夢ノ六 二人の母《へ》
次の瞬間、目を開けたら障子戸が見えた。
白い障子に移る黒い影が激しく肩を揺らしている。
「未果さん!」
お昌の叫び声を聞いて、お光は咄嗟に障子戸を開けた。
突然に開いた戸を振り向いた二人の母が、目を丸くしてお光を見詰める。
「お光……。どうして、ここに」
驚いた声のお昌と、ぼんやりとお光を眺める未果を見詰める。
呆けた顔の未果が、ふと表情を緩めた。
「お光……」
伸び掛けた手を追いかけて、お光が駆け寄る。
「母様!」
見た目以上に痩せて細い指を握って、強く胸に抱く。
未果が、もう片方の手を懸命に、お光の頬に向かって伸ばす。
震える体をお昌がしっかり支えると、未果の手がようやくお光の頬に届いた。
「こんなに、綺麗な、娘に、なって……」
細かく浅い呼吸をしながら未果が、やっと微笑んだ。
何か言いたいのに、上手く言葉が出てこない。
その代わりに目から涙がぽろぽろ零れ落ちて、止まらなくなった。
「会いたかったの。私を産んでくれた母様に、やっと、会えたのに」
涙で未果の顔が見えない。
なのに、微笑んでいるのは、わかった。
「あたしは、ただ、産んだだけ。お光の母親は、お昌さんだ」
頬を撫でる骨ばった手が震える。
その手を握った。
「お光の本当の母親は、未果さんよ。私はただ、育てただけ……」
「二人とも、母様よ!」
気が付いたら叫んでいた。
「二人とも、私の大事な母様よ。二人がいなかったら、私、きっと生きていなかったわ」
大粒の涙がぽろぽろと零れて、止まらない。
「お光……、あなた……」
お光は未果の体を抱いたまま、お昌に手を伸ばした。
戸惑うお昌の手を、お光から掴まえる。
「たくさん、お話したかったわ。未果母様とお昌母様と、三人でお話、したかったわ」
お昌が後ろから、お光と未果に腕を伸ばして抱いた。
「本に、良い子に育ったね。お光、私とお昌さんの、大事な……っ、ごほ、けほっ」
咳き込む未果の背中を、お光はお昌と一緒に摩った。
息を整えて、未果がお光とお昌を見上げた。
「会えて、嬉しかった、お光。……あたしたちの、光……。どうか、幸せに、なって……」
優しく笑んだ未果の瞳が、重さに抗えない瞼に閉ざされる。
頬を撫でていた手が力なく落ちた。
その手を、お光とお昌の手が受け止めた。
未果の手は、二人の手を握り返してはくれなかった。
「みか、さ……ん」
それ以上、言葉はなく、涙だけがその時をただ静かに見送っていた。
一月後、お光が一人で夢買屋を訪ねて来た。
「最期に一度でも会えて本当に良かったと、思います」
落ち着いた様子でそう語るお光の姿を眺めながら、凜は煙管をくわえ煙を吸い込んだ。
「夢買屋さんのお蔭です。本当に、ありがとうございました」
お光が指を揃え、深々と頭を下げる。
煙をゆっくり吐き出しながら凜は、お光をちらりと振り返った。
「……それで? あんたは、あの夢をどうするんだい?」
頭を上げたお光が、柔らかくはにかんだ。
「大切に、持っていようと思います。だってあれは、夢じゃなかったんですもの」
胸に手をあてて、お光が目を瞑る。
凜は安堵して、小さく笑った。
「そうかぃ、残念だ。だったら用はないから、さっさと帰ぇんな。大店のお嬢様が裏長屋なんかをふら付いていたら、また母様に叱られるよ」
かん、と煙草盆に灰を落として煙管を仕舞う。
お光は口元を手で隠すと、ふふっと笑った。
「商いにならなくて、ごめんなさい。今度、いらない夢を持て余している人がいたら、夢買屋さんを紹介しますね」
如何にも商人の娘らしい気回しをして、お光が立ち上がる。
「そいつぁ、有難いねぇ。期待しないで、待っているよ」
部屋を出ると、外は綺麗な秋晴れの爽やかな青空が広がっていた。
「今日は、これから未果母様のお墓参りに行くんです。祥月命日には二人でお参りに行くって、お昌母様と決めたの。晴れて良かったわ」
お光の横顔が穏やかだが、少しの淋しさを滲ませる。
「お昌母様とは、仲良くなれそうかい?」
見上げていた顔を下げて、お光は頷いた。
「お昌母様ね、前より優しくなった気がするの。二人で話をする機会も増えたわ。私もね、もっとお昌母様の気持ちが知りたいと思うようになったんです」
お光が、ぱっと顔を上げて凜を振り返った。
「全部、夢買屋さんのお陰です。私を導いてくれたから、知らなかった母様の気持ちが知れたの。反省しなくちゃって、思えたのよ。守備じゃない仕事をさせて、ごめんなさい」
「夢を介して記憶を見せるのは、守備じゃぁないがね。普段はしねぇが、今回は特別だ。それに、あんたの母様からお代はしっかり受け取っているよ。だから、気にしなさんな」
お光が来るより早く、お昌が凜の所に礼をしにやって来ていた。
お光から事の次第を聴いたお昌が、商人の伝手で夢買屋を探し出したのだそうだ。充分すぎる礼はすでに受け取っている。
お光が驚いた顔をしたが、すぐに笑みが浮かんだ。
「ねぇ、夢買屋さん。私には、愛してくれる母様が二人もいるのよ。これって、とても特別で素敵で、幸せなことだって思うの。私、お昌母様ともっとたくさんお話しするわ」
満面の笑みで手を振るお光を、凜と優太は見送った。
「夢種、買えなかったけど、良かったですね」
優太が嬉しそうに凜を見上げる。
「幸せな夢は綺麗な夢種にはならんし、喰っても不味いからね。しかし、余計な仕事をしたもんだ」
ぼりぼりと頭を掻きながら部屋に戻り怠そうに座り込む。
凜の彷徨った手は、また煙管に伸びた。
煙管を弄びながら外を眺める凜の横顔は、どこか満足げに笑む。
優太が眉を下げて苦笑いした。
「今日の夕餉は、冷を付けてあげますね」
凜は、ぴくりと振り返った。
「あんたでも、気前のいい日があるんだねぇ。そろそろ熱燗でも、いいやな」
「まだ真冬じゃないでしょ。冷で一献だけです」
きっぱりと言い切られて、凜はしょぼくれた。
「へぇへぇ。ありがとうござんす」
二人の声は、秋の空に吸い込まれて薄い雲に流れる。
空がすっかり澄んで肌を冷やす風が季節を深めても、今日は温かな胸の内で酒を楽しめそうな気がした。




