夢ノ二 消えない想い《ニ》
門の前で、進之助が待っていた。
宗介の姿を見つけて、大きく手を振る。
小走りに駆け寄って、宗介は俯いた。
「すまん、進之助。今日の所は、帰る」
顔を逸らして歩き出そうとする宗介の肩を、進之助が掴んだ。
「待て。急に、どうした。部屋で何か、あったか?」
図星をさされてどきりとした。
何があったのか、口が裂けても言えない。
宗介の婚礼が決まった時、自分の事のように喜んでくれた進之助は、話が流れてから一切その話題に触れない。
進之助も、あのような噂話を自分以上に耳にしているに違いない。
また顔が、かっと熱くなった。
「部屋で皆が、金城様の噂話をしておった。我々は早く帰ってくれるから、都合が良いそうだ」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
進之助は、ははっと笑って宗介の背中を叩いた。
「成程、ではさらに手本を見せねばなるまい。宗介、行くぞ」
進之助が先を歩き出す。
宗介は苦笑して、小さく息を吐いた。
気風が良く真っ直ぐな進之助は、あの噂を知っていたとしても決して態度に出したりはしないだろう。
今も、宗介が落ち込んで見えて、あえて誘っているのかもしれない。
無理強いをする男ではないから、きっとそうなのだろう。
進之助といると、気持ちが救われる。
宗介は黙って進之助の後に続いた。
歩き出して、ふと、思い出した。
「あ、財布……」
振り返った進之助が、まんじりと宗介の懐を見やる。
「お主、財布を取りに行ったのではないのか」
「……また忘れてしまったようだ」
言い訳めいて呟くと、進之助は豪快に笑った。
「お主らしくもないな。まあ、いい。今日は俺が驕る。さぁ、行こう」
「すまん。この借りは、きっと返す」
「気にするな。儂とお主の仲ではないか。本当に真面目すぎるなぁ、宗介」
胸に、つきんと痛みが走った。
「真面目、か」
俯き加減に、ぼそりと呟く。
「ん? 何か言ったか?」
「いや、行こう」
胸の閊えには気が付かない振りをして、宗介は無理に笑顔を作った。
「……そうだな」
進之助は、それ以上何も言わなかった。
二人は並んで歩き出した。
どの位飲んだだろう。
正直覚えていないが、目の前に転がる徳利の数は、有に十を超えている。
「宗介、大丈夫か」
卓に突っ伏して寝こける宗介を、心配そうに進之助が覗き込む。
「宗介」
肩を揺らされて、宗介は漸く重い瞼を持ち上げた。
「うむ、大丈夫だ……。酔ってなど、おらぬ」
「酔っておるだろう。下戸のくせに、飲み過ぎだ」
進之助の声も、よく聞こえない。
頭が、ふわふわして気分が良いような悪いような、胸が、もやもやとしていた。
「……佳世」
名前が口をついて出た。
こんな時まで頭の中には佳世の笑顔が浮かんでくる。
思い出したくない、忘れたいのに、決して消えてはくれないのだ。
吹っ切るように、頭を振る。
宗介は、のっそりと起き上がって、ふらつく手で杯に酒を注ぎ始めた。
「もう、よせ。帰るぞ」
止めようとする進之助の手を振り払って酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「親父! もう一本だ!」
目の前の景色は霞んでいる。
ここにまで佳世が現れそうで、怖かった。
宗介は運ばれてきた徳利に口を付け、浴びるように飲んだ。
「いい加減にしろ! もう終いだ!」
見兼ねた進之助が、宗介から徳利を奪い取った。
手早く勘定を済ませて、外に出る。
宗介は千鳥足で、歩いているのか踊っているのか、わからないような状態だ。
「肩を貸す」
宗介を担ごうと新之助の腕を、撥ね退けた。
「……いらん。一人、で……歩ける」
ふらふらの状態で粋がる宗介に、進之助は顔を曇らせた。
「儂は、斯様な情けない男では、ない。情けない、おとこ、では……」
酒の力を借りても、佳世を消せない。
そんな自分が情けなくて仕方ない。
きっと、毎夜みる夢のせいだ。
起きている間まで、佳世が勝手に思い浮かんでくる。
「もう、嫌だ……」
宗介の体が大きく傾いた。
傍を通り過ぎようとした侍に肩がぶつかる。
その拍子で、宗介は派手に地面に尻餅をついた。
「これは、申し訳ねぇ。お怪我は、ねぇですか」
どことも知れない田舎訛りが耳に障って顔を上げる。
随分と野暮ったい格好をした男が、宗介に向かい手を差し出していた。
着物の素材も色も、如何にも田舎者だ。
きっと廉価な木綿ででも出来ているのだろう。
勤番武士だと、すぐにわかった。
(浅葱裏か。こんな田舎侍にまで、儂は哀れまれるのか)
胸が悲壮感でいっぱいになる。
同時に目の前にいる侍に対して、理不尽な怒りが湧いてきた。
理不尽だとわかっているのに、怒りが加速するのを止められない。
宗介はその手を払いのけ、自力でふらふらと立ち上がった。
「斯様な刻限まで勤番が遊び歩くのは、如何なものか」
宗介は覚束無い足を何とか踏みしめて、仁王立ちになった。
「もうすぐ木戸も締まるぞ。銭もない浅葱裏は、さっさと帰れ!」
大きく腕を振って見せると、勢いで体がぐらりと傾いた。
「宗介、無礼にも程があるぞ!」
倒れそうな体を支えながら、進之助が宗介を嗜めた。
「ここに座っていろ」
店の軒先に宗介を座らせる。
進之助が、侍に歩み寄り非礼を詫びた。
「慣れない酒に酔い、無礼な振舞をして申し訳ない。お怪我はござらぬか」
侍は小さく苦笑すると、吐き捨てるように呟いた。
「邪険にされんのも、馬鹿にされんのも、もう慣れだ。見だところ大分酔っておられるようだ。早々に帰られよ」
一礼すると勤番武士は、のっそりとその場を立ち去った。
丸まった背中には哀愁が漂って見える。
進之助がしばらくの間、小さくなる背中を見送っていた。
その視線が座る宗介に移る。
宗介は一点を見詰めて呆然としていた。
侍と進之助のやり取りを眺めながら、ただ己の事だけを考えていた。
(いつから、こうなった。儂は、いつからこんな男に、なったのだ)
真面目に職務をこなし、御家の為に自分を殺して懸命にやってきた。
それがたった一つの我儘を通しただけで、こんなことになって。
途方に暮れる宗介の両腕を掴み、進之助が体を揺さぶる。
「宗介、一体どうしたのだ。お主らしくもないぞ」
宗介はゆっくりと顔を上げた。
「儂らしくない? では、儂らしいとは、なんだ。儂とは、どういう人間だ」
目を見開いて、宗介は進之助の腕を掴んだ。
「宗介?」
掴んだ腕が震える。
目からは大量の涙が溢れて止まらない。
「儂は、どう在ればいい? 教えてくれ、どうすれば、良かったのだ!」
苦渋に満ちた表情で宗介は俯いた。
握りしめた拳が地面を何度も、何度も殴る。
「儂は、どうすれば良いのだ……」
砂利が手にめり込む。
流れた血が擦れて、地面を汚した。
「宗介……」
進之助は何も言わず、只々宗介の腕を、しっかりと掴んでいた。