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夢ノ二 消えない想い《ロ》

 藤棚がきれいだ、と思った。


 仕事場に戻る途中、近道だからと境内の中を歩いていた。


 だが、思った以上の人混みに、この道を選んで後悔していた。


 そんな時、ふと顔を上げて足が止まった。


 咲き誇る花の中に、あの人の笑顔を見たようで、思わず立ち止まってしまった。


 ここに来たのも悪くなかった、などとぼんやり思う。


 宗介は、はっと我に返った。


(もう、忘れようと思っておるに)


 何かにつけて、あの顔を、あの笑顔を、思い出してしまう自分が情けない。


 宗介は歯噛みしながら足早に歩き出した。


 江戸城本丸表。それが表右筆組頭である清水宗介の仕事場である。


 清水家は江戸開府当初から続く直参旗本という由緒正しい家柄だ。


 長男である宗介は、直参である誇りと歴史ある御家の家督を継ぐための教育を散々施されて育てられた。


 だから家を継ぐのは当然の事、御家の為なら我が身を捨てて務める所存であった。


 あの人に、会うまでは。


 本当なら親の定めた相手と相応の結婚をして家を盛り立てていかなければならない。自分ならそうするだろうと信じて疑わなかった。


 なのに、出会いは突然訪れた。


 それは、初冬の頃。


 あの日は、細雪が降っていた。


 仕事の帰り道、普段は通らぬ道をたまたま歩いていた。


 見つけた娘の、寒椿を眺める横顔が、あまりにも儚く美しかった。


 呆然と立ち尽くしていると、ふと振り返った彼女がこちらに気付いて笑いかけた。


 笑顔に滲む憂いには温かさが、柔らかな視線には聡明さが宿って見えた。


 それから宗介は、その道をよくに通るようになった。


 娘の名は佳世と言った。


 徒組頭を務める御家人、山本家の一人娘だという。


 初めは何でもない世間話。


 段々と互いの話をするようになって、その為人を知っていった。


 知れば知るほど、佳世の思慮深さや奥ゆかしい性格が裏付けする美しさが、増してゆくようだった。


 父親である山本創吾とその妻である栄は、娘と宗介の仲を大層喜んだ。


 初めからその気があったわけではなかった。だが、佳世を知れば知るほどに、惹かれていった。


 直参旗本である清水家にとり徒組頭の山本家は、嫁取には家格として些か不釣り合いだ。


 それでも。


 宗介は初めて自分の意思で、自分の欲しいものを手に入れたいと思った。


 両親の反対を押し切り、何とか説得して御家人という家柄の佳世を娶ることを納得してもらった。


 佳世も、喜んでくれるだろうと思っていた。


 しかし佳世は、輿入れの話が動き出してからというもの、憂い顔を覗かせることが多くなった。


 何かを言いたげな瞳は、俯くばかりで何も言ってはくれない。


 この時の宗介にとっては、それでも良かった。


 言いにくいことも、夫婦(めおと)になれば、わかり合えると思っていた。


 宗介にとって最大の難事である両親の承諾を得られれば、後は佳世を妻として迎えるだけだ。


 そう、思っていたのに。


 佳世が眠りから目覚めなくなったのは、それから程無くしてだった。


 悪夢をみているのか、ずっと魘されて、誰かに許しを請いている。


 佳世の身に何が起こったのか、全くわからなかった。


 何人もの医者に診せ、それが駄目とわかれば祈祷師にも頼った。


 しかし、佳世は目覚めなかった。


 万策尽きて頭を抱えていた時、佳世が突然に姿を消した。


 なかなか事情を話さない創吾の口を無理やりに割らせて聞き出した。


『鬼に嫁いだ』


 佳世が望んで鬼の嫁になったというのだ。


 しかも、鬼との間に赤子まで授かっていたという。


 宗介は唖然とした。


 鬼は雲に乗って、佳世と自分の子を吉備野に連れ去ったらしい。


(そんな話を、誰が信じるというのだ)


 しかし、佳世が居なくなったのは事実である。


 何度聞いても山本創吾は


「娘は鬼に嫁ぎました」


 と、平伏するばかりだ。


 その隣で栄が、定まらない視線を空に泳がせ、口の中で何かをぶつぶつと呟いている。


 正気を違えた妻を横目に、畳に額を擦りつけて創吾は震えるばかりだ。


 怒り心頭でやってきた宗介だったが、その姿を見たら嘘を吐くなと怒鳴る気にはなれなかった。


(しかし、何故)


 何故、佳世は将来を誓い合った自分を捨ててまで鬼に嫁いだのだろう。


 いつの間に、子を授かっていたのだろう。


 何より、一番考えてやまないことは。


(何故、何も話してくれなかったのだ)


 一言、相談してくれれば、二人で最良の答えが見つけられたかもしれない。


 自分より鬼を好いているというならば、せめて納得のいく理由を貰えれば、諦めがついたかもしれないのに。


 何度も同じ問いを繰り返し、二度と答えは聞けないのだと思い知る。


 そんなことばかり繰り返しているうちに時は廻り、もう藤が咲く季節になった。


(なのに儂は未だに、忘れられぬ)


 今日も藤を眺めて、佳世の笑顔を思い返している。


 一緒に見た事実など、一度もない。


 心が動かされる何かに触れる折、佳世を思い描いてしまう。


 憎い、と思えれば、まだいい。


 未だに恋情の念が消えない。


 それどころか、そうまで自分を裏切った佳世を愛おしいとさえ思っている。


 近頃は毎夜、佳世が夢に出てくる。


 出会った頃のように、佳世が優しく微笑みかけてくる。


 その笑顔に安堵して手を握り抱きしめる。


 佳世は幸せそうに笑って、宗介に抱かれている。


 全く持って、自分に都合の良い夢だ。


 そんな自分が情けなく、許せなかった。

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