いことはありませんよ」
「ありがとうございます」
レイが頭を下げる。ムスタさんが、私の全身を眺めながら、
「お礼には及びません。いつまでいていただいても問題ありませんから」
にっこりと笑った。
その時、さっきの執事が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「何ですか、騒々しい。お客様の前で」
執事は小さくなりながら頭を下げ、はばかるようにムスタさんに耳打ちをした。
「みなさまを探しに“レオナルド・ダ・ヴィンチ”と名乗る男が来ました」
ムスタさんは冷静に言った。
“レオナルド・ダ・ヴィンチ”なんてあり得ない。
「恐らく偽名でしょう。しかし会わせなきゃパスポートを返さないと言って強引にこの屋敷に入ってきてしまったようです」
私たちはみな、恐れおののき、動揺し、ムスタさんに隠れる場所を尋ねた。するとムスタさんは決然と顎を上げた。
「エントランスからここまでは歩いてすぐです。もうみなさまが隠れている時間はありません。ですから、みなさまは今から蝋人形としてこの椅子に座ってください。隠れずに隠れるのです」
部屋の奥、壁に並べられた椅子を指差した。私は眩暈を起こしかけた。けど、もはや選択の余地はない。レイもユウも恐怖におののきながらも、ムスタさんの言う通りに椅子に腰かけた。
「何があっても声をあげてはいけません。さあ、まばたきをしないように」
ムスタさんはそう言い残し、部屋の奥の扉から消えた。
「いいえ、まさか! いらしておりません」
執事の声と共に足音が大きくなり、若い男が現れた。背の高い、がたいのいい男だが、目つきが鋭くて怖い。男が大股で近づいてきた。
みんなの緊迫した息遣い。そして自分の鼓動で頭がおかしくなりそうだ……。
突然、紫色のベールが私の顔に被せられ、息が止まりかけた。ベールの向こうに彫りの深い顔が見える。
「何をなさるのですか? これは旦那様のご趣味の蝋人形でございます。アイドルグループに酷似して造らせた精巧で大変高価なものですのでお手を触れないでください」
執事の声は落ち着いている。
次の瞬間、腰に手が回り、私は男のいかつい肩に担がれた。慌てて執事が男の腕を掴む。
「何をなさるのですか?」
「気にいったんだ。これは私がもらう」
「困ります! それは旦那さまの一番のお気に入りなんです」
「一番のお気に入りねえ?」
男は不満そうに私を床に下すと、ブラウスのボタンをひとつふたつと外し始めた。恥ずかしさより恐怖がまさり、身体が硬直する。その硬直した胸を乱暴に掴まれ、思わず短い叫び声が口からもれた。
「あっ! のぉ……」
執事が声を上げた。
「何だ、紛らわしい声を出すな! コイツが叫んだのかと思った」
「まさか、それは蝋人形ですよ。でもこれ以上、乱暴なことはお止めください。旦那さまにしかられます」
「ふ~んなるほど、蝋人形ねえ。それにしてもこいつは肌触りといい、質感といい、随分精巧に出来ているんだな。どれ、下はどうなっている」
言いながら、今度は私のスカートに頭を突っ込んできた。
もう何があっても声をあげるわけにはいかない。バレたら命はないのだ。
「本当にもうお止めください。旦那さまに知れたら、あなたも大変なことになりますよ!」
男は執事を完全に無視し、湿っぽい手で私の体を一通り触ると、口を開いた。
「やはり、こいつはもらう。これだけあるんだから、いいだろう。おい、主人にそう伝えておけ」
言いながら、再び私の腰に手を回した。
その時、
「客人、それは困ります」
ムスタさんが奥から現れた。男は私の腰に手を触れたまま、振り返った。
「ふん、あんたが、人形趣味の旦那様か」
侮蔑のこもった言い方に、ムスタさんは眉ひとつ動かさず、口を開いた。
「それが何か?」
「別に。ただコイツは俺がもらうって決めたんだ。あんたに異論はないはずだぜ」
「何のことでしょうか? 私にはさっぱり」
「くだらない言い訳するのは止せよ! あの劇団エトワールの五体に暗示をかけただろ? ここに来るようにって」
劇団エトワールって? 私たちのグループ名と違う……。
「何を言っているんですか! 暗示など私ができるはずもないでしょう!」
その言葉に、男が高らかに笑った。
「とぼけたこと抜かすなよ。俺には分かるんだよ! お前さんと同じ。同業者だからな」
同業者? 暗示? さっきから一体何のことを話しているんだろう?
男は私を軽々と持ち上げると、その肩に担いだ。
次の瞬間、ピストルの破裂音が耳をつんざいた。男が膝から崩れ落ち、虚空に投げ出された私の体はムスタさんがしっかりと抱きとめた。
「もう大丈夫だから。さあ、おやすみ、私の可愛い人形ちゃん」
ムスタさんが耳元でささやくと、私の心臓が大きく脈打った。
見ると、レイもユウも1ミリも動かない。見開いた眼も口もまるで人形のようだ。また耳鳴りがする。今度のは強い。耳が、耳が痛い。…………ちがう、これは耳鳴りなんかじゃない。うなり声だ!
「こっちにおいで。お前は人形。それも私だけの」
私の唇の端から線が走り、顎の骨を貫いた。
何これ、一体どういうこと? 人形? 私は一体……
そう思った瞬間、闇に滑り込むのを感じた。やがて体が動かなくなり、何も分からなくなった。
(了)