夢ノ二 消えない想い《ハ》
「……様、清水様」
部下の声にはっと我に返った。
辺りを見回す。
今が仕事中で、表右筆の仕事部屋であると思い出した。
気付けば他の部下たちも仕事の手を止めて、宗介に視線を向けていた。
「こちらの文書を確かめていただきたいのですが……」
最初に声を掛けてきた部下が、おずおずと文書の束を手渡す。
文書を受け取ると、一つ咳払いして居住いを正した。
「ああ、わかった」
と、仰々しく束を受け取る。
「あの、障りがございましたか?」
何とか体面を保ったつもりだったが、かえって心配されてしまった。
「何か神妙な面持ちでございましたが、不備などございましたか?」
部下の言葉に、宗介は若干安堵した。
「いや、何も問題ない。皆、よく働いてくれているからな」
ははっ、と笑う宗介に部下は安心したように一礼して席に戻った。
他の者たちも、ほっとした雰囲気で各々自分の仕事を再開する。
宗介は気付かれないように小さく息を吐いて、目の前の文書に視線を向けた。
表右筆の仕事は所謂、記録書記係だ。
老中奉書や幕府日記、朱印状、判物の作成、幕府から各藩に頒布する触書の浄書、大名の分限帳や旗本ら幕臣の名簿管理などが主だった。
対して奥右筆は幕府の機密文書の管理や作成なども行う特に重要な役職である。
幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査報告を行う職務も与えられている。なので諸大名は、その存在を恐れており付届けなども多かった。
奥右筆に空席が出来た際には、表右筆から後任を選ぶのが慣例だ。
組頭である宗介も期待するところではあったが、未だに声掛けはない。
「そろそろ、切り上げるか」
隣の席の進之助が宗介を振り返る。
多和田進之助は同じ組頭の一人だ。
同い年で、幼馴染でもある。
幼少の頃から切磋琢磨する間柄だ。
今では同じ役職に就いた、信頼できる同僚である。
「そうだな。皆の者、本日は、ここまでと致そう」
宗介が声を掛けると、部下たちは仕事の手を止め帰り支度を始める。
宗介と進之助はさっさと支度をし、早々に立ち上がった。
「皆も寄り道などせず、真っ直ぐ帰れよ」
進之助が声を掛けて、二人は部屋を出た。
「宗介、帰りに一杯やらないか」
進之助が杯を傾ける仕草をしながら、声を掛けてきた。
「皆には寄り道せず帰れと、促していたであろうに」
笑いながら返すと、進之助は「いかん、いかん」と笑った。
「あんなものは建前だ。我々組頭が遊びをしないと、下の者たちも遊びづらいだろう。お主は、本当に真面目でいかんな」
宗介の肩に手を置いて、にやりと笑う。
「たまには息抜きも肝要だ。行こうではないか」
宗介は苦笑して懐に手を入れた。
「これは、まずい。財布を忘れた。取ってくる」
踵を返す宗介に、進之助が後ろから声を掛けた。
「門の前で、待っているぞ」
手を上げて答えて、宗介は仕事部屋に引き返した。
部屋の前に着くと、障子が半開きになっている。
中から若い者たちの話声が聞こえてきた。
「多和田様と清水様は、いつも早めに切り上げてくださるから助かる」
「ああ、本当だ。金城様は居残りが多い。あれでは、我々が帰りづらくて敵わん」
金城昭之進は、もう一人の組頭だ。
宗介たちとは大きく歳が離れていた。
真面目な性格で、その日の仕事をきっちり終わらせないと帰らない。
だから、部下たちも困っていたのだろう。
こんな風に噂されていると知ると、何とも気まずい。
少々入りづらくはあるが、仕方なく宗介は障子に手を掛けた。
と、その時。
「しかし清水様は、お気の毒だったなぁ」
「何かあったのか」
「お主、知らんのか。何でも、許嫁を寝取られたとか」
どきり、と肩が震えて障子を掴んだ手が離れた。
「ああ、その話か。婚礼の準備もだいぶ進んでいたというではないか。本当に気の毒だ」
「しかし寝取られた、ということは、相手は誰だ?」
「そこまでは、わからぬが。相手の女も、随分と酷い仕打ちをしたものだ」
「あの清水様を袖にするとは、浮気相手は余程良い家柄の男なのだろう。儂が女なら清水様に嫁ぎたいと思うがなぁ」
「確かに家柄は言うに事欠かず、だが」
含みを持った言い回しに、乾いた笑いが緩く流れる。
「温厚でいつも気持ちの平らな清水様だ。悪いお人では、ないのだがな」
「遊びが足りんのか、多和田様と比べると、何というか地味だし面白味がない」
「真面目すぎて、女子からすれば、詰まらん男だったんじゃぁないか」
「そうだなぁ。特に夜は、さぞ詰まらなそうだ」
部屋の中に、わっと大きな笑いが湧いた。
顔が、かっと熱くなって、宗介は拳を握りしめた。
噂など何かしらされているだろうと思っていたが、こんな形で聞かされようとは。
しかも今、最もされたくない話だ。
顔から火が出る思いで、宗介は部屋に背を向けた。