夢ノ一 鬼に嫁いだ娘《ニ》
凜の声で我に返った二人が佳世を覗きこむ。
佳代は穏やかな表情で眠っていた。
「佳世、佳世!」
栄が体を揺すると、佳世は硬く閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
「佳世!」
目を覚ました佳世が起き上り、辺りを見回す。
「佳世、本当に良かった」
自分の父親と母親には目もくれず、部屋の隅で小さくなっている鬼を見付けて身を乗り出した。
「私の、子……」
佳世が手を伸ばし鬼へ近付こうとする。
創吾が、佳代の細い腕を引いた。
「鬼などに、近づくな!」
「ぁっ……」
急に体を引かれて態勢を崩した佳世の体を、部屋の隅から駆け寄った鬼が咄嗟に支える。
「……ありがとう」
優しく微笑む佳世に、鬼も漸く安心した笑顔を見せた。
「鬼め! 佳世に触れるな!」
創吾は激しく憤り、佳世を無理やり鬼から引き剥がした。
囲うように佳世を腕に抱いた。
「佳世は、これから清水様の妻になる大事な体だ。その薄汚い手には触れさせん」
「さっさと、ここから出てお行き!」
栄が、どこから持って来たのか、大量の大豆を鬼に向かって撒き始めた。
鬼は堪らず背を向けて、腕の中の赤子を庇う。
「母上……。おやめください」
か細い佳世の声は母親には届いていない。
一向に手を休めない栄の腕を、凜が握った。
「いい加減、およしよ」
栄が、はっとして手を止めた。
顔を赤くして、いきり立った。
「離しなさい、無礼者。夢を売ったのだから、金を置いて出て行きないさい!」
凜は手を離さない。
栄の怒りは頂点に達し、反対の手に持っていた大豆を力いっぱい鬼に叩きつけた。
「佳世が清水様の所に嫁げば、この家はようやく貧乏御家人から抜け出せるのよ。やっと巡ってきた好機を逃すわけにはいかない。佳世は私たちの子よ。鬼などに、くれてやるものか!」
呼吸を荒げながら、ありったけの声を投げると、栄はその場に崩れ落ちた。
「お願いだから、帰って……、佳代を返して、帰ってちょうだい!」
栄の姿を、鬼は悲しそうな顔で覗く。
一瞬、訪れた静寂を壊したのは、小さな佳世の声だった。
「父上、母上」
佳世は創吾の腕から離れると、二人の前に立った。
「佳世……?」
真剣な表情で、相互と栄に向き合った。
「私は、鬼の妻になります。親不孝な娘で、本当に申し訳ございません」
深々と頭を下げる佳世を、二人は茫然と見詰める。
「なにを、言っているのだ」
「佳世……。鬼に何か吹き込まれたのね、そうね!」
佳世は悲しい顔で、首を横に振った。
「私が悪い夢にうなされている時、彼がずっと手を握っていてくれました。その時は心穏やかに眠りに就くことができたのです。彼には温かな血が通っている、私達と何も変わらない。それに、あの子は間違いなく私の子です。子には母が必要です」
佳世は鬼に向かい、歩き出す。
「待ちなさい、佳世!」
「待って、行かないで」
佳世に腕を伸ばす二人の前に、凜が立ちはだかった。
「退け! 町人風情が、邪魔だ!」
力で退けようとした創吾の腕を掴んで軽く突き飛ばす。
創吾の体が、宙を舞って布団の上に、ふわりと落ちた。
「なっ……」
呆気にとられる創吾を他所に、凜が天井に漂っていた佳世の夢を手繰り寄せた。
黒い雲を引っ張って丸めると、大きな塊を作る。
二人の目の前に、どんと置いた。
「娘がみていたのは鬼の夢なんかじゃぁない。あんた方だよ」
凜が塊をついと突く。
中には、さらにどす黒い渦が巻き、やがてそれは醜い人の姿になった。
『清水様に嫁ぐのだ、佳世』
『この家は貴女にかかっているのよ』
目を引きつらせ口の端が耳まで裂けたその姿は、まぎれもなく創吾と栄だった。
『鬼との子は忘れなさい』
『あの赤子は貴女の子ではない。鬼の子よ』
二人の姿は、もくもくと大きくなって佳世に覆い被さろうとする。
佳世は必死に逃げるが、全く前に進まない。
『この家のために……』
『子の事など忘れて……』
迫りくる恐怖に、佳世がその場に蹲り震える。
「……これが、佳世の夢……」
「まさか、そんな……」
二人は唖然と、煙の中に映し出された娘の夢をみていた。
両親を見つめていた佳世は、そっと鬼に寄り添った。
「父上、母上。本来であれば山本家長女として清水様に嫁ぎ、御家の安泰を招くのが私の務めであると承知しています。ですが、私には愛する者ができました。彼との間に、ややを授かることも。これ以上の幸せは、ございません」
佳世が鬼の手から赤子を受け取った。
「この重みを捨て、他の家に嫁ぐなど、できません。勝手は承知の上でございます。許してほしいとは、申しません。私の事はどうか、お忘れください」
佳世が深々と頭を下げた。
「佳世……。何を言っているの。それは人の子ではない。鬼の子よ! そんなもの捨てて、こっちへ、戻ってきて!」
栄は取り乱し、佳世に向かって必死に手を伸ばす。
創吾が抱き留めるようにして、栄を止めた。
「栄、もういい」
創吾の言葉に、栄が目を剥いた。
「何を言うのですか。佳世が行ってしまう、離して! 佳世!」
虚しく空を掻く手を、創吾が必死に止める。
「好きに、させてやろう」
創吾の詰まった声が低く部屋に響く。
信じられないものを見たような目で栄が創吾を見詰めた。
「何、を……? 元はと言えば、貴方様があんな約束をしたりするからっ。だから佳世はっ!」
半狂乱の栄を、創吾は無言で抱き留める。
創吾の背中には、諦めと決意が見て取れた。
その背中に、佳世は先程よりも深く一礼し、鬼に歩み寄った。
鬼は悲しい表情のまま、佳世に手を伸ばすのを躊躇った。
中途半端に差し出された手を佳世が強く握る。
鬼は悲しみを湛えた瞳で微笑んだ。
佳世と赤子を抱きかかえ、開いた障子から外へと飛び出した。
「佳世! お待ちなさい! 鬼! 佳世を返して!」
鬼は少しだけ振り向いたが、佳世は一度も振り返らなかった。
鬼は空に手を伸ばすと、雲を掴んでずるりと地上に引き下ろした。
ひょいと飛び乗って、雲の上に赤子を抱いた佳世を座らせる。
「父上、母上、さようなら」
振り返らぬまま、佳代が一言だけ告げる。
三人を乗せた雲は、ふわりと浮き上がり、あっという間に空の彼方に消えてしまった。
「佳世、ああ、佳世、私の佳世……」
創吾が腕の力を緩める。
栄はその場に崩れ落ち、泣き倒れた。
その傍で、創吾も立ったまま声を殺して泣いていた。
凜は一塊になった煙を更に小さく纏めると、掌の上に置く。
すう、と思い切り吸い込んだ。
口いっぱいに頬張った煙をごくんと飲み込むと、一つ小さく息を吐いた。
「こいつぁ、頗る悪い夢だ。美味だねぇ。ご馳走さん」
懐から出した小判五枚を、佳世の寝ていた布団の上に投げる。
去ろうとする凜の気配に気が付いて、栄が乱暴に上体を起こした。
「お待ちなさい! 夢買屋!」
振り返ると、栄は座り込んだまま、凜を睨みつけていた。
「あれが佳世の夢だなんて、嘘なんでしょう。わざと、あんなものを私達にみせて、私と佳世を引き裂いたのでしょう。貴女も鬼の仲間なのね、そうなのね!」
足元の布団を引き千切らんばかりに握りしめて、食ってかかる。
何も言わない凜を、栄が瞬きもせず睨みつけ、肩を震わせる。
肩に触れた手に気が付いた栄が振り返った。
創吾が何も言わずに只、首を横に振った。
凜に向き直ると、
「夢買屋の。御足労痛み入る。もう、帰ってくれ」
創吾が頭を下げた。
凜は部屋を出た。優太がぺこりと一礼して、その後を追っていった。
通りに出てから、
「なんだか、気の毒なことになりましたね」
静かに佇む小さな屋敷を振り返った優太が、ぼそりと呟く。
「因果応報、自業自得さ。あれじゃぁ、清水って家に佳世が嫁いでも、ろくなもんじゃぁなかったさ」
ふと、凜の目の前を薄黄緑の花弁が、ふわりと舞った。
見上げると、小ぶりな寒桜が春の突風に捲かれて、白い花弁を躍らせていた。
「遅咲きの緋寒桜かね」
何気なく手を伸ばす。
若い緑が縁取る白の花弁が一片、掌の上に舞い降りた。
凜は花弁を優しく握ると、大事そうに懐に仕舞い込んだ。
「あの奥方、大丈夫でしょうか」
「さぁねぇ。図太そうだから、立ち直りも早いだろ」
憂慮する優太に素っ気ない言葉を返す。
凜は、佳世たちが消えていった空を見上げた。
「業ってのは、そう易く消えないもんだ。それでも娘は幸せになりにいったんだ。親と娘の幸せが違うなら、違う場所で生きるのが互いのためだろうさ」
凜と優太は、まだ寒々しい桜吹雪の中を、ゆっくりと歩いて行った。